朝に想い、夜に省みる

MORNING AND EVENING THOUGHTS

ジェイムズ・アレン James Allen

リリー・L・アレン編 Lily L. Allen

大久保ゆう訳




己に打ち勝て
 さすればわかる
高みを目指せ
 自信を持つこと
最後に救われ
報われるのは
過ち悲しみ涙痛みに
生き抜いた者だ
ジェイムズ・アレン
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まえがき


 本書『朝に想い、夜に省みる』へ選り抜くため、ジェイムズ・アレンの全著作を通読しているうち、私は、その1ページ1ページに真実味があると繰り返し何度も感じたものだった。誰もわからずとも、ほかならぬ私だけはこの作家のことを知っている。これまで長年、あらゆる姿の彼を見てきたのだ――仕事の時も余暇の時も、喜びの日も悲しみの日も、日だまりの中でも雲の中でも――だからこそ私はわかる、本書の文章が脳の空回りの産物でもなければ、他の本の孫引きでも寄せ集めでもない、自分の心に根ざした、しかるべき実感実体験があってのちに書かれたものなのだと。なればこそ、必ずやその言葉が使命を果たすはずと、このささやかな本をここに送り出そう――実体験に基づくからこそ心に迫るものがあるのだとして。毎日の瞑想に本書を用いれば、きっとその力を実感できるだろうし、幸せをその手につかめるはずである。それもやはり、本書がある人間の実体験から生まれたものであるからだ。
リリー・L・アレン
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1日 朝


 幸せな人生のためにまず何をすればいいのか、ひとつには、普通に考えて当たり前のこと、誰しもがみな毎日やっていることをすればいい――つまり、その日の生活をしっかり始めることだ。ある意味では、毎日が新しい人生の始まりだとも考えられるし、そうすれば新たな気持ちで物を考えたり動いたり生きたりできるし、普段以上に元気で頭が働くかもしれない。すがすがしく朝支度ができれば、正しく一日を始められ、これが結果として気持ちよく、その日の課題や職務も自信たっぷりに取り組めるし、ひいてはその日一日が生き甲斐のあるものとなるだろう。
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1日 夜


 何かを引き替えにしなければ、物事は進まないし、成し遂げることもできない。人が社会で成功できるかどうかは、獣じみた見境のない物の考え方をどれだけ捨てられるか、腰を落ち着けて自分の目指すところにどれだけ邁進できるか、やる気や自信をどれだけ強く持てるかで決まる。意識を高く持てば、勇気も出て正直にもなるし、正しい行いもできるようになり、さらにはその成功も大きなものになって、そうなれば成し遂げたことも人に認められ、後世に残るようなものにもなるだろう。
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2日 朝


 考えが正しければ、その振る舞いも必ず正しくなる。行動が正しければ、生活も正しくなる。人生が正しければ、そこで必ず幸せになる。

心とは、人生を形作る力の大元である。
人とは心そのものであり、たえず思考を
道具として、自分の望むものを作りながら、
多くの幸せと多くの不幸せを生み出すのだ。
ひそかに考えても、その物事は現実となる。
つまりは身の回りも己の写し鏡にすぎない。
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2日 夜


 穏やかな心とは、知恵のたまものだ。自分自身とは心が作るものであるとしっかり理解すれば、その分だけ穏やかにもなれる。正しい理解を持つに至り、物事の背景にあるこの因果の関係を深く悟れば悟るほど、人はぷりぷり起こったり、悩んだり嘆いたりしないようになり、落ち着いて穏やかな気持ちで地に足を着けるのである。
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3日 朝


 どんな境遇にあっても、いちばんすべきと思うことに忠実であれ。常に、己の正義に従え。自分の内なる声、内なる光を信じなさい。ひるまず落ち着いた心で自分の目標を追いかけよ。考えたり頑張ったりすることが必要だが、必ず未来がそれに報いてくれると信じ、宇宙のルールがいつも間違わないとわかってさえいれば、あなたがやったことはきっかりあなたのところに戻ってくる――これを信じて生きるのがよい。
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3日 夜


 己の仕事をとことん理解し、自分のものとすべし。そして内なる導きに、誤りない声に従って進んでゆけば、次々と勝利の道を歩み続け、死後の世界でも着実に位を上げていけるだろうし、どこまでも広がる前途が、人生の本当の美と目的を少しずつ明らかにしていくだろう。自分の身を清めれば、健康も己のものとなり、自分の心を制すれば、力も己のものとなり、やることはみなうまくいく。

つかのまの人生のあいだ、愛をもって
じっと堪えれば、私も健康や成功・力を
ゆくゆくは手にできるのかもしれない。
心を汚さぬままでいろ、道を踏み外さず
誠実でいろ、そうすれば私もついには
不滅の地を目にすることができよう。
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4日 朝


 舌をうまく操る、舌を賢く使いこなす、衝動的なわがままや下司の勘ぐりからなる軽はずみな発言をついしそうになる舌も押さえつける、他意のない素直できっぱりした物言いを紳士的に品よく行う、しゃべる時には必ず誠実に本当のことを言う――この5つのステップを踏めば品行方正な発言ができる上、以下の次善の教訓も身につけられる。

汝、魂を清くせよ、さすればその人生も
豊かで気持ちよく美しいものになるだろう。
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4日 夜


