霧の蕃社

中村地平





 台湾の北から南へかけて、まるで牛の背骨のように高く、長くつらなっている中央山脈の丁度まんなか辺りに、霧社という名前で呼ばれている有名な蕃社ばんしゃがある。
 蕃社は北の方の合歓ごうかん山から延びた稜線と、南の方水社大山から東北に延びた稜線とが相合うところに、ひとりでに出来あがった高台の上に在る。高さは海抜四千二十九尺。脚もとはるか低くには濁水渓の源流が岩石の間に水しぶきをたてながら流れており、渓谷の周囲には能高のうこう、合歓、次高、北トウガン等の山々がうっすらと木の葉の色に重なりあってそびえている。
 昔から風景がすぐれていることで名高いのであるが、らに春の季節になると、その南の島には珍しい桜の樹が、緑の山々を背景に、その花ばなの見事さを高台いっぱいに誇る。この蕃社くらい台湾に住む内地人に、異常な憧憬を感じさせる土地も少いのである。
 台湾名所案内に重要な地位を占めるばかりでなく、霧社はまた能高越えと呼ばれる中部台湾横断の要衝にも当っている。北部や南部やを迂回うかいすることなしに、西海岸の台中から東海岸の花蓮港かれんこうへと出るためには、どうしても中央山脈のけわしい山坂みちを越えなければならない。ほこりを吸った脚絆きゃはん姿の旅びとや、リュックサックを背負った登山客や、皮革くさい軍隊やはその疲れた脚をこの高台で休めてゆくのが普通である。高台いっぱいにうわっている桜の樹蔭には、そのために警察分署、旅館などの設けがあり、それを中心に小・公学校、蕃産品交易所、茶店などが小さな内地人部落を形づくっている。自ずと付近一帯に散在する蕃人部落を撫順ぶじゅんするための、理蕃政策の中心地にもなっているというわけである。

 この霧社では毎年秋の好日、高台の一隅に在る公学校で能高郡下小・公学校の連合運動会を催すしきたりになっている。
 児童ばかりではなく、その父兄たちわば山間で警備や、教職についている人たちにとっても、最も楽しい年中行事の一つである。いったいに台湾の山地に住んでいるこれらの人たちは、たまさかの視察者や旅行者が訪ねてくる以外は、めったに内地人に会う機会もない。運動会はそういう人たちのために一種の懇親会の役割をはたしているのである。
 今から約十年ばかり前昭和五年秋の十月二十七日。この年も毎年の例に従って、霧社公学校では連合運動会が催されることになった。能高郡下の辺りいったい、山間の峰や丘やに住んでいる警察官吏や、学校職員や、農耕指導者やは、家族づれで二人三人と、既に前日からこの高台めがけて参集してくるのも例年の通りであった。夫は制服の脚に黒い脚絆と草鞋わらじとをつけ妻君はたまさかにとり出して着た晴れ着の尻をはしょって、高い峰の細い山径づたいにいそいそと連れだって歩いてくる。径から谷にむかって、低くれている、狭い、急な段々畑には、背に籠を負い、脚にまっ赤な脚絆をつけた蕃人の娘がたたずんでいて、たずねかけてくることもある。
大人だいじん、奥さん、どこ行くか」
「霧社まで……あしたは霧社で運動会があるのよ」
 晴れ着の背に送られた蕃婦のうらやましそうな視線を意識しながら、妻君は急ぎの脚をふりむきもしないで、うわついた調子に答える。霧社に着くと人々は、それぞれ宿屋や、知人の家に分宿しなければならない。受けもち教師に引率されて既に先着している子供たちが、そこでは自分たちの来るのを待っているのである。
 夜が大変である。運動会の前夜は毎年の例に従って公学校で学芸会が催される。自分たちの子供が蕃童に混って、朗読や、唱歌やを演ずる合間には、知りあいの誰彼に、積りに積った一年ぶりの挨拶を交わさなければならないのである。鵞鳥がちょうが増えたこと、百歩蛇ひゃっぽだにわとりと喧嘩したこと、誰それが転勤になって平地に降りたこと、――熱に浮かされたように、そういうことを語りあう女たちの顔にはみんな云い合わしたように白粉おしろいの匂いがぷんとしており、その珍しい匂いがまた男や女やの気もちをいっそう賑やかにはずませているのである。
 この年。運動会の前奏ともいうべきこの学芸会で最も一同の喝采かっさいを博したのは、花岡一郎のオルガン弾奏であった。花岡一郎というのは、まだ若い蕃人の巡査である。幼い頃から聡明で、勇気があり、霧社に住む内地人一同に深く可愛がられていた。早くから内地名も貰っていた。公学校を終ると、台中師範に学び、その頃は巡査の資格で、蕃童の教育に携っていたのである。
 花岡がオルガンをひき終った時、人々はようやく感嘆のため息から放たれて、はげしい拍手を送った。声に出して讃辞を送った者も少くなかった。ただしかし、当の一郎だけは、なにか心に鬱屈うっくつするところがあるらしく、憂愁に充ちた顔つきをしていた。それは驚くほど深刻な顔つきであった。心の浮きたっている人々は、けれどその暗い表情の蔭に大きな苦悩が隠されていることに気がつく筈がなかったのは勿論である。
 いよいよ運動会の当日、この日は霧の多いこの高台も、珍しいほどに晴れわたっていた。澄んだ山の陽ざしは赭土あかつち色のグラウンドいっぱいに溢れきっており、それはそのままの明るさで、そこに集ってきている子供や、その家族たちやの胸のなかに射しこんできた。子供たちが場内の整理や、着更きがえなどに小止こやみもなく動きまわっている間、テントばりの父兄席では、そこここに楽しい交歓が行われ、はしゃいだ話声や、賑やかな笑い声が雲のように湧きあがっていた。前夜語りきれなかった一年の話題がまだなんとたくさん残っていることであろう。能高郡守小笠原敬太郎がわざわざ埔里ほりの町から出張に及んで会に臨席していることも、父兄たちの誇らしい話題になっていた。植民地の郡守といえば羽ぶりのいいことは内地の知事以上である。そういうえらい役人の臨席を得て、会はいやが上にも運動会気分をそそられていたのである。それはまったく楽しい団欒だんらんであった。
 そして、その団欒の蔭に思いもかけない恐ろしい悲劇――この文明の世界では考えることもできない野蛮な惨劇が待ち伏せしていようと、出席者の誰が予想し得たであろう。
 会は予定どおり、午前八時を期して始められた。
 校長新原重志の開会の辞につづいて、小笠原郡守の祝辞、霧社警察分署主任警部佐塚愛祐の訓辞が滞りなく終った。
 つづいて場の中央にたてられたポールに国旗を掲揚するために児童を中心にし、一同は起立して君が代を合唱し始めた――丁度、その瞬間であった。
 突然、だしぬけに人々の頭上に、意外な不幸が落下したのである。不幸などというなまやさしい言葉では言い足りない悲劇にちがいない。場内に集っていた内地人の大部分百三十四名が、無智な、兇暴な蕃人たちの計画的な襲撃に遭って、みな殺しにされてしまったのである。
 始め、君が代を合唱し始めた時、人々はまるでその歌声を打ち消しでもしようとするような「うおう」という、物すごい集団的な喚声かんせいが、すぐ背後に湧きたち、おし迫ってくるのを聞いた。人々は自分の耳を疑うように異様な表情を浮かべた。瞬間、合唱の声が乱れたような気がした。しかし、既にその時、手に手に竹槍たけやりや、蕃刀やをげた百五十人ばかりの蕃人が、雪崩なだれをうって場内に駈けこんできたのに、人々は気がついた。
 グラウンドのすぐ背後には桜台と呼ばれる小さな台丘がある。桜の樹や、雑木やが土の色も見せない位繁っているが、蕃人たちはその樹の繁みの間にひそみ隠れていた。ある者は蕃刀をぬき放ち、ある者は鋭利な竹槍を小腋こわきに抱え、息をひそめ、眼を光らせ、頃合いを見計みはからっていたのである。
 グラウンドでは自分の周囲に何が起きたのか、その重大な意味を人々がまだ理解することも出来ない間に、たちまち異様な悲鳴が湧きあがった。五六人の内地人が蕃人の槍先の犠牲となったのである。
「非常警戒、非常警戒」
 佐塚警部は抜剣しながら、血走った声で叫んだ。
 純白なランニングシャツ一枚になった内地人の子供たちが、恐怖に充ちた叫び声をあげながら、右往左往するなかを、その父や母たちは気ちがいのように、子供たちの名を呼んで求める。場内に集っていた蕃童たちは、もうその時はただの一人もそこには姿を見せていない。蕃人たちが桜台を駈け降りると同時に、その母や姉やが一人一人どこか安全な場所へ連れ去ったものにちがいなかった。
 蕃人巡査花岡一郎は始め巡査の制服を着て司会者側に参列していたが、いつの間にか制服はぬぎすて、陣羽織じんばおりに似た麻の蕃布ばんぷを身にまとっていた。彼が蕃装することはめったにないことである。前もって同族の不穏な計画を知っていたものにちがいなかった。しかし、花岡は血の出るような声をふりしぼって、同族たちの兇行をおしとめようとしていた。
「夕方までまて! 夕方までまて!」
 それはなにか目算があってのことか、あるいはまた単に衝動的にか、わからないが、恐らく彼自身にとっても言葉の意味は無かったであろう。
 しかし、血を見て既に野性が生き返っている蕃人たちの耳に、そのしゃがれた、悲鳴にも似た叫びが入ってくる筈は無かった。女、子供の区別なく内地人とさえみれば相手かまわず突きすすんでゆくのである。
 剣をふりかぶって蕃人たちときりむすんでいた佐塚警部の頭に、ふっと、通り魔のように頭目モーナルーダオの顔が浮んだ。恐るべき兇行の首謀者は彼をいては、他に考えることはできない。佐塚警部は忙しくそう考えた。


