革命を待つ心

――今の實業家、昔の實業家――

鮎川義介




環境が人をつくる


 私が井上侯の所へいつたのは學生時代のことであつたから、二十歳くらいであつたろう。それから五、六年いたように思う。
 明治初期の頃の書生は、青雲の志に燃えた者が多かつた。その頃は教育機關がまだ整備されておらなかつたので、そのような若者は偉い人の所へ書生に入つて、そこで勉強するというのが、出世をする一つの道程であつた。今のように大學が各所にあつて、學資さえあればどんどん大學を出られる、という時代ではない。だから同郷の偉い人を頼つて、そこの書生になつたものである。
 それは人を知ることが眼目であつた。玄關番をしていると、訪問者は必ずそこを通過するのだから、知名の人に接し、そこから立身出世の道を開くことができる。それが書生の權利になつていた。だから、今の學生がやるアルバイトのようなものではない。
 明治時代の實業家を私が見たところでは、擡頭期のことではあり、社會が狹く、問題も少かつたが、當時の實業家には、國家的の觀念が強かつたと思う。
 日本の御維新によつて世界に飛出してみたわけだが、出てみると、世界の文明から非常に遲れている、これは大變だ、産業も教育も文化も、すべて一度に花を咲かせなければならぬと考えて、非常に焦躁の念に驅られたのである。そこで大變な努力をしたのであつて、全日本が、われわれのような若い者までその空氣の中に置かれたわけである。そうした風に吹かれたのは、われわれが最後かと思うが、その氣持ちは今でも私などに遺つている。
 しかし日清戰爭、日露戰爭とやつて來て、日本は一等國ということになつた。實際はなつておらなかつたろうと思うが、なつた、なつたと言われて、國民は滿足していた。日英同盟をやつた、一人前になつた、という氣持ちになつたのである。實際を見極めるような偉い者はおらぬ。衆愚はアトモスフェアで左へゆき右へ動く。戰爭で勝つた、日本は偉い、一等國だ、と新聞が書けば、ほんとうに一等國になつたと思う。
 われわれの若い時には、大きな革命の餘波が流れていた。偉い先輩のやつた足跡を、書物を通じてでなしに、じいさんやばあさん、或いは親父に聽いても、ペリーが來たとか、馬關の砲撃をやつたとか、そういう威勢よい話ばかり、それから苦心慘澹した話もある、どんな困難なことでも、やりさえすればやれる、という話ばかりである。
 今の人は、どうせ出來やせぬ、やらなければやらないで濟む、やつたからといつて、それほどの効能もない、狡く世の中を渡ろう、パンパン暮しのほうがいい、こういう空氣になつているのではないかと思われる。
 この空氣を變えるには、革命以外にない。漸を逐うて改めるということではないのである。思い切つて手術をして膿を出せば、新しい肉が盛り上つて來るのと同じことで、今の空氣を書物に書いても講釋しても改められるものではない。そんな安つぽいものではない。それほど敗戰ということの運動量は大きいのである。
 革命には、政治革命もあろうし、産業革命もあると思う。どんな形で革命が來るか、私は知らぬが、革命が來なければ、空氣が一新できないことは事實である。
 早い話が、今の總理大臣がいけない、早く辭めろ、などと言う。しかし誰かにかわつても、今以上のことができるとも思われない。どつこいどつこい――と言つては惡いかも知らぬが、大した効果はないと思う。空氣そのものが變つておらぬからである。
 いくら偉い者でも、その思うところを行い得るには環境というものが要る。運というものが要る。環境と運、これはわれわれが作るものではない。自然に來るものである。
 人が環境を作るということもあるが、これは長くかかる。きよう考えたから明日環境を變える、そんな力はない。變えるには歴史的の時間を要する。こういうことになるのではあるまいか。
 今度來るのは、私は經濟革命であろうと思う。今のようなことをしておつて、日本がうまくゆくとは、私は思わない。ここでよほどの大きな對策を實行しなければ――新聞に論じているようなことでは――とても立つてゆきはせぬ。どうしたら立つてゆけるか。自發的にお互いが發心してやつてゆくような空氣は、今の日本にはない。
 今までコールド・ウォアやホット・ウォアがあつて、相當疲れて來た。これから日本はどうなるか。世界的に平和風が吹いて來ると、今度擡頭して來るのは經濟戰爭ではあるまいか。ホット・ウォア――武器の戰爭――が終れば、それに取つて替るものは、經濟戰爭というやつである。
 その場合、どつちが日本として手答えがあるであろうか。日本は武器の戰爭のほうは、それほど痛くない。經濟の戰爭のほうが痛いのである。時には命取りになる。武器の戰爭は、敗けると思つたものが勝つたりすることがある。バランス・オブ・パワアというものがあつて、必ずしも絶對量によつて勝つものではない。
 日本の現在のウエイトは、ただみたいなものである。吹けば飛ぶようなものかも知れない。だが、むかし鶴見祐輔氏が明政會で僅か一票で威力を示したことがあるように、日本が相對立する二つの國の間にあつて、どつちを勝たせようとするかという場合には、鶴見氏の場合と同樣にキャスチングヴォートの威力を發揮することができるので、その値打ちは大いに考える必要がある。
 ところが、經濟の戰爭になると、そういうことが出來ない。惡い品物を良いと言つても、買つてくれる人はないのである。現にそういう現象が起りつつあるのではないか。惡くて高いために、買つてくれる國がないのが現状である。
 しかも策なしというやり方をしてゐる。策なしとは、手を擧げたということである。これではいけない。
 といつて、世の中を搖り動かそうとするほど、私は惡人ではない。人柄が良いのだ。性は善なのである。いわばわれわれにはその資格がないわけだ。われわれは時が來なければ、ようやらん人間である。實際問題だけしか私の頭にはない。青年時代には夢があり、青雲の志があつた。しかし、もう年を取つたし、われわれは革命を起す人間ではない。批評をすることはできるが、革命を起すのは若い人でなければならない。
 物を賣ろうと思つても、ドイツその他から安くてよい物がどんどん出るから、日本の物は買つてくれない。中共ともとのように貿易をやろうと思つても、買つてくれるのは鯣と昆布だけ、或いは鮑とか寒天だけ位のことであるまいか。昔のように紡績を賣りたくても、今日の中共は毛澤東がどんどんと産業を興して、そんな物は要らんと言うことになつているかも知れぬ。
 これは「かも知れぬ」である。しかし、そういうことになるプロバビリテイは、非常に多いというのは、毛澤東という人物、私はよくは知らぬが、四億五千萬の人間を率いて、自分がやろうと思つた方向へ進んでいる。あの努力は大したものだと思う。そういう現象は日本にはないのである。
 いま日本の經濟界にも、新生活運動というようなことが提唱されている。だが、それを唱える人自身が待合へいつて宴會をやつているようでは、初めからダメである。
 この際、ほんとにやるべきことは、命の惜しい人や名譽のほしい人には、やりとげられないと思う。名譽も大きな名譽ならいいが、そのへんにザラにあるような小さな名譽を追つかけているような人では、どうすることも出來ない。
 御維新の時に働いた人たちは、どこの馬の骨か判らんような奴が、キャアキャア言つて、困つた、困つた、と思われていたにちがいない。ところが、それがあれだけのエポックを作つたのである。
 それには外からの刺戟があつた。黒船來である。そこで尊皇攘夷の空氣が起り、後に開國を迫つて、ついに御維新になつた。

