おひさは
「なんでもないよ、繁ちゃん」と参吉が云った、「大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」
これが繁次と参吉と、そしておひさをむすびつけるきっかけになったのだ。
繁次と参吉はおないどしであった。浅草黒船町の裏の同じ長屋で生れ、その長屋で育った。おひさはかれらより五つとし下で、やはり同じ長屋の、繁次の家と向う前に住んでいた。――三人は小さいじぶんお互いを知らなかった。長屋には子供が多いし、三人はめだつような子ではなかったからだ。そのうえ、繁次は七つのときに総持寺の末寺へ小僧にやられ、五年のあいだその長屋にいなかった。父の源次は
繁次が十二の年に父が死んだ。あとには
こうして繁次が長屋へ帰った年、参吉は反対に、田原町二丁目の仏具師の店へ奉公にはいった。ちょうど繁次と入れ違いのようなかたちだったが、そのあいだ半年ばかりいっしょに遊んだ。五年ぶりの再会であったが、特に親しかったわけではないから、初めは同じ長屋の顔見知りというくらいのつきあいで、そこにもしおひさがいなかったら、二人は友達にさえならなかったかもしれなかった。
おひさは妹の友達としてすぐ彼に馴染んだ。妹のおゆりより一つとし下の七つで、躯つきも顔だちも貧相な、
五月はじめの或る午後、――
そのとき参吉があらわれた。
「おい鉄、よせよ」と参吉がおっとりした声で云った、「五人がかりで一人をいじめるなんてみっともねえぞ」
「あたしのもよ」とおひさが泣きながら小桶を指さした、「あたしの蟹も逃がしちゃったのよ」
「いやなやつらだな」と云って、参吉は唾を吐いた、「いっちまえよ、鉄」
五人はぐずぐずとそこをはなれ、なにかあくたいをつきながら、
それから半月くらいあとに、長屋の路地で出会ったとき、参吉のほうから繁次に笑いかけて、将棋をささないかと云った。参吉は色の白いおも長な顔で、眉が濃く、いつも
「そんなら覚えればいいさ」と参吉が云った、「うちへ来ないか」
繁次は初めて参吉の家へいった。
参吉は両親がなく、
茂兵衛の年はもう七十に近かった。背丈が高く
繁次は将棋を覚えてから、毎晩のように参吉の家へでかけていった。――彼は
老人はあまり口はきかないが、孫の参吉がひじょうに可愛いらしく、そのため繁次にもあいそよくするようであった。参吉はうるさそうな顔をするだけで、なにも云わないし、もちろん自分でやろうとすることもない。繁次と将棋をさしながら、平気でその茶を
参吉は十月の末に仏具屋へ奉公にいったが、そのちょっとまえの或る夜、繁次は怒って参吉を殴った。いつものように将棋をさしていて、繁次が二番負け、三度めに勝った。そして四番めの駒を並べるとき、参吉が「こんどはかげんなしにやるぜ」と云った。これが繁次にかちんときた。
「じゃあ」と繁次が訊き返した、「これまではかげんしてたのか」
「いいからやんなよ」と参吉がおうように云った、「待ったなしだぜ」
繁次はみじめに負けた。参吉のさしかたは
「ちぇっ」と参吉は駒を投げだしながら云った、「おめえはだめだな」
「だめだって」繁次はふるえた、「なにがだめなんだ」
「繁ちゃん」と参吉が云った。
「だめとはなんだ」と繁次はどなった、「なまいきなことを云うな」
そして彼は参吉にとびかかり、押し倒して
「怒らして悪かった」と起きあがりながら参吉が云った、「ごめんよ、繁ちゃん」
「たいへんだ、血が出てる」繁次は
そのとき老人はいなかったので、彼は母を呼びにゆこうとしたが、参吉は「そんな大げさなことはよせよ」と云い、勝手へいって傷を洗った。左の眉のところが斜めに、一寸ばかり切れていた。殴ったとき
「なんでもないよ、繁ちゃん」とそのとき参吉が云ったのだ、「――大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」
その言葉がこたえたのはあとのことだ。
参吉はまもなく仏具屋へ奉公にゆき、すると茂兵衛はへんな女を家へ入れた。年は三十五六、小柄でひき緊まった躯つきにも、あさ黒い膚の、よくととのった目鼻だちにも、水しょうばいをした者に特有の
――参ちゃんはどう思うだろう。
おとなたちの話は、繁次には理解できなかったが、下町で育てばませるのが一般だから、おぼろげながらいやらしいということは感じた。暫くいて出てゆくのならいいけれども、あのまま女がいつくとすれば参吉の母ということになる。
――あんな女を母と呼べるだろうか。
おれならまっぴらだな、と繁次は思い、参吉が気の毒でたまらなくなった。
正月元旦の
「将棋はよしたんだ」と繁次は云った、「それより浅草へでもいかないか」
繁次の眼に気づいて、参吉は左の眉のところを
「これが気になるのか」
「そうでもないけれど」と繁次は赤くなった、「でも、――将棋さえやらなければ、あんなことにはならなかったろうからね」
「なんでもねえのにな」と参吉が云った、「じゃあ浅草へいこう」
妹のおゆりと向うのおひさが、
繁次は小遣など持ってはいないので、見世物や芝居の看板を
「呼ぶのに困るんだ」と参吉は苦笑した、「おっ母さんじゃあねえし、おばあさんて呼ぶのは悪いようだしな」
十歩ほどいってから、繁次がまた訊いた、「参ちゃんは嫌いじゃあねえんだな」
「ねえな」と参吉が答えた、「――おれにゃあずっと、かあちゃんがいなかったから」
繁次は頭を垂れた。
「長屋の者が悪く云ってるってことは知ってるよ」と参吉が云った、「人のわる口を云うのに銭はかからねえからな、云いたい者には云わせておけばいいさ」
それからさらに云った、「そんなことを気にしてくれなくってもいいぜ、繁ちゃん」
繁次は黙って
おれとは段が違うんだな、とあとで繁次は思った。おひさに蟹を捕ってやっていたときのこと、鉄や与吉を追っぱらってくれたが、どなりもしなかったし
――いっちまえよ、鉄。
そう云った静かな声が思いだされた。まだこっちは坊主頭で遊び相手もないとき、将棋をやろうと云ってくれた。知らなければ覚えればいいさ、うちへ来ないか。そうして、覚えの悪いおれに、半年も辛抱づよくつきあってくれた。
――おめえはだめだな。
舌打ちをしてそう云われたとき、おれはのぼせあがるほど
――人間の段が違うんだな。
