偽悪病患者

大下宇陀児




(妹より兄へ)
 ××日附、佐治さんを接近させてはいけないという御手紙、本日拝見致しました。
 いつも通り、いろんなことに気を配って下さるお兄様だけれど、喬子きょうこ、今度の御手紙だけはよく判んない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お兄様だって御承知の通り、お兄様や漆戸うるしどと同期生だったんですって。アメリカから帰られると、すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、それ以来漆戸は、病気で退屈で、話相手が欲しいもんだから、佐治さんが来て下さるのを、随分楽しみにしているんですわ。
 そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代から一寸変ったところがあって、他人から随分誤解されたものだが、しんは、気の弱い正直な男さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんな風に変っている人か知らないけれど、お兄様が何かきっと誤解しているんじゃないかしら。まアとにかく、お兄様のいうことは、これまで大抵の場合、嘘だったことはないのだから、その意味で喬子、今度の御手紙のこと、忘れないでいるつもりです。漆戸が、電話をかけて呼んだりなどするのだから、佐治さんが、ここへ足踏みもしないようにするなんてこと、とても出来ないけど。
 漆戸の病気、本当はあまり好くなくて、困っています。医者のいうのには、この冬を越せるようだったら、見込みがいくらか出るんだそうです。一週間前に喀血して、近頃は痩せ方もひどい。この冬のうちに、良人おっとと死別れするなんてこと、考えただけでもゾッとしてしまう。それじゃ、喬子があんまり可哀想過ぎると思う。
 お兄様の方の御病気はどうなんですの。呉々くれぐれも身体を大切にしてネ。

