噺家の着物

三代目 三遊亭金馬




 咄家の着物とあらたまっていうほどのこともないが、落語のなかにでてくる人物の着物をお客に説明するにも、咄家自身のなりがわるいといいにくいことがある。
 たとえば、『夢金』で、
 雪のなか舟宿へくる侍と娘“黒羽二重の五ツ所紋付”、黒がやけて羊羹色になり、紋だけ黒くなっていて“羊羹羽二重黒紋付”、茶献上の芯のでた帯を、胸高に締め、朱鞘の禿っちょろけた大小落し差し
 というようなことをはなすのに、自分の紋付が衿垢のついた色のさめた紋付で、手垢で光っているのでは気がさして、大きな声でお喋りができない。
『佃祭』という咄で、次郎兵衛さんの服装を、女房が、
 薩摩の蚊飛白がすり、紺献上の五分づまりの帯、透綾すきやの羽織、扇子と煙草入れを腰へ差し、白木しらきのめりの下駄を履き、白鞣しろなめしの鼻緒に、十三本柾が通っている。桐は越後ではなく会津でございます。
 というように、咄は細かいほど盛りあがるのである。
 ついでに――
『夢金』の浪人者は黒羽二重、娘は黄八丈のつい服。
『高尾』で仙台公のなりが錦糸で竹に雀、紫頭巾。
『池田大助』の奉行のなりつむぎの対服に仙台平の袴。
『浮世床』の娘のなりは演る咄家の好みによる。
『片棒』は手古舞のなり縮緬ちりめんの長襦袢じゅばん、片肌ぬぎ。繻子しゅすたっつけ袴。
『蛙茶番』は結城のあいまん。古渡りのらんたつ
『弥次郎』黒羽二重、古渡り緞子どんすの野袴。
『錦の袈裟』緋縮緬の長襦袢。
『花見の仇討』浪人者と六部、六部のなりは鼠の袈裟、鼠の手甲、鼠の脚絆きゃはんに鼠の足袋。
『巌流島』武士のなり
『孝行糖』璃寛茶、芝翫茶。
 故人住吉町の円喬師が、『垂乳女たらちめ』の枕に、
 縁は異なもの味なもの。御召物にも御縁がある。たとえば、合わせた物なれば、上に着る表の布が御亭主、裏につく絹が御内儀さん。そこで、見立てが悪いと「釣合わざるは不縁のもと」。また見立てのよい夫婦でも、裏でも表でも嫉妬の焼焦げをこしらえたり「しみ」などをこしらえると、いったんといて、仕立て直す。折角まとまっている夫婦が、一時離ればなれになる。合わせ物は放れ物とは、ここから割りだしたのかも知れません。かりにこれから春着をこしらえると、昨今は黒が流行で、羽二重がよい。
 男の縮緬や、かべなどは、にやけるし、紋羽二重とくると坊さんじみるし、黒繻子がよい、とくると出羽の秋田で織りますのを最上等と致してあります。裏は甲斐絹がよいが、どういうものか甲斐絹は近頃はやらない。すべりも悪いし重みもあるが、緞子にしようか、いっそ繻珍しゅちんにしようとなると、西陣で結構なのができますが、俗に唐物と申しまして清国で織りますのを最上等と致します。
 すると清国の御内儀さんと秋田の旦那様と御夫婦になると、面白いもので、羽織が秋田と清国とくる。着物は斜子ななこの節がよかろうとくると信州上田が本場で、これで三ヶ国。下着が琉球とくると日本の端沖縄県、これで四ヶ国。裏につく絹は秩父で、これは武州で五ヶ国。胴着は御召がよかろうとくると西京で、これで六ヶ国。襦袢の胴はネルにしようとくると西洋で七ヶ国。袖が浜縮緬とくると江州長浜で八ヶ国。帯が博多とすると、これは筑前で九ヶ国。それで下帯が越中ならば、まるで国づくしができ上ります。
 と、ことこまかに申しのべた。いささか自分のなり道楽の自己宣伝もあったようだが、この咄も、御客は高座で喋っている咄家のなりをギョロギョロ見るものだ、ということの教訓になる。現今では、前座、二つ目、真打と皆同じなりをして高座へでるが、昔は、前座は羽織を着られず、家からの行き帰りには着て楽屋で脱いで働き、高座へも羽織は着ずにあがった。現今では前座が紋付、袴、羽織であがっても、御客様も不思議に思わなければ、楽屋で先輩も何ともいわなくなった。
 前座時代にははやく紋付が着たいと思った。同朋町の円右師匠の御内儀さんが亡くなられて、その御葬式のときに腰脇の者が着る縦縞の木綿に、梅鉢の紋付の羽織を戴いて始めて高座へあがったときは、嬉しくて昼間もその紋付を着て歩いた。
 その服装で正々堂々と、廿一歳の兵隊検査に行った。検査官に、「イヨウ、色男」とひやかされて肩を叩かれた。その紋付の羽織を着て、吉原へも遊びに行った。始めて、紋付を着ると、身体に馴染まないで、着た当人も、ほかで見ても、何となく変なものだが、これがどんな木綿の紋付でも、長年着ていると、身体にちゃんとつくものだ。もっともこれは、われわれ咄家の作業服のようなもので、まあユニホームである。