 恐るべき惨事の原因を知るためには、古く明治四十二年にさかのぼらなければならない。
 理蕃の政策として、まだ隘勇線あいゆうせんが設けられていた頃の話である。隘勇線というのは、まだ帰順しない生蕃を包囲する一種の警戒線のいである。その線にったところどころには武装巡警の屯所とんしょを設けて、内外の交通を断ちきってしまう。必要に応じては鉄条網をはりめぐらすこともある。外界との聯絡れんらくを断たれて困っている生蕃へは、威嚇いかくや攻撃やをいっそうはげしく加えるのである。生蕃が帰順すると、始めて線の外に解放する。遂いには山の頂きにまで線をちぢめ、最後に未開の地をなくしてしまう、という方法である。
 その頃、モーナルーダオは霧社に在るマヘボという蕃社の頭目であった。体のおおきい、どちらかといえば無口な男であったが、勇武にすぐれており、また一徹で正直であったため、部落のなかに勢望があった。モーナルーダオにはテワスルーダオという妹がいる。兄に似て大柄な女であったが、眼が濡れたように美しく、美人の名は付近に高かった。
 霧社警察分署勤務の内地人巡査近藤儀三郎は、このテワスルーダオに結婚を申しこんだ。テワスに魅力を感じたためであるが、いったいその頃は、理蕃政策上、内地人巡査が蕃婦と結婚することは、上司の方でもおおいに奨励していたのである。
 結婚の申しこみを受けた時、テワスに否応のある筈はなかった。蕃人の女が内地人の男に憧憬を感じているのは、昔も今も同じである。しかも、この場合相手は普通の男ではない。結婚すれば大人だいじん(巡査)の奥さんになれるのである。テワスは有頂天にさえなっていた。
 しかし、兄のモーナは妹の結婚にいくらかの躊躇ちゅうちょを感じた。普通蕃人の男たち、特に因習を貴ぶ老人たちには、自分たちの仲間が他の種族と結婚することは喜ばない気風がある。モーナは頭目である。部落の習慣や気風やに責任をもつべき地位に在る以上、それをおしきって社内に不平の種をまくのは許されないのである。しかし、妹のテワスがその結婚に乗り気になり、邪気なく噪いでいるのをの辺りに眺めると、さすがに、兄としての別趣な感情も湧く。それにテワスが近藤巡査の妻になれば、自分自身も大人の兄になれる。そういう誘惑にも心がひかれる。モーナルーダオは煩悶はんもんした。
 しかし、間もなくモーナは、
「妹の有頂天な気もちを傷つけるに忍びない」
 という自分自身への云いわけで、結局妹の結婚を承諾してしまった。
 モーナの気苦労が強かったにもかかわらず、結婚はすべて調子よく運んだ。新夫の巡査という地位と、新婦の兄の頭目という勢力によって、二人の結婚に対して不平をもらす者も社内にはいなかった。
 テワスはからだがしびれる位嬉しかった。もはや、跣足はだしのまま竹の床にごろ寝する必要もなければ、手づかみで芋を食べる習慣もやめていいのである。官舎の畳の上に住み、食卓の前に坐って「白米」を食べるのである。夜のランプは兄の家の炬火たいまつに較べると、なんと明るく溢れるように、胸のなかをてらすことであろう。
 麻の着物も、まっ赤な脚絆もぬぎすて、テワスは内地風の浴衣ゆかたを着ていた。無器用な手つきで炊事もしたし、お針仕事も覚えようと懸命になっていた。心をこめて内地人になりきろうとしていたし、命をかけて夫近藤を愛していた。それは仕合わせな思いであった。
 近藤巡査もまた新しい生活に決して不満ではなかった。新しい妻はけだもののようにたくましく、生き生きした体と、決して内地人に劣らない容貌とをもっている。その上、勢力家の頭目を義兄にもったため、土地の蕃人たちをぎょしてゆくにも好都合である。
「あなた、大変よ。ホウゴウ社の蕃人たちが内地人の首切るとさわいでいるよ」
 近藤巡査が警察分署で執務していると、妻のテワスが顔色を変えてとびこんできたことがあった。近藤巡査はただちに同僚とホウゴウ社に駈けつけてみた。するとそこでは平素から不逞ふていの志をいだいていた壮丁そうていたちが、ひそかに銃器の手入れや竹槍の用意やをしている。近藤巡査とその同僚たちとは直ちに彼らをひっ捕えた。不穏な計画は事前に防止することができたのである。このようにして、妻の密告によって、近藤巡査が手柄をたてたのも一再にとどまらなかった。
 内地や、そこに住まっている老父母やは、近藤巡査には遠い、記憶のかすれた想い出でしかなかった。献身的な妻と、柔媚にゅうびな山々の眺めと、充ち足りた生活に巡査は没入しきっていた。
 しかしこの安らかで、仕合わせな生活も永くはつづかなかった。近藤巡査が東海岸の花蓮港に転勤を命じられたことで、破綻を生じてしまったのである。
 兄のモーナや、頂きにスカーフのような霧をまきつけている辺りの山々やに別れを告げて、二人が霧社を旅だった時、それは丁度晩春の季節であった。謂わば期せずして新婚旅行になったわけであり、二人はただわけもなく嬉々として、高い山々の、嶮しい坂径を花蓮港へと越えて行った。夫にとっては久かたぶりの平地の生活が、妻にとっては想像することもできない明るい町が、そのつまさき遠くにはひろがっており、二人をまっていてくれる筈である。そのことを想うだけでも二人の胸には溢れるような喜びが湧きあがってくる。不幸な生活が手をひろげてまっていようなどとは考えることもできないのであった。
 能高越えの深い断崖の下からは小やみもなしに、渓流のひびきとどろきわたってくるし、片側の高い崖土には、高い、細い蔓草つるくさっていて、白い、小さい花ばなをつけている。夫はそれが内地名では「木朝顔」と呼ばれることをやさしく妻に教える。
 霧の深くたちこめたねっとりした空気を裂いて、時折りはらわたにしみいるような、小鳥の清冽せいれつな鳴き声が頭の上をよぎってゆく。妻はそのうぐいすという名をもうとっくに覚えたことを誇らしげに夫にささやく。
 花蓮港の町に降りると、二人はクロトンの樹がふかぶかとした影で覆っている小さな官舎のなかに入った。
 港からは毎朝決って耳をつんざくような汽笛の音が聞えてくる。町の通りにはピカピカした金具でできた人力車が走っている。呉服屋の店さきには見たこともない美しい内地着物がビラビラ飾ってある。テワスには珍しい、びっくりするようなものばかりである。近藤巡査にとっても――毎日固いコチコチした新しい魚が食える。世の中にはこんなにたくさん人間がいたのか、とびっくりする位町には人が歩いている。勤務先もこんどは堂々たるコンクリートだちの警察本署である。二人にとっては新鮮な、山のそれとは全くちがった、感動的な生活が始まったのである。
 しかし、間もなくこれを転機として近藤巡査には苦悩の人生が始まった。
 勤め先から帰っても、浮かぬ顔をしている時が多い。冷たい瞳孔どうこうのぼやけた視線で、じっと妻の横顔を眺めている。たまらなそうに意味のない吐息をらす。人に語ることもできない憂鬱ゆううつを心の底に抱きかかえていることが、ありありとその顔には現れているのであった。
 山とはちがってその町には内地人がたくさん住んでいる。生蕃の女を妻としていることが、彼らに対して肩身のせまい思いがし始めてきたのである。
 眉間に十の字に、両頬に耳から口へかけて大きくながれるようにきざみこまれてある青い入墨いれずみも、山の原生林や、渓谷や、素朴な蕃社を背景に眺めてこそ、始めての魅力である。日本の服を着せ、白昼の明るい町なかに置いてみれば、化けものとしか映りはしない。広い、新開の町の通りを二人がいっしょに歩く時、妻のテワスは内地風の浴衣を着て、脚どりも軽くいそいそと夫のあとからついてくる。すると、行き行人こうじんの誰彼は、好奇な色を露骨な表情で、テワスの顔をのぞきこむのである。それからまるで見くらべでもするもののように、改めて近藤の顔に視線を移す。近藤はそのたびに、そういう行人をなぐりつけたい憤りに駆られる。しかし、妻は平気なもので、無邪気にもありありと得意げに、いっそうその逞しい体を夫にすり寄せてくる。蕃人の体からだけ発散する一種異様な匂いがぷんと鼻をついてくるのである。
 植民地の警察官吏は一般の風習として、しばしば上司の家へ出入りするのが普通である。正月や、その他の祭り日は特に大変で、大抵は妻君同伴で上役の家に御機嫌を奉伺ほうししなければならない。そして、そのことはまた娯楽の少い植民地生活の一つの社交的な楽しみにもなっているのであるが、そういう時も近藤巡査はいつも独りである。蕃人の妻を連れてゆくことは仲間に対してどうしても気がひけるのである。
 そんな時、近藤巡査は座敷ですすめられた酒のためにまっ赤になった顔を、ちょっとした用のために台所へ現すことがある。すると、そこで賑やかにたちまわっている同僚の妻君たちが、挨拶がわりの声をかける。
「きょうはらっしゃらないのね……お宅の奥さんは」
 勿論質問には深い意味があるわけではない。ただなに気なく訊ねてみたまでの話である。しかし、近藤にしてみれば、その言葉はふかい意味をもって響いてくる。
 まるでぷんぷん匂いでも放ちそうな晴れ着に色気のあるたすきをかけ、浮き浮きと弾んで美しく見える内地女の顔を近藤は羨しそうにんやりと眺め、それからふっと気がついたように胸のなかでつぶやくのである。
「蕃人を女房にもっているばかりに、世間の義理までかなくちゃならん」
 憤りに似たものが胸の底からつきあげてき、酒はとっくにめている。妻をつきのめし、どこか遠くへ逃げている自分の姿を、そういう時いつの間にか彼は想像しているのである。
 しかし、大柄な体を畳の上に窮屈そうに坐らせ、無器用な手で自分の着物をつくろったり、台所でいそいそとれない煮たきに心をくばっている哀れな妻の姿が眼に入ると、近藤にはまた別な感情が湧いてくる。頭のなかで四六時ちゅういじめつけている妻が可哀相でたまらなくなってくるのである。彼は思い返しでもするように、自分に言って聞かせる。
「この気の毒で、善良な妻をすてることはできない」
 それに、いったん結婚した蕃婦を離婚する、ということは、理蕃上非常にわるい影響を残す。他の誰か、一般内地人にそういう不埒ふらちがあった場合は、彼は自ら取締らなければならない地位に居るのである。
 このまま結婚をつづけてゆく気もちもない代りに、妻を捨てる勇気もない。どうすればいいかわからなくなってくるのである。
「自動車にかれるか、急病にかかって妻が死んでくれれば……」
 とんでもない想像が湧く時もある。しかし、そういう時小心な彼は心の秘密を誰かに覗き見でもされはしないか、という風にすぐにあわてて思い直すのが常である。
「いや、いや、妻を死なすわけにはゆかない。あいつにはなんの罪もないのだ」
 悔恨に溢れることばかりの自分たちの結婚が、近藤には今更のように思い返されてき、眼頭はひとりでに濡れてくる。
「あいつを殺すかわりに自分が死ねばいいのだ」
 ある晴れた日の午後、近藤は妻を郊外の海岸に誘った。心中する以外に方法は無いと思ったのである。
 海岸に出ると、海はまるで鉄の鎖でもほぐすように、ガラガラ、ガラガラ無気味な音をたてて鳴り響いていた。有名な花蓮港の大浪が海底の小石をも運び、もて遊んでいる音である。海岸に坐ると、近藤は泣きながら妻に言った。
「頼む。俺といっしょに死んでくれ」
 しかし、テワスにとっては心中は理解できないことであった。どうして死ななければならないのか、素朴なオプティミストにはどうしてもみこめないのである。
 無気味な、女とは思えない位強い力で夫の体を陸地にひきずり戻そう、とするばかりである。
「帰ろ、うちに帰ろ」
 間もなく近藤は思いあきらめたように、ぐったりした視線を遠い海面うなばらに放ったままつぶやいた。
「死ぬのはやめだ。俺もこの辺りを散歩して間もなく家に帰る。お前だけ先に帰っておれ」
 いやがるテワスを無理矢理に彼は家路をとらせた。
 そして、そのまま消息を絶ってしまった。
 近藤巡査が行方不明になったという奇怪なうわさが町に流布るふされた時、ある者は彼がどこかへ失踪しっそうしたのではないか、と疑った。しかし、彼の気の小さい、善良な性格を知っている同僚たちは、彼が投身自殺をしたことを信じて疑わなかった。花蓮港の荒浪に呑まれたが最後、屍体したいが発見されることはまず絶望と思わなければならないのである。
 失踪か、自殺か、しかしいずれにしても近藤巡査はテワスのもとへは帰って来なかった。急に広く見えだした官舎のなかに、テワスは独りぽつねんといつまでも夫の帰りをまっていたが無駄であった。結局、迎えに下山した兄モーナルーダオに連れられて、ふたたび嶮しい能高を越えて霧社に帰るよりか方法はないのである。
 高い峰々の、細い嶮しい崖径を通る時、傷心の妹も、その兄も黙然として歩いた。いつか近藤と同じい径を歩いた時と全く事情も気もちもちがっていて、ただ、崖に白い小さな木朝顔の花が咲いており、頭の上を鶯の音がよぎってゆくのばかりが、前そのままであった。
 しかし、霧社に帰ってからも、テワスは夫が今なお生きていることを少しも疑ってはいなかった。
 兄の家に落ちついたのち、彼女は夫の古い同僚や、自分の蕃人仲間やにはっきり語っていたものであった。
「近藤はいつか、きっとわたしのところへ帰ってくるよ」
 晴れた日、西空に聳えている能高の高い峰を人まち顔に仰いでいるテワスの姿を、部落の人たちはよく見かけた。
 テワスはいつの間にか内地キモノを脱ぎ、再び青いタアバンを頭にまき、まっ赤な脚絆を脚につけるようになっていた。一時は気がめいる位に暗く思われた兄の家の炬火たいまつにも、時がたつにつれて全く馴れきってしまった。しかし、夫近藤は帰ってくるどころか、消息さえ聞えてはこなかった。
 間もなくテワスは同じい社中の蕃人に再婚することになった。
 畳の上に坐る生活はもう永久にあきらめなければならない。土間にかがんで手づかみの食事をし、跣足はだしのまま床にあがって寝る、そういう野蛮な生き方に再び落ちこまなければならないのである。しかし、再婚の日に入ってからは、彼女はまったく新しい男との生活に満足しきっている風であった。近藤との過去は、楽しかった新婚の頃のことは勿論、悲しかった生別の記憶さえ、既にもう念頭からは全く消え去った風にしか見えない。山の精気を吸いこんで、逞しさをとりもどした体で、林のなかに駈け入り、いのししに似た山豚を追いかけまわしたり、嬉々として畑に出、蕎麦そばの種をまいたりしているのである。
 そういう彼女の姿は邪気がないだけに、かえっていっそう哀れぶかいとも見えたが、しかしその心の移ろい方のはげしさは、さすがに同じい蕃人の兄の眼にさえ、浅ましいものに映るのであった。
「ああ、これが一度は大人だいじんの奥さんとまで言われたことのある妹か」
 半ばの不憫ふびんさと、半ばの嫌厭けんえんと、複雑な感情でルーダオは妹の姿を眺め、暗澹あんたんとしたため息をもらすのである。そして、そのあとでは、ふっと、内地人に対して耐えられない憤りの念が湧いてくる。
「妹が蕃人であるという、ただそれだけの理由で近藤は妹を捨てたのだ」
 その上、妹の最初の結婚については、ルーダオには特殊な、頭目としての責任が残っている。社の風習や、社人の暗黙の反対やを無視して、彼は妹を他種族にとつがせた。その妹がつまりは内地人にすてられ、結婚に失敗して山に戻ってきている。頭目として社の習俗に対して申しわけないと考えるのである。
 テワスが再度の結婚を嬉々として楽しんでいるのに引きかえ、思慮ぶかい兄の心は常に鬱屈していた。自分たちに与えられた内地人の侮蔑ぶべつに対して、言いようのない憤りを感ずるのである。この反感は実に永い間、彼の胸底にくすぶりつづけていた。