(兄より妹へ)
 三日ほど前、足試しのつもりで、宿の近くを四五町歩いて見た。歩けたには歩けたが、無理だったと見えて、あとの疼痛が激しく、今日やっと苦痛が薄らいで来た。心配してくれたけれど、僕の病気は大体こんな程度。気長にして、ここの温泉につかっていればいいのを、時々、あせって足試しなどするのがいけないのだ。リウマチスなんて、老人のかかる病気みたいで、気の利かぬこと夥しいが、いずれしかし、なおることは癒ると思うから、心配しないで欲しい。旦那様の病気と兄貴の病気と、二つ心配してちゃ、君も堪まらないじゃないか。
 さて、佐治佐助の件。
 私からの手紙が大変簡単過ぎたため、君には私のいうことがよく呑み込めなかったらしいね。無理もないことだ。佐治は、私にとっても友人だし、彼のことをあまり悪くいわずに置こうなどと考えたのだが、どうもそれでは不徹底で、結局、私の知っていることや考えていることを、ここで全部いって置かねばならないだろう。
 佐治を何故接近させてはいけないか、その理由は、大体二つあるが、先ず割に小さな理由の方からいうと、それは彼が非常な美男子であるということだ。
 彼の美男振りについては、君が彼と直接知っているし、詳しい説明をしなくてもいいが、大学時代、彼については既に、
「佐治を見た女は不幸だね」
 という深い意味の言葉が、ある教授の口からさえいわれたものだった。
 彼は牛込の方にある某先輩の家に寄寓していて、一時そこから大学へ通ったことがあったが、その頃彼が通学するために乗る市内電車には、若い女が随分沢山乗ったものだそうだ。女学生、交換手、そのほか職業婦人といった手合が、自分達の時間に遅れるのも構わず、或は殊更に廻り道をして、佐治の電車を待ち構えていたというのだ。まるで嘘のような話だけれど、必らずしも嘘でない証拠には某女学校で佐治に附文つけぶみをしたため退学された生徒が二人まである。私達より一時代前の学生達は、女義太夫というものを一生懸命で追いかけたというし、現代の女学生はターキーで夢中だ。佐治については、恰度こんなような人気があったのだろう。表面慎しみ深い女でも、どうかするとひどく大胆に勇敢にまた露骨になることがある。往年私は、映画で有名な速水張治郎はやみちょうじろうの実演を某劇場へ見に行ったことがあるが、その時につくづく女の凄じさを見た。張治郎が花道を通ると、花道際にいた女達が、身を乗り出し、手を伸ばして、この美男で名高い俳優の足を撫でようとするのだ。劇場がはねてからは、楽屋から宿へ引上げようとする張治郎のぐるりに、黄色い喚声をあげて女達が押しかける。実にそれこそは露骨で浅間あさましいくらいのものだったが、佐治も俳優になっていたら、さしずめ張治郎と同じだったに違いない。お転婆な女学生達の間では、彼のことが「バレちゃん」という綽名あだなですぐ解るほどになっていたというが、それは何でもバレンチノという映画俳優に似ていたからだそうだ。
 佐治が寄寓していた先輩の家では、その細君が、離別された。
 政治家として知名なS代議士の令嬢は、どこで手に入れたか佐治の写真を持っていたことが発見されたため、実業家M氏の令息との婚約が破れ、その結果がやがてS代議士の財政的破綻政治的失脚になったとも伝えられている。
 更に痛ましいのは、前にも一寸述べた某教授の令嬢が、これは気の毒なくらいの醜女だったそうだが、佐治宛に非常に長い手紙を書き、しかもその手紙を実際に佐治のところへ出す勇気もなく、毎日持ち歩いているうちに、彼女はD英語塾というのの生徒だったそうで、その手紙を朋友に見られたのを恥ずかしがり、カルモチン自殺を遂げてしまったことだ。
 それでこそ、教授のいった言葉の意味がよく呑み込めるだろう。
 佐治が、彼自身から女に働きかけたということをまだ聞かないのは、いささかなりとも彼の面目を保つに足る。だから、正しい意味では、彼は女たらしだとか色魔だとは呼べないのだが、不幸にも彼は、女に対してそれだけの魅力を持った男だ。漆戸もそのことは知っていた筈なのに、なぜ彼を接近させるか、私は不審でならない。漆戸には、君からこの手紙を見せてやって貰えまいか。そうして君自身も愛する漆戸のため、こういう危険性のある男を避けるがいいのだ。
 君が、佐治を相手にして火遊びをする女だとは思わないけれど、用心にくはなし、敢てこの第一の理由を、あけすけにいって置く次第だ。
 理由第二――。
 これは、君の旦那さんが「佐治は少し変ったところのある男だ」といったとかで、この言葉に関聯していると見てよい。どこが変っているか、一口にいえば彼は変に悪党ぶる癖がある。このことは、まア漆戸だとか私だとか、佐治ととりわけ親密だったものだけが知っているのだが、彼は一種の偽悪病患者なのだ。学生時代、彼は毎試験期に、すこぶる巧妙なカンニングの方法を案出した。そしてその方法を誇りがおに皆の前で公表した。ところが彼自身はカンニングなんかしないで、いつも最優秀の成績で試験をパスしているのだ。上野の図書館の本を盗み出す方法とか、電車へ只乗りする方法とか、時には釣銭を詐取する方法とか、いろんなことを考え出したものだが、これらの方法は、実に奇抜で巧妙で誰しも一寸実行して見たくなるようなものばかりだった。彼はある時、友人の名前を利用して、その友人の国元から為替を送らせ、為替を横取りする方法を案出したが、これはKという放蕩者の学生がすぐ真似をし、しかしヘマをやったために、忽ちKはその筋の手で取押えられ、しかも学校からは退学処分に附されてしまった。
 このことが、いち早く私達の仲間に知れた時に、佐治は、
「馬鹿な奴さKは。あいつ、僕の出鱈目に喋ったことを、本当に出来ることだと思やがったんだね。ああいう低能児にかかっちゃ敵わない。こっちで迷惑してしまう。僕は元来頭の悪い奴が大嫌いで、世の中の低能児なんてものは、むしろ一時に殺戮してしまった方が、世の中をどんなに愉快にするか知れないと思っているんだが、Kなどは、差しあたりその被殺戮者の筆頭だね。あいつは、結局、順当に学校を卒業しても、決して出世する男じゃないよ。いつかは、今度と同じようなヘマをやって大失敗を重ねる男だ。要するに世の中じゃ、頭がよくって、犯罪を巧みにやるような奴、悪いことをしても、それを誰にも知られないでいる奴が、一番手っ取り早く成功するんだからね。Kなんて、実に下らない存在さ。え? 何、あれにもう少し同情してやれって? 冗談じゃない。いくら僕の喋ったことに誘惑されたのだからって、あんな奴に同情してやるほど、安価なセンチメンタリズムを僕はっていないよ」
 いかにも強がっていったものだ。
 あとで聞くと、佐治は、Kのつかまった時警察へ自ら出頭し、実はその為替横取り事件は、これこれで自分が案出した方法だといい、それが実行出来るかどうか、Kと賭けをしたのだという嘘を言い拵えて、そのほかKのために百方陳弁したそうだ。Kに対する佐治の友情で、係官もひどく感激させられたというし、Kは涙を流して、自分が却って佐治に迷惑をかけたことを謝ったという。それのみか、佐治は、Kの既に費消した金を、全部自分で弁償し、とにかくKを警察から救い出してさえいるのだ。
 佐治が私達に向っていった強がりと、この実際の行為と、いずれが彼本来の面目であるか、私は、未だに決定することが出来ぬような気がする。
 美貌を利用して、女を騙すことぐらい朝飯前だといい、時には、数人の女を事実手玉にとっているが如く見せかけて、一度もそれで尻尾を出したことがない。前いったようにもろもろの恋愛事件が、すべて女の方からの、片思いに過ぎなかったということでけりのついてしまったのは不思議なくらいだ。
 彼は、こうもいったことがある。
「僕はね、どうも君達から、法螺ほら吹きだと思われているらしいよ。悪いことをするような顔をして、一向悪いことはしやしない。だから、正真正銘の僕は、実に気の小さい男だと思われているらしい。だが、僕は、実のところ、っぽけな悪いことなんかやりたくないのだ。同じやるなら、未だかつて、人類の誰もが案出したことのないような悪事を企らもうと思っているのだ。いわば僕の一生涯は、その悪事のために捧げられるといってもいい。芸術家が一世一代の大作品を作り出すように、科学者が生命を賭して、宇宙の一大神秘を解こうとするように、僕は、前人未踏の境地に分け入って、悪の最高峰を極めようというのだ。大きな悪事をする前に、小っぽけな悪事で、警察へ連れて行かれるなんてのは甚だ不名誉だ。だから僕は、目下出来るだけ謹慎して、時期の到来を待っているのさ」
 当時の私は、佐治がいかにもうまいことをいうので感心したものだ。ただ、今にして思えば、佐治が、本音でこんなことをいったのか、それとも面白半分であったのか、その点が多少曖昧にもなって来る。
 偽悪病が、最後まで偽悪病であればよろしい。けれども、いずれの日にか、彼の偽悪が偽悪でなくなる時が来ないとは断言出来ない。その意味で私は、佐治を危険人物と見做みなすことに躊躇しないのだ。大学を出てから彼は×省へ入って役人になり、今度洋行して来たという。昔よりはずっと大人になったし、学生時代のように、無闇と偽悪ぶりを発揮することもあるまいけれど、それこそ反って、はらの底では、本当に何かの悪事を企らみ、その準備にとりかかっているのだと考えることも不可能ではない。
 なお彼の警戒すべき性格については、以上のほかいくらでも話があるように思うが、今日は疲れたから、これで擱筆かくひつしよう。
 僕のいうことは、解ってくれたろうね。
 漆戸には、病気を、忍耐で征服しろといって伝えてくれ給え。肺なんか、黴菌と忍耐との闘争で、根気の強い方が勝つもんだそうだよ。愛する妻のために、どんなことがあっても生き伸びてくれなくちゃ困るわっていって、君から甘えてやるのも一つの手だね。
 じゃ、左様なら。