 その代り、何時何処で御葬式にであっても困らないで、悠々と御焼香ができる。われわれ長年紋付を着馴れた者から見ると、素人の方が、婚礼とか御葬式のときにだけ着る紋付は、体についていないで、借着をしているようである。昔の咄家や、講釈師などはずいぶんひどいなりをして高座へあがっていたものだ。気違い馬楽という人も、輪継ぎの褞袍どてらに紫の細紐を締めて高座にあがったのを覚えている。もっとも、あの人は博奕を盛んにやっていたので、脱ぎち(お金がないとき着物で勝負すること)をした帰りだったのかも知れないが、この人写真嫌いで、このなりでよければ撮ってくれといったという。それで褞袍に鉢巻で撮った写真より残っていない。普通、咄家が写真を撮られるときは、「ちょっと待ってくれ」と着物を着替えるものだ。気違いと名人は紙一重の違いだというが、その時分から少し変だなとは思っていた。もっとも、昔の咄家・講釈師は褞袍を着ていても、御大名の咄ができなくてはいけないといっていた。
「咄家は着物を見せるんじゃねえ。芸を客に聞かせるんだ。着物見せるなら柳原へ行けばよい」
 昔の柳原というところは、古着屋が軒並み並んでいた。
 私なぞの、生意気盛りの頃、当時の研究会のお仕着せは、桃色の紋のついたキャラコの黒の紋付であったが、この一重の着物一枚という服装で寒いときは下へ何か着て、始めて大阪へ行った。上方の芸人は服装道楽の者が多いので、私の服装を見てみんな驚ろいた。平常着にも高座着にもこれ一枚で、見かねたのか、大阪日本橋の傘屋のお母さんが私に注意してくれた。
「何んでもいいから羽織を着て、高座へあがらないと、御客に馬鹿にされまっせ」
 と、そこで私が考えた。何か変った羽織を着てやろうと、豆紋りの手拭を一反買ってきて、これで羽織をつくってもらった。羽織の紐は真田の下駄の鼻緒の前つぼを真中へ、横鼻緒を両脇にゆわえつけて高座へあがった。楽屋で上方の芸人が、
「関東の方は粋やなぁ」
 と、変な褒め方をした。売り物には花を飾れという上方で、このなり大蹴おおけられ(高座が受けないでお客に「やめろ」と声をかけられたり後を向かれたりすること)で東京へ帰ってきた。作家の長谷川伸先生が、若い頃、横浜で講釈を聞いて、あまり話術がうまいので、その人の弟子になろうとした。楽屋へ行って見て、なりの悪いのに驚いて、この芸でこんな服装をしているようではとあきらめたという話が残っている。
 今でこそ、猫も杓子も咄家は袴をはくが、昔は真打でも袴ははかず、座敷(高座以外に招ばれて演ること)から帰りに寄席へきても、楽屋で袴を脱いで、高座へあがった。これは、演る咄によって袴をはいては演りにくい咄がある。世話物、廓咄、つや物、道楽の咄には、紋付袴はいかにも野暮で、咄の邪魔になり、とりわけ袴は工合の悪い場合が多い。また紋付、袴羽織で演りよい咄は、『妾馬めかうま』であるとか奉行を主とした咄、侍の多くでる咄くらいで、ほかの咄は、袴ばかりでなく紋付の羽織も邪魔なものである。紋付の羽織は、この場合一礼のあと脱ぐものである。この羽織を脱ぐにも、何処で脱いでよいというものではない。『三人旅』で、馬の上に乗ってから、羽織を脱ぐことはできない。本題にかかる前、枕のうちに脱ぐ。
 この羽織を咄の道具に使ってうまかった人に、故橋本円馬師匠がある。
『夢金』という咄で、船頭が蓑を脱ぐときに、羽織を脱いで、雪を払って脇へおく。
 往来で友達と喧嘩のときに、「この野郎」といって脱ぐ。
『佃祭』で、「この着物をそっちへやっておけ」と、表から家のなかへ放りこむと、そのときいかにもお祭のお揃いの浴衣を脱いで急いでいる情景がでる。
 演出効果百パーセントといいたい。羽織を脱ぐだけがひとつの芸になっている。
 昔の咄家がこの羽織の裏へお金をかけたのも、見栄ばかりでない。羽織を高座で脱いでおいて咄をしている、後連あとれん(自分のあとに上る人)がくると、前座がこの羽織を引っこめる。あとのきた合図である。定連は羽織が引けたから、あとがきたなとわかる。昔素人でも、通人の間であまり話が長いと羽織を引いてやれよなんという言葉が流行した。この羽織を引いても、すぐに高座を下りる人と、あとの咄の切れ場までゆかなければ下りられない人と、前座は心得ていなければならない。
 今は、高座で羽織を脱ぐ人も少ないが、また、うまくこの羽織を引ける前座もいない。
 後連がきたからといって何処で引いてもよいものではない。咄の模様、言葉の切れ目、咄の邪魔にならぬよう、音をさせず、引き摺らず、御客の気のつかぬように引くもので、始終高座に気を配り、油断なく、いわば踊の後見役と心得るべきである。

