落葉の隣り

山本周五郎





 おひさ繁次しげじを想っていた。それは初めからわかっていたことだ。ただ繁次が小心で、おひさの口からそう云われるまで、胸の奥ではおひさを想いこがれながら、おひさは参吉を恋しているものと信じ、そのために心を磨り減らしているのであった。
「なんでもないよ、繁ちゃん」と参吉が云った、「大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」
 これが繁次と参吉と、そしておひさをむすびつけるきっかけになったのだ。
 繁次と参吉はおないどしであった。浅草黒船町の裏の同じ長屋で生れ、その長屋で育った。おひさはかれらより五つとし下で、やはり同じ長屋の、繁次の家と向う前に住んでいた。――三人は小さいじぶんお互いを知らなかった。長屋には子供が多いし、三人はめだつような子ではなかったからだ。そのうえ、繁次は七つのときに総持寺の末寺へ小僧にやられ、五年のあいだその長屋にいなかった。父の源次は古金ふるかね買いをしていたが、繁次を坊主にするつもりだったらしい。こんな世の中では正直者は一生うだつがあがらない、どんな貧乏寺でも一の住職となれば、人にも尊敬されるし食うにも困らないから、というようなことを、まだ七歳にしかならない繁次に云い聞かせた。
 繁次が十二の年に父が死んだ。あとにはからだの弱い母と八つになる妹のおゆりが残され、くらしに困るので彼は長屋へ帰った。寺の小僧になって五年、繁次は読み書きや礼儀作法は覚えたが、坊主になる気にはどうしてもなれず、機会があったら逃げだしてやろうとさえ考えていたので、家へ帰るときまったときには、父の死んだことを悲しむよりも、うれしさのあまりとびあがりたいように思った。
 こうして繁次が長屋へ帰った年、参吉は反対に、田原町二丁目の仏具師の店へ奉公にはいった。ちょうど繁次と入れ違いのようなかたちだったが、そのあいだ半年ばかりいっしょに遊んだ。五年ぶりの再会であったが、特に親しかったわけではないから、初めは同じ長屋の顔見知りというくらいのつきあいで、そこにもしおひさがいなかったら、二人は友達にさえならなかったかもしれなかった。
 おひさは妹の友達としてすぐ彼に馴染んだ。妹のおゆりより一つとし下の七つで、躯つきも顔だちも貧相な、玉蜀黍とうもろこしの毛のような赤毛のしょぼしょぼと生えた頭の、まったく見ばえのしない子だったが、「繁ちゃんのあんちゃん」と云って、一日じゅう彼に付きまとった。
 五月はじめの或る午後、――御蔵おくらの渡しと呼ばれる渡し場の近くで、繁次はおひさかにを捕ってやっていた。隅田川の石垣にしがみついて、石の隙間にいる蟹を捕るのだが、五つ六つ捕ったとき、近所の子供たちが五人ばかりやって来て、「坊主、坊主、――」とからかいだした。寺から帰ってまだ十日ほどにしかならず、彼の頭はまだ坊主だった。自分でもそれが恥ずかしいので、長屋の子供たちを避けていたくらいだから、繁次はふるえるほどはらが立った。かれらの中には鉄造、与吉などという乱暴者がいて、繁次をからかいながら、おひさ小桶こおけを取りあげて、中の蟹を川の中へほうり投げてしまった。おひさの泣きだす声を聞いて、繁次は石垣をよじ登ろうとした。鉄や与吉は腕力が強い、とうていかなう相手ではないが、とびついていって指の一本も食い千切ってやろうと思ったのだ。
 そのとき参吉があらわれた。
「おい鉄、よせよ」と参吉がおっとりした声で云った、「五人がかりで一人をいじめるなんてみっともねえぞ」
「あたしのもよ」とおひさが泣きながら小桶を指さした、「あたしの蟹も逃がしちゃったのよ」
「いやなやつらだな」と云って、参吉は唾を吐いた、「いっちまえよ、鉄」
 五人はぐずぐずとそこをはなれ、なにかあくたいをつきながら、駒形こまがたのほうへ逃げていった。繁次は石垣にしがみついたままこのようすを見ていたが、参吉に感謝するよりも、自分が人に助けられたという、みじめな、やりきれない気持でまいった。
 それから半月くらいあとに、長屋の路地で出会ったとき、参吉のほうから繁次に笑いかけて、将棋をささないかと云った。参吉は色の白いおも長な顔で、眉が濃く、いつもきっとひきむすんだような口つきをしてい、話しぶりや動作もおっとりと、ぜんたいが大人びていた。繁次はまぶしいような眼つきをし、将棋は知らないんだと答えた。
「そんなら覚えればいいさ」と参吉が云った、「うちへ来ないか」
 繁次は初めて参吉の家へいった。
 参吉は両親がなく、茂兵衛もへえという祖父と二人ぐらしであった。ずっとあとでわかったことだが、参吉の父母は夫婦養子で、茂兵衛と折り合いが悪く、そのときから四年まえに、長屋を出て別居してしまった。繁次はその二人をうろ覚えに覚えていたので、どうしていなくなったのか不審に思ったが、なにかしらいてはいけないような感じがしたので、参吉にはなにも云わなかった。
 茂兵衛の年はもう七十に近かった。背丈が高くせてはいたが、まだ足腰は達者で、酒もよく飲むし、しばしばあそびにもゆくといううわさがあった。上りはなの三じょう轆轤鉋ろくろがんなを据え、一日じゅう椀の木地を作っているが、いい腕なのでかなりなかせぎになるのだ、といわれていた。黙りやで殆んど口はきかないけれども、色の浅黒いおも長な顔や、六尺近い長身の躯つきに、どこかの大店おおだなの隠居といったような品のよさがあり、武助という差配さはいまでが一目置いているようであった。
 繁次は将棋を覚えてから、毎晩のように参吉の家へでかけていった。――彼は指物さしもの職になるつもりで、浅草橋外の福井町にある「指定さしさだ」という店へ弟子入りをしたが、母が病身なため住込みでなく、特にかよい奉公をゆるされ、朝八時から夕方の五時まで勤めるようになっていた。仕事は追い廻しか使い走りで、駄賃くらいの銭しか貰えなかったが、母と妹も内職をするので、親子三人どうやらくらすことができた。――参吉の家へゆくのは夕めしのあとで、茂兵衛老人はたいてい酒を飲んでいるが、繁次を見ると必ず茶を淹れたり、菓子を出してくれたりした。
 老人はあまり口はきかないが、孫の参吉がひじょうに可愛いらしく、そのため繁次にもあいそよくするようであった。参吉はうるさそうな顔をするだけで、なにも云わないし、もちろん自分でやろうとすることもない。繁次と将棋をさしながら、平気でその茶をすすり、菓子を喰べた。
 参吉は十月の末に仏具屋へ奉公にいったが、そのちょっとまえの或る夜、繁次は怒って参吉を殴った。いつものように将棋をさしていて、繁次が二番負け、三度めに勝った。そして四番めの駒を並べるとき、参吉が「こんどはかげんなしにやるぜ」と云った。これが繁次にかちんときた。
「じゃあ」と繁次が訊き返した、「これまではかげんしてたのか」
「いいからやんなよ」と参吉がおうように云った、「待ったなしだぜ」
 繁次はみじめに負けた。参吉のさしかたは辛辣しんらつで、それまでとは人が違うようにするどく、繁次は手も足も出なかった。
「ちぇっ」と参吉は駒を投げだしながら云った、「おめえはだめだな」
「だめだって」繁次はふるえた、「なにがだめなんだ」
「繁ちゃん」と参吉が云った。
「だめとはなんだ」と繁次はどなった、「なまいきなことを云うな」
 そして彼は参吉にとびかかり、押し倒して拳骨げんこつで殴った。参吉は手向いもせず、されるままになっていた。繁次は相手が無抵抗なので、ちょっと気ぬけがし、同時に、相手の眉のところが切れて、血がふき出しているのを認め、ぎょっとしてとびのいた。
「怒らして悪かった」と起きあがりながら参吉が云った、「ごめんよ、繁ちゃん」
「たいへんだ、血が出てる」繁次はあおくなった、「おれかあちゃんを呼んで来る」
 そのとき老人はいなかったので、彼は母を呼びにゆこうとしたが、参吉は「そんな大げさなことはよせよ」と云い、勝手へいって傷を洗った。左の眉のところが斜めに、一寸ばかり切れていた。殴ったとき拇指おやゆびの爪が当ったのだろう、それほど深く切れてはいないが、上げしおどきとみえてなかなか血が止らなかった。参吉が洗った傷へ塩をりこむのを見ながら、繁次はおろおろとあやまった。
「なんでもないよ、繁ちゃん」とそのとき参吉が云ったのだ、「――大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」
 その言葉がこたえたのはあとのことだ。
 参吉はまもなく仏具屋へ奉公にゆき、すると茂兵衛はへんな女を家へ入れた。年は三十五六、小柄でひき緊まった躯つきにも、あさ黒い膚の、よくととのった目鼻だちにも、水しょうばいをした者に特有のこびがあり、日髪ひがみ日風呂ひぶろで、いつも白粉おしろいや香油の匂いをさせているため、たちまち長屋の女房たちの非難の的になった。――差配の武助が人別しらべにゆくと、親類の者で名はおみち、年は三十二歳、暫く滞在するだけだ、と答えたそうであるが、両隣りの人たちはあざ笑った。昼間はもちろん、近所が起きているうちは静かであるが、夜半から明けがたまではひどいというのである。息をころし、声をひそめてはいるが、それがかえってなまなましく、深い実感に満ちていて、たとえば両手で耳をふさいでも、その手をとおして聞えてくるようだ、というのであった。