繁次はそう思った。人の悪口を云うのに銭はかからない、とあいつは云ったが、長屋の人たちが悪く云うには理由がある。おれだってあんな女はいやらしいし、あいつだって好きにはなれない筈だ。朝っから白粉の匂いをぷんぷんさせて、だらしのない恰好をしている女なんぞ、あいつだってがまんがならないに違いない、けれどもあいつはそんなけぶりもみせなかった。
――ああいうのを十万人に一人っていう人間かもしれねえな。
繁次は十三歳の頭でそう思った。
田原町と黒船町はわりに近いので、月に三度か五度くらい、参吉は長屋へあらわれた。たいていは使いに出たついでのことで、繁次は「指定」へいっているから殆んど会わなかったが、妹のおゆりや向うのおひさからよくそれを聞いた。ことにおひさは、参吉のことになるとむきになり、彼の云った言葉や、どんな顔つきをしたか、などということまで、詳しく覚えていて繁次に告げた。
「あの人にお土産を持って来るのよ」とおひさは云った、「いつでもよ、あたいちゃんと知ってるわ」
「あの人って誰だ」
「参吉さんちにいる女の人よ、わかってるくせに」
おひさは彼を繁ちゃんのあんちゃんと呼ぶが、参吉のときは名前にきちんとさんを付けて呼んだ。
――こんなちびでも人の見分けはつくんだな。
繁次はそのころからそう思いはじめた。おひさは参吉が好きなんだ、よせばいいのにな、あいつはいまにきっとえらい人間になる、おめえみてえなみっともねえ子なんか、見向いてもくれやあしねえ。あんまり好きにならねえほうがいいぜ、などと思うこともあった。
その年の秋ぐち、七月にはいるとすぐに、長屋で
「さぞ苦しかったろうね、可哀そうに」母はおゆりの死顔に化粧をしてやりながら、同じことを繰り返して云った、「あたしはこんなに躯が弱いんだもの、死ぬならあたしが死ぬ順じゃないか、あたしはもう先に望みはありゃあしない、おまえはこれからどんなにでも仕合せになれたのにね」
棺を出そうとしているところへ、参吉が悔みに来た。急に背丈が伸びたようだし、口のききようもいっそうおちついて、繁次にはちょっと近づきにくいようにさえ感じられた。近所の人たちのごたごた混みあっているなかで、参吉は悔みを述べ、香典の包を置くと、繁次にめくばせをして、脇へ呼んだ。
「おれは田原町をよすことにしたよ」と参吉は云った、「
そのときおひさがこっちへ来て、参吉さん、と呼びかけた。参吉がそっちを見ると、おひさは繁次のうしろへ隠れて、恥ずかしそうに笑いかけた。参吉も
妹に死なれたことは、繁次にとっても大きな痛手であった。しかし育ちざかりのことであるし、母がいつまでもくどくど嘆き続けるので、それがうるさいために、却って早く悲しさを忘れるようになった。――それよりまえ、九月の
「おれは名をあげてみせるよ」参吉は珍しく
繁次は圧倒された。参吉がそんなようすをみせたのも初めてであるが、屋根裏で飢え死にをしてもいいとか、百年のちまで名の残るような仕事をする、などという言葉は、聞くのも初めてであるし、その意味もよくのみこめないので、参吉が自分の知らない世界にはいり、見あげるほど高く、えらい者になったように感じられたのであった。
――あいつはきっとそうなるだろう。
繁次はそれを確信した。そして、自分が彼の額を傷つけたときのことや、怒りもせずに、おちついた手つきで傷の手当をしていたことを思いだし、あんなところにも人にまねのできない性分があらわれていた、やっぱりえらくなるやつは違うんだな、と思った。
年があけて二月、繁次は「指定」の店へ住込みで奉公することになった。母のことは向うのおひさのうちで面倒をみてくれるというし、かよいでは本当の仕事が覚えられない。それに年も十四になったので、思いきってそういうことにした。そして、住込みときまったとき、横山町の「島藤」の店へゆき、参吉を呼びだしてそのことを告げた。
「おれは参ちゃんのような能はねえけれど」と彼は別れるときに云った、「それでもいちにんまえの職人にはなるつもりだよ」
「おめえは腕っこきになるさ」と参吉は励ますように云った、「やぶいりに会おう」
それから三年経った秋、おひさの母親が死んだ。
繁次が仕事で
「かあちゃんが死んだの」とおひさは前掛で顔を
繁次は口をあいたが、すぐには言葉が出なかった。彼はおひさの肩へ手をやり、するとおひさは躯ごと
「どうしたんだ、いつ死んだんだ」
「昨日が初七日だったの」
「知らなかったな、病気だったのか」
「十日ばかり寝ただけ」とおひさが答えた、「寝て二三日すると頭がおかしくなって、死ぬときにはわけがわからなくなっていたの」
「ちっとも知らなかった、たいへんなことになっちゃったな、それは」
おれはまぬけなことを云うぜ、繁次は自分に舌打ちをした。凭れているおひさの躯が、触れているところだけ熱いように感じながら、悲しいような気分さえ起こらない自分が、恥ずかしくなるばかりだった。
「あたしどうしよう、繁ちゃん」おひさは咽びあげながら云った、「あたしどうしたらいいかしら」
「どうするって、なにを――」
おひさは急に躯を固くした。繁次はその躯を押しはなして、顔を
「なんでもないの」とおひさは微笑した、「かあちゃんに死なれて心ぼそくなっただけよ、ごめんなさい」
「そうだろうけれど、まあ坊がいるからな」と繁次はぎごちなく云った、「おじさんはあんなだから、おめえがしっかりしなくっちゃまあ坊が可哀そうだぜ」
「おかしいのね」おひさはぼんやりと、独り言のように云った、「あの子ったらかあちゃんが死んでも泣かないのよ」
そしておひさは
その夕方、仕事を終ってから、繁次は親方にわけを話して、おひさの家へ悔みにいった。さきにうちを覗くと、母がおひさと
繁次が悔みにいったときも酔っていて、繁次の挨拶など耳にもはいらないようすだった。表のすり切れた古畳の上へ、片肌ぬぎになってあぐらをかき、飯茶碗を持って飲んでいた。まわりには食い荒した皿や
「子供は親のもんだ、そうじゃねえか」と角造は云った、「子供ってやつは親が生んで、親が苦労して育てたもんだ、そうじゃねえってのか、おい、そうじゃねえって云うのか」
繁次は立とうとした。
「おい待て、逃げるな」と角造はどなった、「帰るんならそこのところをはっきりさせてから帰れ、子供は親のもんじゃねえのか」
「そんなことわかってるじゃねえか」と繁次はなだめるように云った、「いったいなにを怒ってるんだい、おじさん」
「子供が親のものなら、どうして親の自由にしちゃあいけねえんだ、子供を育てるためには親はずいぶん苦労をしてる、てめえの
そこまで聞いて繁次はどきんとし、そうだったのか、と心の中で
――あたしどうしたらいいかしら。