 謙虚になりたいのなら、まず人はおのれに以下のことを問わねばならない。
「自分は他人へ、どういう態度を取っているか。」
「他人に対して、何かできているのか。」
「他人のことを、何だと思っているのか。」
「他人のことを考え動くときに、思いやりの心があるか。」
 こういった鋭い問いを、落ち着いて自分に投げかけてみると、これまでの自分がどこで間違っていたかは、ちゃんとわかるはずである。
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5日 朝


 いつも、どんなものに対しても、じっと愛を傾けてみよう、そうすれば、本当の人生を生きることが、この世の現実を手にすることができる。このことをわかっている善き人間は、愛の聖霊にまっすぐ身を捧げるし、どんなものにも愛を向ける、誰とも争わず、誰もけなさず、あらゆるものを愛しながら。
 愛の聖霊は、あらゆる罪のみならず、どんな分け隔て・闘争をも終わらせる存在である。
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5日 夜


 罪と我欲を捨てれば、心は不滅の喜びを取り戻す。
 喜びとは、私利私欲のない心に訪れ満たすもの。心安らかな人とともにあるもので、その力も心澄んだ人とともにある。
 喜びとは、わがままな人からは逃げ、短気な人を見捨て、心濁った人には見えないものである。
 喜びが、利己的な人のものになることはない。愛と結びつくものだからである。
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6日 朝


 澄んだ心のなかには、偏見や恨み辛みが居着けるような場所はどこにもない。そこには思いやりや愛情があふれており、悪意が見えないからだ。他人への悪意を感じなくなるだけで、人というものは罪や悲しみ苦しみから解放されるだろう。

 わかりさえすればいい、
罪を犯したら心が悲しむということ、
心が憎しみにかられたところで翌日
空腹で不眠のまま心乱れ泣きながら
不毛なものしか得られないことを。
さすれば人は優しくなれるはずだ
哀れみの目で物事を見れるはずだ、
 わかってさえいれば。
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6日 夜


 本当のことと向き合ってみれば、延々さすらって苦しむことになるが、そのあとには知恵と幸せが手に入る、敗北や追放で終わったりすることはない、自分の内なる敵には最後に勝てるものなのだ――これこそ神の決めた人のさだめ、これこそ誉れあるゴールである。このことは、これまでの偉人聖人が証明している。
 泣き言や愚痴をこぼすのをやめ、自分の人生を左右する隠れた道理を求め始めること、これが人が人であるための第一条件だ。人生のルールに自分の考え方を寄り添わせていけば、今の自分の言い訳として他人を責め立てることもなくなり、気高くも強い心で自分を高められる。そうすれば巡り合わせに腹を立てることもなくなり、逆境をバネにもっともっと先へと進み、むしろ自分に秘められた力や可能性を見つけ出すこともできよう。
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7日 朝


悪への意志、善への意志、どちらも
汝のうちにあるが、いずれを選ぶか?
汝、善悪なるもの、よく知り得る者、
いずれを愛し育み、いずれを滅すか?

汝の考え・行いは、汝が決めること。
心のあり様は、汝自身が作り得るぞ。
なりたいものになる力もまた汝の物。
真や愛、嘘恨み、汝いずれも成せる。
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7日 夜


 道徳が人の心に伝えているのは、正しい行いとは個人の行動次第なのであって、人の考え振る舞うところからかけ離れたよくわからないものではけしてない、というわかりやすい真理なのである。
 気を鎮めて耐えることは、あとから習慣づけられるものだ。まずは頑張って、落ち着いた我慢強い物の考え方をつかむ、そのあと絶えずそれを意識して、「習与性成」、短期や怒気がすっかりなくなるまで、その考え方で普段を過ごしていけば、できるようになる。
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8日 朝


 人は変わるも変わらないも自分次第だ。思考とは武器庫であり、そのなかでは自傷する凶器を造ったり、また喜び・自信・落ち着きといった幸せな住まいを自力で築ける道具をこしらえたりもできる。正しい考え方でちゃんと考えれば、人は高次の境地へと至れる。逆に、誤った考え方で間違って考えると、人は卑しい獣以下へと成り下がる。この両極端のあいだには、存在の鎖という徳の位階があるが、人はそのいずれにもなりうる存在なのだ。
 力・知・愛の化身として、そして己の思考の主として、あらゆる位階への鍵を有しているのだ。
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8日 夜


 心の奥底に隠していようとも、いずれはどんな思いも、反作用という避けられない法則によって、はっきり形となって現実世界に現れる。
 いかなる魂も、その中身通りのものだ。中身と異なる魂にはどうあってもなれない。このことがわかれば、もう普遍的な神の掟をわかったも同然である。

 汝が世界を正したいと思うなら
その悪意・災いをみな打ち払いたいのなら
 世界じゅうの荒れ地に花を咲かせよ
わびしい荒野をバラの花園とせよ――
 そのあとでおのれを正すことだ。
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9日 朝