パンパンにされた日本


 私は今度は經濟革命が來ると思つている。どうしても避けられない。このままで經濟戰爭に敗けたならば、アメリカの保護を乞うても、保護してはくれぬ。一度パンパンになつた人間は、もう使い途がない。潰しが利かぬのである。女はまだよいが、パンパン野郎は何にも使えない。手足まといになるものを、誰が買つてくれるものか。
 人口が多いということが、それが心を一つにしていれば力が強い。まだ使い途がある。しかし内部でお互いが反撥し合つているのだから、全然無價値である。それを統制して一つにしようといつても、もとのように權力ある者の命令一下まとまる、というようなわけにはゆかない。權力ある者の命令に從つてやつたところが、敗戰によつて恥をかいた、という大きな經驗をしている以上、もう一度命令に從わせることはなかなかむつかしい。
 これは巣鴨へ入つてみると、よく判ることである。巣鴨にいる人たちは、みな、われわれは何の爲にこんな目に遭うのか、と考えている。われわれは何も惡いことをした覺えはない、街にいる人達と何處が違うか。惡いことをした者が免れて街にいるではないか、という考えを持つている。
 こうした考えがたくさん積つて來ると、何かの機會にはそれが爆發する危險がある。巣鴨などはその一つであろう。
 私に言わせれば日本はまだ困り樣が足らぬと思う。困つたと思う時に特需などがあつたり、どこかから剩り物が來たりして、どうやらこうやら、つないで來ることができた。テンヤモンヤとやつて來て、別に餓死する人もない。
 テンヤモンヤとやつていられる間はよろしい。もう少し深刻になつて來て、どうしても食べてゆけない、となつたら、一體どうなるであろうか。
 むかし米が上つて一升五十錢になつた時に、米騒動というものが起つた。これは誰言うとなしに起つたものである。何も知らぬ漁師のおかみさんたちが起したのである。學校を出たインテリがやつたものではない。おかみさんたちの付けた火が、パーッと擴がつたのである。情勢が熟していれば、すぐに火が付く。
 コールド・ウォアやホット・ウオアが[#「ホット・ウオアが」はママ]盛んに動いていて、兩方からヤイノ、ヤイノと言われている時はよい。無人島に十人の男と一人の女だけが暮すことになれば、醜婦でも非常な美人に見えるように、日本も今まではまだよかつた。
 これから平和風の吹いて來た時が、非常に危險な時である。必ず壁にぶつかる。その時が革命に火の付く時である。
 徳川幕府が三百年間續いて、役人が腐敗し、賄賂を公然と取るようになる、旗本の中には自分の家柄を、金で賣つたりする者が出る、大小は佩しているけれども、それは伊達であつて、武士の魂は抜けて遊冶郎になり下つてしまつた。そこへ外來の一大衝動を受けたから有志が起つたのである。初めは尊皇討幕であつたが、御維新によつて今度は開國進取、産業立國、殖産興業、文明開化というような旗印しを立てて進んだのである。
 おそらく毛澤東は明治の御維新などをよく體得して、それを利用したにちがいないと思う。
 だが、私は日本人に失望してはいない。永い間養われて出來上つた血液は、そう一朝一夕に變るものではない、というのが私の信念である。今は病氣に罹つたか、酒を飮んで醉つたようなもので、日本人の本質は相當のよさを持つていると信じている。
 戰爭に敗けて、アメリカが來て、パンパンにされた。あの威力によつて自然にこうなつたのであるが、このまま泥舟に乘つたように沈沒するかといえば、そうではないと思う。まだ發奮する時期が來ないだけのことで、決してダメなのではない。