(妹より兄へ)
 お兄様の心配症なこと、喬子、漆戸と二人で大笑いしちゃいましたわ。今度みたいな面白い手紙は、あたし、今までに誰からも貰ったことがない。モチ、お兄様の気持はよく解るし、それについては、漆戸もどんなにか有難がっているのだけれど、あたしがあの手紙を見せると、お兄様のこと、被害妄想狂だぞこれは――って漆戸がいうの。
 偽悪病患者と被害妄想狂なんて、とても、絶好の取組ねえ。
 昨日も佐治さんが見えたので、喬子、お兄様の手紙のことなんか無論何も話しやしないけれど、佐治さんをふいに、「バレちゃん」て呼んでやった。佐治さん、ひどく吃驚びっくりしてしまって顔を真赧まっかにしているじゃないの。どこでそんなことを聞込んだかって、一生懸命気にしていて可笑おかしいったらない。漆戸と二人して散々揶揄からかってやったんだけど、あの人、漆戸のいう通り、本当に気の小さな人ね。お兄様、何も心配することは要らないと思うわ。
 漆戸と話している時、あの人、こんなことをいいました。
「ねえ漆戸君。僕は此頃つくづく自分が駄目になったと思うよ。昔は僕も、相当野心家で、勉強もしたし、溌剌たる意気も有っていた。ところが、学生生活を終って社会に実際出て見ると、すっかりもう僕はサラリーマンになり切ってしまって、いつもいつも考えていることは、早くサラリーが上ればいいとか、上役の感情を損ねてはならないとか、役所で何か手柄をして長官に認めて貰いたいとか、それに類した事柄ばかりだ。往年の大言壮語が気まり悪くなって来る。これではいけない、昔の意気や野望を盛り返せという叫びが、時として頭の隅から聞えて来ても、イヤイヤ、現在だって何も不幸ではない。同期の卒業生などに較べると、自分は出世が早い方だし、先ず成功者のうちに入れそうだ。焦ってはならぬという考えが湧いて来てしまう。――実に駄目だね。僕は、もしかして僕を、昔の僕に復帰させようというのなら、結局のところ、ここらで素晴らしい恋愛でもやって、昔の若さを再び燃え立たせにゃ駄目だろうと思っているよ。正直にいって、僕は、女に持てはやされ過ぎた。女など、いつでも欲しい時に手に入れることが出来ると思って、かつて一度も心からの恋愛をしたことがない。僕が、手に入れようと思っても、容易に僕を許してくれぬような女があれば、多分僕は、昔の僕に戻れるだろう」
 あたし、この言葉こそ、佐治さんの本音だろうと思います。誰かあたしの知っているひとのうちから佐治さんが恋をするに相応しい人を見付けてあげたいくらい。
 そういう恋人が出来てしまえば、佐治さんは、もっと元気のいい人になるだろうし、かといって、まさか昔の偽悪病患者になどなりっこないわ。
 今日、東京は初雪。
 漆戸は、あの後、どうしてか妙に身体の工合がいいらしく、この分なら、大丈夫だと自分でいっています。御安心下さい。

(兄より妹へ)
 被害妄想狂云々のお手紙、実に参ってしまった。
 そういわれれば、成程僕は、被害妄想狂かも知れないと思うのは、今度の君の手紙でも、またまた余計に心配になって来たからだ。僕は佐治について、余り喋り過ぎたのじゃないかしら。そうして、そのために、今まで君の心のうちで、何も知らず眠っていた佐治に対する好奇心を、横っちょから掻き立ててしまったのではないかしら。
 喬子。気を付けろ※[#感嘆符三つ、181-5]
 君は、佐治のために、恋人を探してやろうなんていっている。これは、要らぬことだぞ。決して決してそんなお世話を焼くものじゃない。それはお前が意識せずして、佐治に好奇心を抱き始めた証拠だ。
 異性が異性に対する好奇心は、危険な火遊びの第一歩だ。既に、好奇心を有ち始めた君に対して、僕がこういうことを指摘するのは、いいことか悪いことか、僕には判断出来ない。手紙を書きながら躊躇しているのだけれど、とにかく、君はよろしくない。佐治を、悪党だと思ってくれ。頼む。私は、心配だ。リウマチでなかったら、すぐにも東京へ戻って、佐治に絶交を言渡し、お前と佐治とこれ以上の接近を防ぎたいほどに思う。
 漆戸宛、別の書信で、佐治を警戒するよういってやった。被害妄想狂とあざけられてもいいから、要するに私は、漆戸とお前との幸福を祈る心で専一なのだ。

(妹より兄へ)
 クリスマス、それから年の暮れ。
 何だか気持の落着かない時になって来ました。毎年のことで面倒臭い贈物とか、漆戸が、いつもの通り、クリスマスのお祝いを家でやれとかいうので、喬子、目茶苦茶に忙しく、お兄様への御返事、一週間近くも放ったらかしにしてしまった。堪忍してネ。
 あたし、此頃になってつくづく思うのだけれど、お兄様、し偉いわね。お兄様の手紙で、喬子は、自分の気持をかなりハッキリと解剖することが出来ました。そして、お兄様のいわれた通り、喬子が佐治さんに対して、確かにある種の好奇心を抱いていたことを発見し、自分で吃驚しています。
 あたし、いけない女なのでしょうか。
 此頃のあたしは、佐治さんと直接視線をカチ合せるのが恐ろしいように思うし、漆戸と佐治さんとが何か話し合っているところへ、紅茶など運んで行っても、変に不安なものを感じてしまう。出来るだけ不愛想に振舞ってはいるつもりだけれど、それが心からの不愛想でないことを、良人からも佐治さんからも、既に看破されているような気がする。
 漆戸が、あの後、日増しに元気になってくれたし、いつかは、あたしをもっと力強く護ってくれそうなので、それを心頼みにもしています。そしてあたし、いろいろ考えた末に、最賀さいがさんにお願いして、これから当分、同居して戴くようにしました。
 最賀さんは、お兄様も、二三度会って御存じの筈ね。漆戸の後輩で、今は漆戸のやっている事業のパートナーです。無口な、ブッキラ棒な、怖いみたいな人だけれど、事業上の手腕は素晴らしいとかで、漆戸がすっかり信用しています。奥さんを去年亡くして、お淋しいようでもあるし、ここの家に同居していれば、事業上便利でもあり、それに喬子としては、漆戸以上に、喬子をじっと監視してくれる人が欲しい。それやこれやで、最賀さんに来て戴いたわけです。
 自分で自分の心を信用出来ず、監視人を置くなんて、喬子も随分おバカさんネ。
 でも佐治さん、何だか、ひどく恐ろしい人のように見え出して来たのだから仕方がない。あたしもお兄様の被害妄想狂にかぶれちゃったのかしら。お兄様の御病気は、近頃どうですの?