 あなたの人生をつらくしているのがどんな苦境でも、自分のなかにある自浄と克己の力を養い用いることで、その境遇から脱して乗り越えることができる。
 澄んだ心の神々しい輝きの前では、すべての闇は消え去り、あらゆる雲が溶け去る。自らを制する者が宇宙を制するのだ。
 自分に打ち勝つ術をしっかり身につけ、信じることを支えに滅私の道を進み行く者は、最高の繁栄を手にし、いつまでもありあまるほどの喜びと幸せを得ること間違いなしである。
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9日 夜


 物言わぬ思いの力こそ、困難を乗り越えさせ、あらゆる物事を実現に至らせる。考えることから森羅万象が生じるのだ。
 善という至高全能なるものをゆるぎなく信じることができる、そんな方向へと思いをすべて傾けられたなら、その善と手をつなぎ、おのれのなかにあるあらゆる邪なものを断ち切り破ることも実現できる。
 ただし、悪意を心のなかで拒むだけでは不十分である。日々精進し、悪を乗り越え、理解しなければならない。また善も心のなかで良しとするだけでは十分でない。たゆまぬ努力によって、善を我が物とし、悟らねばならぬ。
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10日 朝


 心でなした思考とはみな、人に与えられた力である。
 人生のどの局面にあるにせよ、とにかく成功・利便や勢いのきっかけをつかむためにはまず、沈着冷静さを養って思念の力の高め方を身につけねばならない。
 おだやかに思念を一つにすれば、大変なものはあっても困難なことはない。正当な目的であればどんなことでも、筋を通して精神力を用いることで、必ず速やかに実現されよう。
 心で思うのはよいことだけにせよ、そうすればその思いは現実世界でもよい形で実現するだろう。
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10日 夜


 あなたは、なりたかったもの、これからなりたいと思うものに、もうなっているのかもしれない。いつまでもまだまだと言っていると、できるものもできあがらない。後回しにする力があるのなら、やり遂げる力もあるのだ――ねばり強くやり遂げる力が。この真理を悟りなさい、そうすれば今日にでも、毎日でも、自分の夢見た理想の存在に絶対なれる。
 自分に言い聞かせよ、「今の自分は理想通りに生きたい。自分の理想を今はっきり示したい。理想そのもので今はありたい。理想から遠ざけようとする誘惑には何にも耳を傾けたくない。おのれの理想の声だけを聞きたいものだ。」
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11日 朝


花のようであれ、自らすすんで
日々甘美なものになってゆけ。

 もし汝が知識を極めたいのなら、愛を極めよ。高みに至りたいのなら、慈愛と思いやりの心を絶えず磨くようにせよ。
 すべてを擲ってでも善を選ぶという者には、そのすべてを含むばかりかそれ以上のものが返ってくるのだ。
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11日 夜


 この大原則は、どんな人からも、しかるべく受け取るものをだまし取ったりはしない。
 人生が正しく送られれば、それは美しいほど純粋なものになる。
 至純の人生を理解し、その原則に従い、我欲という暗路・大迷宮へと足を踏み外さぬ者ならば、害の及ばぬところにも立てる。
 そこには有り余るほど多くの喜びに満ちており、まったくの幸せがあふれているのだ。
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12日 朝


 人間はみな、おのれの考え・行いの報いを受け、おのれの過ちに苦しむものである。
 正しく始め、正しくあり続けているのなら、幸せが返ってくることを、わざわざ望んだり求めたりしなくともよい。すぐそばにある、自然とついてくるのだ。これこそ世の必然、現実なのである。
 強欲・憎悪・邪気を心に寄せ付けぬ者は、死後も安らかで至福である。
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12日 夜


 おのれの影を作るのは自分だ。欲を出せば深く悩み、欲を拒めば喜びが訪れる。
 魂の摂理のなかでも……何よりも喜ばしく、契約した神の頼もしさを感じさせるのは――人が、自分の思考を操り、人格を作り、ましては品性・世間・運命をも形作ることができる存在であるということだ。
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13日 朝


 闇とは過ぎ行く影であり、光はその場にとどまる実体である。ゆえに、悲しみはつかのま、喜びは永遠のもの。正しいものは、消えたりなくなったりはしない。間違ったものは、残ったり長続きしたりしない。悲しみとは誤り、やはり残ることはない。喜びは正しく、滅びることはない。喜びも一時は隠れることがあっても、必ず戻ってくる。悲しみも一時的にとどまることはあれ、いつかは乗り越えられ、晴れるものだ。
 悲しみが続くものだとは思わないことだ。雲のようにいつかは消える。罪の苦しみも、あなただけのものだと思いこまないことだ。悪夢のようにいつかは覚める。目覚めよ! 起きよ! 清く生きて喜びをつかめ。
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13日 夜


 すりつぶされるような苦しみがいつまでも続くのは、取り除かれるべき我欲という殻が何かしら残っているからだ。脱穀機も、穀物から籾殻を取り除けばその動きを止める。魂から不純物をとことん取り払えたなら、心も自分をこするのをやめ、脱穀する必要もなくなる。そうすればあとは喜びがいつまでも訪れる。
 苦しみを逆手にとって、いっそ無駄な不純物をみなすっきり出し切ってしまうのが、いちばんいい。人は心が澄めば苦しみもやむ。滓を取り除いたあとの金の粒は、さすがに捨てない方がいいだろう。
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14日 朝