おひさがそう云いに来たのはこのためだ。一昨年のお盆に帰ったとき、彼は母から聞いたことがあった。例によって角造が飲み続けたあげく、おひさを芸妓屋へ売ろうと云いだし、そのためひどい夫婦
おひさは勝手で茶碗を洗ってい、母は行燈の側で、増吉の手の爪を切ってやっていた。繁次は低い声で角造のようすを話し、どういう事情なのかと訊いた。想像したとおり、女房が寝つくとすぐに、おひさを芸妓屋へ売ろうと云いだした。女房は危ないと感じたのだろう、繁次の母と差配の武助に立会ってもらい、「どんなことがあってもおひさを売るようなまねはさせないでくれ」と頼んだ。おひさもよく云い聞かせられたのだろう、母親が死んで五日と経たないうち、父がその話をもちだしたので、すぐに差配のところへ駆けこんだ。
「あたしは女だから口出しはしなかったけれど」と母は云った、「差配さんは
乱暴をしそうで怖いというから、おひさと増吉は母が預かった。おちつくまで預かるつもりだけれど、三人口を養うとなると、――と云いかけて母は口をつぐんだ。
「当分のことならなんとかなるよ」と繁次は云った、「だけど、差配が止めるだけで大丈夫なのかなあ」
「角さんがやる気になればだめらしいね」と母は云った、「芸妓屋へじかにしろ、
「ひでえもんだな」と繁次は幾たびも首を振った、「ひでえもんだな」
勝手で物音がしなくなり、おひさの
「泣くなよ、泣いてる場合じゃあねえじゃねえか」と繁次は云った、「いくら親だからって、立派に働ける躯を持っていて、自分が怠けたり酒を飲んだりするために、子供を売るなんて非道なまねができるもんか、そんな者は親じゃあねえぜ、そうだろう」
「でも、あきちゃんだって売られちゃったわ」と泣きながらおひさが云った、「いやだいやだって泣いてたけれど、去年とうとう売られちゃったのよ」
「あきちゃんて誰だ」
「お札売りのうちの人よ」
「覚えてねえな」と繁次は首を
おひさは顔をあげた。涙で濡れた眼を拭き、その眼でじっと繁次をみつめた。
「参吉さんもそう云ったわ」
「参ちゃんが、……いつ、――」
「今年の正月のやぶいりのときよ」とおひさは云った、「江戸一番の職人になるんだ、死ぬ気になってやるつもりだって」
繁次は胸の奥に一種の痛みを感じた。どういうわけか理由はわからないが、重苦しいような痛みを、胸の奥に感じて顔をしかめた。
「それでわかるだろう」と繁次は乾いた声で熱心に云った、「職人になるんでさえ死ぬ気でやるっていうんだ、おめえは自分の一生と、まあ坊のためだぜ、もう十二なんだからな、まあ坊のためにも自分の一生のためにも、死ぬ気になって頑張ってみな、その気になればきっと切りぬけられるぜ」
「ええ」とおひさは頷いた、「やってみるわ、まあ坊さえいなければあたし死ぬつもりだったんだもの、やれるだけやってみるわ」
繁次は母に、金を届ける、と云って、まもなくいとまを告げた。年期奉公には、場合によって主人から金を借りることができた。繁次は借りなかったので、少しぐらいならどうにでもなった。
「参吉とそんな話をしたのか」店へ帰る途中で繁次はそう呟いた、「――おれにはそんなことは云わなかったがな、いつそんな話をする暇があったろう」
そのときまた、胸の奥にあの痛みが起こった。繁次はわけがわからず、立停ってそっと、片手で胸を押えた。
十九の年の十一月、繁次は初めて居酒屋へはいって、初めて独りで酒を飲んだ。それまでにも祭礼とか祝いごと、正月などに、兄弟子たちにしいられて
だがその日は飲みたかった。人の酔うのは見ているから、そんなふうに酔えれば有難いし、酔えなくとも、ただ苦しくなるだけでもいい、思うさま自分を苦しめてみたい、というような気持であった。
神田川の河岸にあるその居酒屋は、小さくて
年は二十ちょっとぐらいだろうが、
「だらしがねえな」と繁次は口の中で呟いた、「そんなことわかってたじゃねえか、忘れちまえ」
忘れちまえ、と心の中で繰り返し、幾たびもぎゅっと眼をつむって頭を振った。だが、眼の奥に残った印象は深く強烈で、まるで刻みつけでもしたように、どうしても打ち消すことができなかった。――彼はおひさと参吉が抱き合っているのを見たのだ。勝手口の外にある薪小屋の前で、背の高い参吉が上から
おひさは「指定」の女中をしていた。父親がなにをするかわからないので、繁次が親方夫婦に話したところ、三人いる女中の一人に嫁の話があり、その代りを捜していたところだそうで、すぐに相談がきまった。差配の武助がおひさの父と「指定」の親方とのあいだに立って、おひさの身売りなどはしない、という証文を入れ、年期七年で五両という金を貸した。受人はむろん武助で、残った増吉は繁次の母が世話をすることになった。
それから足かけ三年、おひさも十四歳になるが、店でいっしょにくらし始めてから、繁次はいつもおひさに気をつけ、ほかの女中や職人たちにいじめられたり、わるさをされたりしないように
――出しゃばるんじゃあねえぜ。
無用に気をきかせたり、才ばしったふうをしないほうがいい。あの子はまがぬけている、と云われるくらいのほうが
このあいだずっと、休みの日にはたいてい参吉が訪ねて来た。そしていっしょに芝居や寄席や、季節によっては菊見、舟遊び、遊山などにもでかけた。横山町の店はやかましいとのことで、いつも参吉のほうから来るのだが、するとおひさのようすが目立って変った。参吉はそれまでどおり、一と言か二た言話しかける程度だが、おひさは顔を赤らめ、返辞もろくにはできず、うるんだような眼で、気づかれないようにそっと見あげたりする。そのくせ参吉のいるあいだはそわそわとおちつかず、へまなことをして朋輩の女中に叱られる、といったようなことを繰り返した。
――まだ十三や十四で、いやだよこの子は、もういろけづいちゃったんじゃないの。
今年になってから、口の悪いおつねという女中にずけずけとそう云われ、おひさは泣きだしたことがあった。
「いま始まったことじゃねえ」繁次は持った盃をみつめながら、独りでそっと呟いた、「おひさは昔から参吉が好きだった、それでいいじゃねえか、おい繁、てめえやきもちをやいてるのか」
盃を持つ手に力がはいり、指の節がぐっと高くなった。
――こんなことはざらにあるんだろうな。
いまのおれのように、こんなみじめなおもいをしている者が、この世の中にどれほどたくさんいるだろうか、と繁次は心の中で思った。
「どうしたの、にいさん」
こう云われて眼をあげると、さっきの年増女が前に来ていた。