(兄より妹へ)
 御手紙拝見。実に今度は、とりとめのない手紙だったね。私は三度も四度も、今度の君の手紙を読み返して見たのだが、どうも君の真意がよく解らなくて困っているよ。
 というのが、君のいうことは、変に不自然じゃないか。
 佐治に、君は好奇心を有っているといって、正直に告白しているようだが、その癖、ではなぜ佐治を遠ざけないのだ。佐治を恐れながら、彼の出入を相変らず許していたのじゃ何にもならない。
 君は、何か嘘をいっているね。
 嘘でない、ほんとの手紙を待っている。
 今日はこれだけ――。

(兄より妹へ)
 どうしたのだ喬子!
 前の手紙を出してから今日で一週間になる。その間にクリスマスも過ぎてしまったが、お前は、まだ私へ返事をくれないね。
 君が、嘘をいっていると書いてやったのが気に障ったのか? 気に障ろうがどうしようが、君からの前の手紙は、矢張り嘘だらけだと思う。
 もう一度訊くが、君は、本当に佐治をどう思っている? 佐治を、もう君が、好奇心どころじゃない、愛し始めたのではないかと思って、私は気懸りでならない。それに、君から何もいって寄越してくれないのは、君を中心にして、漆戸と佐治との間に、何か恐ろしいことが起りつつあるためではないかという邪推まで起って来る始末だ。それが、単なる被害妄想であってくれたら、どんなに私は嬉しいか。
 君の気持を、正直にいえないようだったら、偽悪病患者佐治佐助の最近の動静だけでも知らせてくれ。そうすれば僕は、かなりいろいろのことを判断出来るだろう。私は、実は感冒にやられて、少しまたリウマチを悪くしてしまった。東京へ戻って、直接君や漆戸、その周囲に気を配ってやれないのが残念だと思う。
 折返して、御返事を待つ。

(兄より妹へ)
 謹賀新年。
 今日でまた一週間になるよ。
 正月早々、変なことはいいたくない。
 賀状ぐらい、くれてもよくはないか。

(兄より妹へ)
 去年の暮からかけて、私はスタンダールの小説『赤と黒』を読んだ。そしてこの中の主人公ジュリアンが、少なからず佐治佐助に似ていることを発見した。ジュリアンは、非常に美青年で、頭脳の明晰な男で、しかも野心家だ。美しいレナール夫人は、ジュリアンを避けよう避けようと心懸けつつ、遂にジュリアンと姦通する。また、侯爵令嬢ラ・モール嬢は、身分の賤しいジュリアンを一生懸命軽蔑しようとして、しかも妊娠し、彼を世界で一番偉い男のように尊敬し、愛してしまう。最後にジュリアンは、己れの立身出世せんとする矢先きを、レナール夫人の中傷によって妨げられ、レナール夫人をピストルで殺害する。殺害は、単にレナール夫人を傷つけたのみであったがジュリアンは死刑に処せられるという筋のもので、私は、今偶然にこんな小説を読んだことを、何かの暗合、もしくは不吉な前兆でありはしないかとおそれている。
 願わくば、君が、レナール夫人であってくれぬように。そして佐治が、ジュリアンとなってくれぬように。
 今日は正月四日。昨日も一昨日も、そして今日一日、私はお前からの便りを待って、結局待ち呆けを食わされてしまった。漆戸からさえ、何ともいって寄来さぬのはどうしたことか。ここで例の如く、僕一流の想像を廻らして見ると、君は、僕から漆戸宛に出した書信を、すべて横取りしてはいないか。僕の言葉を漆戸に聞かせたら、漆戸は、君の佐治に対する気持を知って、佐治を遠ざける。それが恐ろしいものだから、君は、僕と彼との間を遮断して、漆戸を瞞着しているのだ。
 愛する妹よ。
 まだ時期は遅過ぎはしない。
 詳しいことを知らせてくれ。