 自制については、誤解されやすい。自制とは、何が何でも内側に抑えつけるのではなく、悪いものを押さえて良いものを外に出していく、そうあるべきだ。
 自分を押さえると、その分だけ幸せで賢い人間となり、高次へとゆける。一方で、獣じみた本能に考え・行いを任せてしまうと、その分だけ不幸で愚かな人間となり、下位へ落ちる。
 自分を制する者は、おのれの人生・境遇・運命までも制する。どこへ行くにも、幸せを肌身離さずいつでも宝として持ち運べるのだ。
 自制すれば、生まれ変わることができる。
 値打ちのない快楽に溺れ熱くなり身を委ねることで、永遠の幸せを求めようものなら、結局目にするのは、まったく逆の人生になるだろう――自制に生きた場合とは。
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14日 夜


 万物を支配する原則とは、乱ではなく理である。現世の核心・本質とは、外道でなく道である。世界という心の府を形作る原動力とは、悖ではなく義である。なればこそ、せめておのれを正せば、万物もまた正しいことが知れる。

 清くあれば
現世という謎も解けたことだろう。
 自信があるのも
恨・欲・諍を己の心から遠ざけ、
己を誠に置き、誠が己にあるゆえ。
屈託ない健やか晴れやかな心になれようぞ、
 清くあれば。
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15日 朝


 わかりさえすればいい、
人の恨み辛みなんてものは、その
心の平穏や安らぎといったものを殺し、
自分を傷つけ、他人を助けもせず、
ひとりの同胞も励まさないのだと。
そうすれば、後悔のないよう、
ましな善行もやろうとするものだ、
 わかってさえいれば。

 わかりさえすればいい、
愛とは勝つもので、愛の力は
憎悪をも圧倒するということ、
思いやりが悲しみを終わらせ、
知恵をなし、受難も痛くない
とわかれば、いつまでも愛に
生き、何者も憎まなくなろう、
 わかってさえいれば。
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15日 夜


 偉人・聖人にある優れた点とは、人にとっては価値のないもの――人には理解できないもの――である、少なくとも自分になければ。また実践しない限り身に付くものでもない。実践から離れては、善を形作るどんな美点も、気づける範囲に現れてはこない。その美点から偉人・聖人をあがめたところで、真理への道のりはまだまだ遠いが、良いところを実行に移せば、それこそ真理そのもの。他者の完全性をしっかりとあがめる者は、自分の不完全性に甘んじることはないし、その他人そっくりに自分の魂を変えていくだろう。
 ゆえに偉人・聖人をその善性からあがめる汝は、自らもその善性を実行せよ。さすれば汝もまた善に近づく。
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16日 朝


 現実とはすべて心から生じることを認識しよう、そうすればほら、幸せの道が開けている! なぜなら、心とは整え方次第で理想通りになる、そういう力を人が持っていると、そのときに気づくからだ。そうして、すばらしい思いと行いの道をしっかり力強く歩むと心に決める。そういう者には、現世は美しくも清らかなものになるだろう。そして早晩、あらゆる悪・乱・苦を追い払うことになる。なぜなら、たゆまぬ努力で心の入り口を守れば、必ずや人の心は解き放たれ、悟りにいたり、安らかなものとなるからだ。
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16日 夜


 たえずおのれを制することで、人は心の機微の知識を得る。この神の知識こそが人を穏やかにさせるのである。自らを知ることなしには、心は平穏に保てないし、嵐のような感情に押し流される輩は、静謐なる聖域には近づけない。弱き者とは、暴れ馬にまたがるもそのまま暴走させてどこへでも好きなところに行かせてしまう者のごとくだ。一方で強き者とは、暴れ馬にまたがれば巧みな手さばきで操るままどちらへもどんな速度でも走らせられる者のごとくである。
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17日 朝


 天国には争いもわがままもなく、ただまったくの調和と均衡・安らぎだけがある。
 愛の国に住まう人々は、愛の掟によって必要なものをみな授かる。
 我欲があらゆる争いと苦しみの根源であるのと同様、愛はあらゆる平安・幸福の根源である。
 天国で安らかに眠る者は、現実世界の幸せを求めずともよい。もはやあらゆる不安・苦悩と無縁であり、愛に包まれ安らかなれば、自分が幸せそのものとなるからだ。
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17日 夜


 天国の子らが楽に怠けて生きているなどとは思ってはならぬ(このふたつの罪業は、天国へ行きたいと思うならまず断ち切らねばならぬものである)。天国に行った人々は、穏やかに活き活きと生きており、つまりは正しく生きているのだ。なぜなら、不安がり悲しみ恐れてばかりでただ自分のためだけに生きる、そんなものは本当の人生ではないからだ。
 天国へ行く人たちというのは、その生き方でわかる。その精神の成熟ぶりがはっきりしている――「愛、喜び、落ち着き、忍従、思いやり、善、誠実、温和、節度、自制」――境遇が、世の移り変わりがどうあろうとも。
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18日 朝


 偉人・聖人の名言集・行動録とは、生き方・行いについての手本である。そうでなければ、わざわざ永遠の真実を伝えたりはしない。真実のやしろとは、清き行いのこと、そこへ至る扉とは、自分を捨てることである。そうすれば自然と人の罪は払われ、結果として、喜び・幸せ・まったくの平穏が約束される。
 天国とは、信仰・知識・平和の極みにある……いかなる罪もそこへは立ち入れず、自分本位な考え・行いもその黄金の門をくぐることはできない。不純な欲も、その光の衣を汚すことあたわずして……望みさえすれば誰でも入れるが、その代償を支払うのが決まりである――我欲を完全に捨て去ることだ。
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18日 夜