「あたしおつぎっていうの」女はにっと笑いかけながら
「自分でやるからいいよ」
「そんなに嫌わなくってもいいでしょ」おつぎは酌をしながら繁次を見た、「あたしまえからあんたのことよく見かけていたのよ、今日はどうしてこんなとこへ来たの」
繁次は返辞ができなかった。
「飲みたかったからさ」とようやく云って、彼は思いだしたように盃をさし出した、「――一つやらないか」
「いただくわ」おつぎは盃を受取った、「一つだけね、ありがと」
こんなところにいるとつい飲むようになってしまう。嫌いだったのがいまは好きになったが、酔うとだらしがなくなるから、店にいるあいだは飲まないようにしているのだ、とおつぎは云った。言葉は乱暴だが、さっぱりとした中になんとはないあたたかみがこもっていて、繁次はいつかあまえたいような気分にひきこまれた。
「ちっとも飲まないじゃないの」やがておつぎが
「そうじゃない」繁次は眼をそらして、呟くように云った、「初めてだから、まだ」
おつぎの眼に、なんと云いようもない色が動いた。店の中は殆んど客がいっぱいで、皿小鉢の音や、話したり笑ったりする高ごえや、三人いる
「あたし小さいときにね」とおつぎが云った、「おみおつけの
「あぶねえ――」繁次はきゅっと顔をしかめた。
「おっ母さんがうどん粉に酢を入れて練ったのを塗って、
「痛かったろうな」
「痛いためばかりじゃないの、どう云ったらいいかな」おつぎは機械的に燗徳利を持ったが、繁次の盃にまだ酒があるのを見て、それを下に置きながら続けた、「こんなたいへんなことになったら、もう生きてはいられないだろう、いっそ死んじまうほうがましだ、っていうような気持だわね、そうよ、そんなような気持だったわ」
同じような気持になったことは、それからあとにも三度ある。そして、「死んじまいたい」と思いつめるそのときの気持には、嘘も誇張もない。ぎりぎりいっぱい、死ぬよりほかにないと思うのだが、そのときが過ぎてしまうと気持もいつか変ってゆき、そんなに思いつめたことがばからしくさえなる、とおつぎは云った。
「人間てそんなものらしいわ」おつぎはにっと微笑した、「悲しいことかもしれないけどね、おかげで生きていられるんでしょ」
なんのためにそんな話をするんだ。初対面なのに、なにか勘ちがいをしているな、繁次はそう思いながら、やはりあたたかな、母親の乳の匂いでも
「おれ、繁次っていうんだ」ふとそう云ってから、恥ずかしそうに彼は赤くなった。
「そう」とおつぎは頷いた、「繁さんね」
奥のほうでおつぎを呼ぶ声がし、小女がこっちへ来て「ねえさん」と云った。たぶん馴染の客なのだろう。おつぎは繁次に手を出して云った。
「もう一つちょうだい」
繁次はうろたえた手つきで、持っていた盃を渡し、酌をしてやった。
「御馳走さま」おつぎは飲んでから、そう云って繁次の顔を見た、「――よかったらまた来てね、くよくよするんじゃないのよ」
繁次はまもなくその店を出た。
思いがけないことだが、おつぎという女と話したあと、彼は参吉に悪かったな、と思った。その日はいっしょに寄席へゆく筈だったが、薪小屋の前のことを見てかっとなり、「今日は躯のぐあいが悪いから」と断わってしまった。
「二人のことはわかってたんじゃねえか」と彼は自分を責めた、「どっちも古い友達同志なんじゃねえか、――繁公、てめえきざなやつだぜ」
いまにおひさは参吉といっしょになるだろう、参吉はきっと江戸に何人という職人になるだろうし、そうすればおひさも仕合せになれる、二人はそうなるようにきまっていたんだ。――繁次はそれを納得した。小さいじぶんからのことを思い返してみろ、二人がそうなるのは当然のことじゃないか、と彼は幾たびも自分に云った。
そこまではっきりしているのに、薪小屋の前の二人の姿を思いだすと、そのたびに胸が裂けるような痛みを感じた。いつだったか、繁次の家の勝手でおひさが泣いていて、「参吉さんもそう云った」とおひさの口から聞いたあと、胸の奥にわけのわからない苦痛が起こった。そのときの痛みに似ていて、もっとするどく深く、息ができなくなるほどの痛みなのだ。
「おれだけじゃあねえんだな」と繁次はよく独り言を云った、「あのおつぎっていう人だって、女の身でずいぶん辛いおもいをしたらしいからな」
おひさとはなるべく顔の合わないようにしたが、同じ家にいるのでまったく見ないわけにはいかないし、なにか話しかけられれば返辞もしなければならない。おひさのようすにはなんの変化もなく、これまでどおり彼を頼みにし、つまらないようなことでも、いちいち彼に相談するというふうであった。
――十四ぐらいでも、女ってものはたいした度胸があるんだな。
男と抱きあい、唇を吸いあう、などということはたいへんな出来事の筈だ。云ってみれば一生がきまるようなことだろうのに、なんの変化もみせないというのは、よっぽどの度胸があるに違いない、と彼は思った。
繁次はやがて、自分の気持を隠すことを覚えた。おひさにも参吉にも、できる限りそれまでと同じような態度をとり、自分の感情を表へあらわさないようにつとめた。こういう努力には卑屈感が伴わずにはいない。繁次はときどき自分がみじめで、やりきれなくなることがあった。そんなことはたびたびではないが、どうにもがまんのできないようなときには、いつかの居酒屋へいって気をまぎらわした。そういうときは参吉にもわかるらしく、
「おめえどうかしたのか」と或るとき参吉が訝しそうに訊いた、「このごろなんだかようすのおかしなときがあるぜ」
「そうかな」と繁次は首をかしげた、「自分じゃあ気がつかねえがな」
だらしのないはなしだが、そのとき繁次はうれしいような気持になった。
――やっぱり友達なんだな。
心にやましいことがあればそんなことを訊きはしない、と繁次は思った。おひさとのことがやましければ、おれのようすで気がつく筈だ。おれがこんなに用心しているのに、おかしいなと勘づくのは、おれを友達として心配してくれるからだし、心にやましさがないからだ。
――いいやつだな。
あいつは思いやりのあるいいやつだ。あいつに比べるとおれはみみっちい、くだらねえ人間じゃねえか。あいつは頭もいい、自分で云うとおりきっと偉い職人になるだろう。おれなんかには過ぎた友達だ、と繁次は思った。