 ――参ちゃんはどう思うだろう。
 おとなたちの話は、繁次には理解できなかったが、下町で育てばませるのが一般だから、おぼろげながらいやらしいということは感じた。暫くいて出てゆくのならいいけれども、あのまま女がいつくとすれば参吉の母ということになる。
 ――あんな女を母と呼べるだろうか。
 おれならまっぴらだな、と繁次は思い、参吉が気の毒でたまらなくなった。
 正月元旦のひるころ、参吉はやぶいりで帰って来た。どうなることかと心配していると、暫くして、将棋をさそう、と迎えに来た。なにも変ったようすはなく、家へ来いと云うのを聞いて、繁次は安心すると同時にちょっとがっかりした。
「将棋はよしたんだ」と繁次は云った、「それより浅草へでもいかないか」
 繁次の眼に気づいて、参吉は左の眉のところをでた。そこにはあのときの傷が、薄く茶色の糸を引いたように残っていた。
「これが気になるのか」
「そうでもないけれど」と繁次は赤くなった、「でも、――将棋さえやらなければ、あんなことにはならなかったろうからね」
「なんでもねえのにな」と参吉が云った、「じゃあ浅草へいこう」
 妹のおゆりと向うのおひさが、れていってくれとせがんだ。参吉は伴れていってもいいような顔をしたが、繁次はいつになく強い調子ではねつけ、参吉と二人だけででかけた。
 繁次は小遣など持ってはいないので、見世物や芝居の看板をながめたり、大道野師やしの口上を聞いたりしながら、折があったら、参吉にあの女のことを訊くつもりでいた。しかし参吉はきまえよく二人分の銭を出し、芝居を一つと軽業かるわざを見たのち、掛け茶屋であべ川餅を喰べた。五時までに店へ帰らなければならないというので、茶店を出るとまもなく帰ることにしたが、かみなり門をぬけたところで、繁次はそれとなくあの女のことを訊いてみた。参吉はやや暫く、なにも云わずに歩き続けてから、いつもの穏やかな、おとなびた口ぶりで云った。
「呼ぶのに困るんだ」と参吉は苦笑した、「おっ母さんじゃあねえし、おばあさんて呼ぶのは悪いようだしな」
 十歩ほどいってから、繁次がまた訊いた、「参ちゃんは嫌いじゃあねえんだな」
「ねえな」と参吉が答えた、「――おれにゃあずっと、かあちゃんがいなかったから」
 繁次は頭を垂れた。
「長屋の者が悪く云ってるってことは知ってるよ」と参吉が云った、「人のわる口を云うのに銭はかからねえからな、云いたい者には云わせておけばいいさ」
 それからさらに云った、「そんなことを気にしてくれなくってもいいぜ、繁ちゃん」
 繁次は黙ってうなずいた。
 おれとは段が違うんだな、とあとで繁次は思った。おひさに蟹を捕ってやっていたときのこと、鉄や与吉を追っぱらってくれたが、どなりもしなかったしおどしもしなかった。
 ――いっちまえよ、鉄。
 そう云った静かな声が思いだされた。まだこっちは坊主頭で遊び相手もないとき、将棋をやろうと云ってくれた。知らなければ覚えればいいさ、うちへ来ないか。そうして、覚えの悪いおれに、半年も辛抱づよくつきあってくれた。
 ――おめえはだめだな。
 舌打ちをしてそう云われたとき、おれはのぼせあがるほどしゃくに障った。癪に障ったのは本当はあいつのほうだったろう、半年も辛抱づよく教えたのに、いつまで経っても手があがらない。誰だっていいかげん飽き飽きするさ、それをおれはかっとなって殴りつけた。左の眉のところが切れて、血がふきだしたときの驚き。だが参吉は怒らなかった、自分で傷の手当をしながら、なんでもない、心配しなくってもいいよ、と云ってくれた。
 ――人間の段が違うんだな。
 繁次はそう思った。人の悪口を云うのに銭はかからない、とあいつは云ったが、長屋の人たちが悪く云うには理由がある。おれだってあんな女はいやらしいし、あいつだって好きにはなれない筈だ。朝っから白粉の匂いをぷんぷんさせて、だらしのない恰好をしている女なんぞ、あいつだってがまんがならないに違いない、けれどもあいつはそんなけぶりもみせなかった。
 ――ああいうのを十万人に一人っていう人間かもしれねえな。
 繁次は十三歳の頭でそう思った。
 田原町と黒船町はわりに近いので、月に三度か五度くらい、参吉は長屋へあらわれた。たいていは使いに出たついでのことで、繁次は「指定」へいっているから殆んど会わなかったが、妹のおゆりや向うのおひさからよくそれを聞いた。ことにおひさは、参吉のことになるとむきになり、彼の云った言葉や、どんな顔つきをしたか、などということまで、詳しく覚えていて繁次に告げた。
「あの人にお土産を持って来るのよ」とおひさは云った、「いつでもよ、あたいちゃんと知ってるわ」
「あの人って誰だ」
「参吉さんちにいる女の人よ、わかってるくせに」
 おひさは彼を繁ちゃんのあんちゃんと呼ぶが、参吉のときは名前にきちんとさんを付けて呼んだ。
 ――こんなちびでも人の見分けはつくんだな。
 繁次はそのころからそう思いはじめた。おひさは参吉が好きなんだ、よせばいいのにな、あいつはいまにきっとえらい人間になる、おめえみてえなみっともねえ子なんか、見向いてもくれやあしねえ。あんまり好きにならねえほうがいいぜ、などと思うこともあった。
 その年の秋ぐち、七月にはいるとすぐに、長屋で痢病りびょうがはやりだし、妹のおゆりが五日病んで死んだ。激しい下痢が続き、しまいには血をくだしたが、蒲団から畳にとおるほどの血で、医者にも手当のしようがなかった。その長屋で子供がほかに三人、老婆が一人死に、隣りの町内でも幾人か死んだ。
「さぞ苦しかったろうね、可哀そうに」母はおゆりの死顔に化粧をしてやりながら、同じことを繰り返して云った、「あたしはこんなに躯が弱いんだもの、死ぬならあたしが死ぬ順じゃないか、あたしはもう先に望みはありゃあしない、おまえはこれからどんなにでも仕合せになれたのにね」
 棺を出そうとしているところへ、参吉が悔みに来た。急に背丈が伸びたようだし、口のききようもいっそうおちついて、繁次にはちょっと近づきにくいようにさえ感じられた。近所の人たちのごたごた混みあっているなかで、参吉は悔みを述べ、香典の包を置くと、繁次にめくばせをして、脇へ呼んだ。
「おれは田原町をよすことにしたよ」と参吉は云った、「蒔絵まきえ職人になるつもりなんだ、おちついたらまた話に来るからな」
 そのときおひさがこっちへ来て、参吉さん、と呼びかけた。参吉がそっちを見ると、おひさは繁次のうしろへ隠れて、恥ずかしそうに笑いかけた。参吉も微笑ほほえみ返したが、なにもものは云わず、繁次に「じゃあまた」という手まねをして、たち去った。
 妹に死なれたことは、繁次にとっても大きな痛手であった。しかし育ちざかりのことであるし、母がいつまでもくどくど嘆き続けるので、それがうるさいために、却って早く悲しさを忘れるようになった。――それよりまえ、九月の晦日みそかに参吉が訪ねて来て、蒔絵師のところへ弟子入りがきまったと云い、ちょっと外へ出ようと誘った。それから隅田川の河岸かしへゆき、そこで半ときばかり話した。きまった先は日本橋横山町の島田藤兵衛とうべえといって、大名道具を扱う店だということだった。
「おれは名をあげてみせるよ」参吉は珍しく昂奮こうふんした口ぶりで、なんどもそう云った、「金なんかいらねえ、一生貧乏でいい、たとえ屋根裏で飢え死にをしてもいいんだ、――その代り、これは誰それの作だと、百年さきまで名の残るような物を作ってみせるよ」
 繁次は圧倒された。参吉がそんなようすをみせたのも初めてであるが、屋根裏で飢え死にをしてもいいとか、百年のちまで名の残るような仕事をする、などという言葉は、聞くのも初めてであるし、その意味もよくのみこめないので、参吉が自分の知らない世界にはいり、見あげるほど高く、えらい者になったように感じられたのであった。
 ――あいつはきっとそうなるだろう。
 繁次はそれを確信した。そして、自分が彼の額を傷つけたときのことや、怒りもせずに、おちついた手つきで傷の手当をしていたことを思いだし、あんなところにも人にまねのできない性分があらわれていた、やっぱりえらくなるやつは違うんだな、と思った。
 年があけて二月、繁次は「指定」の店へ住込みで奉公することになった。母のことは向うのおひさのうちで面倒をみてくれるというし、かよいでは本当の仕事が覚えられない。それに年も十四になったので、思いきってそういうことにした。そして、住込みときまったとき、横山町の「島藤」の店へゆき、参吉を呼びだしてそのことを告げた。
「おれは参ちゃんのような能はねえけれど」と彼は別れるときに云った、「それでもいちにんまえの職人にはなるつもりだよ」
「おめえは腕っこきになるさ」と参吉は励ますように云った、「やぶいりに会おう」


 それから三年経った秋、おひさの母親が死んだ。