 話は急に新しくなって昭和五年になる。この頃、モーナルーダオの内地人に対する胸底のくすぶりに、大きく点火するような出来事が相継いで起った。
 先ず最初に――その夏の初め頃、霧社小学校は予算六千円で、新しく改築されることになった。蕃人に皇民教育を授ける霧社公学校がかわらぶきの堂々たる建物であるのに比較すると、内地人児童のための小学校は、かやぶきの粗末な、見すぼらしい校舎に過ぎない。蕃人に与える印象は勿論、内地大児童の精神に及ぼすところも面白くない、という理由であった。
 いよいよ建築が始まると、霧社警察分署ではマヘボ社蕃人各戸に対して、四寸角二間柱一本ずつを割りあて、山林から現場へ運ぶことを命じた。しかし、蕃人たちは既にそれよりさき、埔里ほり武徳殿や、付近の桜温泉の新築やに賦役ふえきを命じられている。引きつづいて新しい賦役が与えられたことに不満である。しかも、不満はそればかりではなかった。
 この付近の蕃人の習慣としては、木材をはこぶのに地面をひきずって歩くのが普通である。しかし、それでは用材に傷がつく。内地人の常識としては、当然、肩にかついで運ぶことを命じるよりか仕方がないのである。建築の直接責任者である分署主任の警部佐塚愛祐はそのように命じた。しかし、そのことは予期しない、無惨な結果を産んだ。蕃人たちの肩は馴れない方法のために、いちように赤くれあがって痛んだのである。
 佐塚警部の妻もまた蕃人出身であった。だから始め彼が分署主任としてその土地に赴任した時、蕃人たちはその来任を心から喜んだ。自分たちの生活に理解が深いにちがいない、という期待のためにである。しかし、警部が予期しない失政をほどこした時、蕃人たちの心は彼から離れた。初めの期待が大きかっただけに、失望の度合いは少くなかったのである。
 賦役とはいうものの、労役に対しては当然の報酬として日当四十銭ずつが支給される約束であった。それは蕃人の生活程度から推せば、決して少い額ではない。しかし、蕃人の心が始めからこの賦役に穏やかでないことを知っている二三の不逞な本島人たちは、たちまちそれを煽情せんじょうの具に供した。
「そんな、四十銭だなんて、馬鹿な、安い賃金があるもんか」
 この煽動が素朴な蕃人たちの不平をいっそう助長させる結果を産んだ。
 用材をきりだす山林から、現場までは約半里ばかりある。丁度、その半ば頃に頭目モーナルーダオの住いがあった。やすむのには頃合いである。蕃人たちは往き帰りに、その家にたちよる。自然、赤く腫れあがっている肩を見せ、賦役に対する不満を語る、ということになるのである。
 もとよりモーナルーダオは妹テワスのこと以来、内地人に対する反逆の心を忘れたことはない。それが今改めて同じい種族の仲間から不満を聞かされては、いっそうその心は募るばかりである。無口なルーダオは彼等の談話には黙々として返事もしなかったが、深く期するところがあったのである。

