四風の街

The Street of Four Winds

R.W. チェンバース R.W. Chambers

The Creative CAT 訳




汝が眼を半ば閉じ、
腕を胸の上に組めよ、
夢見る汝の心より永久に、
なべての思いを追いやれよ。

我は自然を歌う、
ゆうべの星を、あしたの涙を、
はるけき水平線に沈む陽を、
未来の存在の心臓に語るかのそらを。

 動物は敷居の上で訝しげに立ち止まると、いざという時はいつでも逃げ出せるように警戒していた。セヴァーンはパレットを置き、手を差し伸べてそれを招いた。牝猫は不動のまま、黄色の両目をセヴァーンの上に向けていた。
「ニャンコ、」と彼は低く心地よい声で呼びかけた。「おはいり。」
 細い尻尾が心を決めかねるように震えた。
「おいでよ。」と再び彼。
 猫は明らかにその声にほっとした様子で、手足をゆっくり畳み、両目で彼を捉えたまま、痩せこけたお腹の周りに尻尾を丸めた。
 にっこりして彼はイーゼルから起き上がった。猫は声もなく彼に目を向け、歩み寄り自分の上にかがみ込む姿を見ても身じろぎせず、彼の手が頭を撫でるのを目で追っていた。猫はくたびれた声でニャオと鳴いた。
 動物と話をするのが、ずっと前からのセヴァーンの習慣だった。多分、ひとりぼっちで暮らしていたからだろう。さて、彼はこう言った「どうしたんだい? ニャンコ。」
 猫はおずおずとした目で彼の目を探った。
「わかってるって、」彼は優しく言った「丸ごと平らげちゃっていいんだよ。」
 彼は粛々と動き、主人たる義務を果たそうとした。皿を洗うと、そこに窓框の瓶から残ったミルクをなみなみと注ぎ、跪くと小さなパンをちぎって手の平に載せた。
 動物は立ち上がって皿の方ににじり寄った。
 彼はパレットナイフの柄を使ってミルクとパンの小切れをかき混ぜると、猫がその中に鼻を入れられるように身を引いた。彼は無言で猫を見つめた。縁についた食べ物を猫が少しずつかじる度に、皿はタイルの床の上でカラカラと音を立て、とうとうパンはなくなってしまった。猫は紫色の舌を出して、ミルクの最後の一滴が消えるまで、皿が隅々まで磨かれた大理石のようになるまで舐め回した。猫は腰を下ろして、涼しい顔で彼に背を向け、毛繕いを始めた。
「その調子だよ、」セヴァーンは興味深げに言った「おめかししないとね。」
 猫は片耳を傾けただけで、振り向くことも、手入れを休むこともなかった。徐々に毛が綺麗になってくると、セヴァーンは、それが元は白猫だったことに気づいた。病気なのか喧嘩のせいか、あちらこちらに点々と抜け毛があり、尻尾は骨張って、背中はごつごつしていた。だが、これでもかと毛を舐めまわした結果、生来の魅力がはっきりしてきて、彼は手入れが終わるまで口を出さずに待っていた。とうとう猫が両目を閉じ、香箱に座ると、とても優しく言葉を繋いだ:「ニャンコ、どんな目に遭ったのか教えてよ。」
 その声に、猫はいきなりガラガラ声を出し始めた。ごろごろ言おうとしているのである。彼が屈んで頬をなでなですると、猫は再び甘えた小声でニャオと鳴いた。「うんうん、だいぶ良くなった。毛並みが直れば綺麗な鳥さんのように魅力的になるだろうな」と彼。随分おだてられた猫は立ち上がり、彼の脚の周りをぐるぐる歩き回っては頭をおしつけて嬉しがった。彼はこれにたいそう慇懃に応えた。
「はてさて、何がお前をここに送り込んだのかな。」彼は言った「何がお前をここ、四風の街に送って、お前を歓迎してくれるはずの、ちょうどその扉の前で五つの階段を上らせたんだろう。私がカンバスから目をあげてお前の黄色の目と出会ったときに、お前が思慮深くも逃げ出すのを止めたのは何だったんだろうね。私がカルチェ・ラタン学生街の男であるようにお前はカルチェ・ラタンの猫なのかい? 薔薇色の花飾りのついたガーターを首に巻いているのはどうして?」猫は彼の膝に上がり込んでいて、薄い毛皮を撫でてやると喉を鳴らして座った。
「ちょっと失礼、」猫のごろごろとよく合う悠長な声色で続けて、「少し野暮だと思うかもしれないけど、薔薇色のガーターがどうしても気になるんだよ。こんなに綺麗に花で飾られて、銀の金具で締められて。留め金具が銀なものだから、端の所にあるミントの印がフランス共和国の法律で制定された印のように見える。さてと、どうしてこのガーターは薔薇色の絹で飾り編みしてあるんだろう――どうしてこの銀の留め金具のある絹のガーターがお前の痩せ衰えた喉のところにあるんだろう。これの持ち主がお前の飼い主なのかと質問したら、分別がないかな。彼女は誰か高齢のご婦人で、若き日の虚栄心や愛情の記憶をよすがとし、お前を溺愛して自分自身が愛用した衣装で飾ったのだろうか。ガーターのサイズから見て多分そうなんだろう。このガーターはお前の細い首にあっているから。だがそこで私は気づいたんだな――私はそれはたくさんのことに気づくんだよ――このガーターはもっと広げられるということに。五個ある銀縁の留め穴がその証拠だ。五番目の留め穴は、そこに留め金がいつも嵌っていたかのようにやれている。ふっくらした体つきだ、ということだな。」
 猫は満足げに足のつま先を丸めた。外の街はとても静かだった。
 彼はぼそぼそと続けた:「なぜお前の女主人さまは、自分の身の回りのものでお前を飾らなければならなかったんだろう。いつもじゃなくても、ほとんどいつも使うものだろうに。どんな成り行きでお前の首にこの絹と銀のかけらをくっつけることになったんだろう。ふとした気まぐれかな――お前が、本来の丸まるとした姿を失う前のお前が、歌いながら彼女の寝室に入り、朝の挨拶をふりまこうとしたときの。もちろん彼女は枕の間に起き上がり、巻髪が肩に揺れて、お前はベッドに飛び上がって、『おはようございます、わがレディよ』と喉を鳴らしたんだ。おお、とてもよくわかる」と椅子の背に頭をあずけたまま欠伸をした。猫はなおも喉を鳴らし、彼の膝頭に肉球を押し付けたり離したりした。
「彼女のことを話そうか、猫よ。彼女はとても美しく――お前の女主人さまのことだぞ」彼は眠たげに呟いた。「髪の色は磨き上げられた濃金だ。描くことだってできそうだ――いやいやカンバスの上じゃない――華麗なる虹の姿よりもさらに素晴らしい陰影が、調子が、色彩と絵具とが必要になるだろうからね。描くのができるのは目を閉じている時にだけ。夢の中でだけ、ふさわしい色が見つかるんだ。両目を描くには雲一つない空の青が――夢の国の空のアズールが要る。唇には眠りの宮の薔薇色が、眉にはいくつもの月に向かって幻想的にそそり立つ山脈に舞う雪が――ああ、この世界の月よりももっと高みにある結晶の月達、夢の国の月達。彼女は――とても――美しい、お前の女主人は。」
 言葉は彼の唇の上で途絶え、瞼が落ちた。
 猫もまた眠りに落ちていた。痩せこけたお腹の上に頬を乗せ、両手をだらんと下げて。

