三十六年前

森下雨村




「二銭銅貨」が世に出たのが大正十二年、ついこの間のような気がするが、正しく三十六年の昔である。いま、「宝石」を中心に活躍している作家諸君の大半が、おそらく産声をあげたか、まだやっと這い這いをしていたころであろう。それから今日まで、戦争騒ぎでそこばくの蟄居時代はあったにしても、探偵小説への情熱をもちつづけて、海外ものの研究に、新人の育成に、倦くなき努力をつづけてきた江戸川君の労は、まったく多としなければならない。
 還暦を祝うということは、昔とちがって、日本人の平均年令がぐっと上昇したといわれる今日では、旧慣にしたがうだけで大した意味もないと思うが、江戸川君の場合は、そこに大いに意味あっての祝賀であり、その労を多とし、なお一層の健在と健康を期待するという意味を多分にふくめて、双手をあげて乾杯してよろしいであろう。

       ○

「二銭銅貨」が新青年に発表せられた当時の思い出話は、一度ならず筆にも口にもしたことでもあるが、若い人たちには耳新しい読者もあろうし、それに古い読者にもあの当時の雑誌編集の内幕話は、いくらか興味もあろうかと、いま一度、あのころのことをふり返ってみる。
 その当時――大正初期から十二年ごろの博文館は、表看板の「太陽」ほか、八種ほどの雑誌を発行して、押しも押されもせぬ日本の雑誌王国であった。やがて、それにとって代った野間さんの講談社が、新しい営業編集方針で必死の努力をつづけてはいたが、雑誌の数からいっても、売行きからしても、まだまだ博文館時代といって不都合はなかったころである。
 日本橋本石町にあったその雑誌王国の編集部の一員となって、「新青年」を創刊したのが大正九年。わずか一〇〇頁そこそこだったとは思うが、その編集にあたったのは自分と助手の相原藤也君の二人きりだった。「新青年」ばかりではなく、「太陽」だけは三人かかっていたが、ほかの雑誌は「中学世界」にしろ、「文章世界」にしろみんな編集員は二人で、「文芸倶楽部」と「講談雑誌」は森暁紅君と生田蝶介君がそれぞれ一人でやっていたし、「淑女画報」も須藤鐘一君が写真部員一人を相手に手にあまる記事と写真を整理編集していたものである。
 あれで、よくも毎月の雑誌ができたものだと思うことであるが、雑誌にかぎらず、万事がやり方一つで、どうにかお茶はにごせるものである。それに他に大した競争雑誌はなく、寄稿家は型にはまった常連ときているので、足でとる原稿はほとんどなく、電話と手紙でたいてい用は足りた、というよりも娯楽雑誌などは常連の持込み原稿で結構間にあった時代である。
 いまでも忘れられないことがある。欧州第一次大戦の幕が閉じた時、「太陽」で大戦記念の臨時増刊を出すことになり、ぼくに戦争勃発から終戦までの概要を一〇〇枚くらいでまとめてくれと、編集長の浅田江村氏から押しつけられた。つまり編集の手不足から無理矢理の押しつけである。ぜひなく引きうけたものの、終戦早々でまとまった材料がない。そこで文部省の大戦資料調査局へ出かけて頭を下げたわけである。すると、調査局の係員が雑誌の編集はいったいどれだけの人員でやっているかと聞くので、二、三人だと答えると、おったまげた顔をして、われわれは年四冊の資料調査報告書を出すのに、十二人の編集員で転手古舞いをしている。君たちはいったい毎月の雑誌を二人や三人で、どんなにしてこしらえているかと呑気にとられていたものだ。生真面目なそのころのお役所の編纂員には、われわれは手品師のように思えたかもしれないが、今日の編集者から見れば、嘘のような話とうけとられるだろう。
 どうして、こんな古い内輪話をするかといえば、それが「二銭銅貨」がぼくのひき出しに、しばらく日の目も見ずに押しこめられていたことの次第の説明になるからである。相原君とたった二人で、毎日転手古舞いをやっている。依頼原稿は首を長くして待ちわびているが、投書や懸賞応募の原稿などには目をくれる暇はない。机の上に山積するそうした原稿は、片っぱしから整理函のなかに、あるいは机のひき出しに投げこんで、一応仕事が片づくまでは打棄てておくしかない。
 江戸川君から一度催促の手紙がきた時にも、それが創作であるとは承知しながら、読まない先から、どうせ大したものではあるまいと高をくくって、それでも一応拝見の上、適当な雑誌に紹介すると返事だけは出した。当時、博文館に「新趣味」という怪奇探偵趣味をねらった雑誌があり、それもいささか「新青年」を追随した傾向のいき方で、創作ものものせていたので、なんだったらその方へ紹介しようという肚だったと思う。というのも、自分の方は純然たる探偵小説、それも創作方面にはまだまだ望みがないから、海外作品の紹介で突きすすんでいこうという方針だったからで、いわば「新趣味」よりは一段お高くとまっていたわけである。
 すると折返して作者から、読んで海外作品と伍して遜色がないと思うなら、「新青年」へのせてほしい。他の雑誌へはご免だ、と相当手ごわい、自信たっぷりの手紙がとどいた。
 机の中から、封もきらない原稿がとり出された。「二銭銅貨」と「一枚の切符」がそれであった。筆者は江戸川乱歩、アラン・ポーをもじったものであることはいうまでもない。早速、目をとおしたぼくの驚きも諸君の想像にまかせる。
 これが日本人の創作だろうか。日本にもこんな作家がいるであろうか。ただただ驚嘆の目を見はるばかり、内心では、なにか外国の作品にヒントを得たものではあるまいかという懸念もうかんだほどの驚きであった。
 新しい彗星発見の慶びをわかちたい気持は、そのまま名古屋の小酒井不木博士に速達となって原稿が廻送された。小酒井君からも慶びにみちた折紙附の返事があったことはいうまでもない。まるでドストイェフスキーの処女作がヴェリンスキーに発見されたと同じような話である。
 小酒井君は「新青年」のもっとも有力な支持者であった。十五巻の不木全集に知られるとおり、博識多才、病いを養いつつも、専門の研究をつづけ、その余力を探偵文学と犯罪科学の研究にそそぎ、「新青年」の発展に寄与するところ多かったことは、今更書き記すまでもあるまい。
 一度、西下の途中、名古屋に小酒井君を訪ねて半日を過した時、なにかのはずみでお互いの年を名乗りあった。すると、ぼくと同年小酒井君は十月生れ、ぼくは二月生れで、ぼくのほうがそれだけ兄貴だと笑ったことがある。すると今年還暦の江戸川君は両人よりも三つほどの弟分である。それはとにかく、その小酒井君は昭和四年の四月、急性肺炎で忽然として逝った。いま、もし生きていたら、メインテーブル、江戸川君の正面に立って、心からの祝杯をあげたであろうにと思うことである。
 書きたいことは、いろいろあるが、颱風騒ぎで、屋根や塀は吹っとばされ、後始末に追われ、机にじっくり向う気持になれません。尻切れとんぼの感じです。お間にあえば幸甚。
『別冊宝石』(四十二号)昭和二十九年十一月





底本:「江戸川乱歩 日本探偵小説事典」河出書房新社
   1996(平成8)年10月25日初版発行
初出:「別冊宝石 四十二号」岩谷書店
   1954(昭和29)年11月10日
入力:sogo
校正:大久保ゆう
2016年1月1日作成
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