青年の元気で奮闘する我輩の一日

大隈重信




境遇に応じ規律ある生活を必要とする

 一日の生活をするにしても何時に起き、何時に食事をなし、何時に訪問者に接し何時から人を訪問するという様に規律正しくしている人もあるが、我輩の様に幕末時代から明治にかけての、非常な場合に於て働かねばならなかった者は、朝の予定と夕の実際とまるで変る様な生活をして来たので、そういう習慣が第二の天性となって、今日でもあまり予定を立てた生活をすることはらないのである。例えば軍人が戦争をするにしても、地図の上で決めた作戦計画通りの戦闘をすることは少のうて、多くの場合は不意に起って来るところの戦い、即ち遭遇戦というものの方が多いのである。人生もまたこれと同じ様に、多くの人の生活には不意の出来事の方が多いのである。そこで実際生活に必要なことは、如何いかなる不意を喰ってもこれに狼狽ろうばいしないだけの心胆を錬っておくことであると思う。その方法は今日の学者、宗教家、教育家の言っているところの形式ばかりの修養というものでは駄目だと思う。彼等は口先ばかりでえらそうなことを言って、その生活はむしろその言うところの反対を行っているのが少なくない。
 我輩の実験からいうと、整然たる理窟の立った生活を云々うんぬんするより、真面目に努力する生活の方に力があると思う。しかし時勢が益々ますます進化して、秩序と平和とが保たれる様になれば、従って国民の生活も秩序ある規則あるものとなって行くべきは勿論もちろんである。要するに初めからきちんとした箱詰めの様な生活を真似まねるよりも、境遇に適応した活動をしてそこに規則のある生活を造ることが必要である。

我輩の元気は今日でも青年と異ならない

 右のようなことで我輩は、とりとめて言うほどの規則のある生活はしていないが、それでも毎日の生活の概略を言うと、まず起床は夏であれば五時、冬になれば六時となっている。かおを洗い全身の冷水摩擦れいすいまさつでもすると、体中の血液はみなぎあふるる様な爽快を感ずることは、今日も青年時代と少しも異なるところがない。この元気で庭園を散歩しながら、好きな植木や盆栽の手入れや農園の指図などをする。朝飯がすめば多くの訪問者に接したり、大学やその他のことのために働く様になっている。
 我輩の主義として、訪問して来るほどの人には事情の許す限りは面会することとしている。それで老人も来れば青年も来る、貧乏人も来ればまた若い婦人も来るので、昼間は新聞を見る暇さえない。その代りに夜は土地が辺鄙へんぴなので滅多めったに訪問客もないから、四時間ぐらいは自分の時間として、新聞雑誌やまとまった読書も多くこの間にする。時によると何かの必要で調べものをすることもある。

希望ある者は決して老いるものでない

 我輩の百二十五歳の長寿説を不思議がる人もあるが、決して不思議なことはない。人間は世のためとかまたは人のためとかに何かして働こうという代り、もしも人生に希望さえあれば老朽者となる恐れはない。その代りもしも人生に希望がなくなると生きているほどつらいものはない。このことは世界の自殺者の中でも最も多数のものは老人、即ち人生になんらの望みのない憐れなる人達であることを見ても判る事実である。
 世にも憐れなものはいたずらに長生きするだけで少しも希望もなければ、奮闘する勇気もない老人である。なんだかだとえらがっても、愚痴や不平を言う様になっては人生ももはや駄目なものである。そういう老人はむしろ早く死んだ方がお互いに仕合せかも知れない。昔は信州の姥捨山うばすてやまに老人を捨てに行ったそうであるが、今日でも徒に厚顔年をぬすむ老人輩をばなんとか始末する必要もあろう。

愈々いよいよ敗るれば益々ますます奮闘努力を続行する

 我輩は何時いつでも、人にできないようなことを自分で一つってみたいという希望を持っている。そのために今日までにも大分失敗したこともあるけれども、失敗したからとて断じて事を廃する様な意気地のない振舞ふるまいをしたことはない。何時でもいよいよ失敗すればいよいよ奮闘努力を続行する。しかしてこういう場合に更に新しい元気を得るには、どうかして我輩の一生を最も有益に送りたいという希望のあるためである。いやしくも社会に立って何事かを成そうというほどの人である以上、一度や二度の失敗で悲観する様なことのあろうはずがない。もしそういう人があるならば共に人生を語るに足るべき人とは言えない。かくの如き精神を持っているので、如何なる場合でも我輩の生活は常に希望が輝いている。従って我輩は何時も愉快に楽天的でいることができる。同じく人生に処する上は、なるべく有為の生活を成すべく長く送ることが必要である。それにはどうしても道の理想にかなうところの生活が必要である。我輩の長寿説になにほどの科学的の根拠があるとすれば、それは倫理的道徳的生活と結び付いている点であろう。しかるに今日の富豪などの中には、生きながらに地獄の苦悶をしているのが決して少なくはない。彼等の生活にはなんら道徳上の安心がなく、良心の満足し得るほどのものを持っていないからである。従って彼等が長生ちょうせいするには、苦悶の時を長からしむるまでのことで、祝すべきことではない、むしろ憐れむべきものである。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「現代青年に告ぐ」大盛堂書店・城北書房
   1919(大正8)年3月25日発行
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2018年2月25日作成
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