持って生れた性分というやつは面白い。こいつは大抵いじくっても直らないもののようである。筆者の若い知人に、いつも「つまらない、つまらない」と云う青年がいた。なにがそんなにつまらないのかと
牧野
「おいみな、また
「いやはやどうも」片方も苦笑する、「――足もとから土煙りが立ってる、どうしてまああんなに忙しいのだろう」
「
向うから走って来る者がある。色の白いやや肥った
「お早うございます」二人は道を避けて挨拶した、「――いいお
主計はかれらの前を風のように擦過した。
「ああお早う、いい日和だな、いつも精が出るな、御苦労」
こう答えたのであるが、二人の耳にはあいうえおという風にしか聞えなかった。――主計は脇の入口からとびこんで、自分に当てられた着替え部屋へはいった。弥一郎という十三歳になる内門人の少年が、手になにか持って、口をもぐもぐさせながら追って来た。
「牧野先生お早うございます。木下さんが来て待っておいでですよ」
「木下、――どこの木下だ」
「めだまですよ、めだまの木下さんです」
「そういうことを云ってはいかんと云ってあるだろう、なにを喰べてるんだ、一つよこせ」少年の持っている紙袋へ手を入れ、二つ三つ
「いいえ買い食いなんて」少年はひどく
だが主計はもう廊下へ出ていた。いちど道場を
「やあ待たせて済まなかった、ばかに暑いじゃないか、春でも来たようじゃないか」こう云いながら主計は坐る、「――たいへん待ったかね、しかしばかに早くどうしたんだ」
「相変らずおちつかないな」六郎兵衛はにやにやする、「――第一に暑くなんかない、
「昨日だって、おまえが、……おれにか?」
「おい冗談じゃないぞ」六郎兵衛は口をへの字なりに曲げた、「――それじゃあ頼んでおいたことも忘れたのか」
「ああそうか、そうか、あれは今日かね」
主計はにやっと笑う、相手もにやっと笑う。だが主計はまだ頼まれた用件というのを思いだせない、そこで話を転じようと、一種の表情をするとたんに、六郎兵衛はちゃんと察して答えを出してやった。
「忘れたんだな、金だよ」
「ああ金」主計はびくっとした、「――金だって、おいおい金ってなんの金だい」
「おまえが忙しい人間でなければ、おれは殴るところだぜ」六郎兵衛は
「ああわかったわかった、そうかあれはおまえか、同じような話が三つあったんでどれがどれだかつい眼移りがしちゃって」
「へえーそういうのも眼移りかね」
「まあ怒るなよ、
「明日でもいいさ、しかし早くないと困る」
「おれが届けるよ、暗いうちならいいだろう」
「明るくなってからでもいいさ、じゃあ忙しいだろうから帰る」六郎兵衛はこう云って立上った、「――金五枚、明早朝、こんど忘れたら本当に怒るぞ」
「もちろん大丈夫、心得た、が、――おい、式をやるってなんの式だい」
六郎兵衛は振返って大きな眼玉(そのためにそういう
道場では武田平之助と
「あれを見て下さい、武田のを」兵庫助はこう
「――またいやなことを始めました」
主計はそっちを見やった。
武田平之助は市郎左衛門の子飼いからの門弟で、ひところは筆頭師範代に擬せられたほどであったが、この一二年酒をおぼえたためか手筋が
「ちょっと厳しそうじゃないか、井上には無理だ、おれが代ろう」
「――厳しそうだって」平之助は
「みせて貰おう」
「いいけれども、やるなら胴を着けてくれないか」
平之助はこう云って唇で笑った。自分より上を遣うものに胴を着けろと云うのは、それだけの自信があってのことだろうが礼儀ではない、寧ろ
二人は位取りをした。互いに中段である、ごくあたりまえな中段にとって呼吸五つばかり、後ろへひいた主計の右足の
「まいった――」