 その秋――
 霧社は珍しい豊作であった。粟祭りが賑やかに行われた。粟酒をつくっての、酒もりも各戸でいくたびか行われた。そして、そういう酒もりが開かれるたびに、若者たちが聞かされるのは、老人たちの酒の機嫌での気焔きえんであった。
「むかし、俺たちが若かった頃は……」
 これは内地の田舎などでよく見かける風景である。しかしこの場合、気焔は結局首をいくつきった、という自慢話に落ちるから危険である。老人たちに首きりを煽動する意思があったわけではない。しかし、結果的には同じであった。そういう自慢話を聞いたのち、若者たちは口に出してこそ言わないけれど、腹のなかでは考えているのである。
「俺たちだってやろうとさえ思えば……」
 その若者たちの心の動きを、じっと静かに見まもっているのは頭目のモーナルーダオであった。社の人の心の動きは、ひとりでにすべて彼の方に都合よく動いてゆくようである。彼ははやる心をおさえつけて、ひたすら時期をまっていた。

 秋晴れの午後であった。
 モーナルーダオはマヘボ社の親戚ジアスアベバの家に呼ばれていた。その家と同じい社に住むアイシユドウとは、永い間、不和の状態に在った。そのもつれが、両家の結婚によってようやく解けることになった。二重の喜びに張られた祝宴に、彼も連っていたわけである。
 酒は快くまわって、モーナはまっ赤な顔をしていた。モーナは上機嫌であった。間もなく酒の酔いをますために彼は危い脚つきで表に出た。丁度、その時であった。明るい表の陽ざしのなかを、分署の吉村巡査が急ぎ脚にとおりかかった。
「こんにちは……」
 モーナは素朴な笑顔を浮かべて挨拶した。吉村巡査も愛想よく答えた。
「やあ、いい機嫌だな」
「よって行きなさい」
「きょうは駄目だ。公務の途中だから……」
 巡査がそのまま行きすぎよう、とすると、モーナはあとから追いすがるようにして、またすすめた。
「ちょっと、寄りなさい。御馳走うんとあるよ」
「きょうは駄目なんだったら、木材運搬の監督に出かける途中だから……」
 吉村巡査は笑顔をふりむけて答えた。その時まではモーナの応対はまだ上機嫌であった。しかし、蕃人の習慣として、厚意のもとに酒食を饗応しようとする時、相手がそれを受けつけないと、自分がきずつけられたような気もちになって激怒するのが一般である。吉村巡査がどうしても酒間に加わってくれないことを知ると、ルーダオは急にむらむらと腹がたってきた。初めはそういう気もちは全く無かったが、興奮がたぎってくると、平素内地人に抱いている反感までが急に頭をもたげてきた。やにわに彼は傍らに在った豚の生肉をひっつかむと、吉村巡査に追いすがりざま、それを無理矢理に口のなかにおしこもうとした。口にべっとりとくっついた柔かい、生暖いものの正体に気がついた時、吉村巡査は激怒してしまった。巡査は体じゅうで興奮しながら、相手をなぐりつけようとした。ルーダオはそれをさけ、けだもののような叫び声をあげながら、巡査に組みついてきた。この騒ぎを聞きつけると、蕃屋のなかで酒を飲んでいた蕃人たちはすべて表にとびだしてきた。そして、口ぐちにガヤガヤさわぎながら二人をひきはなし、よってたかって吉村巡査をなぐりつけた。
 この官吏侮辱の罪は理蕃上由々ゆゆしい問題である。直ちに上司に報告して適当の処置をとらなければならない筈のものである。しかし、吉村巡査はずきずき痛む脚腰あしこしをひきずるようにして家へ帰ると、その日は病気と称して公務の方は休んでしまった。自分が暴行を受けたことは胸ひとつにたたみ、蕃人たちをかばってやろう、と思ったのである。しかしこの曖昧あいまいな温情がかえって悪い結果を産むことになった。
 酒の酔いが醒めはてた時、モーナルーダオは始めて自分のしたことの重大な意味に気がついた。山で大人だいじん(警官)といえば殆んど絶対者に近い威望がある。その口に豚の生肉をおしつけ、あまつさえ袋叩きにしてしまったのである。当然、刑罰をまぬがれることはできない筈である。モーナルーダオは自分たち仲間一同が逮捕され留置されることの想像に脅えた。しかし、どういうわけか、当局からはなんの音沙汰おとさたもない。無気味な位である。彼は不安な毎日を送った。焦々いらいらし、かえって脅えが増すばかりである。遂いにはその脅迫観念が彼を逆に攻勢的な気もちのなかに追いこんでしまった。
「自分がやられないうちに、内地人をやっつけなければ……」
 かねて心の奥底ふかくに育てはぐくんできた計画を、この際彼は一挙に実行に移そう、と思いたったのである。心の秘密、つまり霧社在住の内地人をみな殺しにする、というその恐るべき計画を、モーナルーダオは先ず最初、自分の息子たちに打ち明けた。長男も次男も父の計画に否応のある筈はなかったが、わけても勇猛な次男のタダオモウナオは積極的で、今すぐにでも事をあげたい姿勢を示した。父親はそれをおさえ、しばらく時期をまつように、そしてそれまでは決して他言しないように、くれぐれもさとした。
 高台の桜の葉は落ちつくし、それをとりまく辺りの山々がようやく紅葉し始めた頃であった。
 モーナルーダオの耕作小舎ごやには、人知れず数名の男たちが毎日のように集り、なにごとかを謀議しつづけていた。それはモーナルーダオを始め付近に住む蕃人ヒポサツポ、ヒポアリス、タイモポホツクたちの三人で、すべて内地人に対して、深い反逆の心をいだいているか、或いは首きりをしなければ運命をひらくことができない、どんづまりの生活に落ちこんでいるか、その何れかの人間たちであった。