 繁次が仕事でかんなを使っていると、女中が来て「おひさっていう子が来ている」と告げた。名前だけではちょっと思いだせず、鉋くずをはたきながらいってみると、勝手口の向うにある薪小屋の前に、おひさが立っていた。だが、それがおひさだとわかるまでにはちょっとひまがかかった。その年のお盆のやぶいりに会ってからそれほど日は経っていないのに、背丈も一寸くらい伸びたようだし、顔や躯つきにもどことなくまるみがついて、「みっともないちび」という感じとはすっかり変ってみえた。繁次が近よってゆくと、おひさは、いっぱいにみひらいた眼で彼をみつめたが、その眼から大きな涙がこぼれ落ちるのを繁次は見た。
「かあちゃんが死んだの」とおひさは前掛で顔をおおい、泣きだしながら云った、「かあちゃんが死んじゃったのよ」
 繁次は口をあいたが、すぐには言葉が出なかった。彼はおひさの肩へ手をやり、するとおひさは躯ごともたれかかった。前掛で顔を掩ったまま、彼の胸へ凭れかかって、うっ、うっとむせびあげた。
「どうしたんだ、いつ死んだんだ」
「昨日が初七日だったの」
「知らなかったな、病気だったのか」
「十日ばかり寝ただけ」とおひさが答えた、「寝て二三日すると頭がおかしくなって、死ぬときにはわけがわからなくなっていたの」
「ちっとも知らなかった、たいへんなことになっちゃったな、それは」
 おれはまぬけなことを云うぜ、繁次は自分に舌打ちをした。凭れているおひさの躯が、触れているところだけ熱いように感じながら、悲しいような気分さえ起こらない自分が、恥ずかしくなるばかりだった。
「あたしどうしよう、繁ちゃん」おひさは咽びあげながら云った、「あたしどうしたらいいかしら」
「どうするって、なにを――」
 おひさは急に躯を固くした。繁次はその躯を押しはなして、顔をのぞきこみながら、どうかしたのか、なにか心配なことでもあるのか、と訊いた。おひさは暫くじっとしていたが、やがて小さくかぶりを振ると、涙で濡れた顔をよく拭いて、前掛をおろした。
「なんでもないの」とおひさは微笑した、「かあちゃんに死なれて心ぼそくなっただけよ、ごめんなさい」
「そうだろうけれど、まあ坊がいるからな」と繁次はぎごちなく云った、「おじさんはあんなだから、おめえがしっかりしなくっちゃまあ坊が可哀そうだぜ」
「おかしいのね」おひさはぼんやりと、独り言のように云った、「あの子ったらかあちゃんが死んでも泣かないのよ」
 そしておひさのどで、しゃっくりのような泣きじゃくりの音をさせた。
 その夕方、仕事を終ってから、繁次は親方にわけを話して、おひさの家へ悔みにいった。さきにうちを覗くと、母がおひさ増吉ますきちに夕飯を喰べさせているところだった。繁次は声をかけておいて、おひさの家へいった。姉弟の父は角造かくぞうといい、今戸の瓦屋の職人だったが、酒癖が悪く、飲みだすと三日も五日も休みなしに飲み、もちろん仕事には出ないし、酒乱のようになった。そうかと思うとぴたっとやめて、二十日も一と月も一滴も飲まないことがある。そんなときは躯まで小さくなったかと思うほどおとなしく、ろくろく話もできないというふうになるが、飲み始めるとまた同じような結果になるのであった。
 繁次が悔みにいったときも酔っていて、繁次の挨拶など耳にもはいらないようすだった。表のすり切れた古畳の上へ、片肌ぬぎになってあぐらをかき、飯茶碗を持って飲んでいた。まわりには食い荒した皿やどんぶりや小鉢物と、一升徳利が六七本も並んでおり、部屋の中は胸が悪くなるほど酒の匂いがこもっていた。
「子供は親のもんだ、そうじゃねえか」と角造は云った、「子供ってやつは親が生んで、親が苦労して育てたもんだ、そうじゃねえってのか、おい、そうじゃねえって云うのか」
 繁次は立とうとした。
「おい待て、逃げるな」と角造はどなった、「帰るんならそこのところをはっきりさせてから帰れ、子供は親のもんじゃねえのか」
「そんなことわかってるじゃねえか」と繁次はなだめるように云った、「いったいなにを怒ってるんだい、おじさん」
「子供が親のものなら、どうして親の自由にしちゃあいけねえんだ、子供を育てるためには親はずいぶん苦労をしてる、てめえのしょくを詰めても子供に食わせ、飲みてえ酒もかげんして、暑さ寒さにひっぱる物の心配もしなけりゃあならねえ、そうやって育てた子供なんだから、親が困ってるとき親のために働くのはあたりめえだろう」
 そこまで聞いて繁次はどきんとし、そうだったのか、と心の中でつぶやいた。
 ――あたしどうしたらいいかしら。
 おひさがそう云いに来たのはこのためだ。一昨年のお盆に帰ったとき、彼は母から聞いたことがあった。例によって角造が飲み続けたあげく、おひさを芸妓屋へ売ろうと云いだし、そのためひどい夫婦喧嘩げんかになった、というのである。あんなみっともねえ子をかい、と繁次は笑って聞いたが、女房に死なれた角造は、きっとまたそんなことを考えだしたに違いない。ひでえ人だな、と思いながら、やがて繁次は立ちあがって、自分の家へ戻った。
 おひさは勝手で茶碗を洗ってい、母は行燈の側で、増吉の手の爪を切ってやっていた。繁次は低い声で角造のようすを話し、どういう事情なのかと訊いた。想像したとおり、女房が寝つくとすぐに、おひさを芸妓屋へ売ろうと云いだした。女房は危ないと感じたのだろう、繁次の母と差配の武助に立会ってもらい、「どんなことがあってもおひさを売るようなまねはさせないでくれ」と頼んだ。おひさもよく云い聞かせられたのだろう、母親が死んで五日と経たないうち、父がその話をもちだしたので、すぐに差配のところへ駆けこんだ。
「あたしは女だから口出しはしなかったけれど」と母は云った、「差配さんはひざづめでかなり強いことを云ったらしい、それからずっと飲み続けで、あのとおりどなりちらしているんだよ」
 乱暴をしそうで怖いというから、おひさと増吉は母が預かった。おちつくまで預かるつもりだけれど、三人口を養うとなると、――と云いかけて母は口をつぐんだ。
「当分のことならなんとかなるよ」と繁次は云った、「だけど、差配が止めるだけで大丈夫なのかなあ」
「角さんがやる気になればだめらしいね」と母は云った、「芸妓屋へじかにしろ、女衒ぜげんに頼むにしろ、親が金を取ってしまえば、おかみの力でもどうしようもないそうだよ」
「ひでえもんだな」と繁次は幾たびも首を振った、「ひでえもんだな」
 勝手で物音がしなくなり、おひさすすり泣く声がかすかに聞えた。繁次がいってみると、おひさは流しの前に立ち、前掛で顔を掩って泣いていた。小刻みにふるえている肩に、赤いたすきのかかっているのが、繁次の眼にはひどくいじらしくみえた。
「泣くなよ、泣いてる場合じゃあねえじゃねえか」と繁次は云った、「いくら親だからって、立派に働ける躯を持っていて、自分が怠けたり酒を飲んだりするために、子供を売るなんて非道なまねができるもんか、そんな者は親じゃあねえぜ、そうだろう」
「でも、あきちゃんだって売られちゃったわ」と泣きながらおひさが云った、「いやだいやだって泣いてたけれど、去年とうとう売られちゃったのよ」
あきちゃんて誰だ」
「お札売りのうちの人よ」
「覚えてねえな」と繁次は首をひねった、「それはその子が気が弱かったからだよ、本当にいやで、死ぬ気になってみな、にんげん死ぬ気になってやればできねえことはねえぜ」
 おひさは顔をあげた。涙で濡れた眼を拭き、その眼でじっと繁次をみつめた。
「参吉さんもそう云ったわ」
「参ちゃんが、……いつ、――」
「今年の正月のやぶいりのときよ」とおひさは云った、「江戸一番の職人になるんだ、死ぬ気になってやるつもりだって」
 繁次は胸の奥に一種の痛みを感じた。どういうわけか理由はわからないが、重苦しいような痛みを、胸の奥に感じて顔をしかめた。
「それでわかるだろう」と繁次は乾いた声で熱心に云った、「職人になるんでさえ死ぬ気でやるっていうんだ、おめえは自分の一生と、まあ坊のためだぜ、もう十二なんだからな、まあ坊のためにも自分の一生のためにも、死ぬ気になって頑張ってみな、その気になればきっと切りぬけられるぜ」
「ええ」とおひさは頷いた、「やってみるわ、まあ坊さえいなければあたし死ぬつもりだったんだもの、やれるだけやってみるわ」
 繁次は母に、金を届ける、と云って、まもなくいとまを告げた。年期奉公には、場合によって主人から金を借りることができた。繁次は借りなかったので、少しぐらいならどうにでもなった。
「参吉とそんな話をしたのか」店へ帰る途中で繁次はそう呟いた、「――おれにはそんなことは云わなかったがな、いつそんな話をする暇があったろう」
 そのときまた、胸の奥にあの痛みが起こった。繁次はわけがわからず、立停ってそっと、片手で胸を押えた。


 十九の年の十一月、繁次は初めて居酒屋へはいって、初めて独りで酒を飲んだ。それまでにも祭礼とか祝いごと、正月などに、兄弟子たちにしいられてめるくらいのことはあったが、さかずきに二つもやると躯じゅう火がついたように熱く、いまにも心臓がとび出しそうになるので、酒と聞いただけでも逃げだすようにしていた。