主計は二間ばかりとび退ってこう叫んだ。それからすぐ相手のそばへいって、ずいぶん厳しいなと低いこえで囁いた。
「少し厳しすぎる、ほかの者にはいけないな、やるときはおれを相手にするがいい、まちがうととんだことになるよ」
平之助は苦い顔でなにか云おうとしたが、主計はもう振返って、「さあ河村いこうか」と次の者に稽古をいどんでいた。――二時間して道場をあがると、裸になって裏の井戸端へとびだした。ふつうは雑用をする内門人に世話をさせるのだが、彼はひとりでがらがら水を
「やあこれは」主計は
「こんなところへまいって失礼ですけれど、お部屋ではいつもお人がいらっしゃいますので」折江はこう云って彼の眼を見た、「――それにもう、ずいぶん日も経っておりますから、どうなすったかと思いまして」
「と
「いいえ、いつかお話し下すったあの、――あのことでございますわ」
「わかりました、妹の琴をお譲りする話でしょう」主計はにこりと笑う、「――大丈夫ですよ、まだ話してはありませんがあいつ嫁にゆくんですから。琴を三面も持って嫁にゆけやしません、必ずお譲りするようにしますから安心していらっしゃい」
「わたくし琴のことなど申上げてはおりませんわ」
「琴でもない」主計は狼狽する、「――と云うといったい、……ああ、ああわかった、あれですね、あの古竜堂で持って来た茶壺」
そのとき向うで弥一郎が呼びたてた。
「牧野先生お客ですよ」
「よし、いまゆく」
「わたくし明後日から松乃をつれて江の島へまいります」折江は口早にこう云った、「――
「はあ承知しました、しかし江の島へいらっしゃるって、なんです、なにか御用でもあるんですか」
「お客さまが待っておいでですわ、もういらっしゃいまし」折江はやれやれという風に頭を振った、「――江の島から鎌倉へ見物にゆくということは半年もまえからの話で、よく御存じの筈ではございませんの、
「はあ慥かに、必ずこんどは大丈夫です」
接待には五人の客が待っていた。三人は若い武家の入門希望者であった、彼はそれを杉原兵庫助にひきついだ。腕の程度をみて入門の諾否をきめるのである。他の一人は
「秋元侯はやかましいので評判だ、亘理や杉原では到底いけないだろう、そこもとはもう手一杯であろうし、お断わりするほうがよくはないか」
「
「こちらに総稽古があるからと云って断わるがよかろう、益もないことだ」
「はい、では私これから稽古に出ます」
接待へ戻って二人にそれぞれ返辞をし、出るしたくをしているとまた客だ。一人は
「やあ御苦労、帰っていいよ」主計は勇作にこう云った、「――おれは用事があって銀座のほうへまわるからな、じゃあ」
そしてさっさと歩きだした。――勇作はそれを見送りながらにやにや笑った。出稽古の帰りには三日にいちど必ず「銀座へまわる」と云って別れる、半年ばかりまえからのことでおかしいと思ったから或日そのあとを
――あの忙しいからだでよくそこまで手がまわるな、
道場へ帰ってその話をすると、みんなそう云ってあっけにとられた。中にはまたそのくらいの道楽がなければ
「あら牧野さんですか、ちょっと待って下さいな」
「あらいけません、こんな恰好なのよ」
いま風呂から帰ったところらしい。肌ぬぎになって鏡へ向っていた女が、両袖で胸を隠しながら振返った。――これが園次である。なるほど美しい。柔らかな肉付きのやや肥えた躯つきであるが、背丈が小づくりで関節が緊っているから、
「これはどうも」主計は少しも騒がず、「――向うの部屋はあいているかね」
「ええおしたくが出来てるでしょう」
「じゃあ御免を
「いいえそうじゃないんですよ、ようござんすか、つつんつんつん、ちちちつんつつん、
「私は張ってる積りなんだがね、――萩の、しいずうくう……」