 モーナルーダオがうちあけた恐るべき計画に賛成し、兇行の中心ともなったこれらの人間たちを、ここに簡単に紹介しなければならない。
 同じ霧社のマヘボ社に近く、ホウゴウ社という蕃社がある。ヒポサツポはそこに住む若者である。大正十四年、彼は近くに在る万大社のルビナオイという娘のところへ養子に行った。
 霧社も当然含まれるが、いったいこの辺り一帯に分布しているタイヤル族という蕃人は、昔から武勇にすぐれていることと、風紀がきびしいのとで知られている。しかし、たまに例外があるのは断わるまでもないところで、このルビナオイは生来多情な女であった。娘の頃からとかくの噂は絶えなかったが、素行がおさまらないのは結婚したのちも同じことであった。怪しい男が家のぐるりで口琴ロゴを吹いて彼女を呼んでいるのや、彼女が男といっしょに粟畑のなかへ消えてゆくのやを見かけた者も少くないのである。養子に貰ったヒポサツポにもルビナオイは間もなくきがきた。そして、遂いには離縁してしまった。
 嫌われて婚家を追いだされはしたが、ヒポサツポの方では彼女のことが思いきれなかった。ホウゴウ社の自宅に帰ってからは、鬱々として仕事も手につかないのである。暗い土間にかがみこんで、酒ばかり飲んでくらした。
 女に捨てられて、そういう風に懶怠らんたいに流れているヒポサツポの姿を見ると、同じい社に住む蕃人たちは心の底から軽蔑してしまった。
 尚武的傾向が強く、日本の古武士的気質に通ずるところのある彼らにとっては、失恋して哀愁に生きるなどというのは、にがにがしい、沙汰の限りのことなのである。人々は露骨に彼に軽蔑の流し目をくれるようになった。
 女には捨てられ、近隣の人々にはうとんぜられ、ヒポサツポは生きる瀬がなかった。飲む酒は口ににがく、酔えば胸には悲しさがあふれてくるばかりである。運命を新しい方向に転回させたいとあせったが、まるで穴蔵に落ちこんだように、どうすることもできない。まったく参りきってしまった。
 しかし、彼はある時ふっと一つの名案を思いついた。
「そうだ。首りをすればいい。首を伐って武勇を示せば、人々の尊敬をかち得るし、あわよくば再び女までも手に入れることが出来るかもしれない」
 いったい昔から生蕃が出草(首伐り)するのには、例えばまじないのためであるとか、仇敵関係に在る他種族に復讐するためであるとか、狩場の争いのためとか、いろいろな理由がある。しかし、中で最も多いのは好きな女に相手にされなかったり同族に見くびられたりして意気があがらない時に、気勢をあげるための手段として行う場合である。ヒポサツポもまた同じ理由から、出草して武勇を示し、大に面目を回復したい、と考えたのである。
 いったいに彼の場合ばかりではなく、首伐りというのは絶対の行事である。それに成功し得さえすれば、神は自己の過去も将来もすべてを是認したもうた、と考えるのである。
 しかし、その計画を思いつくと同時に、ヒポサツポは忽ち当惑せねばならなかった。今は出草は内地人のために厳しく禁じられてしまっている。あえて冒せば、それは自分の死を意味するのである。複雑な煩悶のなかに、彼が自棄な、焦々した感情をもてあつかいかねている時、モーナルーダオから重大な秘密をうち明けられた。彼にとっては躊躇すべき理由がなかった。計画が成就すれば、彼は全山の英雄である。仮に失敗に帰したとしても、死あるのみである。その死は単なる出草の場合でさえも、今は逃れ得ないのである。
 暴動の同じい首領の一人ヒポアリスはこのヒポサツポの隣家に住んでいる。
 彼の父は明治四十三年本島人脳丁(樟脳しょうのう採取人夫)の首を伐って逃亡した。たちまち警察隊によって追跡されたが、深い暗い密林のなかに隠れひそんで、巧みに逮捕を免れた。間もなくほとぼりが醒めた、と思われる頃、彼はふたたび自分の家に舞いもどってきた。警察隊は蕃屋のなかに踏みこもうとするが、蕃刀をふりかぶって彼は相手を近づけない。やむなく、警察隊は蕃屋を包囲して持久戦の体勢をとった。
 ヒポアリスの父は観念してしまった。囲みをやぶって脱出することは、どうしてもできないのである。彼は蕃屋の内部に自ら火をつけた。木と茅とでできた粗末な小舎にはたちまち火がまわり、建物全体が一個の炎と化してしまった。そして、彼自身は勿論のこと、妻も子供もそのなかで無惨に焼け死んでしまった。
 その頃、当のヒポアリスはまだ十歳であった。父が壮烈な自殺をげた時は、ちょうど隣家に遊びに行っていた。そのために危く不幸な死を逃れることができた。しかし、自分の家が焼け落ちる音と、恐ろしい父や母の最後の叫び声をはっきりと隣家で耳にした。また骨になった兄や姉やの無惨な姿を眼の辺りに眺めもした。それは幼い心にも異常な印象であった。その印象は大きな火傷やけどのようにいつまでも胸に残った。そして、成長したのちその火傷の胸に残った無気味な記憶を想い浮かべるたびに、彼は悲憤に心のたぎりたつのを覚えるのである。
 父や母やの死の責任がどこに在るかを考えるいとまも無い。ただ、悪夢のような古い、幼かった記憶のなかに動いている内地人の顔が一途いちずに憎いのである。彼は内地人に対して常に強い復讐の気もちを抱いていた。そしてひたすらその機会をねらっていた。モーナルーダオの誘いは、そういう彼にとっては、またと得がたい機会であった。

 タイモポホツクも、またヒポサツポやヒポアリスに同じいホウゴウ社に住まっていた。
 生来の不具の上に怠け者である。誰も妻になろう、という者がない。自棄やけになって酒ばかり飲んで暮らしていたが、考えた。
「この上は首伐りをして、社中の尊敬と、妻とを一時に手に入れるよりか仕方がない」
 このタイモポホツクも、ヒポアリスとヒポサツポとは仲間に語らい、モーナルーダオの耕作小舎に連れこんできた。
 いったい、蕃界の田畑といえば、その多くは殆んどすべて山の傾斜面を利用した狭い、急な土地である。蕃屋から半里も一里も離れた場所に在るのが普通である。蕃人たちは、そこにわずかに雨露をしのぐに足る掘立小舎をたてておいて、耕作時に寝泊りする習慣にしている。本宅、つまりは普通蕃屋と呼ばれる小舎は、うところの蕃社に在って、部落を形づくっている。しかし、耕作小舎は寂しい山合いにぽつねんと独り佇んで、他の視界に隔絶している。しかも、霧の多いこの山地では、小さな小舎は全く霧のなかに閉ざされている場合が多い。謀議をこらすのには絶好なのである。
 モーナルーダオは前記の三人と毎日のようにこの耕作小舎に集っては、暴動を起すべき時期、順序、銃器の入手方法、料食の貯蔵法など、巨細こさいにわたって、計画をてて行った。
 また一方彼は出草を望んでいる者、内地人に反感を抱いている者、そういう自分の腹心たり得る条件を具えている者を探しだしては、克明に秘密に、計画を打ちあけて行った。
 その頃霧社には前記の三人ばかりでなく、彼等に類似した事情に在る者――つまりは首を伐って運命の転換を計らない限り、蕃社生活上、身の破滅になると自ら考える者が実に多く、無数と言っていい位にいた。恐らく、日本の理蕃政策は著々ちゃくちゃく成功して、彼らの素朴な野性は漸く文化と称するものの前に、屈服と衰弱とを余儀なくされている。民族的な兇暴性や原始性やは、謂わば生理的に女性としての機能をようやくうしなわんとする初老の婦人の活力と同じに、既に絶点から下降し始めている。美しい山々につつまれた、霧の多いこの部落も、体の内部にはどんづまりな、末期的な疾患の徴候が諸処に現れていたのである。
 そして、老境を目前に見る婦人が、青春への思慕と執着とのために、生理的な焦慮と煩悶とをかさね、時に意外な、規に外れた行動へ走るのと同じい事情のもとに、蕃人たちは燃え残りの、残蝋ざんろうのような野性や、兇暴性やを駆りたて、無謀にも自分たちのしょうにあわない生活の形式――つまりは文明へ最後の格闘を試みよう、としたのであった。


 これより先、同じい年の三月。時の台中州知事水越幸一は、蕃情を視察する目的をもって、蕃社に来遊した。
 いったい霧社は亜熱帯とはいえ高さは海抜既に四千二十余尺、気候の暖さは内地の春と殆んど変りはないのである。しかも、辺りの山々は春霞のなかにうっすらと重りあって聳えたち――それらの緑を背景にして、高台いったいの桜樹は今やま盛りに、その花ばなの見事さを誇っている……足もとはるか低く濁水の渓谷を眺める台の一角に佇み、柔媚な山々の眺めにつつまれた時、知事水越幸一は、一種郷愁に似た感傷を覚えざるを得なかった。日頃、政務に追われ、怱忙そうぼうの日を送っている俗情は、どこか遠い山のへ消えさってゆく感じだったのである。
 しかし、蕃情は――風景・気候のように温和では決してなかった。はなはだ面白くないのである。内地人を見る蕃人の眼に、穏やかでない、嶮しいものがあることは、たまさかの視察者にもはっきりと看取される。安んじて生業についている風はどこにも見えないのである。
 分署の一室に集合した部下の警察官一同に、知事はきびしい訓戒を与えざるを得なかった。
「よろしくいっそう蕃情に対して警戒を厳にするよう。しかも、蕃人に接するには、常に温情主義をもってし、いたずらに彼らの反感を挑発することなきよう――」
 知事は下山すると、直ちに部下に命じて、分署の警察官を更迭こうてつし、あらたに俊秀を入れた。また蕃人撫育ぶいくの一方策として、台中在住の内地人官民の家庭に衣類の寄付を仰ぎ、これをトラックに積んで送った。
 知事の努力にも拘らず、しかし、蕃情は少しも改善されるところが無かった。新しく更迭した分署主任佐塚愛祐がかえって蕃人の反感を挑発したばかりではなく、既に彼等の内地人もしくは文明に対する感情は行くべきところにまで行きついてしまっている。些々ささたる政治的技術によってはどうすることもできない最悪の事態に直面していたのである。