 だがその日は飲みたかった。人の酔うのは見ているから、そんなふうに酔えれば有難いし、酔えなくとも、ただ苦しくなるだけでもいい、思うさま自分を苦しめてみたい、というような気持であった。
 神田川の河岸にあるその居酒屋は、小さくてきたないうえに、荷揚げ人足や船頭など、川筋で働く人たちがおもな客だから、「指定」の職人などはもちろん、近所の者とかち合う心配はなかった。店は二十人もはいれるだろうか、暗くて湿っぽい土間に長い飯台が二つ、それを囲んで空樽あきだるに薄い蒲団を置いたものが並べてある。――十五日の黄昏たそがれで、かなり混んでいる店の、いちばん隅に席をみつけ、繁次は壁へくっつきそうな恰好で、肩をすぼめながら腰を掛けた。
 年は二十ちょっとぐらいだろうが、世帯崩しょたいくずれのような、ひどくけてみえる女が注文を聞きに来て、おや、指定さんのにいさんじゃないの、と驚いたように云った。繁次は逃げだしたくなったが、やっとがまんして酒とさかなを頼んだ。
「だらしがねえな」と繁次は口の中で呟いた、「そんなことわかってたじゃねえか、忘れちまえ」
 佃煮つくだにと目刺の焼いたのと、甘煮うまになどが並び、繁次は二杯まで眼をつむって飲んだ。これまでとは違って、苦くもなく、匂いも鼻につかなかった。
 忘れちまえ、と心の中で繰り返し、幾たびもぎゅっと眼をつむって頭を振った。だが、眼の奥に残った印象は深く強烈で、まるで刻みつけでもしたように、どうしても打ち消すことができなかった。――彼はおひさと参吉が抱き合っているのを見たのだ。勝手口の外にある薪小屋の前で、背の高い参吉が上からかがむようにし、おひさは背伸びをして、両方でお互いの躯を抱き緊め、そして唇を合わせていた。それはけんめいな、ひたむきな姿で、勝手口へ繁次の出て来た物音にも、まったく気づかないようであった。
 おひさは「指定」の女中をしていた。父親がなにをするかわからないので、繁次が親方夫婦に話したところ、三人いる女中の一人に嫁の話があり、その代りを捜していたところだそうで、すぐに相談がきまった。差配の武助がおひさの父と「指定」の親方とのあいだに立って、おひさの身売りなどはしない、という証文を入れ、年期七年で五両という金を貸した。受人はむろん武助で、残った増吉は繁次の母が世話をすることになった。
 それから足かけ三年、おひさも十四歳になるが、店でいっしょにくらし始めてから、繁次はいつもおひさに気をつけ、ほかの女中や職人たちにいじめられたり、わるさをされたりしないようにかばってやった。
 ――出しゃばるんじゃあねえぜ。
 無用に気をきかせたり、才ばしったふうをしないほうがいい。あの子はまがぬけている、と云われるくらいのほうが朋輩ほうばいから憎まれずに済む。それをよく覚えておくように、などと、いっぱしおとなぶった口ぶりで、だが心からしんけんに、繁次は繰り返し注意したものであった。
 このあいだずっと、休みの日にはたいてい参吉が訪ねて来た。そしていっしょに芝居や寄席や、季節によっては菊見、舟遊び、遊山などにもでかけた。横山町の店はやかましいとのことで、いつも参吉のほうから来るのだが、するとおひさのようすが目立って変った。参吉はそれまでどおり、一と言か二た言話しかける程度だが、おひさは顔を赤らめ、返辞もろくにはできず、うるんだような眼で、気づかれないようにそっと見あげたりする。そのくせ参吉のいるあいだはそわそわとおちつかず、へまなことをして朋輩の女中に叱られる、といったようなことを繰り返した。
 ――まだ十三や十四で、いやだよこの子は、もういろけづいちゃったんじゃないの。
 今年になってから、口の悪いおつねという女中にずけずけとそう云われ、おひさは泣きだしたことがあった。
「いま始まったことじゃねえ」繁次は持った盃をみつめながら、独りでそっと呟いた、「おひさは昔から参吉が好きだった、それでいいじゃねえか、おい繁、てめえやきもちをやいてるのか」
 盃を持つ手に力がはいり、指の節がぐっと高くなった。
 ――こんなことはざらにあるんだろうな。
 いまのおれのように、こんなみじめなおもいをしている者が、この世の中にどれほどたくさんいるだろうか、と繁次は心の中で思った。
「どうしたの、にいさん」
 こう云われて眼をあげると、さっきの年増女が前に来ていた。
「あたしおつぎっていうの」女はにっと笑いかけながら燗徳利かんどくりを持った、「あら、ちっとも減ってないじゃないの、お酌しましょう」
「自分でやるからいいよ」
「そんなに嫌わなくってもいいでしょ」おつぎは酌をしながら繁次を見た、「あたしまえからあんたのことよく見かけていたのよ、今日はどうしてこんなとこへ来たの」
 繁次は返辞ができなかった。
「飲みたかったからさ」とようやく云って、彼は思いだしたように盃をさし出した、「――一つやらないか」
「いただくわ」おつぎは盃を受取った、「一つだけね、ありがと」
 こんなところにいるとつい飲むようになってしまう。嫌いだったのがいまは好きになったが、酔うとだらしがなくなるから、店にいるあいだは飲まないようにしているのだ、とおつぎは云った。言葉は乱暴だが、さっぱりとした中になんとはないあたたかみがこもっていて、繁次はいつかあまえたいような気分にひきこまれた。
「ちっとも飲まないじゃないの」やがておつぎいぶかしそうに云った、「あたしがいちゃあ邪魔」
「そうじゃない」繁次は眼をそらして、呟くように云った、「初めてだから、まだ」
 おつぎの眼に、なんと云いようもない色が動いた。店の中は殆んど客がいっぱいで、皿小鉢の音や、話したり笑ったりする高ごえや、三人いる小女こおんなたちの甲だかい呼び声などのため、繁次のいるその隅だけ、一とところ穴があいたように感じられた。
「あたし小さいときにね」とおつぎが云った、「おみおつけのなべへ踏みこんで、こっちの足に火傷やけどをしたことがあるのよ、五つの年だったかな、火からおろしたばかりで鍋はぐらぐら煮たっていたの」
「あぶねえ――」繁次はきゅっと顔をしかめた。
「おっ母さんがうどん粉に酢を入れて練ったのを塗って、さらしで巻いてくれるあいだ、あたし死んじゃいたい死んじゃいたいって、声っ限り泣いてたわ」
「痛かったろうな」
「痛いためばかりじゃないの、どう云ったらいいかな」おつぎは機械的に燗徳利を持ったが、繁次の盃にまだ酒があるのを見て、それを下に置きながら続けた、「こんなたいへんなことになったら、もう生きてはいられないだろう、いっそ死んじまうほうがましだ、っていうような気持だわね、そうよ、そんなような気持だったわ」
 同じような気持になったことは、それからあとにも三度ある。そして、「死んじまいたい」と思いつめるそのときの気持には、嘘も誇張もない。ぎりぎりいっぱい、死ぬよりほかにないと思うのだが、そのときが過ぎてしまうと気持もいつか変ってゆき、そんなに思いつめたことがばからしくさえなる、とおつぎは云った。
「人間てそんなものらしいわ」おつぎはにっと微笑した、「悲しいことかもしれないけどね、おかげで生きていられるんでしょ」
 なんのためにそんな話をするんだ。初対面なのに、なにか勘ちがいをしているな、繁次はそう思いながら、やはりあたたかな、母親の乳の匂いでもぐような、しんみりした気分に浸っていた。
「おれ、繁次っていうんだ」ふとそう云ってから、恥ずかしそうに彼は赤くなった。
「そう」とおつぎは頷いた、「繁さんね」
 奥のほうでおつぎを呼ぶ声がし、小女がこっちへ来て「ねえさん」と云った。たぶん馴染の客なのだろう。おつぎは繁次に手を出して云った。
「もう一つちょうだい」
 繁次はうろたえた手つきで、持っていた盃を渡し、酌をしてやった。
「御馳走さま」おつぎは飲んでから、そう云って繁次の顔を見た、「――よかったらまた来てね、くよくよするんじゃないのよ」
 繁次はまもなくその店を出た。
 思いがけないことだが、おつぎという女と話したあと、彼は参吉に悪かったな、と思った。その日はいっしょに寄席へゆく筈だったが、薪小屋の前のことを見てかっとなり、「今日は躯のぐあいが悪いから」と断わってしまった。
「二人のことはわかってたんじゃねえか」と彼は自分を責めた、「どっちも古い友達同志なんじゃねえか、――繁公、てめえきざなやつだぜ」


 いまにおひさは参吉といっしょになるだろう、参吉はきっと江戸に何人という職人になるだろうし、そうすればおひさも仕合せになれる、二人はそうなるようにきまっていたんだ。――繁次はそれを納得した。小さいじぶんからのことを思い返してみろ、二人がそうなるのは当然のことじゃないか、と彼は幾たびも自分に云った。
 そこまではっきりしているのに、薪小屋の前の二人の姿を思いだすと、そのたびに胸が裂けるような痛みを感じた。いつだったか、繁次の家の勝手でおひさが泣いていて、「参吉さんもそう云った」とおひさの口から聞いたあと、胸の奥にわけのわからない苦痛が起こった。そのときの痛みに似ていて、もっとするどく深く、息ができなくなるほどの痛みなのだ。