「いいえ、しいずうく――ですよ、はい」
まる一時間「萩のしずく」でいじめられ、汗のしずくを拭って立上ると、まっしぐらに虎の門外にある永井家の上屋敷へ帰り、殆んど門限ぎりぎりにとびこんだ。家では朝が早いから父も妹もたいていは寝ている、母親だけはどんなにおそくとも食事のしたくをして待っていてくれるが、この頃は特に帰りのおそいことが続くので、それとなしに探るような眼で見られるのがうるさかった。
「あたしたちの後だけれど風呂へおはいりなさらないか、暫くはいらないのでしょう」
「なに毎日二三度も水を浴びますから」
「水では
「いや御飯にして下さい、全然はらぺこです、やあ鯉ですね」彼は
「たまきの御祝儀の日を思い違えたんだそうです、またあさって持って来ると云ってましたよ、あなたお汁をあがらないの」
「
「この頃だいぶお帰りがおそいのですね」母親は汁を温ために立ちながら云った、「――お忙しいのだろうけれど、こんなにおそくなるのなら食事をなすって来なければ毒ですよ」
「でも食事は家のに限りますからね、母上のお手料理を頂いてはよそのは喰べられやしません、まったくですよ」彼は母の追及を避けるために無意味な言葉を続ける、「――源助はまたあさって来るんですか、へえ、百姓はうまくいってるんですね、下男としても使える男だ、だから百姓でも相当でしょうね、いちど私も会いたいのだけれどこう忙しくては……」
武家は朝の早いものであるが、牧野ではどこより早起きで名がある。一年じゅうとおして午前四時には全家族が朝食をする
「やあお早う、もう起きてたのかい」
「あらこんな処へいらしってはいやですわ」
「すぐゆくよ、ほう、いい髪をしているな」彼はこう云いながら側へ寄る、「――ずいぶんみごとじゃないか、これは知らなかった、
「もうたくさん、あちらへいらしって」
「じつは頼みがあるんだよ」
「ほうら、たいていそうだと思いましたわ、髪をお
「そんなことがあるものか、それとこれとは別だ、おれは口では云わないがいつでもおまえを自慢にしているんだ、それでなくったって兄妹じゃないか、お世辞をつかって金を借りるなんていう他人行儀なことをするものか」
「お金ですって、――わたくしにですの」
「済まないが五両、ほんの四五日だよ」
「だって、そんなにたくさん何に
「それはいろいろあるさ、つまり竹刀を新しく買わなくちゃならないし、稽古着だの面だのもあるし、とにかく四五日すると道場から手当が
「ねえ主計兄さま」たまきは
「冗談じゃない、ばかなことを云っちゃあいけない、子供じゃあるまいしそんな、少しぐらい帰りがおそいからってそんな、つまらないことをいちいち疑ぐられて堪るものか、とにかく急ぐんだからちょっと五両」
「わたくし、そんなにたくさん持っていませんわ」
「だめだよ、このあいだ借りるとき見たら二十両もあったじゃないか」
「まあ
「
「いやですわ、あのお金はお嫁入りに持ってゆくんですから」
「だからさ、四五日すると道場から手当が出るんだ、そうすればこれまでのものも
「すっかりお上手になって、とてもかないませんわ」たまきはこう云って兄をやさしく
「有難う、これでおれの面目が立つよ、しかし明日の式って、――なんだっけね」
「こころ細いのねえ、たまきのお
「お輿入れ、ああ嫁にゆくんだっけな、知ってるよ、なに忘れるものかきっと出るさ」彼は紙包を
「明日の夕方六時ですわ、もう二度と申上げませんから」
明日の六時と口のなかで繰返しながら、主計はそのまま顔を洗いに井戸端へ出ていった。とたんに会ったのが父の茂右衛門である、じろりと怖い眼でこっちを見、主計の挨拶を黙って受けてすれ違った。井戸端には兄の大学がいて
「お早うございます、この