落ちがついても引けない羽織綱上おどるも七つ過ぎ

 その頃の咄家にも、服装道楽という人があった。
 鼻の円遊さんの内輪に、三好という人がいて、この人は、毎日羽織から帯、着物、煙草入れまで、十五日間変えてきた。目の窪んだ、まるで骸骨の根付けみたいな顔の人で、自分でも「北海道の差配人みたいな顔でだんだん目が後の方へ引っこんでゆくようです。しまいに、うしろへ目が出ましたら神楽坂へ引越します。うしろ目の神楽坂といって」と、つまらないことをいっていたが、これは、牛込の神楽坂という洒落である。花どきになると絽の無双といって、絽の袷を着ていたが、その頃の前座が、この羽織をたたむにも心配したものだ。
 また、名人住吉町の円喬師は演る咄によって着物を変えてきた。細かい縞物を着てくると、今晩は『鰍沢』だなと、すぐ演る咄がわかったものである。
 咄家は黒の紋付が一番無難のようである。できれば無地物か、あんまりあらくない縞物がよい。小紋は柄による。
 ある咄家が、小紋の着物と羽織の対を着て楽屋入りをしたところ、下座の三味線弾きの婆は口が悪いので、
「師匠、顔も小紋の対ですね」
 といった。その師匠、顔に小さい肝斑しみが多くある人だった。永年黒御簾みす(はやし部屋)のうちにいると口も悪くなる。
 結城唐桟とうざんも着心地はよいが、頭が禿げてくると、いつかいかつく見える。亡くなった橘のまどか師が、
「頭が禿げてくると高座の着物が難しい」
 とよくいっていたが、自分の頭が禿げてから、その言葉がつくづくわかった。飛白は細かくとも演る咄によって着にくい。帷子かたびらはともかく、細かい縞は無難である。
「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」
 というが京大阪の咄家は、昔から着物に金を掛ける。着物といわず「着る物」とか「きりもの」という。派手な熨斗目のしめの着物を着たり、特に春団治は、初代二代ともに気違いじみた着物を着ていた。よい年をして印半纏のような着物、または首ぬき、紫の大きな紋付、その紋も三升のなかに、「春」という字が大きく染めだしてある。金鎖の羽織の紐、太い金の腕輪をして、緋の長襦袢の袖が見え、水色の衿が掛っている。白献上の博多帯。このようななりで、梶棒に後押し、紅白の綱引き、三人曳きの人力に乗って「掛持ち」をしていた。
 大阪の落語家はすべて、理窟なしに派手にして常に目新らしく、着物といわずに「衣裳」といわせ、舞台へでる衣裳であるから往来は包みで鞄へ入れて持ち歩き、次の席へ行ってだして着る。
 戦時中咄家も国民服にテーブルを前に咄をしたが、振り袖を着て大掃除をしているようで勝手が悪い。演出法も苦労をしたことがある。洋服、テーブルで、昔の武士の咄を演り、刀で切り合うときなどは思ったより演りよかったが、舟を漕ぐ、馬に乗るなぞ、思いがけない咄が演りにくいものだ。ぼくも怪我したあとは釈台を置き、舞台はテーブルを置いて演っているが、テーブルの高さによっては演りにくい咄がある。
 寄席の高座で、芝居咄に「引抜き」という着物を使う。これは芝居の「引抜き」の着物と同じで、袖の縫目に小さな黒い玉がついていて、この糸を引くと着物から袖が裏返しになる。黒紋付の裏が、荒らい弁慶縞でがらりと気分が変る。とたんに高座の後幕が落ちて野遠見(野原の遠景)になる。
 講釈師にも、貞海さんという先生は、「博多」まで帯を註文して別織にさせていた。この人のいい分が面白い。世帯とは、「世の帯」と文字に書く。何はなくとも芸人は、帯だけは金をかけたいものだといっていた。仲間ではこの人の帯のお下りを買っていた。
 現今では咄家も、洋服を着て楽屋入りをして、高座着と着替える。雨降りの楽屋なぞ長靴が並んでいて、咄家の楽屋だか、魚屋の入口だかわからない。長靴が多くなったので間違えるからと木の洗濯挿みに名前を書いて挟んである。
 昔の咄家には粋ななりをしていた人がある。唐桟の着物に「五分つまり」の博多の帯、日和下駄に八幡黒の鼻緒、千住の煙草入れを腰に下げて、羽織の入った風呂敷包を持って楽屋口を出入りした。そんななりに憧れて、咄家になった者もある。
 われわれの中興の祖で咄家の神様といわれた、初代三遊亭円朝という方は、若い頃は黒の紋付だが、白献上の博多の帯、緋縮緬の袖に水色の衿、金蒔絵の印籠を下げて、まるで太神楽だいかぐらの親方みたいななりで大きな扇子を持ってでて声色を使い、若い者が一度は通ってくる嫌味な高座であったとは、岡鬼太郎さんの円朝評であるが、その頃円朝師は、芝居咄を演っていたためにそんな服装をしていたものと思う。太神楽の親方というのは芝居の「ドンツク」にもでてくる。ただ今では、曲芸師なんというが、その頃はそんな服装でお正月の町内廻りをしていたものだ。