 言わせてもらう――間違いのない真実を――されるがままにしているからこそ、境遇に左右されるのだ。境遇に振り回されるのは、思いの本質・使い方・力を正しく知らないからだ。現世のものが、自分の人生を作りもすれば損ないもするなどと思い込むことをやめよ(この「思い込む」というささいな言葉に喜び悲しみすべてを託して)。そんなことをしては、現世のものに屈し、自分が奴隷であり、向こうが絶対的主だと告白するようなものだ。そうすれば、向こうに本来なかった力を与えてしまう。とどのつまり本当は境遇に負けているのではない。一喜一憂、期待に不安、強弱といった、外界に対する心の反応に折れているだけなのだ。
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19日 朝


 もし死後の世界でのさらなる幸せを祈り求めるのなら、そんなあなたに朗報である――大丈夫、あなたはもうその幸せな世界の一員であること間違いなし。天国とは全宇宙に満ちている、あなたの心のなかにもあって、あなたが気づき認め知るのを待っている。存在の内なる法を知るある者がこう言った――「人々『見よ彼処に、見よ此処に』と言わん、されど往くな従うな。神の国は汝らの中に在るなり。(ルカ 17:21-23)」
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19日 夜


 天国・地獄とは心のあり方である。私利私欲や自己満足に溺れれば、地獄に堕ちる。我欲を越えて自分を完全に捨てきることができれば、天国入りできる。
 自分自身の幸せを利己的に求め続ける限り、そのあいだ幸せは逃げて行き、惨めさの種をまくことになる。うまく他人への奉仕に没頭できれば、その分だけ幸せが訪れ、至福の実りを刈り取ることができるだろう。
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20日 朝


 人に与えられたシンパシー(気持ちを同じにする力)は、けして無駄にはならない。
 シンパシーには、同情という性質がある――打ちひしがれた人々、悩み苦しむ人々への哀れみとして、その苦しみにある人々を癒したり助けたりしたいと思う。世界はこの美徳をもっと必要としている。

 なぜなら哀れみは世界を
弱き人には優しく、強く人には尊くする。

 またシンパシーには、共感という形もある――たとえ自分たち以上に成功していても、その成功を自分のことのように、その当人とともに喜ぶのだ。
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20日 夜


 社交・娯楽といった目に見える快楽は気持ちいいものであるが、移り変わり消えるものだ。しかしそれ以上に心地いいのが純潔・英知・道徳、こちらはけして変わらず色あせることもない。
 悟りの境地に至った者は、手にした幸せの源を以後失うことはない。幸せと切れない縁を結んだも同然で、全世界どこへ行こうとも、肌身離さず持ち運べる。悟りの末には、喜びが満ちているのだ。
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21日 朝


 どこまでも大きな愛で、心を育み広げなさい。そうすればついには、あらゆる憎悪・情念・非難にとらわれず、全宇宙をまったくの優しさで受け入れることができる。花が朝の光を受け止めようと花びらを開くように、真理という神々しい光に魂をもっともっと開くのだ。大志という翼で舞い上がれ。恐れずに、将来性は無限であると信じるのだ。
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21日 夜


 心は、心自身が作った衣をまとっている。
 心とは、人生を定めるもの。今の自分を形作るものであり、その結果を受け取るものでもある。そのなかには、幻を作る力があれば、現実を受け止める力もある。
 心とは、運命を正確無比に織りなすものである。思いがその糸で、善行悪行が縦糸横糸、そして人生という機織り機で織られた布こそ人格である

汝心を澄ませよ、そうすれば汝の心は
豊かで素敵で美しく、不和にも無傷となる。
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22日 朝


 おのれの未来像を大切にせよ。理想を育め。心にわきあがる調べ、心に生じる美、至純の思いが表に現れて魅力を養うのだ。なぜなら、好ましい状況や幸せな環境というものはみな、そこから生じるからだ。この点、しっかり未来・理想などを守ってゆけば、自分の世界もついには完成するだろう。

おのれの心をよく慎め、さすれば貴く強く自由に
なった汝は、何にも傷つき乱れ屈することがない。
なぜならば、汝の敵とはみな汝の心のなかにある、
そして汝の救いもまた、そのなかに見つかるもの。
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22日 夜


 大きな夢を見よ、そうすれば夢見た通りのものになる。自分の未来像は、未来こうなるというのを見せてくれる青写真だ。理想とは、最後に見出すものが何か教えてくれるお告げだ。
 偉業も初めはかりそめの夢。樫の木も生まれはどんぐり。鳥も孵る前は卵。心に最高の将来像を描けば、寝ているあいだに天使が動き回る。
 自分が逆境にあるとしても、自分の理想に気づき、その理想を目指すのであれば、いずれ脱することができるはずだ。
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23日 朝