「気をつけろよ」大学は低いけれども厳しい調子でこう云った、「――隠すことは
「そんなことはありませんよ、噂なんてでたらめなもんです」
「気をつけろと云ってるんだ、でたらめであろうとなかろうといちど
「わかりました、気をつけます」
主計は顔だけさっさと洗い、「お先へ」と云って逃げだした。神明の家のことが知れたらしい、どこからわかったろう、誰にもみつかる筈はないんだが、――主計は首を
「やあ早いな、感心に忘れなかったな」
「怒られるからね、じゃあこれを」
「済まなかった、慥かに、――あがって茶でも飲んでゆかないか」
「そうしちゃあいられない、ここで失敬する」
「七日にも忘れずに頼むぞ」
「なんだっけ、七日って」
「おい大概にしろよ」六郎兵衛は睨んだ、「――昨日も式はなんだなんて云ってたが、それじゃあすっかり忘れていたんだな」
「いや忘れちゃあいないが念のために」
「おれの祝言だ」六郎兵衛はぶっつけるように云った、「――おれが結婚をするんだ、この家へ嫁が来るんだ、七日の宵に祝言の杯をあげるんだ、わかったか」
「わかったよ、忘れやあしないよ、だが、――あれは七日だっけかね、七日というと」
「今日が六日だから七日は明日だ」
「明日ね、へえー、本当だろうね」
「殴るぞ」
「いいよわかったよ」主計は後ろへ退る、「――七日の夕方だろう、来ればいいんだろう、来るよ、冗談じゃない、むやみに祝言の重なる日があるもんだ、よっぽどの吉日なんだな」
「なにをぶつぶつ云ってるんだ」
「なにこっちの話さ、じゃあ失敬」
秋元邸の門を出ると、「さあ忙しいぞ」と
「知らなかったねこいつは、驚いた、電光石火といかなくちゃならん、やあお早う」彼は例の如く道場まで走り続けた、「――よく精が出るな、いい日和で御苦労」
下男たちにこう云いながら門をはいる、そしてまた忙しい一日が始まるのだった。――さて、稽古が終って、井戸端へ躯を拭きに出たとき、彼はふと昨日そこで折江と話しあったことを思いだしてはっとした。
「慥か江の島見物にゆくと云った、それも明日だったように思うが」こう呟いて、空を見上げる、「――そうだ明日だった、なにもかもいっしょくただ、極上飛切り掛値なしの吉日なんだな、しかし、――うん、なにか頼まれた、留守のあいだになにかやっておいてくれと、……なんだっけ、はてなんだっけかしらん」
暫く考えたが思いだせなかった。しようがない訊いてみようと思い、躯を拭いて着替えをすると、庭をまわって奥へいった。――折江は広縁でばあやの松乃といっしょに、なにか着物を取出して見ているところだった。
「旅のおしたくですか、これから稽古に出ますがなにか
「そんな心配は結構でございますよ」松乃が笑いながら答えた、「――牧野さまはそうやってしなくともよい用事を御自分から買って出ていらっしゃる、それでは幾つお躯があっても堪りませんですよ」
「なに用事はついでのある者がすればいいのさ、それからあれです」主計はさりげなく折江に呼びかけた、「――その、昨日お話のですね」
だがそのとき、向うから弥一郎が顔色を変えて走って来た。
「牧野さん来て下さい、大変です」
「大きな声をだすな、なんだ」
「武田さんが大先生に
「どこだ」主計は走りだした。
「道場です、杉原さんにも誰にも手が出せないんです、とても大変なんです」
道場へいってみると、門人たちは
「お待ち下さい先生、お待ち下さい」
「いかん、止めるな」
「まず暫く」主計は師の躯を抱き止めた、「――おからだに障りますからお
押分けながら、市郎左衛門を抱くようにし居間へ
「――哀れなやつだ」
道場へ取って返すと平之助は部屋へいったという、主計は石井勇作に「したくをしておけ」と命じておいてそっちへいった。平之助は