「おれだけじゃあねえんだな」と繁次はよく独り言を云った、「あのおつぎっていう人だって、女の身でずいぶん辛いおもいをしたらしいからな」
 おひさとはなるべく顔の合わないようにしたが、同じ家にいるのでまったく見ないわけにはいかないし、なにか話しかけられれば返辞もしなければならない。おひさのようすにはなんの変化もなく、これまでどおり彼を頼みにし、つまらないようなことでも、いちいち彼に相談するというふうであった。
 ――十四ぐらいでも、女ってものはたいした度胸があるんだな。
 男と抱きあい、唇を吸いあう、などということはたいへんな出来事の筈だ。云ってみれば一生がきまるようなことだろうのに、なんの変化もみせないというのは、よっぽどの度胸があるに違いない、と彼は思った。
 繁次はやがて、自分の気持を隠すことを覚えた。おひさにも参吉にも、できる限りそれまでと同じような態度をとり、自分の感情を表へあらわさないようにつとめた。こういう努力には卑屈感が伴わずにはいない。繁次はときどき自分がみじめで、やりきれなくなることがあった。そんなことはたびたびではないが、どうにもがまんのできないようなときには、いつかの居酒屋へいって気をまぎらわした。そういうときは参吉にもわかるらしく、におちないような眼で、しげしげと彼の顔を見ることがあった。
「おめえどうかしたのか」と或るとき参吉が訝しそうに訊いた、「このごろなんだかようすのおかしなときがあるぜ」
「そうかな」と繁次は首をかしげた、「自分じゃあ気がつかねえがな」
 だらしのないはなしだが、そのとき繁次はうれしいような気持になった。
 ――やっぱり友達なんだな。
 心にやましいことがあればそんなことを訊きはしない、と繁次は思った。おひさとのことがやましければ、おれのようすで気がつく筈だ。おれがこんなに用心しているのに、おかしいなと勘づくのは、おれを友達として心配してくれるからだし、心にやましさがないからだ。
 ――いいやつだな。
 あいつは思いやりのあるいいやつだ。あいつに比べるとおれはみみっちい、くだらねえ人間じゃねえか。あいつは頭もいい、自分で云うとおりきっと偉い職人になるだろう。おれなんかには過ぎた友達だ、と繁次は思った。
 二十はたちになったころから、参吉の訪ねて来るのが少なくなった。店の手があかないんだ、と云ったことがある。「島藤」では腕っこきの一人になったようすで、大名屋敷や金持の家へ、直し物にかようこともあり、休みの日にも、遊ぶより仕事をするほうが面白い、というふうであった。
 繁次は兄弟子にすすめられて、端唄の稽古を始めたが、どうしてもうまくならないし、声が悪いので「落葉に雨の」というのを半分やりかけたままよしてしまった。或る夜、また河岸の居酒屋へいったとき、少し酔ったのだろう、自分でも気づかないうちに、その唄をうたいだした。――参吉があまり来なくなってからだから、二十の年の冬のかかりだったろうか、雨が降っていて客もあまりなく、彼はいつもの隅に腰を掛けて、おつぎの酌で飲んでいた。飲むといっても、おつぎけてもらってせいぜい一本というところだし、それもたいてい三分の一は残るのが例であった。その晩もよけいに飲んだわけではないが、珍しく客が少ないのと、気のめいるような雨の音とで、なんとなくそんな気分になったのだろう、稽古したところだけを低い声で、そっとうたった。
「あら、いいわね」とおつぎが云った、「いきな文句じゃないの、あとをうたってよ」
「よせよ恥ずかしい」繁次は赤くなった、「われながらこの声にはうんざりしているんだ」
「あんたのおはこだよ、それ」とおつぎが云った、「なにかっていうと自分をけなすんだ、よくない癖だよ、繁さん、あんたはいい人だけれど、それだけは直さなくちゃいけないよ」
 繁次は黙った。
「あとを聞かして」おつぎは気を変えるように云った、「あたし好きだわ、その唄」
 繁次は首を振った、「これっきりしきゃ知らないんだ」
「そんなこと云わないで」
「本当に知らねえんだ」と繁次が云った、「ここまでやってみたけれど、自分でも可笑おかしくなってよしちゃったんだ」
 おつぎはじっと繁次を見ていて、「かなしい性分だね、あんたって人は」と溜息ためいきでもつくように云った。そして、そこまででいいからもういちど聞かせてくれ、とせがんだが、繁次はすっかりてれてしまい、この次にしようと断わった。
 その次の次あたりだろう、やはり客の少ない晩に、繁次はなにげなくその唄をうたった。もちろん張った声ではない、無意識な、呟くような声であった。そのときもおつぎは向うに腰掛けていたが、こんどはなにも云わず、燗徳利を持ったまま眼をつむって、しんと聞いていた。うたい終ってから、おつぎのそのしんとした表情を見、自分がうたったことに気づいて、繁次は赤くなった。
「いい唄だよ」とおつぎは眼をあいて云った、「かなしくって、せつなくなるようだ、すっかりならっちまえばよかったのに」
「ああ」とおつぎはすぐに頭を振った、「そうじゃない、それだけのほうがいいかもしれない、あとの切れちまってるほうが情が残っていいかもしれないよ」
「いろんなことを云うんだな」繁次は苦笑いをした、「おれなんかにゃあ文句の意味もわからねえや」
「もうすぐだよ」とおつぎが云った、「そういう気持を覚えるには学問もいらず、てまもかからないからね」
 そんなことを云われたのが、心のどこかに残ったのだろうか。それともほかに知った唄がないためか、仕事をはなれて、とぼんとしているときなどに、ふと気がつくとその唄をうたうのが癖になった。
「おかしなやつだぜ」と端唄のうまい兄弟子が云った、「唄ってものはしまいまできっちり覚えてからうたうもんだ、半端な唄はうたうな」
 繁次は一言もない。なるべく気をつけるようにしたが、つい忘れて、ときどきわれ知らずうたい、独りで赤くなるようなことがあった。
 二十二の年の春、参吉は長屋へ戻って、「島藤」の店へかよいの職人になった。店では一番の腕だそうで、大名や富豪の屋敷へは、もっぱら彼がゆくのだということであった。その年の夏、おひさも暇を取って家へ帰った。父親の角造が中気で倒れ、そのまま寝こんでしまった。増吉は神田白壁町の質屋へ奉公にいったばかりだし、どうしてもおひさが帰らなければならなかったのである。
「休みには家へ帰ってね、繁ちゃん」と暇を取って出てゆくときおひさが云った、「このごろあんまり帰らないんでしょ」
「帰らなくはねえさ」
「たいてえ芝居かどっかへゆくじゃないの、知ってるわよ」とおひさが云った、「でもこれからはなるべく帰ってね」
 参吉がいるぜ、と口まで出かかったが、繁次は「うん」と頷いただけであった。
 母親のくらしを助けるために、繁次は親方から三度金を借りているし、月づき幾らかずつは仕送らなければならないので、二十三で年期のあける筈が、なお一年延びることになっていた。彼は手のおそいほうだし、見栄みばえのするような仕事はできなかった。それできょうだい弟子たちからは軽くみられていたが、みてくれに構わず、いそがない品なら誰にも負けない物を作るので、特に箪笥たんすなどは名ざしで来る注文が少なくなかった。
 繁次は晦日だけは家へ帰った。しかし母に幾らか渡すと、茶も啜らずにとびだしてしまう。参吉やおひさに会いたくなかったし、ぐちっぽくなった母の繰り言を聞くのも、気が重かったのだ。
「そういう年ごろになったんだね」と母はたびたび云った、「男の子が二十を越せば、自分の家なんか気ぶっせいになるんだろう、いいよ、おまえだけじゃないんだから」
「注文の仕事がつかえてるんだ」と繁次は眼をそらしながら答える、「名ざしの注文なんだから、休みだからって遊んでるわけにはいかないんだよ」
 そんなふうに上りがまちで云って、そのまま出てしまうことが多かった。おひさは父の看病をしながら、仕立て物の賃仕事をしているそうで、ときには母のところへ、わからないところを訊きに来ていて、繁次と顔の合うこともあったが、おひさのほうが先に眼をそらすようで、話をする機会は殆んどなかった。


 二十四の年の三月に、繁次はようやく年期があけて、黒船町裏の家へ帰った。店と縁が切れたわけではなく、かよいでもう二三年仕事をすれば、親方が店を分けてくれる約束であった。
 こうなれば避けるわけにはいかない。朝でかけるときなど、しばしばおひさと出会った。おひさも十九で、すっかり女らしくなってい、朝の挨拶をするときなど、ちょっとした微笑や、おじぎのしかたなどに、ほのかな媚が感じられた。そんなことが眼につくと、繁次の胸はまた痛みにおそわれ、一日じゅうその痛みの続くこともあった。
 参吉ともよく会うが、彼は泊りこみで修理物にでかけることが多く、またお互いの仕事が違うためもあろうが、以前ほど親しい往き来はしなかった。
 ――どうして二人はいっしょにならねえんだろう。
 繁次はそれが訝しかった。参吉にも祖父とその女がいるし、おひさには寝たっきりの父親がある。たぶんそれが障りになっているのだろう、と思ったけれども、参吉は男であり、祖父は丈夫で女もいる。その気になればおひさと夫婦になって、病人ひとりくらい養ってゆけるではないか、などと思ったりした。