(妹より兄へ)
 ウルシド、シンダ、サジ、ケイサツヘツレテユカレタ、コチラヘコラレヌカ。

(兄より妹へ)
 ユカレヌ、イサイ、フミニテシラセ、シンブン、オクレ。

(妹より兄へ)
 親切な、そして恐ろしいお兄様。
 お兄様は、到頭、悲劇の結末を言いててしまいましたわね。電報でお知らせしたように、漆戸は死にました。いえ、殺されました。何事についても、滅多に間違ったことを仰有おっしゃらぬお兄様だったけれど、今度の正確さだけは恨みに思います。こんなにまで、言い中てて下さらなくともよかったのに。
 昨日まで、私は、何が何だか、悪夢の中にいるような気持で過ごして来ました。もう、凡てがあまり突然で、眼の前に見ることが、どれも信じられなかったのです。漆戸が死んだことも、遺骸を火葬場へ持って行って、その代りに、骨壺を貰って来たことも、皆、まだ真実ほんとうではないような気がしています。泣いても悔んでも、漆戸は生き帰ってはくれません。それで私は、やっと現実の中の出来事だと意識させられ、悲歎や慚愧や懊悩やの深い深い谷底へ、一気に蹴落されたようになってしまうのですが。
 お兄様に、どこからお話を始めたらいいか、とてもまだ筋道立ったことは書けませぬけれど、事件前後のあらましだけを報告させて下さい。
 お兄様が偶然の暗合ということを仰有ったけれど、全くそれは偶然過ぎるほどの暗合で、あれは、恰度にお兄様が、可哀想なレナール夫人やジュリアンのことを書いた手紙を下すった、その晩のことでしたの。ここでついでに申しますけれど、お兄様の手紙は、半分まで、私の恐ろしい秘密を看破していらっしゃり、しかしあとの半分は、少々お兄様の心配が度を過ぎたような恰好になっておりました。今こそ隠さずに申しますけれど、喬子は実際に、レナール夫人になりかけていました。前の手紙で、佐治さんに好奇心を抱き始めた、と申した時は、既に佐治さんをひそかに愛していましたし、そのためお兄様への御返事を差上げるのが何としても嘘らしく、しどろもどろに不徹底なものになり、それを鋭くお兄様から指摘されたものですから、すっかりともうお便りを出せなくなったのでした。ただしかし、喬子は闘っていました。最賀さんに同居して戴いたということも嘘ではないのです。佐治さんを、陰では悪魔だと思い、出来るだけ軽蔑したり憎んだりしようとし、でも困ったのは、佐治さんから、既に求愛の態度に出られたことでした。喬子はこの誘惑をしりぞけるのに、血みどろで闘ったつもりです。遂に漆戸にも、去年のクリスマスの晩告白しましたら、漆戸は、意外にもこのことを半ば以上予期していたのだと申し、だから私の告白を非常に喜んでくれました。なぜ予期しながら、黙って見ていたか、良人の気持こそ、私には不可解至極なものですけれど、とにかく漆戸は私を叱りませんでした。それどころか、佐治さんを相変らず出入りさせ、お兄様に対しては、私同様、何もいってやろうとはしなかったようです。事態は、悪くなるのが当然でしょう。告白をして後、私は、良人が、一種の残忍性を以て、あたしを監視しているのだと思い出し、すると、反抗的に佐治さんと親しいように見せかけたくなり、一方では、矢張り誘惑に乗るまいとして苦しみました。お兄様が、半分だけ心配の度をお過しになっていると申したのは、それでも喬子が、レナール夫人に、まだなり切らずにいたことでございます。それだけは信じて下さい。心の中はどうあろうとも、形の上で、まだ喬子は漆戸に言訳の出来ぬところまでは行っていませんでした。喬子は、辛くも最後の一線を死守しました。そうして、こういうような状態のもとに、前いった晩が参ったのでした。
 その晩――。
 折悪しく家の中は、喬子と漆戸と女中のお竹というのと三人だけだったのです。最賀さんは三日ほどの旅行中で、竹や以外の女中や書生は、七日正月の終りの日でもあり、私が暇を与えて遊びに出しましたので、恰度八時半頃だったでしょう。
 私は、漆戸の翌日の分の薬を、お竹に吩咐いいつけて医者のところまで取りにやり、そのあと、一寸良人の病室へ行きました。それから暫らくすると、台所の方へ竹やの帰って来た気配がしましたが、私は、ふと、よそへ、電話をかける用事のあったことを思い出し、良人の部屋を出て、お兄様も知っていらっしゃる、お納戸なんどの横手の電話のところまで参りますと、その時家の中の電燈が一時に消えてしまいました。
 発電所の停電だろう、それとも、引込線のヒューズでも飛んだのかなと思いながら、じきにくと思いましたし、私は塗り籠められたほど真暗な中で、そのまま電話をかけにかかって、しかしそれが幾度も幾度も話中だったり混線していたりで、かなり長い時間かかりました。長いといっても、無論十分ぐらいのものだったでしょうが、その間電燈は点きませんし、女中の竹やが、生憎あいにくと一ヶ月ほど前東京へ出て来たばかりの田舎者で、マッチを探したり蝋燭を出したり、家の中の勝手にも不案内で、そんなことに大層手間取りました。電話口にいた私は、暗さは暗し、電話での話は通じませんし、いい加減でじれったくなって、いつものキャンキャン声で呶鳴り散らした末、受話器をかけてしまおうとした途端、家の中のどこかで、ビシーリ! というような、激しい銃声を聴いたのでございました。
 まだ台所でマゴマゴしていた竹やは、あとでいうのに、私が電話をかけていて、ふいに倒れるとか何かにぶつかるとか、怪我でもしたのではないかと思ったそうですが、はじめ私も、その凄じい銃声が、あまり突然でもありましたし、どこで起ったのか、すぐには見当の付き兼ねる気持でした。
 竹やが、やっとこさ蝋燭をともして、念のため、廊下の隅っこにあった引込線のスイッチを照らして見ますと、どうしてでしょう、その蓋が開いています。これはあとで思うと、誰かが、家の中を暗くする目的で、スイッチを切ったものでしょうが、その時は、ただ、誰がこんなことをしたのかというぐらいで、別に深いことも考えようとはせず、竹やに踏台やら脚立きゃたつやらを持って来させ、女ばかりだから、大変骨を折ってスイッチを元へ戻し、さて明るくなったところで、良人の部屋へ行って見ますと、それはもう、私の口からは申せぬほどのごたらしい有様でした。
 漆戸は、ベッドへ、仰向けに寝たまま、頭をピストルで撃ち貫かれて絶命していたのでございます。
 私が電話をかけに行ったあの時までは、確かに何事もなかったのに、それも、近頃は病気から来る熱もぐっと下って、この分なら春先きには起きられるかも知れぬなどと、嬉しそうに話していた漆戸だったのに、もう良人は、一口も物を言ってくれません。悲しい亡骸なきがらになってしまいました。
 それからあとのことは、私から申すまでもなく、一緒にお送りした、東京の新聞で御覧になって下さいませ。
 警察の人達が参ってから、最初は、兇器のピストルが問題になりましたけれど、そのピストルは、良人のベッドの枕下まくらもとにある小机の抽斗ひきだしへ、いつも入れて置いたものでございます。ピストルは、中庭の山茶花さざんかの根元に、一発だけ弾丸たまが無くなって落ちていたのを、一人の刑事がじきと発見したのですが、一方では、部屋の中庭に向いた窓が開いていましたし、裏木戸のくぐりも、簡単に開けられるようになっていました。結局、何者かが、良人の枕下にあったピストルで良人を殺害して、窓から中庭へ逃げ出し、ピストルを山茶花の根元へ捨て去ったものだろうということになりました。電燈を消したのは、私が、電話のところにいましたし、そこから、また竹やのいた台所のあたりからも、中庭の方を、見ようと思えば見えないこともなく、犯人は、そういう場合を予め考慮して、電燈を消してから、良人の部屋へ忍び入ったのであろうという推定です。
 盗難の形跡はありません。
 犯人は、誰かということになり、この家へ出入する者を調べ始めると、佐治さんが、じきに疑われるようになりました。どこの誰がそんなことを警察の耳へ入れたのか、佐治さんと私とのひそやかな恋愛問題が、ちゃんともう知れていて、その上悪いことには、事件の起った当夜八時半頃、佐治さんは、この東京のどこにいたのか、ハッキリしたことを申しませんでした。警察で当夜の行動を訊ねられると、はじめ佐治さんは、その時刻に、上野公園の科学博物館前のベンチにいたのだと申立てたそうで、しかしそれが、私との媾曳あいびきのためだったと苦しい弁明をしたとのことです。午後八時半に、そこのベンチで私とひそかに会おうということを、私と約束してあり、じっとそこで私を待っていたというのですが、それについては、私も警察からいろいろ訊かれて、もとより、そんな約束をした覚えはありませんし、私がそれを否定しますと、佐治さんは大変に怒って、私のことをひどい嘘吐きだといって罵りましたけれど、いかに愛を感じ始めた人のためであっても、私、そんな不仕鱈ふしだらな約束をしたとは、どうしても申せません。有りのままに、それこそ佐治さんの言懸りだということを明らかにしましたので、結局あの人のアリバイは、成立たぬようになりました。出来るだけ秘密の媾曳を遂げるため、人に姿を見せぬようにしていたのだという弁解だったそうですが、科学博物館の前で佐治さんを見たということを、誰一人、申出るものもありません。私も、お兄様に前申した通り、佐治さんを特別な関心を以て眺めていましたし、それは私の、悔いても悔いても悔い切れぬ過ちでした。佐治さんは、求愛に私がむくいぬのは、良人が有り、しかも、近頃だんだん良人の病気が快方に向っている、そのためだと考え、その揚句が漆戸を殺す気になったのではなかったでしょうか。そうして、あまりにも早くその罪が発覚しかけると、偽のアリバイを申立てて、そのアリバイを、私の好意ある偽の証言で有効に役立てようとしたのではなかったでしょうか。真実私が、良人よりも佐治さんを愛していたら、佐治さんを救うため、上野公園で密会の約束をしたといい、しかし事情があって時間に遅れたため、佐治さんを公園のベンチで待ち呆けにしたと申立てることが出来たかも知れません。そうなれば、事情は変って来ます。佐治さんは、アリバイのあるお蔭で、ずっと有利になります。不幸にも佐治さんは、私の愛を測り損なったのです。私は苦しみもだえて、しかし、そのように「好意ある偽の証言」をするまで佐治さんを愛していなかったことを、今、ハッキリと知りました。そして、せめてそれが、漆戸へのおびだと思っています。
 佐治さんが偽悪病患者で、いつかは、最も素晴らしい犯罪を企らんで見せると公言していたというお話や、ジュリアンが、矢張りピストルで、レナール夫人を撃ったというお話を、私は、今さらながら思い出しています。
 昔から、間違ったことを仰有らぬお兄様。そして、実に怖いお兄様。
 今の哀れな喬子を慰めて下さい。