繁次は兄弟子にすすめられて、端唄の稽古を始めたが、どうしてもうまくならないし、声が悪いので「落葉に雨の」というのを半分やりかけたままよしてしまった。或る夜、また河岸の居酒屋へいったとき、少し酔ったのだろう、自分でも気づかないうちに、その唄をうたいだした。――参吉があまり来なくなってからだから、二十の年の冬のかかりだったろうか、雨が降っていて客もあまりなく、彼はいつもの隅に腰を掛けて、おつぎの酌で飲んでいた。飲むといっても、おつぎに
「あら、いいわね」とおつぎが云った、「
「よせよ恥ずかしい」繁次は赤くなった、「われながらこの声にはうんざりしているんだ」
「あんたのおはこだよ、それ」とおつぎが云った、「なにかっていうと自分を
繁次は黙った。
「あとを聞かして」おつぎは気を変えるように云った、「あたし好きだわ、その唄」
繁次は首を振った、「これっきりしきゃ知らないんだ」
「そんなこと云わないで」
「本当に知らねえんだ」と繁次が云った、「ここまでやってみたけれど、自分でも
おつぎはじっと繁次を見ていて、「かなしい性分だね、あんたって人は」と
その次の次あたりだろう、やはり客の少ない晩に、繁次はなにげなくその唄をうたった。もちろん張った声ではない、無意識な、呟くような声であった。そのときもおつぎは向うに腰掛けていたが、こんどはなにも云わず、燗徳利を持ったまま眼をつむって、しんと聞いていた。うたい終ってから、おつぎのそのしんとした表情を見、自分がうたったことに気づいて、繁次は赤くなった。
「いい唄だよ」とおつぎは眼をあいて云った、「かなしくって、せつなくなるようだ、すっかりならっちまえばよかったのに」
「ああ」とおつぎはすぐに頭を振った、「そうじゃない、それだけのほうがいいかもしれない、あとの切れちまってるほうが情が残っていいかもしれないよ」
「いろんなことを云うんだな」繁次は苦笑いをした、「おれなんかにゃあ文句の意味もわからねえや」
「もうすぐだよ」とおつぎが云った、「そういう気持を覚えるには学問もいらず、てまもかからないからね」
そんなことを云われたのが、心のどこかに残ったのだろうか。それともほかに知った唄がないためか、仕事をはなれて、とぼんとしているときなどに、ふと気がつくとその唄をうたうのが癖になった。
「おかしなやつだぜ」と端唄のうまい兄弟子が云った、「唄ってものはしまいまできっちり覚えてからうたうもんだ、半端な唄はうたうな」
繁次は一言もない。なるべく気をつけるようにしたが、つい忘れて、ときどきわれ知らずうたい、独りで赤くなるようなことがあった。
二十二の年の春、参吉は長屋へ戻って、「島藤」の店へかよいの職人になった。店では一番の腕だそうで、大名や富豪の屋敷へは、もっぱら彼がゆくのだということであった。その年の夏、おひさも暇を取って家へ帰った。父親の角造が中気で倒れ、そのまま寝こんでしまった。増吉は神田白壁町の質屋へ奉公にいったばかりだし、どうしてもおひさが帰らなければならなかったのである。
「休みには家へ帰ってね、繁ちゃん」と暇を取って出てゆくときおひさが云った、「このごろあんまり帰らないんでしょ」
「帰らなくはねえさ」
「たいてえ芝居かどっかへゆくじゃないの、知ってるわよ」とおひさが云った、「でもこれからはなるべく帰ってね」
参吉がいるぜ、と口まで出かかったが、繁次は「うん」と頷いただけであった。
母親のくらしを助けるために、繁次は親方から三度金を借りているし、月づき幾らかずつは仕送らなければならないので、二十三で年期のあける筈が、なお一年延びることになっていた。彼は手のおそいほうだし、
繁次は晦日だけは家へ帰った。しかし母に幾らか渡すと、茶も啜らずにとびだしてしまう。参吉やおひさに会いたくなかったし、ぐちっぽくなった母の繰り言を聞くのも、気が重かったのだ。
「そういう年ごろになったんだね」と母はたびたび云った、「男の子が二十を越せば、自分の家なんか気ぶっせいになるんだろう、いいよ、おまえだけじゃないんだから」
「注文の仕事が
そんなふうに上り
二十四の年の三月に、繁次はようやく年期があけて、黒船町裏の家へ帰った。店と縁が切れたわけではなく、かよいでもう二三年仕事をすれば、親方が店を分けてくれる約束であった。
こうなれば避けるわけにはいかない。朝でかけるときなど、しばしばおひさと出会った。おひさも十九で、すっかり女らしくなってい、朝の挨拶をするときなど、ちょっとした微笑や、おじぎのしかたなどに、ほのかな媚が感じられた。そんなことが眼につくと、繁次の胸はまた痛みにおそわれ、一日じゅうその痛みの続くこともあった。
参吉ともよく会うが、彼は泊りこみで修理物にでかけることが多く、またお互いの仕事が違うためもあろうが、以前ほど親しい往き来はしなかった。
――どうして二人はいっしょにならねえんだろう。
繁次はそれが訝しかった。参吉にも祖父とその女がいるし、おひさには寝たっきりの父親がある。たぶんそれが障りになっているのだろう、と思ったけれども、参吉は男であり、祖父は丈夫で女もいる。その気になればおひさと夫婦になって、病人ひとりくらい養ってゆけるではないか、などと思ったりした。
夏になってから、――浅草寺の四万六千日のすぐあとのことだが、繁次が晩めしを済ませたところへ、参吉が訪ねて来た。
「おばさん今晩は」そう云いながらさっさとあがって来、
あっけにとられている繁次の前へ、二尺に三尺ほどの紙をひろげた。母がちゃぶ台を持ってゆき、参吉は行燈を引きよせた。その紙には一脚の
「おれにはよくわからねえが」と繁次が云った、「見たことのねえもんだな、文台ってやつか」
「
「大名道具だな」
「紀州さまから出たんだそうだ」と参吉は昂奮して云った、「いまは本町二丁目の小村屋のもので、この下の段、下層っていうんだが、ここのところの
小村屋という名は繁次も聞いていた。日本橋本町二丁目の
「この青貝の脇を見てくれ」参吉は指で五カ所をさし示した、「これは鈴虫なんだ、こことここに五
そして漆や蒔絵の図柄や、螺鈿のこまかい技巧について、蚊にくわれるのも知らず、熱をこめた口ぶりで、熱心に説明した。
――やっぱりたいしたやつになったな。
繁次はそう思ってたじろいだ。彼にはその厨子が、そんなに貴重な品かどうか見当もつかない。もちろん実物を見たわけではない、参吉の描いた絵と、その説明を聞いただけであるが、それだけでも実物を見るような感じがした。しかし彼がたじろいだのは、厨子に対する参吉の態度であった。彼のまわりにもずいぶん凝り性な者や、変った性質の者がいる。それは職人かたぎといって、どんな職にも一風変った、名人はだの人間がいるものだ。参吉もそういう一人なのだろうが、それらよりもっと大きな、底の知れない才能、といったものが感じられた。