鉢巻をせぬと助六太神楽

 テレビができてから咄家の着物もずいぶん派手になった。
 黒羽二重では、写りが悪いというので茶の紋付、茄子紺、鶯色、鼠色などを着せられる。急ぐときはそのままで高座へあがるのでいささか色気違いじみて気の引けるものだ。
 五代目左楽師は一時競馬に夢中になって、馬の蹄の紋付をこしらえたことがある。
 近頃での新人と自他ともに認めていた初代三語楼さんは、「三・五・六」という字を紋付にも染めていたし、漫談屋大辻司郎君は、「4と6」の字をよく使っていた。
 佐藤ハチロー先生も、「8と6」という背番号のジャンパーを着て、放送局のスタジオでお目に掛った。
 今の若い方は平均して昔の若い人より寒がりで厚着のようだ。われわれ若いときは寒中でも素袷といって、下へシャツだの股引なんというものは着なかった。伊達の薄着というが、それで鮫肌を立てていた。
 若いうちは「股引をはいたり、芋を食うようになったら自殺して終う」なんと盛んに人にいっていたが、今は、芋は食べないが、冬になると、面目ないが股引を二枚はくようになってしまった。それでも、十八歳の時から三年間、かん参りをしたことがある。雨の夜も雪の晩も白の行着一枚で、もっとも、褞袍に外套の寒参りなんというのはないが。咄家の着物といっても、若い咄家が高座で踊りを踊るときに、出来心の咄のように裏は花色木綿ではどうにもあがきがつかない。見栄ばかりでなく、つぎつぎでも裏へ絹物をつける。また年齢にもよるもので、ぼくなぞ若いうちの素袷どころかこの頃では暑がりやの寒がりやで、夏は水着になるのが、町内で一番はやく、冬にならないうちから褞袍を着ている。





底本:「日本の名随筆 別巻29 落語」作品社
   1993(平成5)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「浮世断語」有信堂
   1959(昭和34)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月16日作成
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