(兄より妹へ)
 可哀想に。
 普通の人生では滅多に出会でくわさぬような悲劇の渦中にあって、身心共に疲れているだろうに、よく今度の詳しい手紙を書いてくれた。お蔭で、大体呑み込むことが出来たわけだ。私にいわせれば、私のリウマチが祟ったのだ。私が、東京にいたら、こんなことを、決して起らせはしなかったのに。
 さてしかし、君からの手紙で、大体呑み込めたとはいうものの、生れ附き、何事もいい加減では放ったらかしに出来ない、しかも、人一倍穿鑿せんさく好きなところのある、兄の因果な性格を許しておくれ。僕は、君の手紙やら新聞記事やらで、二つ三つ、なお、訊ねたいことがある。それは、佐治もまた私の旧友であり、彼が漆戸殺しを、まだ否認し続けているらしいから、どうでも彼の犯行だというならば、彼宛てに、潔よく、自白を勧告してやりたいためでもあるのだが、訊きたいことは箇条書きにする。
(一)犯人は、電燈を消して置いてピストルを発射している。ものを狙うのに、暗黒を殊更ら選ぶのは常識に反するようだ。当局の人は、これを何と解釈しているのだろうか。
(二)君の手紙だと、犯人は、君が漆戸の部屋を出て電話をかけに行こうとした時、電燈を消したことになっている。暗がりの中で、君の電話は、幾度も話中で、かけ直しをしたらしい。それらの事柄に間違いはないか。
(三)漆戸家の中庭の様子を、私は、案外ハッキリ記憶せぬが、ピストルの落ちていたという山茶花は、漆戸の病室から東南へ六七けん行った、花壇の右の端に植えてあったと思う。それに違いはないか。
(四)最賀君は、私も相識の間柄だ。三日ほどの旅行中だったというが、その旅行先きはどこだったか。
 以上、大至急御返事を待つ。

(妹より兄へ)
 御手紙拝見致しました。
 ちっとも喬子のこと、慰めても下さらず、箇条書きのお訊ね、お兄様も随分だと思いました。私からの手紙の書き方がいけなかったのでしょうか。それとも、佐治さんに対する私の不心得を、お兄様、怒っていらっしゃるのでしょうか。
 では、喬子も、箇条書きにして御返事差上げますわ。
(一)漆戸は、傷口の様子から判断して、非常に近距離から、射殺されたことが判っているようです。ベッドに寝ているのだし、しょっちゅう、病気見舞になど来ている人だったら、暗がりでも、漆戸の頭がどこにあるか判るだろうし、また、侵入した時、声でもかけて、聞馴れた声だということを知らせて安心させ、その上でベッドへ近づいたら、十分、狙い撃ち出来るだろうという、当局の人の話でした。
(二)電燈の消えた時のこと、その通りです。間違いありません。繰返して申すと、竹やは台所で蝋燭を探してい、私は、電話でじれっぽくなっていた時、暗がりの中で、唐突だしぬけにピストルの音がしたのです。
(三)山茶花も、お兄様の仰有る通りです。
(四)最賀さんは、名古屋へ旅行中でした。何か、最賀さんに、お疑いが有るのでしょうか。本当を申すと、私も、もしかしたら、あの人ではないかということを考えて見たこともあります。最賀さんは事業上、漆戸と利害関係が深いのですし、ひょっとしたら、私達の知らないことで、漆戸との間が、円滑でないようになっていたかも知れません。けれどもあの人は、事件の翌日の夕方東京へ戻って来て、大変吃驚していました。名古屋にいたというアリバイも確実だし、目下、どうにも疑えません。犯人が、佐治さんでなく、最賀さんだということになったら、私、何がなし、ホッと出来るように思います。そうなれば、少なくとも今度の事件は、私と佐治さんとの忌まわしい恋愛問題が原因ではなかったということになり、肩の重荷がいくらかでも減りますもの。
 今日は頭が重たいし、以上の御返事だけで堪忍して下さい。
 もし、お兄様の力で、最賀さんが犯人だということを発見して下すったら、喬子、本当に感謝します。名古屋へ行ったと見せかけて、実は行かなかったというようなことでもあるのでしょうか。それについて、お兄様の観察を、近いうちに聞かして下さいネ。今、喬子の気持を救うものは、恐らく、それのみでしょう。お兄様からの御手紙がどんなに力頼みとなるか、お兄様の想像以上です。
 では、これで――。

(妹より兄へ)
 冬の雨というものは、底知れず佗びしいものですわね。喬子、此頃は、ひどい泣虫になってしまいました。良人の部屋へ行って見ると、ガランとして淋しい。「あなた!」と呼んで見る。小さな小さな声で呼んで見る。そうして、誰も答えてはくれない。でも喬子、じっと耳を澄まして、漆戸の返事を待っていて、そのうちに、声を立てて泣かずにはいられなくなってしまうのです。
 事件のあった直後は、それでも気が張っていました。
 お葬いも、済ませました。
 そしてそのあとは、滅多に誰も訊ねて[#「訊ねて」はママ]来ない。墓のような静けさです。静けさを掻き乱されたくはない。このしーんとした家の中で漆戸のことだけを思い出していたい。でも、耐まらなく淋しくなって来るのですもの。
 最賀さんも、漆戸がいなくなった家に、いつまでもいられないといって、四谷の方のアパートへ移ってしまい、佐治さんは、無論、参りません。
 漆戸には、遠い親戚が、それも、数えるほどしかなかったので、その人達もあまり見えず、また見えたにしたところで、それは漆戸家の財産目あて、何かうまい形見分けにでも有りつこうという考えばかりで。
 そうした人々の浅間しさを見ると、喬子、もう、死にたくなります。
 お兄様は、どうしてお便りを下さらないのでしょう。お兄様が、私の只一人の力頼みなのに、あれからもう一週間、喬子は、世界中にポツンと一人きりでいます。
 お身体の工合でも悪いのでしょうか。
 お便り、下さいましネ。