 きたるべき運動会の当日を期して蜂起することがモーナルーダオの耕作小屋で決定された時、全社の主な蕃人たちは暴動の計画を暗黙のうちに了解しあっていた。彼らはすべて眼には見えない糸にあやつられているかのように、ひそかに、かつ整然と戦いの準備をすすめて行った。
 既に秋の収穫は完全に終っており、食料は長期の戦いに耐え得る自信が十分に在った。銃器と弾薬とは各戸に所蔵するものはすべてこれを一カ所に集め、食料とともに暗夜を利用して密かにマヘボ付近に在る一大岩窟のなかに運び入れた。なお不足の分は蜂起と同時に分署から奪取する計画である。その予定小銃百五十、弾薬千四百発――
 台湾が日本に領有せられてこのかた、その時代まで、蕃人が反逆を試みたのは必ずしもこの時ばかりではなかった。全島にわたってこれに似た計画がいくたびか試みられた。しかしその殆んど全部は未然に発覚され鎮圧されるのが普通であった、素朴で単純な頭脳しかもたない彼等は、団体的に秘密をたもつ、ということが絶対にできない。なかの誰かが必ずうっかり計画の内容をもらしてしまうのである。
 しかし、この事件だけは例外であった。彼らは驚くほどの結束力と、細密な計算とで秘密を保ち、計画をおしすすめて行った。それはひとつにはモーナルーダオというすぐれた統率の才がいたからではあるが、ひとつには蕃人の智能が驚くほどすすんできたためである。事件が起きたのち、内地人の関係者たちは彼らに文化を与えたために生じた皮肉な結果に、深刻な苦笑をもらさざるを得なかった。

 事件が起きた日、昭和五年十月二十七日。
 朝まだ早く、辺りの山々が暗い闇につつまれている時分。
 マヘボ駐在所の杉浦巡査が自宅に熟睡していると、突然表戸をたたく者がいる。眠い眼をこすりながら、巡査が不審な思いに枕の耳を傾けていると、つづいて頭目モーナルーダオの声が聞えてきた。
「運動会が始まるよ。もう起きなさい」
 巡査は寝ぼけ声で答えた。
うるさいな。まだ早いじゃないか」
「早くないよ。遅いよ。もう運動会始まるよ」
 あまり執拗にすすめるので、半信半疑で巡査はしぶしぶ布団をはなれた。そして、ネルの寝巻き姿のまま、表戸をあけた。
「なんだ、まだまっらじゃないか」
 ぶつくさつぶやきながら、巡査が一歩、表へ脚をふみだした――その瞬間であった。とっさにモーナルーダオの巨きな体がおおいかぶさるように組みついてきた。電撃に打たれでもしたもののように、巡査の五体は半醒の状態から醒めた。彼はよろめく脚をふみしめ、全身の力でもって低く、モーナルーダオの襲撃を支えた。暗い星月夜の空の下で、しばらく二人は組んず、ほぐれつして争っていたが、間もなく、二人の体は組みあったままくさむらの坂径をころがり落ちた。そこは既に杉浦巡査の官舎からは十五六丁もはなれており、丁度、すぐ傍らにはモーナルーダオの家が在った。巡査が頭目の下敷きになった時であった。家のなかからはルーダオの次男タダオモウナオが走り出た。蕃刀でタダオは巡査の頭をはねた。不幸な内地人犠牲者の最初の一人はこうして産れた。
 間もなくモーナルーダオの家の前には黒い人の影が忍び寄るように一つ二つと集ってきた。マヘボ社の若い男たちである。社内の若い男全部約五六十が約束に従って出揃うと、それらは頭目モーナルーダオに引率されて、暗い山坂径を静かにタロワン社へむかって行った。タロワン社の部落のはずれまで来ると、そこにはその社の壮丁たちがひとかたまりになってまっていた。マヘボ社と、タロワン社との壮丁は合流し、一隊になってボアルン社へと行った。約束どおりボアルン社の壮丁たちもただちに一行に合流した。隊の人数は忽ち二百五十名ばかりに増えた。
 この二百五十名は二隊にわかれ、東能高郡下の主な駐在所の殆んど全部――新高、尾上、トンバラ、ボアルン、ロードフ、ターウツア、サクラなどの駐在所をかたはしから襲撃して行った。すべての駐在所には一人乃至ないし二三人の駐在員とその家族たちが住まっている。それらはすべて兇蕃の犠牲になった。前夜から霧社に泊りがけで出かけた女子供のほんの一部だけが、わずかに災厄から免れた。しかし、それらの大半も結局のち霧社公学校で不幸な襲撃に遭っているから、災厄から免れた、といっても、それは時間の問題にすぎないのではあるが……。
 兇蕃たちの行動は全く早く、静かであった。広い、暗い地域を二ツの魔風のように吹きぬけて、人命のいくつかをもぎ落し、次第に新しい仲間で身ぶくれして行ったかと思うと、空が白んだ頃には忽ちホウゴウ社に引き返していた。午前七時ホウゴウ社で再び合流して一隊となった彼らは、その足で頭目タダオノウカンを訪れた。タダオノウカンはその土地の長老であり、勢力家である。モーナルーダオは礼を尽して長老が一行の挙に加わってくれるように頼んだ。タダオノウカンはそれを聞くと彼らの暴挙をとめようとして、必死になってさとした。
「日本人は霧社にばかりいるのではない。俺たちがよし霧社で勝ったとしても、あとからあとから霧のように、日本人は俺たちを攻めてくるばかりだ。反抗しても、所詮は敗北の憂目うきめを見るにきまっている」
 モーナルーダオはそれを聞くと答えた。
「それと同じことは昨日きのう花岡一郎に聞いた。しかし、俺たちは粟も十分に貯えている。また銃器や弾薬もたっぷり手に入れる目算がついている。内地の人の数がどんなに多いか知らないが、俺たちが最後の粟の一粒まで、また最後の弾の一発まで、抵抗をつづけさえすれば、勝利はきっと俺たちを見舞うにちがいない」
 タダオノウカンが黙って返事をしないのに気がつくと、モーナルーダオは背後の若者たちには聞えないように、一段と言葉を低めて言った。
「それはお前が言うように、あるいは俺たちに勝味がないかもわからない。しかし、それならばどうすればいいのだ。この計画をやめて、また、あのじめじめした、どうにもならない気もちで不愉快な毎日を送るのか。若い者たちは、なにか、思いきったことをやらなければおさまらない気もちになっている。勝敗は問題じゃないのだ。その気もちをおさえつけても、その鬱屈した気もちはいつかもっと悪い別な形で現れるにきまっている」
 モーナルーダオの熱情に根負けした形で、タダオノウカンは結局一行に加わらざるを得なかった。タダオノウカンが参加を承諾したことによって、一行の勢力は前記のマヘボ、ボアルン、ロードフ、タロワンに加えてホウゴウ、スウクの六社となり、反抗蕃人の総数約千二百名、壮丁だけでも三百名という数に達した。モーナルーダオ以下全員気勢大にあがったことは説明するまでもない。
 壮丁三百名中の約半ば、百五十名は午前七時半、ホウゴウ社から十五丁の距離に在る桜台に到着、国旗掲揚式と同時に、一挙に公学校グラウンドに殺到して行ったのである。
 グラウンドでは剣をふりかぶって切りむすんでいた警部佐塚愛祐を始め、二十二名の警官、学校職員がたちまち兇蕃の槍先きや蕃刀やによって倒されてしまった。そのほか女子供で血を吹いて倒れたものが七十名。
 急を外部へしらせるために郡守小笠原敬太郎は吉川視学の案内によっていち早く場を外へとのがれ去った。
 霧社公学校長新原重志は機敏にも女子供約三十名を付近に在る自分の官舎に避難させると、自分はただ一人玄関の表にたちはだかって、来襲する兇蕃をむかえ防いだ。しかし、孤独な勇猛はたちまち勿論、ひとたまりもなく切り倒されてしまったのである。なかに避難した女子供の大部分もつづいて侵入してきた蕃人たちに虐殺の憂き目をみたのである。
 新原校長夫人は屍体のなかに埋れて、うつ伏せになり、血を浴びて寝ていたが、そのことで蕃人の眼をまぬがれることができた。奇蹟的に命が助ったのである。しかし、傍らに寝ていた子供が脚を動かしたことによって、引きずりだされ殺されたときも、声をたてることもできない苦しさであった。
 便所や、縁の下に隠れた、ごく僅かな女や子供たちは危く難をのがれることができた。しかし、戸外の竹藪たけやぶに隠れた者のなかには、蕃害は避け得たが、恙虫つつがむしに刺されて命を落した者もいる。犠牲者の総数は内地人百三十四名、本島人二名の多きに達した。
 殺された内地人の殆んど全部は僻遠へきえんの山間に在って、たのしみ少く、僅かに運動会の開催に胸とどろかせていた気の毒な人たちである。
 公学校のグラウンドで行われた惨劇は約一時間ばかり続いたが、その間兇蕃中の別働隊五十名は約二丁の距離に在る分署を襲撃し、小銃、弾薬を掠奪りゃくだつ、建物を焼きはらって凱歌をあげた。
 一方、運動会場を脱出した吉川視学は、小笠原郡守をその背に負って、山径を駈け降りた。しかし、郡守が肥っているために、急ぐことができない。やむを得ず、付近の竹薮のなかに降ろした。
「しばらくここに隠れていてください。すぐに応援を呼んできますから」
 眉渓ばいけいと呼ばれる渓流にった山径を半里ばかりも霧社から降りたところに眉渓駐在所がある。ころぶようにして漸くそこまで辿たどりつくと、吉村視学は蕃人蜂起のことをすぐに電話で埔里ほり郡役所に伝えた。事件が外部へつたわった第一報である。
 この間、竹薮のなかに隠れひそみ、息をこらしていた小笠原郡守は、追跡してきた兇蕃に発見され、殺された。
 埔里郡役所から事件の報告を受けとった台中州庁では、水越知事を始め一同、異常な予期しない出来事に愕然がくぜんとした。