「あの手をみつかったんだね」
「――悪いか」
「云ったじゃないか、おれとだけやるがいいって、まあ坐れよ」主計は相手をそこへ坐らせ、自分も
「焦るのが無理か、牧野」平之助はするどい眼をあげた、「――おれは足軽の二男坊だ、十四の年からこの道場で育ち、いちどは筆頭師範代にもなりかかった、だがそれがゆき止りだった。おれはもう二十八になる、それだけの才しかないのかもしれないが、このままゆけば家を持つことはおろか妻を
「おれが幸運に恵まれているかどうかは預かろう、しかしそこもとがもしそう考えるなら、いっそう自重しなければならぬではないか」
「自重も我慢もするだけはした、けれどもその限度がみえてきた、先生の気持もおれからはもう離れている、おれはおれの腕、おれのくふうで道を
「しかしあの手はよくないぞ」主計はできるだけ穏やかに云った、「――刀法は幾百年という長い年月を経て、経験とくふうと錬磨を積んできた、法にかなわぬものは亡び、成長すべきものが成長してきた、そこもとが今それを無視していかなる奇手を編み出そうとも、無法が法に勝てるわけはないだろう」
「おれの逆胴が無法だと云うのか」
「そこもと自身がいちばんよく知っている筈だ、もういちど云うがあれは悪いよ」
「口ではなんとでも云えるさ」平之助はぴくっと唇をひきつらせた、「――今そこもとはいちおう負けたと云ったな、ふん、竹刀だからそんなことが云えるんだ、あれがもし真剣なら、失敬だがそこもとの命は」
「わかった、それまでにしよう」主計はにこっと笑って手をあげた、「――ここで
平之助は一種の表情でじっとこちらを見、ついで妙な笑いかたをした。
「それは、いってもいいが、しかし」
「先生のほうは後でおれからそう云おう、機嫌を直して海でも見て来るがいい」主計は
「まさにそのとおりさ」まるで意味を
主計はあとを聞かずに立上った。
かくて飛切り
「忘れずによく来たね、どうだこの姿は、おかげで
「なるほどね、
「おまえがそう云ったってもしようがない、それに式が済めばすぐ質屋だ」
「式といえば何時なんだ」主計は
「なんの冗談を云うつもりなんだ」
「いや冗談どころか、もう一つあるんだ」
「幾つあってもいいさ、なにが幾つあろうとこっちはおれの祝言だ、親友のおまえが列席しないで式がやれるかどうか考えてみろ」
「それはそうだけれど、弱ったな、それはそうだけれども、こいつは弱った」
「弱るもくそもあるか、どんなことがあろうと今夜は放さないからそう思え、早くしたくをしないともう向うで来るぞ」
そして六郎兵衛は、向うへいってしまった。主計はうろうろと足袋を穿く、木下の母堂が来て裃を着るのを手伝ってくれる、口のなかで弱った弱ったと云いながら、どうやらしたくの出来たとき、玄関に人の到着したけはいがし、母堂は「まあお着きですよ」と云いながら出ていった。
「おれはどうしたらいいんだ」主計はいちど坐ってまた立った、「――どこにいたらいいんだ、なにかするんだろうか、座敷へなにか運ぶんだろうか」
すっかりあがりぎみで、廊下へ出たとたんばったり母に会った。母、さよう、主計の生みの母である。
「ああお母さん、ど、どうなすったんです」
母は盛装していた。そして妹の手を
――ははあ、……ははあ。
主計は、ごくっと
「いやどうも」彼は後ろへ退った、「――きれいですね、たまきは、私は来ていたんですよ、このとおりです、向うにいますから」
身を飜すという風に、彼は六郎兵衛の居間へとんでいった。そして友達を廊下の隅へ引張ってゆくと、いきなりげらげらと笑いだした。
「どうしたんだ、ばかだね、なにが
「もうちょっと笑わしてくれ」