 迷いや恐れを乗り越えた者は、もうすでに失敗すら払いのけている。持つ勇気ひとつひとつが力に通じており、どんな困難にも正面からぶつかり、巧みに克服するだろう。しかるべき時季に決意という種を植えれば、やがて花開き、実も熟れずに地へ落つることもなく、しかと結ぶのだ。
 恐れずに目標を定めた意志は、新しいものへの原動力となる。このことを知っていればいつでも、ただ心定まらず不安に悩むばかりの状態から抜け出し、ひとつ高く強いものになれる。それどころか実行すれば、精神力を使いこなす意識と知識の達人となるのだ。
[#改ページ]

23日 夜


 自分という小宇宙のなかで、人が本当に占めるべきなのは、玉座であって奴隷の位置ではない。善というルールに従って自らに命ずる指揮官であって、悪の国の従順な手先ではないのだ。
 この書の対象はあくまで人であり、人未満の者どもではない。つまり熱心に学び目標達成に励む者に対して、あるいはさもしい贅沢・自分勝手な欲望・下卑た考えをも(世の善のためなら)自分から棄て去り、最初からなかったかのように執着・後悔することなく生きてゆこうとする者に対して書いているのだ。
 人の主はまさしく人だ。そうでなければ、法に反した行為ができるはずがない。
 悪・弱さはおのれの身を滅ぼすもの。
 天地万物には善と義が宿っており、ゆえに善人と仁者を守ってくれる。
 恨む者すなわち弱き者であるのだ。
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24日 朝


 学ぶだけでは人は悪に打ち勝つことができない。勉強するだけでは過ちや悲しみを乗り越えられない。おのれに勝ってこそ、悪を征することができる。正しいことを守り実践してこそ、悲しみを終わらせられるのだ。
 ずる賢い人、頭でっかちの人、うぬぼれた人には、勝ち組の人生はない。純粋な人、実直で分別のある人にこそあるのだ。確かに前者も人生でそれなりの成功を手にするが、後者だけが完全無欠の大成功を手にする。それまでは一見負けているように見えても、あとから勝利がやってくることで、ついに輝かしいものとなるのである。
[#改ページ]

24日 夜


 本当の沈黙とは、口を静かにすることではない。心を静めることである。ただ口に蓋をする、ましてや乱れ苛む心を我慢するだけでは、弱さを癒やすことはできないし、力を湧き上がらせるのも無理である。力強くあるためには、心をみな静けさで包み込み、心の隅々まで行き渡らせねばならない。穏やかな沈黙であらねばならぬのだ。人は、自分に打ち勝った分だけ、この広く深くいつまでも続く静寂に至るのである。
[#改ページ]

25日 朝


 口に緘することで、人は自制心が得られる。
 痴れ者は、無駄口・噂話・口論・戯れ言を繰り返す。どころか自分の言うことをみなが聞き、反対意見をやり込めたという事実をもって得意がるのだ。おのれの愚行の悦に入り、他人の批判をやたらに恐れ、実のないことばかりに力を浪費する。不毛の土地をひたすら耕して種を蒔く庭師のようである。
 賢者は無駄口も噂話もせず、空疎な論争もしなければ、保身にも走らない。負けに見えることも進んで受け入れる。むしろ負かされて喜ぶくらいで、なぜと言えば、自分にダメなところをまた見つけて取り除ければ、そこでまたひとつ賢くなれると知っているからだ。
 議論の勝ち負けに執着しない者こそ、幸いなのである。
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25日 夜


 欲とは、所有を望むことである。願いとは、平穏を心から求めることである。物欲があっては、平穏からは延々遠ざかるばかりで、ついには何かを失うばかりか、そもそも欲しがる気持にはきりがない。そのような欲を終わりにしない限り、安らぎや満足というものは、まずありえない。所有欲はけして満たされることがないが、平穏は願えば叶うものであり、そして平穏が充ち満ちていることに気づくのは――完全に我がものとできるのは、自分勝手な欲を棄て去ったときなのである。そうすれば、有り余るほどいっぱいの歓喜と、あふれんばかりの至福が訪れる。
[#改ページ]

26日 朝


 人は清く正しく生きることで天国へとたどり着く。清く正しく生きるためには、自分のことを顧みて、突き詰めておのれを解き明かすことしかありえない。自分勝手なところは、それが見つかり、どんなことかわかって初めて、取り除くことができる。ただし取り除くだけでは無駄で、根元からなくなるわけではない。闇が終わるのは、光が射し込んだときだけである。ならば無知を追い払えるのは知識のみ、自分勝手の場合は愛のみである。人は何よりもまず、(身勝手な)おのれ自身を負かそうとせねばならぬ。そうして初めて(本当の)自分を見つけられるのだ。人の悟るべきは、自己愛など執着する値打ちもないのだと、そんなものは仕えるに何ら値しない主なのだということ、至善のみが人生の最高の主として、心に尊ぶ価値があるのだということだ。
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26日 夜


鎮まれ、わが魂、して平穏が己のものと悟れ。
動じるな、わが心、して運命がおのれの味方
だと悟れ。ざわつくのをやめろ、わが頭、
さすれば永遠の安らぎが見つかるはずだ。

