デモクラシーのいろいろ

笠信太郎




 同じ言葉でデモクラシーといつても、いろいろの型があつて、どうも一樣ではないやうだ。それも、古代ギリシヤなどは問題の外におくとして、同じ時代で、國の境を接してゐても、それぞれ癖がちがふ。
 やかましい詮索は專門家の仕事に任せて、こゝでは素通りの旅行者の眼に映つたスケッチ・ブックを開いてみるだけだが、デモクラシーの家元がイギリスであることにはまず誰も異存はあるまい。そのイギリスのデモクラシーの基礎が「討論」だといふことは、これも多くの人が認めてゐるところだ。「討論」といふと、だいぶ八釜しく聞えるが、イギリス人やアメリカ人が、「一つその話は明日ゆつくりディスカスしませう」といふときのディスカッション(討論)といふことは、あまり肩の張つた討論ではなく、全く「話し合ひ」といふ意味である。だから、「デモクラシーは討論である」といふイギリスの討論も、そのほんとの性質は「話し合ひ」に近い。日本で近頃流行の「討論」をラヂオや何かで聞いてゐると、それは文字通り「はたし」合ひであり、討ち合ひである。相手の議論を眞向から叩きつける。相手の議論に勝つことが主眼で、ちやうど劍道の仕合か、野球の仕合のやうなもので、學生對校討論會にいたると、全國高校野球戰と同樣、勝拔きで最後に優勝校といふのが出てくる。討論の結果として何か役に立つ結論を出してくるといふやうなことは、とんと考へられてゐない。イギリスのディスカッションは、どうもさういふのではないやうだ。
 イギリス下院の討議を見てゐても、二間ほどの長さの机をへだてゝ、野黨の辯士と大臣は向き合ひになつてゐて、ひどく大聲を張り上げなくとも、お互に話しかけるやうな調子でやれる。もつとも、イギリス紳士の惡いくせで、相手が話してゐる間、アトリーでもクリップスでも、腕ぐみして足をのばし靴は机のかどにどつかともたせかけて裏を相手に見せてゐる始末だが、これは男の癖でたいした無禮といふのではなく、たゞくつろいでゐるといえば大いにくつろいで聞いてゐることにならう。勞働者の集りでも、學生の集會でも、お互に話をはじめると、すぐに誰かゞ議長格になつて、この話をまとめてゆく。話し合ひだから、何か結論が出なくてはならん。その結論をまとめるために議長が出來るのであつて、それが極めて自然にゆく。國民のあらゆる方面がかういふ風に、クラブでの話し合ひ式にやつてゆく。かういふ一つ一つが、いつてみればデモクラシー政治の細胞で、この細胞が積み重なつていつて、一ばん大きな形になつたものが議會で、それが國の政治をやはり話し合ひ形式で進めてゆく。
 そこで私は、かりにこのイギリス人のゆきかたを「話し合ふデモクラシー」といつておかう。


 海をへだてたフランスはどうだらうか。ここでは、イギリスとはもうだいぶ行き方がちがふやうである。
 現代市民社會の曉鐘を打ち出した大革命をもつフランスであるから、フランスこそ現代デモクラシーの家元であるべきはずであるが、このフランス革命に抗議したエドモンド・バークに代表されるイギリスが、いまはデモクラシーの本家顏をしてゐるのは、一體どういふわけであるか。こみ入つた歴史を拔きにして、實は、このフランス革命の情熱こそ、いまのフランスのデモクラシーをイギリスのそれと區別する淵源ではあるまいか。
 大革命の後、一世紀半を越えて、世は第四共和國の時代となり、そこにはもうフランス革命が主張しそして確立した共和制に反抗する何人もゐないのに、フランスの政黨には依然としてその名に「共和主義」を冠するものが多く、共和主義の敵がまだどこかフランスの隅に殘つてでもゐるかのやうに、敵を追ひまはしてゐるやうな趣きがある。革命は遠い昔にすぎ去つて人はもうその頃から四代目にも五代目にもなるのに、いはゞ革命を罐詰にして、未だに罐詰を食つてゐるやうなところがある。
 こんど解放後のフランスにあらはれた三大政黨――共産黨と社會黨と人民共和黨――とそれらが昨年の五月までつゞけて來た聯立内閣制をみてゐた私は、やはりその行き方にフランス革命の血が流れてゐると思つた。聯立内閣であるから、これらの政黨の間には、野黨と與黨の間ほど緊張はなささうなはずであるが、實際はその反對であつて、三つの大政黨が内閣の中で討し合ひをやつてゐた。去年共産黨だけがたうとう内閣を飛び出してしまつたが、さうなると野黨と與黨の對立となつて、いくぶんか二大政黨對立の傳統的デモクラシーの形式には近くなつたものゝ、實際はこの討し合ひの氣配がますます激烈になつて來た。それは、どこから來るかといふと、やはりフランス大革命の根柢にもあるドクトリン主義がその土臺であつて、三大政黨それぞれはつきりした三つのドクトリン(學説)の上に立つてゐる。あるひはそれぞれ三つのちがつた世界觀の上に立つてゐるといつてもよい。その奉ずる原理は各々ちがつた平面に足場をおいてゐる。それぞれの平面はどこかで鋭角なり鈍角なりを畫いていづれは交叉する。足場が全くちがふので、ほんとうの意味では妥協のしようがない。そして平面と平面の交叉は勢ひ衝突の形をとる。どちらかゞ負けるまでは、どちらも後には引かぬといつた調子が、この自由の國フランスのデモクラシーの氣分を覆うてゐる。
 その奧の奧をせんさくすることはこゝでは斷念して、かりに私はこれを「討し合ふデモクラシー」と名づけておく。