 知事を中心に対策が直ちに協議された。
 その結果、三輪警務部長を総指揮として、警察隊千二百名を組織し、現地に進発することが決定した。台北・台南の二州及び花蓮港庁にはそれぞれ警察官応援が電請された。
 同時に知事は軍隊の出動をも請うた。軍はただちに台中・花蓮港・台北の各大隊より、各々おのおの警察隊応援の目的で進発させた。警察隊と軍隊とは相協力して、埔里、能高、ビヤナンの三方面より霧社を挟撃しようというのである。また、屏東飛行場より飛行機一機をもって、現地を偵察させた。
 この間兇蕃は霧社・ジセキ間の電話線を切断した。また眉渓駐在所を襲って、これを焼きはらい埔里方面に進出しようとする態勢を示した。埔里の町は海抜約千五百尺、埔里盆地の中央に在り、能高郡役所の所在地である。人口も二万数千あってその地方の要衝となっている。町には既に霧社で遭難した内地人二十一名が避難してきている。負傷して血みどろになっている者も多いのであるが、彼等の口から蕃情が伝えられるとともに、民心は忽ち大に動揺したのであった。兇蕃の来襲を防禦するために、内地人・本島人は互いに協力して直ちに自警団を組織した。また兵役に関係ある内地人は予後備を問わず銃をとり、眉渓近い第一線に防禦陣を敷いた。また同じ線のところどころには鉄条網を敷設し、電力会社の迅速なる活動によって電流を通じた。町民は戦慄し、兇蕃を憎悪する感情は渦のように町全体を覆っていたのである。
 台中を出発した軍隊及び警察隊の一行は、殆んど抵抗らしいものを受けることなしに、翌日二十八日に霧社を占領することができた。直ちに厳戒の任に就くとともに、難民の発見につとめ、屍体八十六個、負傷者三百八名を収容した。軍はこの日更らに台北から一個中隊を、つづいて翌二十九日に屏東飛行連隊から偵察機、戦闘機数機を出動させた。
 一方、霧社を追われた兇蕃中の約百名は列を乱して能高方面に退却したが、モーナルーダオの指揮によって、東方ホウゴウ社付近に集結・潜伏した。しかもなお、霧社奪還の機をうかがって、しばしば逆襲してくる。山腹の急斜面と、暗夜とを巧みに利用してくるために、守備隊は戦意思うにまかせず、大に悩まされるのである。
 この間、台中法院より竹井検察官が埔里に急行し、蕃人使嗾しそうの嫌疑ある本島人被疑者を片はしから検挙した。また、討伐隊は付近の蕃社を懐柔し、その動揺をおさえるとともに、進んで味方の勢力に加盟させるように努めた。このことは著々と成功して行った。
 翌三十日朝、霧社駐在隊は兇蕃をマヘボ、ボアルンの奥地に逼塞ひっそくさせるために、能高越え、ビヤナン越え方面の討伐隊と連絡をとりながら前進した。
 一方、マヘボ社、及びボアルン社に集結した兇蕃たちはモーナルーダオ、タダオノウカンを中心に対策を練った。討伐隊を迎えて決戦を試みることに、評議はたちまち一決した。老人も若者も眉の間には決死の色が現れており、ある者は銃をみがき、ある者は刀をといだ。
 この悲愴な決意を聞くと、蕃婦たちもまた自分たちの身の処置に就て相談し合った。結果は夫や兄弟あるいは愛児の首途かどでを激励するために、一同うちそろって付近の山林で縊死いしすることになった。マヘボ社蕃婦の全部、及びボアルン社蕃婦の一部がこれに参加した。
 蕃婦たちが揃って自害したことは、敵地に偵察に赴いた味方蕃タウツア社蕃人がもたらした報告によって、討伐隊にもわかった。討伐隊はその壮絶な風景を思い浮かべて感動するとともに、敵方の決意が容易でないことを知ったのである。
 歩兵部隊を第一線に、警察隊の協力をもって、いよいよ総攻撃を決行する日、三十一日。この日は朝来より氷雨ひさめ降りそぼち、遠い峰々は黒い、重い山雲のなかにまったく姿を隠していた。僅かに近い山々が煙ったような水蒸気のなかにんやりと姿を現わしているのにすぎない。午前八時四十五分、先ず山砲の射撃は始った。また、歩兵部隊の一部は退路を塞ぐために、鉄線橋(り橋)を切断した。砲声は秋雨をついて山地一帯にとどろきわたり、ロードフ、ホウゴウ、スーク、マヘボ、タイザン、カウツク等の蕃社は相ついで火災を起し、高地一帯凄愴せいそうの気に充ち満ちた。この日の午後台湾軍司令官と、水越台中州知事とは埔里で会見、事件のすみやかなる終結を目ざして協議するところがあった。
 一方、爆弾と砲弾とに脅やかされ、歩兵と警察隊の進撃に追われる兇蕃の側では、遂いに蕃社を保ち得ないことを悟った。首領モーナルーダオは残りの手兵約六十の壮丁をとりまとめ、マヘボ付近の山林中に在る大岩窟の中へと退いた。また生き残ったボアルン社の蕃婦や子供たちは、秋の取り入れや、霧社での掠奪品を持てるだけ持って付近の山林中に逃げこんだ。
 兇蕃の新しい要塞ともなった岩窟は、天然の要害を形づくっていた。また戦いに備えてひと月も前から、密かに兵器、弾薬、食料などがためこんである。討伐隊の攻略も容易ではないのである。戦いは勢い持久戦に入らざるを得なかった。
 山地は急速に寒気を増してき、討伐隊には凍傷者が続出してきた。辺りの峰々は白雪をいただき、こよみは十二月に入っていた。
 冷たい峰の嵐がふきまくるなかに小規模な、しかし激しい白兵戦はくり返され、討伐隊が一つの高地を占領すれば、直後直ちに兇蕃は嶮しい断崖をよじのぼり、手に手に蕃刀をふりかぶって逆襲してくる。偵察、連絡等のために討伐隊が小人数で出動すると、兇蕃の弾が必ずどこからともなく飛来してくる。討伐隊の被害総数も少くなかったが、しかし、既に敵蕃の死傷は百五十名に達していた。しかも、山林が美しい紅葉の色に彩られた頃には、弾薬、食料も次第に欠乏してきた。戦争の継続は次第に困難になってくるのである。
 いったいマヘボというのは祖先の地という意味である。兇蕃たちはその地を去り難く思い、始めはマヘボ、タロワンの両渓谷を死守するつもりであった。しかし、戦争の困難が増大したために、彼らも遂いに退いて、更らに奥地にらなければならないことを悟った。間もなく、万大渓谷を彼等は最後の地に選ぶことを決意した。しかし、背後より迫ってきた部隊に退路を要撃されることによって、その逃亡は絶望となった。既に十二月に入って旬日じゅんじつが過ぎていたのである。