 夏になってから、――浅草寺の四万六千日のすぐあとのことだが、繁次が晩めしを済ませたところへ、参吉が訪ねて来た。
「おばさん今晩は」そう云いながらさっさとあがって来、爪楊枝つまようじを使っている繁次の脇に坐った、「おめえに見せてえものがあるんだ、こいつを見てくれ」
 あっけにとられている繁次の前へ、二尺に三尺ほどの紙をひろげた。母がちゃぶ台を持ってゆき、参吉は行燈を引きよせた。その紙には一脚の厨子ずしの絵が、極彩色ごくさいしきで描いてあった。
「おれにはよくわからねえが」と繁次が云った、「見たことのねえもんだな、文台ってやつか」
ひさし二階の厨子っていうんだ」
「大名道具だな」
「紀州さまから出たんだそうだ」と参吉は昂奮して云った、「いまは本町二丁目の小村屋のもので、この下の段、下層っていうんだが、ここのところの螺鈿らでんがいけなくなったんで、おれが五十日がかりで繕ったんだ」
 小村屋という名は繁次も聞いていた。日本橋本町二丁目の唐物からもの商で、長者番付にも載るほどの富豪だという、主人あるじの喜左衛門は茶人としても名高く、歌、俳諧はいかいなども堪能だという評判だった。――その厨子は先代の喜左衛門が紀伊家から賜わったのだが、作られたのはおよそ七百年まえであり、関白かんぱく藤原のなにがし家の調度だった。そういう由緒のある品だから外へは出せない、参吉は小村屋へかよって修理をし、終りの七日ばかりは泊りこみでやった、ということであった。
「この青貝の脇を見てくれ」参吉は指で五カ所をさし示した、「これは鈴虫なんだ、こことここに五ひきいるだろう、それで鈴虫の厨子という名が付いているんだ」
 そして漆や蒔絵の図柄や、螺鈿のこまかい技巧について、蚊にくわれるのも知らず、熱をこめた口ぶりで、熱心に説明した。
 ――やっぱりたいしたやつになったな。
 繁次はそう思ってたじろいだ。彼にはその厨子が、そんなに貴重な品かどうか見当もつかない。もちろん実物を見たわけではない、参吉の描いた絵と、その説明を聞いただけであるが、それだけでも実物を見るような感じがした。しかし彼がたじろいだのは、厨子に対する参吉の態度であった。彼のまわりにもずいぶん凝り性な者や、変った性質の者がいる。それは職人かたぎといって、どんな職にも一風変った、名人はだの人間がいるものだ。参吉もそういう一人なのだろうが、それらよりもっと大きな、底の知れない才能、といったものが感じられた。
「いけねえ、饒舌しゃべりすぎた」参吉はふと繁次を見て、苦笑した、「すっかり退屈さしちゃったようだな」
「退屈なもんか、戸惑ってるだけだ」
「七百年か」参吉は絵をたたみながら、独り言のように云った、「――こいつはきっと千年以上も残るぜ」
 参吉のすごいような眼つきを見て、繁次はずっと以前のことを思いだした。
 ――金なんかいらない、一生貧乏で、たとえ屋根裏で死んでもいい、百年さきまで名の残るような物を作ってみせる。
 参吉はそう云ったことがあった。たしか二人とも十三だったろう、仏具屋をやめて「島藤」へはいるまえのことだ。それからまる十年の余も経ち、繁次は忘れていたが、参吉の心の中にはいまでもあのときの火が燃えている。十年以上ものあいだ休みなく燃え続いていたのだろうし、いまではもっと激しくなっているようだ。やっぱり参吉は何万人に一人っていう人間なんだな、と繁次は思った。
 その前後から、参吉の家がうまくいっていない、というような噂を聞くようになった。祖父のれこんだ女はおみちといい、もう四十を越していた。はじめ「一年も続くかどうか」といわれたくらいで、こんな裏長屋にはそぐわないようなあだっぽい女だったが、茂兵衛との仲もいいし、四十を越したとは思えないほど、いまでも若わかしいいろけをもっていた。噂のたねはそのおみちで、参吉とあやしいから茂兵衛がやきもちをやくとか、参吉がおみちを追い出そうとしているとか、まったく反対な陰口がひろまっていた。
「茂兵衛さんはもう八十だろう」という者があった、「女のほうは四十を出たといっても、あのとおりいろけたっぷりだからな、おまけに参吉のやつがまたいい男ときてるんだから、無事におさまってくわけがねえや」
「あのひと毎晩のようにせっつくんですってよ」という女房もいた、「それではおじいさんの躯がたまらないだろうって、参吉さんが出てゆけがしにするのよ、なにしろおじいさん孝行な子だったものね」
 繁次はどっちの噂も信じなかった。
 ――参吉にはおひさがいる。
 あんな女に関心を持つ筈はない、あいつの頭は仕事のことでいっぱいなんだから。そう思っていた。そのころ繁次はようやく酒の味がわかるようになり、休みの日や、気持のふさぐようなときには、居酒屋とか蕎麦そば屋などで一杯やる癖がついた。飲むといっても一本がいいところで、それを一刻もかけて舐めるように飲む。たまに二本めを取ったりするが、どうしても半分は残るのであった。
 神田川の河岸のあの居酒屋は馴染のようになった。おつぎという女はもういなかった。繁次の年期が終るちょっとまえにその店をやめてしまい、どこへいったかわからなくなった。おたつという女中の話によると、博奕ばくち打ちの男があり、その男といっしょに上方かみがたのほうへいったらしい。ということであったが、べつの女中は「からだがわるくなったので故郷くにへ帰ったようだ」と云っていた。故郷がどこだかは店の主人も知らず、どっちの話が事実かもわからなかった。――繁次は暫く淋しかった。それほど好きというのではない、初めてのときに感じた、あたたかいいたわり、男のような言葉つきの中にあるうら悲しいようなひびきなど、向きあっているとしんから慰められるように思えた。ほかにも馴染の客が少なくないらしいのに、繁次がゆくとすぐに寄って来て、帰るまで相手をしてくれる。いろ恋とはまったくべつな、姉と弟という感じだったろう。いなくなられたあとも、好きな姉を失った、というふうな気持であった。
 九月の十五日の休みに、おひさを芝居へ伴れていってやれ、と母に云われた。
「いやだよ」と繁次は断わった、「みっともなくって、そんなことができるかい」
「なにがみっともないのさ」
「長屋のみんなにへんな眼で見られるじゃねえか」そして殆んど呟くように云った、「芝居なら参吉につれてってもらえばいいさ」
「参ちゃんがどうしたって」
「なんでもねえよ」と繁次は云った、「――二三日まえに縫ってた参吉のあわせも、ちょうど仕上ったんじゃねえのか」
 母は口をつぐんだ。
 三日まえの夜、おひさが縫いかけの袷を持って来て、ひとところどうしてもうまくいかないからと、母の手を借りていた。こりこりするような紬縞つむぎじまで、母は針を動かしながら「参吉さんにぴったりの柄じゃないか」と云っていた。繁次は木綿のほかに着たことはないが、参吉は渋い絹物を好んで作った。多くは紬で、色も柄も渋いものだし、光るような生地は決して使わないから、絹物といっても、着たところにいやみはなかった。
 ――酒でも飲むか。
 繁次はぼんやりそんなことを思った。
 おひさは参吉のもの、と自分でもはっきりきめているのに、おひさが参吉の着物や羽折などを縫っていたりすると、いつものように胸が痛くなる。以前のように耐えがたいというほどではない。いっとき経てば消えてしまうが、その痛みを感じたときの、頼りないような淋しさのほうが、心に残るようになった。
 明るいうちから飲みにもゆけず、浅草の奥山へでもいってみようかと思い、着替えをしているところへ参吉が来た。
「ちょっと相談があるんだが」と云って参吉は繁次のようすを見た、「――でかけるのか」
「用じゃあねえんだ、あがってくれ」
「うちへ来てくれないか」と参吉が云った、「ここじゃあ話しにくいんだ」


 参吉はそわそわしていた。いっしょに家へいってみると、老人も女も留守だった。
「茶でもれようか」と参吉が云った、「ちょうど湯が沸いてるが」
「どうしたんだい」繁次は不審そうに参吉を見た、「茶だなんて、珍しいことを云うじゃねえか」
「おれだって茶ぐらい淹れるさ、まあ楽にしないか」
「それはおめえのほうだろう」と繁次は云った、「なんだか今日はようすがおかしいじゃねえか、相談てなあなんだ」
「まあとにかく茶を淹れよう」
 繁次は口をつぐんだ。
 ――なにかあったな。
 そう思いながら、ふと脇にある机のような物に、片肱かたひじを突いてりかかった。唐草の風呂敷が掛けてあるからわからないが、倚りかかった感じは机のようであった。
「あ、ちょっと」とすぐに参吉が云った、「そいつはいけねえ、そいつに触るのはよしてくれ」
 繁次はすぐにはなれた、「うっかりしてた、机のようだな」
「机じゃあねえんだ、いま見せるよ」
 参吉は茶を淹れて来て坐った。
 茂兵衛の好みだろうか、小ぶりな茶碗も高価な品のようだし、茶の味も繁次には初めての、びっくりするほどうまいものであった。こんな裏長屋などで茶らしい茶を飲む家はない、もちろん高価だということが第一だが、食うことに追われている生活では、おちついて茶をたのしむなどという心のゆとりがなかった。茶といえばふけたような匂いのする安い番茶で、それを色の出なくなるまで淹れて使うから、白湯さゆを飲むのとさして変りがなかった。