「いけねえ、
「退屈なもんか、戸惑ってるだけだ」
「七百年か」参吉は絵をたたみながら、独り言のように云った、「――こいつはきっと千年以上も残るぜ」
参吉の
――金なんかいらない、一生貧乏で、たとえ屋根裏で死んでもいい、百年さきまで名の残るような物を作ってみせる。
参吉はそう云ったことがあった。たしか二人とも十三だったろう、仏具屋をやめて「島藤」へはいるまえのことだ。それからまる十年の余も経ち、繁次は忘れていたが、参吉の心の中にはいまでもあのときの火が燃えている。十年以上ものあいだ休みなく燃え続いていたのだろうし、いまではもっと激しくなっているようだ。やっぱり参吉は何万人に一人っていう人間なんだな、と繁次は思った。
その前後から、参吉の家がうまくいっていない、というような噂を聞くようになった。祖父の
「茂兵衛さんはもう八十だろう」という者があった、「女のほうは四十を出たといっても、あのとおりいろけたっぷりだからな、おまけに参吉のやつがまたいい男ときてるんだから、無事におさまってくわけがねえや」
「あのひと毎晩のようにせっつくんですってよ」という女房もいた、「それではおじいさんの躯がたまらないだろうって、参吉さんが出てゆけがしにするのよ、なにしろおじいさん孝行な子だったものね」
繁次はどっちの噂も信じなかった。
――参吉にはおひさがいる。
あんな女に関心を持つ筈はない、あいつの頭は仕事のことでいっぱいなんだから。そう思っていた。そのころ繁次はようやく酒の味がわかるようになり、休みの日や、気持のふさぐようなときには、居酒屋とか
神田川の河岸のあの居酒屋は馴染のようになった。おつぎという女はもういなかった。繁次の年期が終るちょっとまえにその店をやめてしまい、どこへいったかわからなくなった。おたつという女中の話によると、
九月の十五日の休みに、おひさを芝居へ伴れていってやれ、と母に云われた。
「いやだよ」と繁次は断わった、「みっともなくって、そんなことができるかい」
「なにがみっともないのさ」
「長屋のみんなにへんな眼で見られるじゃねえか」そして殆んど呟くように云った、「芝居なら参吉につれてってもらえばいいさ」
「参ちゃんがどうしたって」
「なんでもねえよ」と繁次は云った、「――二三日まえに縫ってた参吉の
母は口をつぐんだ。
三日まえの夜、おひさが縫いかけの袷を持って来て、ひとところどうしてもうまくいかないからと、母の手を借りていた。こりこりするような
――酒でも飲むか。
繁次はぼんやりそんなことを思った。
おひさは参吉のもの、と自分でもはっきりきめているのに、おひさが参吉の着物や羽折などを縫っていたりすると、いつものように胸が痛くなる。以前のように耐えがたいというほどではない。いっとき経てば消えてしまうが、その痛みを感じたときの、頼りないような淋しさのほうが、心に残るようになった。
明るいうちから飲みにもゆけず、浅草の奥山へでもいってみようかと思い、着替えをしているところへ参吉が来た。
「ちょっと相談があるんだが」と云って参吉は繁次のようすを見た、「――でかけるのか」
「用じゃあねえんだ、あがってくれ」
「うちへ来てくれないか」と参吉が云った、「ここじゃあ話しにくいんだ」
参吉はそわそわしていた。いっしょに家へいってみると、老人も女も留守だった。
「茶でも
「どうしたんだい」繁次は不審そうに参吉を見た、「茶だなんて、珍しいことを云うじゃねえか」
「おれだって茶ぐらい淹れるさ、まあ楽にしないか」
「それはおめえのほうだろう」と繁次は云った、「なんだか今日はようすがおかしいじゃねえか、相談てなあなんだ」
「まあとにかく茶を淹れよう」
繁次は口をつぐんだ。
――なにかあったな。
そう思いながら、ふと脇にある机のような物に、
「あ、ちょっと」とすぐに参吉が云った、「そいつはいけねえ、そいつに触るのはよしてくれ」
繁次はすぐにはなれた、「うっかりしてた、机のようだな」
「机じゃあねえんだ、いま見せるよ」
参吉は茶を淹れて来て坐った。
茂兵衛の好みだろうか、小ぶりな茶碗も高価な品のようだし、茶の味も繁次には初めての、びっくりするほどうまいものであった。こんな裏長屋などで茶らしい茶を飲む家はない、もちろん高価だということが第一だが、食うことに追われている生活では、おちついて茶をたのしむなどという心のゆとりがなかった。茶といえばふけたような匂いのする安い番茶で、それを色の出なくなるまで淹れて使うから、
参吉は茶を一と口啜ると、机のような物に掛けてある風呂敷を取った。
「おれが作ったんだ」と参吉は云った、「――どう思う」
繁次は坐り直した。
二段になっている文台のような道具で、青貝入りの金蒔絵がみごとに仕上っている。下段は四枚の扉があり、中央の二枚が左右に開くのだろう、合わせめに小さな銀の錠前が掛っていた。蒔絵は暗い朱色の地に、金でこまかく秋草が散らしてあり、ところどころに青貝が光っていた。
「たいそうなもんだな」繁次は手を伸ばして、そっとこばを
「なにか気のつくことはねえか」
「どういうことだ」
「これを見てくれ」参吉は指で、青貝の部分をさし示した、「ここと、ここと、これだ」
「うん」繁次は眼を近づけた、「――虫のようだな」
「鈴虫だよ、忘れちゃったか」
繁次は「鈴虫」と口の中で呟いた。
「いつか絵図を見せたろう」
「ああ」と繁次は云った、「口まで出かかってたんだ、小村屋の文台だったな、たしか」
「厨子っていうんだ、鈴虫の厨子だ」
「だっておめえいま、自分で作ったって云やあしなかったか」
「頼まれて写しを作ったんだ」
「へええ」繁次はもういちど熱心に見直した、「そういえば、あのとき見せてもらった絵図とそっくりのようだな、いつのまにやったんだ」
「ふつうなら一年くらいかかるだろうが」と参吉が云った、「おれはまえから早漆といって、漆の重ねかたや乾かしかたのくふうをしていた、まだ誰も知らねえんだが、それでやるとふつうの三分の一で仕上るんだ」
「
「これが初めてだから
「おれにできることか」
「親方に話してもらいてえんだ」参吉はちょっと口ごもった、「指物職だから、とくい先にこういう道具を欲しがっている客はねえか、もしあったら売ってもらいてえと思うんだが」