「昼ご飯をなんとかできたのは」セヴァーンは座り直して伸びをした「幸運だった。お前の晩ご飯は銀貨一枚で買える中からやりくりしなければならないからね。」
 猫は膝の上から起き上がり、背中を丸め、欠伸をして、彼を見上げた。
「何にしようか。サラダ付きの照り焼きチキンはどう? いらない? 牛肉の方がいいんだろう? もちろんそうだな――私は卵と白パンにしよう。葡萄酒の代わりにお前はミルクだな? よし。樽からちょっと水を取ってこよう。」と言い、彼はさっと流しのバケツの方に向いた。
 彼を帽子をかぶって部屋を出た。戸口までそれを追ってきた猫は、ドアが閉まるとそこに座り、割れ目のにおいを嗅いで、おんぼろ屋敷がきしむたびに片耳をそばだてた。
 下の方で扉が開き、閉まった。猫は真剣なふうになり、しばらくの間疑い深そうにして、神経質に両耳を平らにした。やがて、尻尾を一振りして立ち上がると、音もなくアトリエを歩き回り始めた。テレピン油の入れ物を嗅いでくしゃみをし、即座に退却してテーブルに乗った。一巻きの赤い塑造用ワックスに対する好奇心を満足させると、ドアの所に戻って座り、敷居の上にある割れ目に目を走らせた。そこで猫は物悲しげに鳴いた。
 セヴァーンが帰って来た時、深刻そうな彼の様子をよそに、猫は大喜びで彼の周りを歩き回り、ガリガリになった身体を両脚にこすりつけ、頭を熱狂的に彼の手の中に突っ込み、騒音めいた音になるまで喉を鳴らし続けた。
 彼は茶色の紙で包んだひとかけらの肉をテーブルの上におき、ペンナイフで細切れにした。薬瓶だったものからミルクを取って、暖炉の上の皿に入れた。
 猫はその前に這い寄って、舌なめずりしながらゴロゴロいった。
 卵を料理して薄切りのパンと一緒に食べながら、彼は猫が細切れの肉を忙しくぱくつくのを見つめ、食事が終わると流しのバケツからコップ一杯の水を汲んで飲んだ。彼は座って猫を膝の中に乗せた。猫はそこでいったん丸くなり、毛繕いを始めた。彼は再び話し始めた。話を強調したいときは優しくなでながら。
「猫よ、お前の女主人の住所をみつけてしまったよ。そんなに遠くない――ここ、雨漏りのするこの同じ屋根の下だ。けれどそれは北翼だった。無人だろうと思っていた所だ。管理人が教えてくれた。たまたま今晩は飲んだくれていなかったんでね。お前の肉を買ったセーヌ通りの肉屋はお前のことを知っていたよ。パン屋のカバンヌ爺さんはお前のことをやけに嫌みっぽく言ってたっけ。彼らがお前の女主人について語ったことはあまりに酷くて信じたくない。ぐうたら、見栄っ張り、遊び女だなんて。脳みそはウサギ並みで無鉄砲だって言うんだ。一階に住んでいる小柄な彫刻家だけど、ちょうどカバンヌ爺さんの店でロールパンを買うところで、いつもお互いに挨拶はしていて、でも話をしたのは今夜が初めてなんだ。そのひとは大変善良な美人ですと言ってくれた。一度会ったきりで名前は知らないと。私は彼にお礼を言った――どうしてあんなに熱心に礼を言ったのだろう。カバンヌは言ってたよ『この呪われた四風の街には、四つの風がありとあらゆる邪悪なものを吹き寄せてくるのじゃ』って。彫刻家は戸惑っているようだった。しかし、パンを持って出て行くときに、彼は私に言ったんだ、『本当です、ムシュー、彼女は美しいのと同じくらい良い人ですよ。』と。」