そしてようやく笑いやむと、相手の耳へ口を寄せて事情を囁いた。
「なんだって」六郎兵衛は例のめだまを大きく
「さすがのおれも驚いた」
「こっちは呆れるよ、いくらなんだって」
こんどは、六郎兵衛が笑いだした。
「だがそうするとなんだな、おまえから借りた五両はちょいと微妙なものになるなあ」
「五両がどうしたって」
「そうじゃないか、あの金はおまえがたまきから借りておれに貸したんだろう、たまきは今夜からおれの妻だ、いいか、そうすればだな、おまえはおれに五両貸してくれたが、同時におれの妻から五両借りているわけだ」
「よしてくれ頭がちらくらする」
やがて時刻が来た。藩の重職も二人列席して、かなり華やかな
「相変らずおちつかんな、おまえは」叔父は盃をさしながら云った、「――そうせかせか忙しくばかりしないで少しはゆとりを持つがいい、剣術のほうはどうだ」
「さっぱりいけません、これも相変らずです」
「身を固めなくちゃいかん」叔父はじろじろと
「妻帯ですか」主計はふと首を傾げる、「――そうですな、妻帯、……身を固める」
そこで彼はあっと声をあげた。
――そうだ、それだった。こう思って主計は膝を
明くる朝であった。道場へゆくとすぐ、主計は市郎左衛門をその居間に訪ね、いずれ正式に人は立てるがと云って、折江との結婚の内諾を乞うた。――相手にはとつぜんすぎるかもしれないが、なにしろ忙しいのでまた忘れたら困ると思ったのだ。市郎左衛門もほぼそれとは察していたらしい、
「そんなことを折江から聞いたようにも思うが」こう云ってふとするどくこちらを見た、「――しかし、わしは承知できない、はっきり断わる」
主計はあっと口をあいた。師の表情はこれまでになく冷やかで、どこかに嫌悪の色さえあるようだ、主計は寧ろどぎまぎした。
「お言葉ではございますが、これは、実はもうとうから」
「断わるには理由があるのだ」
市郎左衛門は立っていったが、すぐに手紙を二通手にして戻り、それを主計の前へ押しやりながら云った。
「これを見ろ、そのうえで聞くことがあれば聞く、まさか覚えがないとは云えぬだろう」
主計はそれを手に取った。表は二つとも彼の名であり、裏は「その字」となっている、
「これはどうしてお手にはいったのですか」
「そこもとの
「それでこれをお信じなさるんですか、このような下賤なものを、しかも人にみつけられれば身を滅ぼすようなものを、私が袂に入れて落すような人間だとお思いなさるのですか」
「それではなぜそんなものが袂から落ちたのか、聞けば先頃から神明あたりのいかがわしき
「
「なんでまた唄などを習うのだ」
「御承知のとおり私はおちつきのない性質で、自分では努めて起居にゆとりを持とうと思うのですが、
市郎左衛門はじっと主計を見まもった。愛している門人である、もちろん深く信じてもいた、その愛と信とが強かっただけに、
「それにしてもいったいなに者が、かような物を先生にごらんに入れたのでしょうか」
「それは聞くな、わかればよいのだ」
「いやそれでは済みませぬ、ただごらんに入れただけならともかく、袂から落ちたなどと云い拵えるのは――」
そこまで云いかけた主計は、とつぜん飛鳥のように立って後ろの
「待て、弥一郎」
主計はとびかかって、少年の肩を
「おゆるし下さい、私はなにも知らないのです、なにも知らずにあんなことをしたのです、いやだったんですけど、怒られるのが怖かったもんですから、それに、――牧野さんが堕落するのを直すためだからと云われて」
「誰だ、そうしろと云ったのは誰だ」
「武田さんです」
主計の顔にさっとなにかがはしった、
「先生、――今日の稽古を休ませて頂いてよろしゅうございましょうか、実は申しわけのないことですがお嬢さまに付けて武田を」