「わからねえな」と云って繁次はふと眼をあげた、「しかしおめえいま、頼まれて写しを作ったって」
「そうなんだ」と参吉はせきこんで云った、「或る道具屋から頼まれて、代金まできまってたんだが、その道具屋が急に
繁次はちょっと考えてから訊いた、「値段はどのくらいなんだ」
「道具屋との話では五十両ということだったが、事情が事情だから、現銀なら三十両でいいんだ」
「金はいそぐのか」
「いそぐんだ」と参吉は云った、「じつは嫁を貰うことになって、いい家があったもんだから手付けを打ったんだが」
「嫁を貰うって」繁次はどきっとした、胸の中でどきんと音がしたような感じだった、「そうか、そりゃあよかった、そいつはいいや、そういうことならすぐ親方に話してみるが、値段のところがどうなるかな」
「自慢するようだが、これは鈴虫の厨子でとおる品だぜ、時代の色までそっくり写したんだ、腕のいい道具屋なら鈴虫の厨子で、金二百枚には売れるくらいなんだ」
繁次は妙な顔をしたが、「うん」と頷いてまた参吉を見た、「――いま家へ手付けを打ったって云ったが、世帯を持つのはここじゃあねえのか」
「ここじゃあまずいんだ、相手の育ちが育ちだからな、いくらなんでも」
「育ちが育ちって」繁次が
「それを云わなかったっけ」と云って参吉はてれ隠しに笑った、「初めに云うつもりだったんだが、相手は小村屋の娘なんだ」
繁次は口をあいたが、言葉は出なかった。
「おれがあの厨子の繕いにかよってたことは話したな」と参吉は続けた、「そのあいだずっとその娘、――おすがっていうんだが、茶や八つの世話をずっとしてくれていたんだ、年は十八、
修理にかよっているうちに、この娘を妻に貰えれば、おれは立派な仕事ができると思った。問題は向うが富豪で、こっちが
「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずおすがらしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、おすががゆくというので結局はなしがまとまった」
「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような口ぶりで遮った、「そうすると、おひさはどうなるんだ」
参吉は
「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好きだったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってるんだぜ」
「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだっていうことと夫婦になるならねえってことは」
「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、おひさが十四の年だ、おれの
「待ってくれ」参吉は額を横撫でにした、「――うん、覚えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」
「どこが思いすごしだ」
「おめえの云うとおりおれは十九、おひさちゃんは十四だぜ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持もありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」
「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひいた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」
繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れたが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、とびかかって馬乗りになると、
――いけねえ、またやった。
心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへおひさが駆けこんで来た。
「よして繁ちゃん、危ない」おひさは繁次にしがみついた、「ごしょうだからよして、危ない、よしてちょうだい」
繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある(昔の)薄い
「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近所へみっともねえから」
「繁ちゃん」とおひさが泣き声で云った。
繁次は
「もういい大丈夫だ」と繁次は
半刻ばかりのち、おひさが晩めしの支度をしていると、勝手の障子をあけて、繁次が
「六つが鳴ったら渡し場のところへ来てくれ」と彼は
「六つね」とおひさは頷いた、「いいわ」
繁次は障子を閉めて去った。
おひさが
「ちょっと飲んでいたんだ」おひさを見ると繁次はすぐに云った、「臭かったらはなれていてくれ」
「さきに云っとくわね」おひさは繁次の言葉に構わずそう云った、「あたし悪いけれど、あんたたちの話を聞いちゃったのよ」
「鈴虫の厨子のこともか」
「ええ、頼んだ道具屋さんが潰れたってことも」
「あれは
「だってあの人、お金が要るんでしょ」
「作りだしたのはそのまえっからだ」と繁次は怒りを抑えかねたように云った、「おめえが帰ってからおらあ云ってやった、そんな無理なことをして嫁に貰ったって、おんば日傘で育った金持の娘に、おめえの稼ぎでやりくりのできるわけがねえ、また贋作、偽物を作るということになるぜって」
「あんたは昔っからあの人が好きだったわ」
「好き以上だ、おれはあいつこそ万人に一人っていう職人になると思ってた」と繁次は云った、「――人間てもなあわからねえ、おらああいつを、おれなんぞとは段違いなやつ、いまに必ず偉くなるやつだと信じこみ、あいつがおれの友達だっていうことが自慢だった、あいつのためならどんなことをしてもいいと思い、……云っちまうが、おめえのことさえ
「知ってるわ」とおひさが囁き声で云った、「あたし知ってたのよ」