安賣りは止めよ


 こんど火力發電のために外資を導入するという。僅か四千萬ドルを借りるのに、それこそ大騒動をして、われわれの意想外の惡い條件で借りるという話である。
 ところが、一方には十億ドル近いものを日本は持つている。これをなぜ善用しないのであろうか。しかも世界銀行の加入金を二億ドル拂つて、借りて來るのは四千萬ドル。二億ドルを無利子で預けて、旅費その他をたくさん使つて、大騒ぎをして四千萬ドルの金を利子を拂つて借りて來る。自分の定期預金を擔保にして、非常に高利の金を借りるようなものである。
 しかも、これは一番擔保であるから、このあとは勿論それ以下の條件という譯にはゆかない。取つたら最後、それから一歩も讓らぬのが、銀行家の心理である。これが基本になるだけに、今度のことは困る。
 これはインパクト・ローンではない。必ず全部が品物で來る。朝鮮が休戰になつた以上、向うは賣る必要があるのである。そうなれば日本のメーカーはお茶をひかなければならない。どういうつもりでこんなことをやるのか。外資というものは非常にいいものだ、あちらにあるドルと、日本に持つているドルとは、品格がちがう、とでも思つているのではあるまいか。
 そんな惡條件の金を借りて何をするかといえば火力である。火力發電の裝置などは日本でも出來る。向うの方は少しはインプルーヴメントがあるかも知れんが、能率もそう違いはなかろう。
 しかも火力發電は、一年三百六十五日働いている機械ではない。水の足りない時に使うだけであるから、少々惡くても大したことはない。ベストである必要はないのである。それよりも國内の物を活用すれば、國民所得が幾らかでも多くなる。
 その點だけから考えても、今度のことはおかしいと思う。外資というものに對するイリウジョンと考えるほかはない。外資を借りた、今まで出來なかつたことをやつた、という、鬼の首でも取つたようなイリウジョンに、政府の人たちは迷いこんでいるのではあるまいか。
 おそらく吉田さんの考えではあるまい。吉田さんは經濟のことにはあまり精通していないから、そうした指示をすることはあるまいと思う。
 これからアメリカを相手に何かやろうとしても、今度のようなことがあると、非常な邪魔になる。これは小さい石ころである。吹けば飛ぶような石ころではあるが、あるということが邪魔になる。たいへん惡い先例になるのである。
 日本は自重しなければいけない。安賣りしてはならぬ。パンパンになるようなことは、絶對にしてはならない。
 テンヤモンヤして、わけの判らん所に金を使つていたら、何事も出來はしない。僅かな只見川の開發でさえ、あんなに揉んで大騒動をしているようなことでは、日本全體の開發は、いつになつたら出來るか判つたものではない。
 このままではダラダラと出血して、貧血してゆくほかはない。今から五年なり十年の間に、本格的な大開發をやる必要があるのである。
 しかし日本人は今でも骨の髓まで腐つてはいない。先祖傳來の蓄積がある。たつた一遍、戰爭に敗けたからといつて、蓄積の全部を失つたわけではない。マテリアルの蓄積はなくなつたかも知れないが、血液の中にある蓄積は、われわれ日本人が生きている以上は、なくなるものではない。
 ただ、その血液をフレッシュにすることが必要である。それには大きな濾過器が要る。濾過器とは衝動である。
 それも小さな衝動では効果がない。日本人全部の血液をリフレッシュするのだから、よほど大きな衝動が必要なのである。





底本:「文藝春秋 昭和二十八年十一月號」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年11月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和二十八年十一月號」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年11月1日発行
入力:sogo
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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