 もし人が平穏を手にしたいのなら、まず平穏の精神を鍛えるのがよい。愛を見つけたいのなら、まず自分を愛の精神に住まわせるのがよい。苦しみから逃れたいのなら、まず自分が苦しみを背負うことからやめよ。人道にかなった尊いことをしたいのなら、まず自分が浅ましいことをやめるのだ。己の魂という金脈を掘りたいという気持さえあれば、思うもの何でも作ることのできる素材がみなそこにあると気づくだろう。上にものを建てるしっかりとした土台がすでにあるということも。
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27日 朝


 人は群れたがり、新しい刺激を求めたがるばかりに、穏やかさを知らない。幸せを捜して、喜びへ至る道を様々ゆくが、安らぎにはたどり着けない。満ち足りた人生を追いかけ、笑い熱狂しながらあれこれ歩むも、悲痛な涙ばかりが多く、死から逃れられない。
 人生という大海原を、自己満足を目指して漂っていると、やがて人は嵐に捕まる。数々の暴風雨に揉まれ、ひもじさに襲われたあとで逃げ込む避難先の岩とは、おのれ自身の存在という深い静寂なのである。
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27日 夜


 高次なる存在を主題にした瞑想こそ、祈りの本質・神髄である。すなわち、永遠へと向かう魂を欲して、静かに手を上へ伸ばすことである。
 瞑想とは、完全な理解を目的として、ある思想やテーマを心の中で真剣につくづく考えることである。たとえ何であってもたえず瞑想すれば、きっと理解に至れるばかりか、自らも成長し対象そのものへと近づくことができよう。なぜならば、瞑想することでその対象はおのれ自身と合一し、すなわち自分そのものへとなるからだ。だからこそ、たえず考えることが自分勝手や卑屈であるのなら、やはり本人も自分勝手で卑しいものに成り果てるだろうし、たゆまず純粋や自己犠牲ばかり想うのであれば、その本人も必ずや清く無私な人となるはずだ。
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28日 朝


 おだやかに思念を一つにすれば、大変なことはあっても困難なことはない。正当な目的ならどんなことも、筋の通った形で精神力を発揮すれば、必ずやただちに現実のものとなろう。
 やらねばならぬことが何であれ、全神経を集中させよ。出来うる全力を注ぐのだ。小さなことでもミスなく完璧にすれば、次にはきっともっと大きな仕事につながる。着実に上へ上へと登るように努めるのだ、さすれば落ちることはない。
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28日 夜


 愛がすべての物事の中心にあることを知っており、その愛の力を十二分に発揮できる人間は、その心にやましいところが何一つとしてない。
 人々を愛し、その好意を口にしている者がいるとして、あるとき何らかの形で人々がその者の邪魔をしたり、悪口を言ったりなどして、それでもしその者が人々を嫌いになり、その嫌悪を公言したりするようなら、結局その者は本当の愛に突き動かされてはいなかったのだろう。心のなかでたえず他人を責めたり咎めたりするなら、無私の愛などかけらほども見えないということだ。
 自分の頭を、強く正しくおだやかに考えて鍛えよ。おのれの心を、清らかなれ、人を思いやれと育むのだ。そして自らの口を、まず静かにして、ただ誠実で汚れのない言葉へと開くこと。そうすればいずれ高潔温和への道へと至り、その果てには不滅の愛を実現することになる。
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29日 朝


 本当の成功をものにしたいのなら、よくやってしまうことだが、「自分は正しいことをしているのに、何もかもうまくいかない」などと思いこんではいけない。「競争」などという言葉で、それを正しいと思う自分の心が惑わされてはならないのだ。人は「競争原理」とか口にするかもしれないが、私は気にしない。私の知る絶対不変の法則は、そんなものいつかは蹴散らしてしまうし、行いの正しい人間ならば、その心と人生からはすぐに蹴散らされるだろう。この法則を知っているからこそ、私はどんな理不尽をも、ありのまま穏やかな心で受け止める。そんなもの、いずれは砕け散ると知っているからだ。
 どんなことがあっても、自分が正しいと信じることをしなさい、そして因果の法則を、この世界に備わっている高次の力を信じるのだ。そうすれば人は見捨てられることもなく、常にその力に守られることだろう。
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29日 夜


 他人の悲しみを全身で感じて、他人のためにひたすら尽くすのだ。そうすれば、本物の幸せがあなたを、悲しみ・苦しみからも自由にするだろう。「第一によき考え、第二によき言葉、第三によき行い、というふうに進んでいって、私は極楽へゆく。」同じ道をたどれば、あなたも極楽へゆけるのだ。
 他人が健やかなるよう、おのが身を尽くせ。そしておのれのすることに、ただ打ち込むのだ――それこそが、あふれる幸せの秘訣である。いかなるときも、我欲が好き勝手しないか見張ること、同時に、自己犠牲の精神をしっかりと胸に刻み込んでおくこと。さすれば、幸せの極みにも登り詰めることができ、必ずや曇りなくどこまでも輝く喜びに包まれて、不滅という光の衣をまとうことができるだろう。
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30日 朝


 農夫は、自分の土地を鋤き耕し種を植えたあとは、できることはすべてやったのだから、あとは自然に委ね、時が過ぎゆくままに実りがもたらされるのをじっと待つだけで、あれこれ期待したところで結果には何にも影響しないということを、よく知っている。まさに真理を悟る者は、まず善・清らかさ・愛・平和の種を蒔いたあとも、期待せず、見返りも求めない。いずれ時が来れば実りがもたらされるという、万物を司るルールをよく知っているからである。世に残るものも、はかなく崩れるものも、根本的には同じルールに従っているのだ。
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30日 夜


