発端・電話事件

式場隆三郎




 夏目漱石は家人のすすめで、やむなく電話を買ったが、うるさいからといってしばらく受話器をはずさせておいたという。自分の方からはかけるが、人からの呼出しには応じないわけである。これは漱石の神経症状のみられたころの奇行として、重大な意味をもたせてよいものか、反対にユーモラスな悪戯として笑ってすませるべきだろうか。それとも単なるゴシップで、事実無根であったろうか。
 電話に関する綺譚、怪談、悲劇も、かぞえあげたら一冊の本になるくらい多いだろう。私にも、ひとつ思い出がある。子供の頃うちで電話を買ったが、前の持主は事業に失敗した商人だった。彼はいよいよ明日は電話をはずされるという前夜に、その電話機に紐をかけて縊死してしまった。仕事のゆきづまりで、もうどうにもならなかったのであろうが、大切な電話を失うことも大打撃だったにちがいない。それだけでも不吉な電話なのに、番号が「四二番」で「死に」通じるのだった。この二重に不吉な電話は、私の家でも気味悪がってしばらくひきとらずにいたが、そのうちにやむなくひきとって、茶の間の押入の中につけられた。重い板戸のなかで、ジーン、ジーンと電鈴がなると、先の持主の恨めしそうな声でもきこえてきそうで、私はたちすくんだものだった。
 二笑亭綺譚の発端も、電話に始まる。
 電話で生命をすてるような小心もののない現代でも、東京の電話は有力な資産であり、活動の武器でもあろう。それを無償で電話局へ返還すると申しでた人があった。所在は繁華な地区の商店街で、しかも番号は末広といって縁起のよい「八番」である。東京電話局はいままで電話にまつわる無数の事件を取扱ってきたが、無償で返すと申しでた人のあらわれたのは初めてのことだった。
 この前代未聞ともいうべき事件は、当局をして理由の解釈に苦しませたが、所有者の執拗な申し出によってようやく手続を完了した。その理由は、あまりにも単純だった。電話が不用になった、引取ってくれ、金はいらないから売る必要はない、電話局はひきとる義務があるというのだった。
 調査に行った局員は、所有者が家族もなくただひとりで、大きな家に住んでいることを知り、変人の独居生活のために不用になったと解釈して、とりはずしてしまった。しかし、彼には家族がないわけではなかった。別居していた家人たちは、主人への電話が通じなくなったのを不審に思ってみにいった。すると、無償で返還した事実がわかった。
 数年来奇行がつづいて、ともに住むにたえなくなり、一人去り二人去った家族も、いまや主人が奇行人だといって放っておけない状態にあることをみてとった。そしてそのまま放っておけば、財産もどうなってしまうかわからぬ不安にかられた。そこである弁護士に依頼して、電話の取戻しを計るとともに、禁治産の申請をすることになった。
 鑑定にでかけたある精神病院長は、検診を拒まれて、やむなく警官立会の上でチフスの予防注射だと偽って麻酔剤を注射し、ようやく彼を入院させた。かくて精密な調査が開始されたのである。こうして、わが赤木城吉(仮名)氏は、その奇怪な全貌を科学の手によって分析されるにいたった。彼が十余年の歳月をかけ、多額の費用をかけ、そのために多くの家族とも別れてまで努力していた二笑亭の建築も、電話事件を契機として中絶することになった。彼が心血をそそぎ、日夜その完成を愉しんだ二笑亭も、永久に未完のままで終るであろう。そして、やがて取りこわされて跡形もなくなる日も、近いであろう。
 この熱烈な主人を失った二笑亭は、今や啾々たる寒風に吹きさらされている。夜盗も夜犬も、鼠どもも、この空家へ入ることはできない。家具のなくなった空虚な部屋部屋にも、彼の血や臭いが滲みこんだ柱があり、壁がある。柱は彼の創案になる塗料で暗紫色に光り、香料を塗りこめた壁は呼吸している。大東京の喧騒の街頭に立つこの沈黙の家の物語は、昭和初期の綺譚として語り伝えてもいいだろう。この幾十日、私はあの家のことで憑かれたようになっている。荷風山人は、※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東の一隅に妙筆を揮って満都の文学愛好者を魅了した。私には「科学者の※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚」をかく力がない。ただあの家の作者の大業をつぶさに伝えたい熱意にかられて、拙い筆をとったにすぎない。
 ある新聞は、「狂人の建てた化物屋敷」と報じた。近所では、「牢屋」とよんでいる。多くの人々は、富裕の狂人の悪戯と解している。しかし、あの家の隅々を正視した人は、果して笑いきれるだろうか。私は畏怖し、驚嘆する。だれも実行できない夢と意欲を、悠々とやりとげた逞しい力に圧倒されそうだ。文学好きの人はこの話を伝えきくと、ポオの『アッシャ家の崩落』を頭に描いたり、ボードレエルの作品を思い浮べるかも知れない。だがあれを化物屋敷にしたり、狂人のグロテスクな作品として片づけてしまうのは、単純すぎる。あの家はひとりの狂人によって建てられたことは、誤りない事実である。しかし、それだからすべてを狂想の具現として、みてはならない。あのなかには、もっと複雑微妙な人間の心理がおりこめられている。
 われわれの住む家は、だれがどうして建てたのだろう。自分の創案になる家といっても、大抵は何かの模倣である。それに、建築家や大工の常識が支配している。自分の構想をあくまでも実現した家というものが、果してどれだけあるだろう。われわれは、ホテルや宿屋にとまって与えられた部屋に泊り、汽車に乗って定められた席につくと大差のない安価な気持で、おのが住宅にいるのだ。
 金が自由になり、大工や建築家が意の如く動いてくれたら、どんな家ができるだろう。あの狂想から生れた家をわらう人も、自由に振舞えたら自分もどんな家を建てるだろうか、と反省してみる必要はないか。
 あれは決して原始的建築ではないが、そのモティフにはわれらの祖先が原始時代にあって、勝手な材料を選び、好きな形に組みたてて住んだ時代の気持に共通なものがある。現代人の生活は、人があってその生活から家ができるのでなく、まず家ができて、それに生活をあわせていくことが多い。その意味でわが赤木城吉氏は、病的思想から考案した家を造って、それに生活をあわせていこうとした稀有の人である。
 電話事件が起らず、精神病院へ入院させられることがなかったら、彼が精神異常者であることも判明せず、仕事はもっと発展したであろう。彼の建築が中絶したことは、家人を安心させたかもしれない。しかし、そのために日本の建築史上に、かつて類のない作品が未完に終ったことは残念である。
 この一篇は、決して猟奇的な物語ではない。私はできるだけ冷静に、そして医学的に、彼の残した大作を分析し、その永い心労が決して無意味におわらなかったことを世に伝えたいのである。これは二笑亭由来記でもあり、案内記でもあるが、同情深い供養記ともいえるだろう。
 この家の作者は、まだ生きている。家族はみな健在している。それらの人々は、世人から誤解されることを怖れている。それを考えると、私は筆が進まなくなるが、あの家を恥じることはないと思う。だれか理解ある人があったら、あの家の保存に努力すべきである。学問の上からも、また芸術の上からも意義の深いあの家を、跡形もなく取りこわすのは惜しい気がする。この一篇が建築主でもある作者赤木城吉氏の一門の名誉を傷つけず、その異常な功績を記念したい私の意図によって書かれることを諒とされたい。





底本:「日本の名随筆 別巻70 電話」
   1996(平成8)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「定本 二笑亭綺譚」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年1月21日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2016年1月1日作成
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