 参吉は茶を一と口啜ると、机のような物に掛けてある風呂敷を取った。
「おれが作ったんだ」と参吉は云った、「――どう思う」
 繁次は坐り直した。
 二段になっている文台のような道具で、青貝入りの金蒔絵がみごとに仕上っている。下段は四枚の扉があり、中央の二枚が左右に開くのだろう、合わせめに小さな銀の錠前が掛っていた。蒔絵は暗い朱色の地に、金でこまかく秋草が散らしてあり、ところどころに青貝が光っていた。
「たいそうなもんだな」繁次は手を伸ばして、そっとこばでながら云った、「おれなんぞにはよくわからねえが、こりゃあたいそうなもんだ」
「なにか気のつくことはねえか」
「どういうことだ」
「これを見てくれ」参吉は指で、青貝の部分をさし示した、「ここと、ここと、これだ」
「うん」繁次は眼を近づけた、「――虫のようだな」
「鈴虫だよ、忘れちゃったか」
 繁次は「鈴虫」と口の中で呟いた。
「いつか絵図を見せたろう」
「ああ」と繁次は云った、「口まで出かかってたんだ、小村屋の文台だったな、たしか」
「厨子っていうんだ、鈴虫の厨子だ」
「だっておめえいま、自分で作ったって云やあしなかったか」
「頼まれて写しを作ったんだ」
「へええ」繁次はもういちど熱心に見直した、「そういえば、あのとき見せてもらった絵図とそっくりのようだな、いつのまにやったんだ」
「ふつうなら一年くらいかかるだろうが」と参吉が云った、「おれはまえから早漆といって、漆の重ねかたや乾かしかたのくふうをしていた、まだ誰も知らねえんだが、それでやるとふつうの三分の一で仕上るんだ」
ちはどうなんだ」
「これが初めてだからたしかなことは云えねえが、一年かけてやったのと違いはない筈だ」と参吉は云った、「だがそれはまたのことにして、おまえにひとつ頼みがあるんだ」
「おれにできることか」
「親方に話してもらいてえんだ」参吉はちょっと口ごもった、「指物職だから、とくい先にこういう道具を欲しがっている客はねえか、もしあったら売ってもらいてえと思うんだが」
「わからねえな」と云って繁次はふと眼をあげた、「しかしおめえいま、頼まれて写しを作ったって」
「そうなんだ」と参吉はせきこんで云った、「或る道具屋から頼まれて、代金まできまってたんだが、その道具屋が急につぶれちまって、おれは金が要るし、途方にくれちゃってるんだ」
 繁次はちょっと考えてから訊いた、「値段はどのくらいなんだ」
「道具屋との話では五十両ということだったが、事情が事情だから、現銀なら三十両でいいんだ」
「金はいそぐのか」
「いそぐんだ」と参吉は云った、「じつは嫁を貰うことになって、いい家があったもんだから手付けを打ったんだが」
「嫁を貰うって」繁次はどきっとした、胸の中でどきんと音がしたような感じだった、「そうか、そりゃあよかった、そいつはいいや、そういうことならすぐ親方に話してみるが、値段のところがどうなるかな」
「自慢するようだが、これは鈴虫の厨子でとおる品だぜ、時代の色までそっくり写したんだ、腕のいい道具屋なら鈴虫の厨子で、金二百枚には売れるくらいなんだ」
 繁次は妙な顔をしたが、「うん」と頷いてまた参吉を見た、「――いま家へ手付けを打ったって云ったが、世帯を持つのはここじゃあねえのか」
「ここじゃあまずいんだ、相手の育ちが育ちだからな、いくらなんでも」
「育ちが育ちって」繁次がさえぎった、「それはどういうことだ」
「それを云わなかったっけ」と云って参吉はてれ隠しに笑った、「初めに云うつもりだったんだが、相手は小村屋の娘なんだ」
 繁次は口をあいたが、言葉は出なかった。
「おれがあの厨子の繕いにかよってたことは話したな」と参吉は続けた、「そのあいだずっとその娘、――おすがっていうんだが、茶や八つの世話をずっとしてくれていたんだ、年は十八、縹緻きりょうもちょっとずばぬけているが、おっとりした娘で、そうだな、坐っていろと云えば一日じゅう坐っている、っていうようなところがあるんだ」
 修理にかよっているうちに、この娘を妻に貰えれば、おれは立派な仕事ができると思った。問題は向うが富豪で、こっちがひらの職人だということだが、しかし蒔絵師としてのおれは、人におくれをとらない腕がある。向うは金、こっちは腕だ。とにかく当ってみろと、まず娘に自分の気持をうちあけた。娘はべつに驚いたようすもなく、あっさり「ええいいわ」と答えた。
「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずおすがらしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、おすががゆくというので結局はなしがまとまった」
「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような口ぶりで遮った、「そうすると、おひさはどうなるんだ」
 参吉はいぶかしそうな眼をした、「どうなるって、おひさちゃんがどうかしたのか」
「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好きだったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってるんだぜ」
「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだっていうことと夫婦になるならねえってことは」
「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、おひさが十四の年だ、おれのたなへ訪ねて来たおめえは、勝手口の外にある薪小屋のところで、おひさと抱きあってた、どんなふうに抱きあってたか、おれの眼にはいまでもはっきり残ってるんだ、あれが、ただ好きだっていうだけでできることか」
「待ってくれ」参吉は額を横撫でにした、「――うん、覚えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」
「どこが思いすごしだ」
「おめえの云うとおりおれは十九、おひさちゃんは十四だぜ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持もありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」
「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひいた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」
 繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れたが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、とびかかって馬乗りになると、こぶしで相手の横鬢よこびんを殴った。
 ――いけねえ、またやった。
 心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへおひさが駆けこんで来た。
「よして繁ちゃん、危ない」おひさは繁次にしがみついた、「ごしょうだからよして、危ない、よしてちょうだい」
 繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある(昔の)薄い傷痕きずあとを見た。
「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近所へみっともねえから」
「繁ちゃん」とおひさが泣き声で云った。
 繁次はからだをどけ、参吉は起き直って、着物のえりを合わせた。
「もういい大丈夫だ」と繁次はあえぎながらおひさに云った、「これから男同志で話すことがある、もう乱暴なまねはしねえから、おめえはうちへ帰っててくれ」


 半刻ばかりのち、おひさが晩めしの支度をしていると、勝手の障子をあけて、繁次がのぞいた。
「六つが鳴ったら渡し場のところへ来てくれ」と彼はささやいた、「話があるんだ」
「六つね」とおひさは頷いた、「いいわ」
 繁次は障子を閉めて去った。
 おひさ御蔵おくらの渡しへいったとき、繁次は河岸っぷちにたたずんで、暗くなった隅田川の水面をながめていた。あたりはもうすっかり昏れてしまい、向う岸の灯がまばらに、ちらちらとまたたくように見えた。その渡しは六時が刻限なので、渡し小舎ごやも戸を閉めてい、河岸沿いの道にも通る人は殆んどなかった。
「ちょっと飲んでいたんだ」おひさを見ると繁次はすぐに云った、「臭かったらはなれていてくれ」
「さきに云っとくわね」おひさは繁次の言葉に構わずそう云った、「あたし悪いけれど、あんたたちの話を聞いちゃったのよ」