(妹より兄へ)
 昨日、新聞で見ると、お兄様の行っていらっしゃる温泉場の附近が大変な雪で、汽車など不通になったと出ていました。
 まさかとは思うけれど、お変りはないのでしょうね。また五日も喬子は、ボンヤリと漆戸のことやお兄様のことばかり、考えて過ごしたのですもの。この前の手紙で言落しましたけれど、佐治さんについてはその後、まだ取調べが終らないそうです。佐治さんの特異な性格などのことも、警察では、だんだん明らかになった様子で、誰か矢張り佐治さんやお兄様と同じ学校を出た方が佐治さんを一種の悪魔主義の男だといったとかで、偽悪病患者というのと言葉は違いますけれど心証は益々悪くなって行くようです。
 佐治さんが犯人でないとなれば、少なくとも喬子は、大変気が楽になれると思った、あの希望は、遂に駄目なのでしょうか。地下に眠っている漆戸を呼び起して、犯人は誰だかと訊ねることが出来たらどんなにいいでしょう。漆戸に指差されたら、いかに強情な鉄面皮な犯人でも地に平伏するよりほかないでしょうもの。――でも、そんなことを考えるのは恐ろしい。それは、漆戸の霊に対する冒涜ですわ。
 それはそれとして、最賀さんの件はどうなりました?
 お兄様だったら、或は、最賀さんが名古屋へ行ったというアリバイを打ち破ることが出来るのではないかと思って、喬子、まだその期待を捨てていません。
 どうぞ、御返事下さい。