繁次は顔をそむけ、おひさからはなれて、河岸っぷちを石垣すれすれに五六歩ゆき、そこで川のほうに背を向けてしゃがんだ。――男が二人、御蔵のほうから高ごえに話しながら来、繁次とおひさを認めたのだろう、通り過ぎてゆきながら、「ようおたのしみ」と云った。どうやら酔っているらしかったが、それ以上からかうようすもなく、はずんだ声で話しながら去っていった。
――おたのしみ、か。
繁次は強く奥歯を
――ここで蟹を捕ってやったことがあったっけな。
おひさがこっちへ歩み寄って来た。
「あたし繁次さんが好きだったわ」とおひさは低い声で云った、「こんな小さいじぶんから、ずっとあんたが好きだったわ、そのことを知ってもらおうと思って、ずいぶん小さい知恵をしぼったのよ、――でもあんたは勘づいてはくれなかった、あんたは一人ぎめに、あたしが参吉さんを想ってるって、自分だけで思いこんでいたわ、あたしが口やそぶりで、どんなにそうじゃないってことを知らせようとしても、あんたは気づいてもくれなかったのよ」
繁次はしゃがんだまま、両手を固く握り合せ、それを額へぐいと押しつけた。
「それがほんとなら」と繁次はよく聞きとれない声で云った、「――いや、いまでもそう思っていてくれるのか」
おひさは答えなかった。呼吸五つほど数えても答えのないことで、繁次にはおひさの気持がおよそわかった。
「参吉はもうだめだぜ」と繁次が云った、「あいつは小村屋の娘を貰うだろう、だが、それも長続きはしないだろうし、職人としても立ち直ることはできやしないぜ」
「だめなことはあたしも同じよ」とおひさが云った、「――薪小屋の前であの人に抱かれたとき、あたし、これが繁ちゃんなら、って思ったわ、あんなふうに抱かれるなんて夢にも思わなかったし、抱かれるとすぐに、これが繁ちゃんだったらいいのにって思った、おかしいようだけれど、いまでもそのことは覚えているのよ」
「おれには、とても」と繁次が口の中で呟いた、「とてもそんな勇気はありゃあしねえ、けれどもおれは」
「いいえだめ、もうだめなの」おひさはそっとかぶりを振り、なんの感情もない声で遮った、「繁次さんがあたしのこと、あの人が好きだと思いこんで、いつまでもそう思いこんでいるのを見ているうちに、あたしあの人のことが本当に好きになってしまったの」
「しかしおめえもわかっている筈だ」
「あんたが悪いのよ」むしろ明るい口ぶりでおひさが云った、「こんなにあの人のことが忘れられなくなったのは、あんたのせいよ、――あたしもうだめなの、本当にだめなのよ」
繁次は黙った。おひさも口をつぐんだ。
「あたしわかってるわ」とおひさがやがて云った、「あんたの云うとおり、あの人は小村屋からおかみさんを貰っても、きっと長続きはしないでしょ、そればかりじゃない、男のあんたにはわからないようだけれど、あの人はいまがゆき止りよ、万人に一人なもんですか、女には女の勘があって、男のことは案外よく見えるものよ、あの人はもうゆき止りだわ、これからはただ落ちるだけよ」
繁次がきっと振向いた。すると、おひさはなにかを避けるように、繁次の顔をみつめながらあとじさりをした。
「あんたは仕合せになれるわ」あとじさりをしながらおひさが云った、「うちの町内にだって二人も、あんたのことを好きな人がいるわ、もうすぐあんたは店を持つんだし、どんないいおかみさんだって貰える、あんたはきっと仕合せになれてよ」
おひさはついに泣かなかったし、泣き声も出さなかった。
「どうしたの」と女が云った、「ちっともあがらないじゃないの、お口に合わないんですか」
「おめえに一ついこう」
「あたしだめなの」と女が云った、「このうちはやかましいのよ」
繁次は盃を出し、女は酌をした。
――本所らしいな、ここは。
彼は注がれた盃を持ったまま、店の中を眺めまわした。天床に
「ここは本所か」と繁次が訊いた。
「その次はあたしの名でしょ」と女は云った、「あたしおきぬ、どうぞごひいきに」
「本所のどのへんだ」
そのとき向うで「きぬちゃん」と呼んだ。三人の客の相手をしていた女中である、おきぬは「ちょっと待ってね」と云って、そちらへ立っていった。
繁次は盃を口へ持っていったが、眉をしかめて口からはなした。
「本所のどこだろう」彼は自分の考えをそっちへそらすように呟いた、「――あれから一軒、二軒、ここが四軒めだな」
盃を持つ手がふらふらし、盃の酒がこぼれた。繁次は肱を突いた左の手で顔を支え、なにかを耐え忍ぶように唇を噛んだ。
「――落葉に雨の音を聞く」
三人伴れの向うの客の一人が、いい声でうたいだし、その伴れがやじを入れたので、唄はそれっきり聞えなくなった。
「なつかしいな」繁次は眼をつむった、「あの人はおつぎといったっけ、――もうすぐよって、こういう気持がわかるようになるには、学問も金もいらないからねって」
そうだ、学問もいらず金をかけなくっても、いつかはみんなそういう気持を味わうときが来るんだ。いまから思うと、おれはもうあのとき、ああいう気持がわかっていたらしい、だからあの唄ばかりうたってたんだ。へ、だらしのねえやつだ、と彼は思った。
「もう忘れちゃったなあ」繁次は眼をつむったまま、さぐりさぐり、口の中で低くうたいだした、「――落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとや……」
彼はつむった眼にぎゅっと力をいれた。
「あたしその唄だい好きよ」と女が云った、「あとを聞かして」
女が戻って来たのを知らなかったので、繁次は
「あらいやだ」とおきぬが云った、「ちっとも減らないじゃないの、どうなすったの」
「この唄を知ってるのか」と繁次が訊いた。
「文句はよく知らないのよ、でも好きな唄だわ」とおきぬが云った、「はいお酌、――冷たいわね、お燗を直して来ましょうか」
「それより水を貰いてえな」
「おひやね、はい」おきぬは立っていった。
あとの文句はうたわないほうがいい、とおつぎが云った。あとの切れているほうが情が残るようだって、と繁次は思った。
おきぬが湯呑に水を持って来た。彼は一と息に飲みほそうとして
「勘定」と彼は呟きながら云った。
「いまのあとを聞かしてくれないの」
「この次だ」と彼は云った、「こんど来たときにな」
「きっとよ、きっといらしってね」
「きっと来るよ」と彼は頷いた。
勘定をして外へ出ると、街はひっそりとしていて、辻燈台のほかには一つの灯も見えず、かなり強い風が吹いていた。繁次は立停って、左右を見まわした。
「どっちへゆくんだ」まっ暗な街を眺めながら、彼は途方にくれたように呟いた、「――これからどっちへいったらいいんだ」