 高潔な人は、自分を抑えた上で、心の動きや気持ちの揺れをしっかりと見張る。このように自制心を得て、やがて落ち着きを手に入れるのだ。そうすれば人望や力、偉業、いつまでも続く幸せだけでなく、満ち足りた完璧な人生も手に入る。
 平穏を見つけられるのは、自分に打ち勝ち、日々少しずつ心を抑え、頭を冷やし、沈着冷静になろうと励む者をおいて他にない。
 穏やかな精神のあるところには、義と安らぎがある、愛と知恵がある。そこにたどり着けるのは、自分との闘争を数え切れないほど戦い抜き、おのれの弱点とひそかに争い続けて、果てに勝利をつかんだ者だけなのだ。
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31日 朝


 人に与えられた、気持ちを同じくするという力は、心のなかで次第に大きくなってゆくもので、やがて自分の人生をも実り豊かにしてゆく。この力が授かれば、幸せを受け取れる。この力を抑えれば、幸せは取り上げられる。人は、気持ちを同じくする力を高め強めた分だけ、理想の人生――完全な幸せにまたひとつ近づくことができる。そしてその心の角を取って、きついところもきびしいところも、ひどいところもその考えからなくして出し切って、どこまでも丸くなることができれば、そのあかつきに人は、豊かな本当の幸せを迎えられる。
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31日 夜


 強欲・憎悪・邪気を心に寄せ付けぬ者は、死後も安らかで至福である。敵意の影をわずかばかりも残さず、世界をどこまでも広い慈愛で見つめる者は、心の奥底で、この祈りをゆっくりと吐き出すことができる――

生きとし生けるものみなに、平穏があるように

分け隔てなく――このような者は、誰にも奪えない幸せな結末を迎える。なぜならば、これこそまさに、人生の完成、満ち足りた安らぎ、まったき幸せの成就なのである。
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公爵夫人に自己啓発モラル、そしてタロット――訳者あとがきに代えて


 この翻訳は、James Allen, Morning and Evening Thoughts, (ed: Lily L. Allen) 1909. の全訳である。底本には二〇〇七年のドーヴァー版を用いている。
 ジェームズ・アレン(一八六四―一九一二年)は、今でいうところの自己啓発本のライターである。一九〇三年の As a Man Thinketh を代表作とする当時の売れっ子作家であるが、彼の著作がヒットしたのも、彼の生きたヴィクトリア朝英国およびその直後の時代が過剰に〈教訓=モラル〉を求めた時代だったこととは無縁ではないだろう。
 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(一八六五)には、どんな物事にも〈教訓〉を見出そうとする公爵夫人なるキャラクタが登場する。教えが欲しいあまりに一見何もないところからも無理矢理〈モラル〉を引き出そうとするその態度は、当時の社会の戯画化であるとも言える。
 アレンの書いたものはパンフレット程度の冊子であるが、今回訳したこの書は妻リリーがそうした数多くの冊子から章句を六二ヶ所抜き出し、一日から三一日まで朝夜の組み合わせにして一月分にまとめたものである。公爵夫人のようにいつも教訓が欲しい人物にとっては、日めくりするだけで朝と夜にモラルが得られるのだから、うってつけのものであったに相違ない。
 この形式は評判がよかったのか、数年後には Book of Meditations for Every Day in the Year / Meditations; A Year Book として、今度は三六六日一年分のものとなって現れ、近年の日本でも見られる相田みつをや松岡修造の日めくりカレンダーを先駆けるかたちとなっている。
 しかし心のサプリメント(ないし精神の栄養ドリンク)として日々の教訓を欲しがるならば、あるいは公爵夫人ならば三六六日でも足りないだろう。そうした常に自己啓発が欲しい人物には、ほぼ無限に教訓を得られる、読むたびに引き出せる〈モラル〉が変化するようなものこそ必要とされるのだ。
 であれば、『アリス』の公爵夫人の持つべきものとは、この書の刊行と同じ一九〇九年にライダー社から発売された『ウェイト版タロット』であるに違いない。引くたびにカードの配置が変わり、その偶然を必然として意味を解釈して、いつまでも永遠に教訓を引き出してゆけるのであれば、もはや公爵夫人は不満を持つこともない。当時流行の自己啓発もタロットも、同じ時代の産物であると考えれば文化史的な筋は通る。
 最後に、訳し方についてだが、現代でも自己啓発本として通用するよう、語彙選択をかなり一般化させてある。たとえば宗教的な点は今の世の〈スピリチュアル〉の言葉遣いに近づけてあるが、訳者本人にはアレンやニューソート、ないし自己啓発に他意はなく、それぞれにこの本を楽しんでいただければよいと思う。





翻訳の底本:James Allen (1909) "Morning and Evening Thoughts"
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
   2014(平成26)年8月25日翻訳
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)によって公開されています。
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※翻訳についてのお問い合わせは、青空文庫ではなく、訳者本人(http://www.alz.jp/221b/)までお願いします。
翻訳者:大久保ゆう
2015年11月28日作成
青空文庫収録ファイル:
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