(兄より妹へ)
 愛する妹よ――。
 殆んど二週間、私はお前に御不沙汰をしてしまった。淋しいという手紙、それから、最賀君のことを知らせてくれという手紙、二通共、確かに読んではいるのだが、ついでにここでいって置こう、その二通の手紙は、常のお前にも似ず、何とたどたどしい文章だったろう。漆戸を喪った悲しみが、そんなにもお前の胸を鋭くえぐったのか。それとも、何かも一つの邪魔物が、絶えずお前の胸を掻き乱していて、それが、隠そうとすれば隠そうとするだけ、お前のいう言葉、文字、文章の上に現れて来たのか。
 妹よ――。
 お前は、哀れな女だ。お前は、たとえどんなことがあろうとも、兄としての私が、どこまでもお前を愛し憐れんでいるのだということを、よく知っていて欲しい。そして、これから私の書く手紙を、出来るだけ冷静に読んで欲しい。実をいえば、私はこの手紙は、随分書きにくい手紙だった。幾度か筆をとりかけては躊躇し、しかし結局書こうと決心した手紙だ。先ず、何から言おう。お前の手紙にもあったのだし、乞いに任せて最賀君のことからでも話して行こうか。
 最賀君が犯人だったらどんなに嬉しかろうとお前はいったね。なんとそれは、巧妙なお前の言廻し方だったろう。私の調査によると、最賀君は、事件発生当時、事実名古屋に滞在していたのだ。そして毫末ごうまつといえども犯人たるの証跡はないのだ。彼の犯人ならざることを、誰よりも明瞭に知っていたのはお前ではなかったか。お前は、私がどんなに最賀君を疑ったところで、おしまいには彼の無罪を立証するに過ぎぬことを知ってい、それなればこそ、殊更に彼を疑わしくいい、それに応じての私の返事で、私が今度の事件について、どれだけの真相を掴みつつあるか、ひそかに嗅ぎつけようとしたのではないか。私からの便りを欲しがったのも、実は私の調査がどの方向へ進行したか、そっと打診するためだったと私は見る。憐れにもお前の胸の中は、不安の念で一杯だ。いじらしくもお前は、この兄をこそ最も恐るべき敵だと知り、全力を尽して兄への闘いを挑んだ。前々から準備して、佐治佐助と恋愛の交渉が有るが如く無きが如く見せかけたのも、畢竟するに、兄を欺こうとするのが大部分の目的だった。兄は、実際、暫らくのうち欺かれた。兄だけではなく、佐治佐助もまた欺かれただろう。彼が、上野公園でお前と密会する約束をしたのは、必らずしも嘘ではない。約束だけは確かにあったのだ。ただお前が、その約束を履行せず、後に佐治が、午後八時半東京のどこにいたか、アリバイを立証し得ざるよう、彼をして、人通りの最も少い上野公園へ、一人だけ行かしめたのだ。二人がひそかに取交した約束で、その約束に対する証人のないのを幸いに、お前は、あとで大胆にも、この約束をしなかったと公言している。言懸りにされてしまった佐治の怒りは推察するに余りあるものだ。なぜお前はこんなことをしたか。それは、根気よく丹念にずっと前から計画し、佐治を巧みに操縦して置いて、万一の場合、彼一人に嫌疑をかけさせる目的があったからだ。彼の、特異な性格、偽悪病患者であることが、実に都合がよい。彼こそは、冤罪をこうむらせるに、最も適切な男だったのだ。
 私は、遠隔の地にいるが、最初にお前から事件の内容を知らせて来た時、何ともいえず不思議なことを発見した。それはお前が、暗がりで、電話をかけたということだ。折返し、それに間違いはないかと訊いてやると、間違いはないという返事だった。だが、賢い妹よ。考えて御覧。ここでお前は所謂犯人の愚挙、常識では、どうしてそんなバカなことをしたかと驚くほどの失策をしている。漆戸家は、赤坂にある。そして赤坂管内にあるお前の家の電話は、暗がりでは通話が出来ぬようになっている。いわんやして、話中だったり混線したりして、幾度もかけ直すことなど絶対に出来ない。その電話は自動交換式だ。文字盤がついていて、文字盤を読んで廻さねばならない。交換手に電話番号を告げるわけに行かない。だのに、暗がりで、それも塗り籠められたほど真暗だったと断ってある。そこで、お前は、どんな風にして電話をかけたのだ。
 私は、嘘を発見すると、この嘘が何のためであるか推理にかかった。
 思うにお前は、ピストルが発射された時、良人の部屋にいなかったことを証明するため、電話をかけるふりをしていたのだろう。いい案配あんばいに、竹やが、電話を聞いていた。そして証人になってくれた。極めて近距離から発射されたピストルだが、その時お前は、電話口にいたというのだから、当然、嫌疑からは免れてしまう。事実、当局では、そのことだけで、全くもうお前を嫌疑の埓外に置いた。ところが犯人は、是非共、電話をかけていたということを知らせたいと思った余りに、不思議なほどの忘れ物をした。いつも使っている文字盤に気附かなかった。あとで、どこへかけたか訊かれたり、かけた先きを調べられた時、実際は電話がかからなかったと知れては困るので、いい加減に、話中と混線とを持ち出し、キャンキャン声で呶鳴り散らしたといっている。けれども一方では、電話をかけているふりも必要だったし、また、暗いことも必要だったので、つい、文字盤を無視してしまったのだ。
 次に、では、暗さがなぜ必要だったか。
 それは、二つの理由からだ。
 一つは、暗いことによって、犯人の逃げる姿が誰にも見えなかったという、弁明をするためだったに違いない。庭には常夜燈が一つあり、良人の部屋からも明るみが流れ出している。この明るみの中を、事実犯人が逃げ出したとすれば、恰度台所にいた竹やが、その姿を見た筈であるかも知れない。ところが、暗ければ、そのために見えなかったともいえるのだ。要するに暗さは、人の姿を隠しもするし、同時に、もともと存在しなかった姿が、暗さのため見えなかったということにもしてしまうのだ。
 暗さについて第二の理由。
 犯人は、その暗さの中で、ピストルを発射しているが、それは、どこで発射されたものだったろう。ここで順序正しくいうと、犯人が漆戸を射殺したのは電燈の消える前のことだ。犯人は、その夜田舎者の女中だけを残して、他の者に暇を与えて遊びに出した。そして八時半竹やを医者のところへやり、竹やの留守のうちに、最も恐るべき良人殺しの罪は行われたのだ。犯人は、かねて綿密に考慮した計画に従い、良人の部屋へ行き、恐らくは前以て盗み出して置いたピストルを、毛布か蒲団類似のもので包んで音のなるべく四隣あたりへ響かぬよう注意し、何か冗談をいいながら、良人の前額部に銃口を押し当て、良人が、何をするか理解せぬうちに素早く引金を引いた。それから、部屋の窓を半ば開けて、犯人がそこから逃げ去った体裁を作り、ついで竹やの医者から帰ったのを見計らい、廊下へ走り出して、身軽に窓框まどがまちへ乗り、電燈引込線のスイッチを切った。次いで、お納戸横手の電話口に於けるお芝居にとりかかったが、この時までに、なお一つ、なすべきことがあった。
 それは、良人の部屋で発射した一発の弾丸たまを、ピストルと同時に盗み出して置いた別の弾丸で、補充して置くことだったのだ。
 弾丸の補充されたピストルは、まだ、手に持っている。彼女は、電話口で高声に喋りつつ、その途中で、電話口から僅かに身を離し、そこの小窓から、庭へ向けて、轟然とピストルを発射したのだ。その音は、台所にいた竹やに聞え、しかし、そんなところで発射されたとは誰にも知られなかった。発射された弾丸は、そこの柔かい地面へ、深く潜ってしまったに違いない。犯人は、そのあとで、ピストルを中庭へ向って投げ捨てたが、これは山茶花の根元に落ち、その山茶花が、お納戸の近くの小窓からも、確かに見える位置に植えてあることを、私は、犯人へ問い合せて、ちゃんと確かめてあるのだ。犯人は、暗さを利用して、ピストルを、そこから庭へ投げたことを、矢張り誰にも見せぬよう心懸けた。これで、暗さの必要だった、二つの理由が判ったであろう。
 兄に似て聡明過ぎるほどの妹よ。
 憫然びんぜんなお前は、それがひびの入った聡明さだということに気付かなかったのだね。
 兄は、ようやくにして、語るべきことを不十分ながら語り得た感じだ。兄は、匕首に刺し貫ぬかるる思いをして、我妹が、殺人者たることを指摘せねばならぬ破目に堕ちたのだ。
 詛われてあれ。
 私は、お前の手紙の嘘を発見すると、直ちに在京の某友人を煩わして、旬日に渡り、お前の行動を監視せしめた。そして知り得たのは、お前が、最賀と二人、ひそかに大森の待合へ、既に事件前から事件後へかけて、十数回出入しているという事実だった。お前の言葉を借りるならば、地下に眠る漆戸が、額の傷口から垂れる血を満面に浴びて、犯人の名前を指摘する時、真先きにひれ伏すべき者がなんとお前自身だったではないか。
 お前の愛人は、佐治でなくて、最賀だったのだ。恐らくは、最賀を同居せしめたのも、彼との悦楽にふけるためだったろう。そしてそれは、間もなく良人漆戸の看破するところとなり、もはや猶予出来ずに、この戦慄すべき犯罪に着手したものだったろう。良人から、離婚せられざるうちならば、妻は、良人の遺産を継ぐことが出来る。時期を待って、お前は、最賀と結婚するつもりだったかも知れないね。
 兄は、逝ける友、漆戸のために、妹の罪をあばき、既にこの手紙がお前の手へ届いた時、お前のもとへは、同行を求むる刑事達が赴く手筈になっている。お納戸の近くの庭から、ピストルの弾丸も掘り出されるだろう。無慈悲な兄ではあるがこの兄をどうか許してくれ。佐治は、矢張り、偽悪病患者でしかなかった。彼を見殺しには出来ぬ立場だ。
 兄は、美しく聡明な妹のため、今日が日までを、どんなに慰められて来たことがあったか知れない。
 兄は、お前を愛している。
 では、左様なら、哀れな喬子よ――。
(「新青年」昭和十一年一月号)





底本:「探偵クラブ 烙印」国書刊行会
   1994(平成6)年3月25日初版第1刷発行
底本の親本:「大下傑作選集第七巻 凧」春秋社
   1939(昭和14)年2月20日
初出:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「出入」と「出入り」、「却って」と「反って」、「気附かなかった」と「気付かなかった」の混在は、底本通りです。
入力:羽田洋一
校正:mt.battie
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

感嘆符三つ    181-5


●図書カード