「知っている」市郎左衛門は
「軽がるしいことを致しました、このままには捨ておけません」主計は立った、「――馬を拝借させて頂きます」
「主計、斬ってはならんぞ」
しかし主計は、黙ってそこをとびだした。
昨日の朝から約一昼夜、女づれだからそう遠くまではゆくまい。氷川下から馬を駆って東海道をまっしぐらに西へ
戸塚にかかる少し手前、松並木が途切れて左右に畑と枯田のうちわたしてみえるところで、ようやく折江の一行に追いついた。――かれらを追いぬいて馬を停め、とび下りて振返るのを見ると、折江と松乃とがまず声をあげ、平之助は明らかに
「ちょっと申上げたいことがあったものですから、――吉造、この馬を預かってくれ」下男に手綱を渡した彼は、折江のそばへ来てにこっと笑った、「――先生にあのことを申上げました、まだおゆるしは頂きませんが頂いたも同様ですから」
「まあそんな」折江は少し頬を染めながらこちらを睨んだ、「――こんなところで、そのようなことを仰しゃっては困りますわ」
「しかし、善は急げといいますからな」
「それにしても、
「いやほかにも一つ用があったんです、武田をお付けしましたが彼に急用が出来ましてね、ここから帰すことにしますから、どうぞあとは二人だけお伴れになって下さい、これで申上げることは済みました」主計は馬を吉造から受取った、「――松乃どの、吉造もしっかり供をたのむぞ」
「ではもうお戻りなさいますの」
「なにしろ急用ですからね、どうぞ構わずいらしって下さい、私もお見送りをせずに引返します、お帰りになるまでには、日取りもきめておく積りです」
「なんてお忙しいのでしょう」折江はついそう云って笑いだした、「――ではこのまま」
御平安にと云って主計は振返り、そこに立っている平之助を促して道を戻った。――二町あまり来て見かえると、もう折江たちの姿は松並木のかなたに隠れていた、主計はそこから左手へ三段ほどはいったところに、いま満開の梅林があるのをみつけ、「あれへいって休もう」と、馬を
「なぜ追って来たかわかるか、武田」
「云いたいことがあったら云うがいいだろう、なんの用だ」
「弥一郎がすっかり白状した」主計はじっと相手の眼を見た、
「――子供だましのつまらない手だった、よせばよかったのに、あの逆胴の手よりもっと下らない」
「云うことはそれだけか」
「もう一つある、先生のお考えは知らないが道場へは帰って貰いたくない、どう考えてもおまえは不似合だ、おまえにはおまえでほかに場所があるようだ」
「帰れと云っても帰りはせんさ」
平之助は冷笑した、
「――だが土産を進呈したいから持っていってくれ」
「結構だね、貰ってゆくよ」
「かさばらない物だ」
云うと同時に絶叫して、抜打ちを仕かけた。間合も呼吸も
「例の手をやってみろ、真剣ならなんとか云ったな」主計は刀を直線にして中段に構え、にっと微笑をうかべながら云った、「――どうしてあの手が悪いかを教えてやる、来い」
平之助はなにも云わなかった。歯をくいしめ、かっと眼を
「これでわかったろう」主計は丁寧に刀を拭いながら云った、
「――右手の
平之助は倒れたまま、苦しげに
「医者に来るように云うから此処にいるがいい、じゃあ元気になれよ、気を変えればなにをしたって楽しく生きられる、縁があって会うようなときには、おまえの明るい顔がみたいものだ、――武田、正直に生きるということはそれだけでもいいものだぞ」
そして主計は馬を曳きだし、さっさと梅林から出ていった。
――医者をみつけて、武田の手当を頼んで、道場へ帰って、改めて結婚を申込んで、仲人を誰に頼むか。馬を駆りながら主計はこう思う。……さあ忙しいぞ。