 さて、フランスからユラ山脈を越えたゞけで、まつたくちがつた天地がアルペンの要害に圍まれて靜かなデモクラシーを作つてゐる。いふまでもなくスイスである。
 この國も、デモクラシーではかなり古く、從つて著名でもある。三つの郡を代表してやつてきた農民が出會つて、今後仲よくやつてゆかうといふ誓ひから始まつたといふ謂ゆるスイス盟約國で、その盟約は今日まで頗る堅く、東ではドイツ語、西ではフランス語、南ではイタリー語やロマーニッシ、それにドイツ語系のスイス語を語る寄り合ひ世帶にもかかはらず、平穩無事な四民平等のデモクラシーを作つてゐるのであるが、寄り合ひ世帶の誓約を基としたものであるだけに、一旦きめた約束はお互に固く守るのでなければ國は立つてゆけない。そこで、制度はすこぶるかたく固定してをつて、なかなか動かさうとしない。それは、この國の政治を見てもわかる通りで、戰後各國で政黨分野に大異變が起つてゐるのに、この國の社會民主黨はごくぢりぢりしか伸びてゆかないし、共産黨も戰時中の禁止から自由となつてゐるのにワッと擴がるやうな氣勢がない。それと同樣に、デモクラティックな制度ではあるが、その制度そのものはなか/\動かさぬ國である。その動かぬ國にどうして進歩があることになるか。
 制度が動かぬとなれば、やはり不都合が出てくる。その不都合は、約束は約束でも人間をしてぶつぶつ云はせる。さういふわけで、スイスの人は、ぶつぶつ文句を並べることがすこぶる得意である。雨が降る。スイスの人は、「天が文句をいつてゐる、天が reklamieren してゐる」といふ。しかし、この文句をいふといふことは、たゞいつも不平を並べてゐるといふだけの意味ではない。もと/\消極的な意味をもつてのレクラミーレン、英語でいへばコンプレーンを、積極的に使ふことがスイス人は得意である。すなはち「抗議」である。制度は固定してゐる、だが、あなたはレクラミーレンしなければいかぬ、抗議をなさらなければならぬ! かういふわけである。そこで、私なども、つひにレクラミーレンすることを覺える。例へば私が東京と電話する。月末になつて四十五分の通話で、一千フラン也といふ勘定が屆けられる。しかし電話は空中状態がわるく話は思ふやうに行かなかつた。初めの十五分は「もし/\」で終り、次の十五分はやつと話しができたが、最後の十五分間は最初の十五分をもう一度繰り返へさねばならぬ状態であつた。依つて、この勘定書通りには支拂へぬと思ふから、もう一度通話のときの状態をコントロールされ度い、と私はレクラミーレンしたのである。すると數日の後に、電話局から手紙が來て、「再度コントロールの結果、貴下の申出が正しく、料金は三百五十フランに訂正致します。今後は東京とのお通話が快適にゆくことを祈ります」といふ。
 かういふ次第で、若し制度の運用に少しでもおかしいと思ふことがあつたら、あなたはいつでも「抗議」をしなければいかぬ。その抗議によつて、固定した制度の幅がほんのわづかであるが變更される。さういつたことがつゞくことによつて、制度そのものが少しづつ變へられてゆく可能性も出てくる。いはゞ、ぶつぶついふ文句が、あるひは文句をいふ自由が、または抗議をすることの自由が、固定して動かぬものを、急激に變革することから起る危險を避けながら、少しづつ動かしてゆくといふデモクラシーで、そこに漸進的ながらふだんの進歩は保證される。
 これが山國に住む堅氣のスイス人のゆきかたで、かりに私はこれを「抗議するデモクラシー」といふ名前をつけておく。
 そのほかの國々のデモクラシーはこゝにさておき、さて、わが日本のデモクラシーは?
(朝日新聞論説委員)





底本:「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社
   1948(昭和23)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和二十三年十月號」文藝春秋新社
   1948(昭和23)年10月1日発行
入力:sogo
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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