 始めこの予期しない事件が起きた時、内地人側はその原因の真相を把握することに苦しんだ。また、その恐るべき兇行がどんな組織をもって行われたかを理解することもできなかった。その程度に、事件は異常であり、唐突であった。
 事件に関するあらゆる点に於て、さまざまな揣摩しま・臆測が横行したが、事件の元兇についても同断であった。始め人々は兇蕃の首領は花岡一郎であるにちがいない、と考えた。
 一郎は台中の師範学校を卒業している。しかし、蕃人である、という理由で、訓導の資格は与えられず、巡査の名目で教鞭をとらされている。そのことで彼は懊悩おうのうしていた。その過去と、彼が頭脳と、勇武とにすぐれている事実とから、彼を措いてはこの組織的な行動の統率者たり得る人物は無い、と人々は断じたのである。事件直後、彼が行方不明になった時、台湾はもとより内地の諸新聞は彼を敵方の英雄として憎んだ。国体と相容あいいれない、ある種の思想を抱懐していた、という臆説さえ一部には流布され、信じられていた位である。
 職務を離れ、任意の行動をとった、という理由で巡査の職は既に一方的に免じられてもいた。
 しかし、そういう噂はすべて甚だしく見当ちがいであった。彼は自分に血液の同じい種族への同族的な愛情と、恩愛のある内地人への義理と、二つのものの板ばさみになって苦慮していたのである、[#「苦慮していたのである、」はママ]
 事件の前の日、計画をモーナルーダオにうちあけられた時、彼は必死になってとめた。しかし、それは容れられるところではなかった。しかも、計画を上司に密告することは、蕃人としての立ち場が許されない。蕃人と、内地人と、何れの側にもたつことのできない苦悩をいだいたまま、運動会の前夜、彼は学芸会に臨み、オルガンを弾いたのであった。
 一郎には、花岡二郎と呼ばれる弟がある。兄と同じように幼い頃から内地人に可愛がられており、また、蕃人にしては珍らしく高等小学校も終えている。官吏になりたい志望で、その頃は普通文官試験の受験準備中であった。
 運動会の当日、同族の暴挙をおしとめようとして力の及ばなかった一郎は、弟二郎を誘うと蕃装のまま、血なまぐさい霧社公学校を捨てた。飄然ひょうぜんとしてホウゴウ社にむかったのである。あとに従うものは一郎二郎の妻子を始め、一族約二十余名があった。しかし、ホウゴウ社でもまた彼らは決して安らかな思いに落ちつくことはできなかった。まだ血糊ちのりの乾かない蕃刀を提げて退却する同族の姿を眼の辺りに眺めなければならなかったし、また砲弾の音が山々に鳴りわたり、立ち樹をゆすぶるのも聞かなければならなかった。内地人の実力を知りぬいている一郎には、これに挑闘する同族の運命が暗澹とした、悲哀なものに見えた。また、同族の犠牲となった恩愛ある内地人を想うと、傷心に耐え得ないものがあった。しかも自分自身はと言えば、そのどちらの側からも敵視されているにちがいないのである。
 一郎は弟に懊悩の顔をふりむけて言った。
「死ぬよりほかにみちが無いと思う」
 二郎はうなずいた。
「自分もそう考えていた」
 十一月一日。一郎二郎及びその家族たちは蕃装をぬぎすてて唯一の晴れ着である日本服を身にまとった。結婚した時、彼らは官憲臨席のもとに、霧社霧ガ丘神社で神前結婚をした。その時内地人に貰った晴れ着である。用意が整うと、一族は打ち連れて、ホウゴウ社の東南約十丁ばかりの森林の中へ静かに入って行った。一行の中にはただ二郎の妻の姿だけが見られなかった。彼女は蕃装して敵地に潜入してきた石川巡査の手によってその前日、逮捕されてしまったのである。
 いよいよ、自害しようとする直前、二郎は少時まってくれるように頼んだ。傍らに落ちている木片をひろうと、彼はそれに用意の筆で大きく書いたのである。
われ等もこの世を去らねばならぬ。木材を蕃人に無理にかつがせてこんなことになったのは残念です。
花岡二郎
 二郎はその遺書を傍らの大きな樹の幹に結びつけた。一郎は黙ってそれを眺めていた。
 瓦斯銘仙ガスめいせん単衣ひとえを着、白鉢巻を頭に巻いていた一郎は、刃渡り一尺五寸の日本刀で、先ず子供の首をはねた。続いて自ら割腹して、果てた。死出を飾るためにこれも同じように日本服をまとっていた妻は、夫との間に子供をさしはさんで寝かすと、夫に前後して見事に咽喉のどをついて自害した。
 梅鉢紋付の羽織を着ていた二郎及びその他の一族はすべて傍らの樹枝で縊死を遂げた。二郎は死の道づれに妻の姿が無いことだけが心残りであった。
 これらの屍体は十一月八日付近探索中の蕃地警察官によって発見された。ただちに二郎の妻が現場に伴われた。妻は森林中に脚を踏み入れるなり、目をおおって号泣した。一郎二郎の屍体であることは確認されたのである。
 討伐隊は彼らの屍体を前にして、暗澹とした面もちでつぶやいた。
「あれだけ可愛がったのに……。結局は蕃人であった。自分たちと行を共にすることをしなかった」
 しかし、他の者はそれをさえぎるように答えた。
「けれども、一郎が割腹して果てたのは、なんといっても教育の賜ではないか」
 いったい蕃人の自殺といえば、すべて以前は縊死によるものばかりであった。切腹の形式をとったのは蕃地では花岡一郎が最初だったのである。
 マヘボ付近の大岩窟中に潜入した兇蕃たちは時折り警備線を突破しては討伐隊と小競こぜりあいを演じていた。隊を悩ますところ少くなかったが、しかし、彼ら自身の被害はさらに大きかった。戦闘員は次第に減少してくるのである。また、連続的な攻撃によって、さしもの岩窟もしだいに粉砕されてき始めた。戦況を有利に展開する希望は全くなくなってしまった。山地の季節ではもう冬に入っている十一月の十六日、首領のモーナルーダオは自分の膝近くに壮丁たちを集めた。頭領として一方の指揮を任じてきたタダオノウカンを始め、ヒポサツポ、ヒポアリス、タイモポホツク等はすべて既に或いは弾丸に倒れ、或いは逮捕されてしまっており、一座に残っているのはそれと数へ得る人数の若ものたちばかりである。モーナルーダオは沈痛な語調で言った。
「みんなが知っているように、弾丸も食料ももう明日を支える分も残っていない。覚悟はついていると思うが、いよいよ最後の決心をしてもらう時がきた」
 一座には誰も答えるものもなかった。しかし、間もなく彼らは期せずしてうち揃い、すぐ傍らの山林のなかに入って行った。言いあわしたように縊死を遂げたのである。
 輩下の若者たちが自尽じじんしたのを見とどけると、モーナルーダオは一族十六名を引きつれて自分の耕作小舎へ帰って行った。家族のなかで姿を見せないのは、次男のタダオモウナオと、娘のホンモウナオとの二人だけである。
「タダオは元気のいい奴だから放っておいても大丈夫にちがいないが、ホンは女だから……」
 永い闘いに憔悴しょうすいしきった顔にいっそうの苦悩の色をみせながらルーダオは径々みちみちつぶやいていた。耕作小舎に辿りつくと、ルーダオは妻と十四になる娘とだけを伴って中に入った。つづいて小舎に火をはなち、二人の屍体を焼いた。
 小舎が燃えきってしまうと、ルーダオは他の十四名に最後の訣別を述べた。
「お前たちも自分ことは覚悟の通り始末をつけて貰いたい。俺はここを去って、蕃人も、内地人も、本島人も知らないところへ行って死ぬ」
 飄然と去ってゆく頭目の後ろ姿を一族の誰もが言葉もなく見送っていたが、それが山蔭に消えさってしまった時、一同は言いあわしたように傍らに縊死の支度にとりかかった。
 頭目モーナルーダオはその後ようとして行方がわからなかったが、事件が終ったのち、ようやく三年目、その屍体はミイラになって付近の山林のなかに見出された。

 ルーダオの次男タダオモウナオは、岩窟が陥落したのちも、常に手兵少数をひきいて警備線に出没し、討伐隊を悩ましつづけていた。忽ち現れたかと思うと忽ち消え、どうしても捕えることができないのである。同じい状態は十一月いっぱいつづいた。
 しかし、これより先討伐隊では彼の妹ホンモウナオを逮捕することができた。隊では彼女を懐柔して兄を探させることになった。十二月七日ホンモウナオはマヘボ付近にある森林中でようやく兄に会うことができた。タダオは妹の姿を見つけた時、喜びの表情を顔いっぱいに現わしたが、彼女が捕われの身であることを告げると、それには黙って、頭で頷いたばかりであった。そして、静かな落ちついた口調で言った。
「あした、討伐隊に頼んで米と酒とを貰ってきてくれ……」
 ホンモウナオが兄の伝言をもたらした時、討伐隊は色めきたった。勇躍して直ちに攻撃の準備を整えた。
 首脳部はそれを押えて言った。
「敵に食料を請うのは、蕃人の常として降服を意味するものである。しばらく彼らのするところを静観するよう――」
 翌日ホンモウナオは討伐隊に手交された酒と米とをもって、兄のもとへと行った。タダオモウナオはそれを受けると、謎のような遺言を与えて妹をその場から去らせた。
「俺の土地も、牛もみんなお前にやる。俺は下の社から、上の社へ行ってしまう。お前はいつまでもこの土地で仕合せに達者に暮してゆくように……さあ早く内地人のところへ帰れ」
 妹の姿が紅葉した大樹の蔭に消えてしまうと、タダオモウナオは林中に飼っていた鶏を従者にほふらせた。それからくすの太い幹の蔭になった柔かい雑草の上に従者六名とともに円座をつくって坐った。一同はそこで鶏と米とをさかなに、酒を汲みかわした。死の前の酒宴は二時間余りもつづいた。最後にタダオモウナオは円座の中央に進みで、自分より先に死んでしまった妻と長子との名を呼び、即興の詩を高らかにして、舞をまった。

最愛の妻ワリスパパンよ
酒をつくってまっておれ
間もなく自分もなんじのもとへ行く

最愛の息子ワリスタダオよ
酒を汲んでまっておれ
間もなく自分も汝のもとへ行く

 翌々十日、討伐隊では再び妹を山林に派して、兄の様子を見させた。その時既にタダオモウナオは従者とともに縊死を遂げていた。
 タダオモウナオの自尽を最後として、蕃人の騒ぎは一応はかたづいた。討伐隊は辺り一帯の岩窟や、森林など、全区域にわたって捜索し、冬も深い十二月十日ようやく下山することができた。闘いの跡を点検するために知事水越幸一もまた隊の先頭にたって全山を探索したが、深林のなかの蕃婦や子供らの縊死体を眺めた時、思わず悲哀な感動に打たれた。
 彼らの大部分は死出を飾るために殆んどすべて内地人の着物を着ていたが、それらは撫育するために水越知事自身がすぐ前、同じ年の春トラックに積んで贈ったものだったからである。
 ミイラになったモーナルーダオの屍体は、その後、台北帝国大学文政学部土俗学教室の一隅に収められた。粗末な木づくりの寝棺のなかに、その巨きな体はよこたえられていたが、一般の観覧も容易である。





底本:「〈外地〉の日本語文学選1 南方・南洋/台湾」新宿書房
   1996(平成8)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「中村地平全集 第二巻」皆美社
   1971(昭和46)年4月7日
初出:「文学界」
   1939(昭和14)年12月号
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:日根敏晶
校正:良本典代
2017年1月12日作成
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