「鈴虫の厨子のこともか」
「ええ、頼んだ道具屋さんが潰れたってことも」
「あれは贋作がんさくだ」と繁次が云った、「写しだと云ったが、道具屋と結託して鈴虫の厨子の偽物にせものを作ったんだ、あいつはもうだめだ、参吉はいい腕を持っているが、その腕のいいのがあだになった、いまっから道具屋と組んで、名物の偽作なんぞするようじゃおしまいだ」
「だってあの人、お金が要るんでしょ」
「作りだしたのはそのまえっからだ」と繁次は怒りを抑えかねたように云った、「おめえが帰ってからおらあ云ってやった、そんな無理なことをして嫁に貰ったって、おんば日傘で育った金持の娘に、おめえの稼ぎでやりくりのできるわけがねえ、また贋作、偽物を作るということになるぜって」
「あんたは昔っからあの人が好きだったわ」
「好き以上だ、おれはあいつこそ万人に一人っていう職人になると思ってた」と繁次は云った、「――人間てもなあわからねえ、おらああいつを、おれなんぞとは段違いなやつ、いまに必ず偉くなるやつだと信じこみ、あいつがおれの友達だっていうことが自慢だった、あいつのためならどんなことをしてもいいと思い、……云っちまうが、おめえのことさえあきらめたくらいなんだぜ」
「知ってるわ」とおひさが囁き声で云った、「あたし知ってたのよ」
 繁次は顔をそむけ、おひさからはなれて、河岸っぷちを石垣すれすれに五六歩ゆき、そこで川のほうに背を向けてしゃがんだ。――男が二人、御蔵のほうから高ごえに話しながら来、繁次とおひさを認めたのだろう、通り過ぎてゆきながら、「ようおたのしみ」と云った。どうやら酔っているらしかったが、それ以上からかうようすもなく、はずんだ声で話しながら去っていった。
 ――おたのしみ、か。
 繁次は強く奥歯をみ合せた。
 ――ここで蟹を捕ってやったことがあったっけな。
 おひさがこっちへ歩み寄って来た。
「あたし繁次さんが好きだったわ」とおひさは低い声で云った、「こんな小さいじぶんから、ずっとあんたが好きだったわ、そのことを知ってもらおうと思って、ずいぶん小さい知恵をしぼったのよ、――でもあんたは勘づいてはくれなかった、あんたは一人ぎめに、あたしが参吉さんを想ってるって、自分だけで思いこんでいたわ、あたしが口やそぶりで、どんなにそうじゃないってことを知らせようとしても、あんたは気づいてもくれなかったのよ」
 繁次はしゃがんだまま、両手を固く握り合せ、それを額へぐいと押しつけた。
「それがほんとなら」と繁次はよく聞きとれない声で云った、「――いや、いまでもそう思っていてくれるのか」
 おひさは答えなかった。呼吸五つほど数えても答えのないことで、繁次にはおひさの気持がおよそわかった。
「参吉はもうだめだぜ」と繁次が云った、「あいつは小村屋の娘を貰うだろう、だが、それも長続きはしないだろうし、職人としても立ち直ることはできやしないぜ」
「だめなことはあたしも同じよ」とおひさが云った、「――薪小屋の前であの人に抱かれたとき、あたし、これが繁ちゃんなら、って思ったわ、あんなふうに抱かれるなんて夢にも思わなかったし、抱かれるとすぐに、これが繁ちゃんだったらいいのにって思った、おかしいようだけれど、いまでもそのことは覚えているのよ」
「おれには、とても」と繁次が口の中で呟いた、「とてもそんな勇気はありゃあしねえ、けれどもおれは」
「いいえだめ、もうだめなの」おひさはそっとかぶりを振り、なんの感情もない声で遮った、「繁次さんがあたしのこと、あの人が好きだと思いこんで、いつまでもそう思いこんでいるのを見ているうちに、あたしあの人のことが本当に好きになってしまったの」
「しかしおめえもわかっている筈だ」
「あんたが悪いのよ」むしろ明るい口ぶりでおひさが云った、「こんなにあの人のことが忘れられなくなったのは、あんたのせいよ、――あたしもうだめなの、本当にだめなのよ」
 繁次は黙った。おひさも口をつぐんだ。
「あたしわかってるわ」とおひさがやがて云った、「あんたの云うとおり、あの人は小村屋からおかみさんを貰っても、きっと長続きはしないでしょ、そればかりじゃない、男のあんたにはわからないようだけれど、あの人はいまがゆき止りよ、万人に一人なもんですか、女には女の勘があって、男のことは案外よく見えるものよ、あの人はもうゆき止りだわ、これからはただ落ちるだけよ」
 繁次がきっと振向いた。すると、おひさはなにかを避けるように、繁次の顔をみつめながらあとじさりをした。
「あんたは仕合せになれるわ」あとじさりをしながらおひさが云った、「うちの町内にだって二人も、あんたのことを好きな人がいるわ、もうすぐあんたは店を持つんだし、どんないいおかみさんだって貰える、あんたはきっと仕合せになれてよ」
 おひさはついに泣かなかったし、泣き声も出さなかった。


「どうしたの」と女が云った、「ちっともあがらないじゃないの、お口に合わないんですか」
「おめえに一ついこう」
「あたしだめなの」と女が云った、「このうちはやかましいのよ」
 繁次は盃を出し、女は酌をした。
 ――本所らしいな、ここは。
 彼は注がれた盃を持ったまま、店の中を眺めまわした。天床に八間はちけんが二つ、木口の新しい、小ぎれいな店の造りを明るく照らしている。白磨きのがっちりした飯台が四つ、二列に並べてあり、腰掛も樽ではなく、よく枯らした杉の厚い板で、一人ずつ座蒲団が置いてあった。もうおそいのだろう、客はまばらで、板場へ通じる暖簾のれんの奥も静かになっていた。
「ここは本所か」と繁次が訊いた。
「その次はあたしの名でしょ」と女は云った、「あたしおきぬ、どうぞごひいきに」
「本所のどのへんだ」
 そのとき向うで「きぬちゃん」と呼んだ。三人の客の相手をしていた女中である、おきぬは「ちょっと待ってね」と云って、そちらへ立っていった。
 繁次は盃を口へ持っていったが、眉をしかめて口からはなした。
「本所のどこだろう」彼は自分の考えをそっちへそらすように呟いた、「――あれから一軒、二軒、ここが四軒めだな」
 盃を持つ手がふらふらし、盃の酒がこぼれた。繁次は肱を突いた左の手で顔を支え、なにかを耐え忍ぶように唇を噛んだ。
「――落葉に雨の音を聞く」
 三人伴れの向うの客の一人が、いい声でうたいだし、その伴れがやじを入れたので、唄はそれっきり聞えなくなった。
「なつかしいな」繁次は眼をつむった、「あの人はおつぎといったっけ、――もうすぐよって、こういう気持がわかるようになるには、学問も金もいらないからねって」
 そうだ、学問もいらず金をかけなくっても、いつかはみんなそういう気持を味わうときが来るんだ。いまから思うと、おれはもうあのとき、ああいう気持がわかっていたらしい、だからあの唄ばかりうたってたんだ。へ、だらしのねえやつだ、と彼は思った。
「もう忘れちゃったなあ」繁次は眼をつむったまま、さぐりさぐり、口の中で低くうたいだした、「――落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとや……」
 彼はつむった眼にぎゅっと力をいれた。
「あたしその唄だい好きよ」と女が云った、「あとを聞かして」
 女が戻って来たのを知らなかったので、繁次は吃驚びっくりし、盃の酒をまたこぼした。女は布巾で台の上を拭き、燗徳利を取りあげた。
「あらいやだ」とおきぬが云った、「ちっとも減らないじゃないの、どうなすったの」
「この唄を知ってるのか」と繁次が訊いた。
「文句はよく知らないのよ、でも好きな唄だわ」とおきぬが云った、「はいお酌、――冷たいわね、お燗を直して来ましょうか」
「それより水を貰いてえな」
「おひやね、はい」おきぬは立っていった。
 あとの文句はうたわないほうがいい、とおつぎが云った。あとの切れているほうが情が残るようだって、と繁次は思った。
 おきぬが湯呑に水を持って来た。彼は一と息に飲みほそうとしてせ、激しくきこんだ。
「勘定」と彼は呟きながら云った。
「いまのあとを聞かしてくれないの」
「この次だ」と彼は云った、「こんど来たときにな」
「きっとよ、きっといらしってね」
「きっと来るよ」と彼は頷いた。
 勘定をして外へ出ると、街はひっそりとしていて、辻燈台のほかには一つの灯も見えず、かなり強い風が吹いていた。繁次は立停って、左右を見まわした。
「どっちへゆくんだ」まっ暗な街を眺めながら、彼は途方にくれたように呟いた、「――これからどっちへいったらいいんだ」





底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
   1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」
   1959(昭和34)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年7月27日作成
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