 猫は毛繕いを終えた。静かに床に飛び降り、扉の所に行ってくんくんにおいを嗅いだ。彼は猫のそばに跪いてガーターを外し、しばし手に取った。やがてこう言った「留め金の下の銀の金具に名前が書いてある。すてきな名前だ。シルヴィア・エルヴァン。シルヴィアは女の名で、エルヴァンは町の名だ。パリでは、この区では、とりわけ四風の街では、名前は擦り切れ、季節とともに移ろう流行のように使い捨てにされてしまう。私はエルヴァンという名の小さな町を知っている。そこで私は運命の女神と出逢ったが、その女神は薄情だった。なあ、エルヴァンでは運命の女神に別の名があって、その名がシルヴィアだったと知っているか?」
 彼はガーターを付け直し、立ち上がり、閉じたドアの前にうずくまる猫を見下ろした。
「エルヴァンという名前は私を魅了する。草原と清流のことを物語る。シルヴィアという名前は煩わしい。枯れた花の香りのように。」
 猫はニャオと鳴いた。
「わかった、わかった、」彼は落ち着かせるように言った「お前を飼い主に返してあげよう。お前のシルヴィアは私のシルヴィアじゃない。世界は広く、エルヴァンは誰にも知られぬ土地だという訳でもない。だが、パリの貧民窟の暗い汚物の中に、こんな古びた家の物悲しい陰の中に居てさえも、それらの名前は私にとって本当に嬉しいものなんだ。」
 彼は猫を抱きあげ、静かな廊下を階段に向けて歩んだ。階段を五つ下り、月に照らされた中庭に出た。小さな彫刻家のねぐらを過ぎ、北翼の門から再び建物に入ると、虫に食われた木の階段を上がった。閉じたドアにたどり着いた。そこで何度もノックを繰り返してやっと、ドアの背後で何かが動いた。ドアが開き彼は中に入った。暗い部屋だった。敷居を跨いだ時、猫は腕から影の中へと飛び出していった。耳を澄ましたが何も聞こえなかった。静寂は堪え難いほどで、彼はマッチを擦った。肘の所にテーブルがあり、テーブルの上に鍍金の燭台があり、一本の蝋燭が立っていた。彼はこれに火をともすと周りを見回した。部屋は広漠としていて、掛け布には一面に刺繍があった。暖炉の上にある彫刻された背の高いマントルピースは消えた火の灰で覆われていた。壁深くしつらえられた窓の脇の奥まった所にベッドがあり、そこから磨かれた床の上にレース風の柔らかく細かなベッドカバーがずり落ちていた。蝋燭を頭上に掲げると、足下には一枚のハンカチーフが落ちていた。微かな香りがした。彼は窓に向き直った窓の手前に canap※(アキュートアクセント付きE小文字)長椅子 があり、長椅子の向こうには、絹のガウンが一枚、蜘蛛の巣のように白く繊細なレース仕立てのガーメントが一山、皺の寄った長手袋といった種々の物が雑然としていた。床に落ちたストッキングの下に尖った小さな靴があった。そしてバラ色のガーターが一つ。奇麗に花で飾られて、銀の金具で締められて。不思議に思い、ベッドまで歩いて重いカーテンをのけた。蝋燭の炎が彼の手の中で暫しの間揺れた。彼の双眸は、もう一組の双眸と出逢った。その目は大きく開かれ、微笑んでいた。髪の上で蝋燭の火が深い金色にさざめいた。
 彼女は蒼白だった。だが彼の顔色ほどではなかった。彼女の目は子供のように安らかだった。だが彼の目はじっと動かなかった。手の中で蝋燭が瞬くほど総身を震わせながら。
 ようやく彼は囁いた「シルヴィア、私だ。」
 もう一度「私だよ。」
 そして彼女が死人と知り、彼は唇を重ねた。猫は膝頭で喉を鳴らし、肉球を押し付けては離し、長い夜を見守った。四風の街の空が白み始めるまで。

