鴨川アンダーグラウンド

澤西祐典




 街や鴨川のほとりで、道ゆく人々の胸元やカバンをよく御覧なさい。そこに鴨のピンバッジがついていれば、彼らは秘密結社の一員かもしれない。
 人目を忍ぶように暗がりに身を寄せ、眼光鋭く辺りに一瞥いちべつをめぐらす者など特に怪しい。その人物を注意深く追跡し、それからあなたに多分たぶんに運があれば、彼(あるいは彼女)が、河原のベンチ裏やカッフェーに仕組まれた隠し扉にさっと姿をくらませ、鴨川の底にひろがる雄大な地下世界へと旅立つ場面を目撃できることだろう。
 鴨川アンダーグラウンド。我らが秘密結社の創始者として、イヅル・シンムラーの名が伝わっている。鴨川を愛する念がげきしたあまり、彼は史書、古文書の類に「鴨川」の文言を追い求め、挙句あげく、Emperor Shirakawa の有名な一節に行きついた。「わが意にかなわぬは、山法師やまぼうし双六すごろくさい、鴨川の水のみ」。すなわち、「鴨川のおもてはままならねど、地下なら如何いかようにもできようぞ」。以来、イヅルは Shirakawa の遺した地下空洞を捜しもとめ、その発掘に成功した。つまり、結社の真の創設者は、白河法皇であるともいえる。
 地下への入り口はそこかしこにある。足をくじいたときには、シカが背中に負ぶっていってくれる。もしくは、鴨川タクシー(鴨の親子をあしらったトレードマークですぐにそれと分かるだろう)が、さっと目の前に現れ、あなたを乗せていってくれるかもしれない。運が良ければ、オオサンショウウオが扉の前で出迎えてくれる。
 暗く、狭い、じっとりとした入り口を抜けると、細い通路がつづく。地下の闇は幾重にも暗幕を張りめぐらせ、あなたを迎え入れる。地上の光はもろく、儚い。はるか後方、幾億光年にも感じられる彼方に地上は置きざりにされ、日輪の運行から切り離された常闇があなたの視界を呑みこんでゆく。むろん、そこには電波も届かない。湿った空気が肺を満たし、おそるおそる歩を進める自分の跫音あしおとが耳を穿うがつ。
 細い隧道トンネルの果てに、やがて広々とした通路へと辿りつく。電車が通れるほどの広大な地下空洞に水が溜まり、足元を第二の鴨川がのたのたと流れてゆく。やがて何やら明るい太鼓の音色が聴こえてくる。どこかで陽気な一団が巡行しているらしい。鼓や桶太鼓といった和太鼓、タムタムにトムトム、ティンパニにタンボリン、ブラジルのスルド、ジャンベ、パンデイロにメソポタミアのフレームドラム。闇の奥で、互いを讃えあい、陽気な音を弾むように響かせあっている。
 通路は、無数なちいさな洞穴どうけつにつながっている。なかには、そうした小部屋を占拠し、愉快な店を開く輩もいる。したたる鴨川の地下水で、コーヒーを淹れる店もあれば、瞑想によって難事件をたちまちのうちに解決するハンモック探偵 KenKen の事務所や、地上では週に二日しか店を開けないガレット・デ・ロワ専門店が、年中無休で営業している。スパイスカレーの店が三軒隣り合わせの洞穴に巣くっていて、日夜お互いのスパイスを盗み合い、シヴァ神もたまげて蓮の御台から転げ落ちそうな摩訶不思議なカレーが調合されている。かと思えば、洞窟の壁一面に本棚があり、古書が詰めこまれた静謐な祠がある。自分の好きな場所を見つけ、ろうそくの灯りのもと、日常を忘れて自由に過ごすのがアンダーグラウンドの醍醐味である。ここでは立場や身分は関係ない。地上の名残りを持ち込まぬのが、地下の掟である。
 鴨川アンダーグラウンドの存在が世に曝される危機に瀕した大事件が二度ばかりある。一度は京阪電鉄による延線工事だ。それまで三条駅を終点とする京阪本線は、鴨川の堤防の上を走っていた。それが出町柳まで延伸するに際し、七条からすべての駅を地下に配することに決まった。京阪電鉄のトンネル工事がアンダーグランドを掘り当てればすべてが水の泡、白河法皇の時代から続く隠微な遊びが白日の下にさらされてしまう。結社一同は、川沿いの桜吹雪のなかを電車が走ってこそ古都の風情が守られるなどともっともらしく、わけのわからぬ理屈を並べ立て、あの手この手で反対運動に出たが、功を奏さず、京阪電鉄の地下鉄化工事がはじまった。しかし、八坂様のご加護があったに違いない。工事業者は、プラットホームにそのまま使えそうなアンダーグラウンドが真横に広がっているのにまったく気づきもせず、工事を終えてしまった。いまでも京阪電鉄の乗客は、すぐ隣に幻のホームともいえる[#「ともいえる」は底本では「といもえる」]広大な空間があるとは夢にも想わず、はては自分たちが鴨川と並走している事実さえ忘れて、日夜鴨東おうとう線に運ばれてゆく。
 第二の危機は、驚くべき集団によってもたらされた。トマソンさがしの赤瀬川原平、アスファルトのはがれた穴にできたちいさな坪庭をでる藤森照信、マンホールの鉄板に吸い寄せられる丈二らによって結成された路上観察学会である。その大規模調査が京都で行われた。どこにも続いていない外階段、コンクリートで塗り固められ、誰も出入りできないはずの勝手口、人家に食い込んだ鳥居、そこかしこに点在するいけず石、自転車のケモノ道たる“御所の細道”など、わずか数日の滞在で、彼らはめくるめく成果を挙げていった。結社のメンバーは、マンホールの蓋に偽装した入り口を見上げ、あるいは無用門に見えるよう細工した隠し扉の裏に張りこみ、路上観察学会の面々が地下へと突入してくる瞬間を今か今かと待ち構えた。ところが、路上観察者たる彼らは、マンホールの蓋を眺め、無用門を写真に収めると、なんとそれだけで満足し、踵を返して去っていったのである。私たちは狐に抓まれた思いで彼らのうしろ姿を見送った。かくして二度の危機は回避された。
 裏を知る者は、表をさらに愛す。アンダーグラウンドから帰還した私たちの頬にそよ風が吹きつけ、せせらぎが耳をすすぐ。地上の鴨川べりでは、トランペット奏者が練習に励み、橋の下ではクリケットの選手が壁打ちにいそしむ。川遊びをする子供にまじって、水質調査の業者が水をあさり、亀の飛び石をおそるおそる渡る人がいる。日が降りそそぎ、あるいは星辰がまたたき、朝な夕なに水面が空と山々を映しとる。燦然と煌めく鴨川に魅了され、その地下にある空洞を想って、我々は鴨川を愛する念をいっそう強くする。
 我が秘密結社に入会できるのは、鴨川を深く愛する人々である。資格ある者には、入会証をお送りする。明日の朝、ポストを開いてご覧なさい。そこに鴨のピンバッジがあるはずだから。あとは入り口を見つけるだけ。
 ようこそ、鴨川アンダーグラウンドへ。





底本:「京都文学レジデンシー トリヴィウム」京都文学レジデンシー実行委員会
   2022(令和4)年3月31日発行
※底本は横組みです。
※誤植を疑った箇所を、著者の指示により、あらためました。
入力:円城塔
校正:Juki
2024年1月18日作成
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