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翻訳について

 R. W. Chambers の The King in Yellow(『黄衣の王』)から The Street of Four Winds です。底本は http://www.sff.net/people/doylemacdonald/kiy_fw.htm です。巻頭詩の第一連はヴェルレーヌの En sourdine(ひそやかに)の第四連です。タイトルの The Street of Four Winds をフランス語にすると La Rue de Quatre Vent になり、これはパリにある実在の街です(そのためこの稿のタイトルを「キャトル・ヴァン街」にしようかと思いました)。青空文庫版を作成するにあたり無い知恵を絞った結果、この「四風」の読み方について「よもかぜ」というのを思いつきました(「スーフー」だと別世界に……)
 シモーヌ・シモンの「キャット・ピープル」シリーズといい岸久美子さんが魅力的な「怪奇十三夜」といい、怪談話には猫が合います。この作品も猫が主役です。
 この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。またこの訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が事実上決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。昔「理力探求の会」というサイトに「ネフレン=カ」というペンネームの方の良い翻訳がありましたが、現在では残念ながら 404 です。
『黄衣の王』は以下の十編からなります。一部を訳出してありますので、どのような作品かお知りになりたい方はどうぞ。
The Repairer of Reputations
The Mask
The Court of the Dragon
The Yellow Sign(「黄の印」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/YellSignJ.html)
The Demoiselle D'Ys(「イスの令嬢」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/demoiselledYsJ.html)
The Prophets' Paradise(「預言者達の楽園」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/ProphetsParadiseJ-UTF8.html)
The Street of the Four Winds(「四風の街」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/StreetOfFourWindsJ-UTF8.html)(本作)
The Street of the First Shell(「初弾の街」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/StreetOfFirstShellJ-UTF8.html)
The Street of Our Lady of the Fields(「草原の聖母の街」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/StreetOfOurLadyJ-UTF8.html)
Rue Barr※(アキュートアクセント付きE小文字)e(「行き止まり」:http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/RueBarreJ-UTF8.html)


This is a Japanese translation of R. W. Chambers' 'The Street of Four Winds' from "The King in Yellow".
   2010(平成22)年10月初訳
   2017(平成29)年6月30日青空文庫版作成
   2018(平成29)年1月18日最終更新
※以上は、The Street of Four Winds by R. W. Chambers の全訳です。
※この翻訳は、「クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja)によって公開されています。
翻訳:The Creative CAT
2018年1月18日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。




●表記について


●図書カード