国語学と国語教育

時枝誠記




 総督府の森田編修官から、国語教育について国語学の立場から何か書けと云ふ依頼を受けたのであるが、元来朝鮮に於ける国語教育の実践的な仕事に全然携つて居ない私は、国語教育それ自体に就いて云々する資格を持ち合せて居ない。しかし国語について絶えず関心を持ち、学生に対してもその方面の研究と興味とを喚起する様に心懸けて居る私としては、国語教育乃至国語問題と、私の研究との関連については、絶えず注意を怠つて居ないつもりで居るので、さう云ふ私本位の立場から、国語教育について考へて居ることどもを書き連ねて見ようと思ふ。従つてこの稿は、学問の威力を借りて実践的仕事に指揮命令をしようとか、国語教育の将来に指針を示さうとする様な大胆な考へもなく、又それかと云つておざなりな原理論をやらうと云ふ様な考へもない。私自身のことを書くことであるから、人の為になるかならぬかも私は考へて居ない。

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 国語教育或は国語問題と云ふ事柄は、国語の純粋な学問即ち国語学から見れば、その応用的方面であると云ふ風に一般に考へられて来もし、又現在でもその様に考へて居る人が多い。処が実際には、原理的な国語学が、何等国語の実践的部門に役立つことの少いことが知れて来ると、国語学に対して次第に疑惑の眼が向けられる様になつて来る。その結果は、学問は学問、実践は実践と云ふ様な、学問を何か非常に実生活とは遊離した抽象的な事柄であるかの様に見る考方と、一方には、国語教育或は国語問題には、別に何か深遠な原理が他に存するのではないかと云ふ様な考方が現れて来る。この考方は共に純粋な国語研究にとつても、又実践的な仕事にとつても甚だ不幸な又危険な考方であると思ふ。私が日頃学生に対して述べて居る注意は、国語の研究と云ふことは、決して天来の啓示や哲学的原理によつて指導せられ組立てられるべきものでなく、実際の国語の使用、或は国語の教育それ自体の中に出発点があるものである。であるから、日常無意味な事として軽々に取扱はれて居る事柄の中にこそ純粋研究として考へて行かねばならぬ問題がある訳である。国語の学問は、上から組立てられるべき学問でなく、常に下から組立てられねばならない学問である。だから、児童や生徒の発する質問を愚問として突放す様な事があつてはならない。恐らく原理はその様な愚問の中にこそあるかも知れない。私は右の様なことを屡々語つた。この頃西洋の学問は何でも悪くて、日本中心でなければならない様なことを屡々聞かされる。しかしそれは西洋の学問が悪いのではなくて、原理はいつも遠い空の彼方から天降つて来るもの、そしてそれが価値あるものと考へる考方が誤つて居るのである。かう云ふ他力主義は、西洋を日本に塗かへる位の簡単な事で救はれるものではない。寧ろ西洋の学問の生立ちをじつくり考へて見る方が近道かも知れないのである。

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 国語教育と国語問題は、前者は国語を次の世代に伝授することであり、後者は明日の国語を如何にすべきかを考へることであつて、教育に理想が必要であり、理想は教育を俟つて実現することを考へれば、この両者は互に密接な関係があり、切離すことの出来ない事柄であるが、一応はこれを切離して見るべきであらうと思ふ。そして夫々に独立にその領域を豊かにすべきである。国語教育は、国語の現状がたとへどうあらうとも、それをありのまゝに次の世代に伝授することが眼目である。国語の現状が混乱であり複雑であらうとも、それを克服し指導して行くのが国語教育の使命であると考へる時、国語の現状について冷静な客観的な認識なくしてはそれは不可能である。国語の現状に目を覆うて、徒に空疎な幻影を目標として国語教育を考へる時、国語教育は非常な危険に曝される。時勢の要求に基く国語教育の主張には屡々右の様な危険が横つて居る様に感ぜられる。しかしこの様な危険は今に始まつたことでなく、国語の正確な伝授を助けると考へられた文法が従来屡々この様な危険を敢へてして来た。文法上正しい国語と云はれるものの中にはつくりものの国語が屡々見受けられた。文法は国語のありのまゝの整理でなくして、国語を理想的に整理する規矩準縄と考へられたからである。国語の現状をありのまゝに伝授する国語教育の精神と、国語をありのまゝに観察しようとする国語学の精神とは、国語に対する態度に於いてかけ離れたものではないのである。
 国語教育が、若し国語の現状を一歩も出でず、終止国語の伝統にのみ拘束されて居なければならないと考へるならば、それは恐らく言語の本質の一面のみを見て、半面を知らないものであると云はなければならない。国語は決して過去の伝統の上に、機械的な因果律によつて、その歴史を構成して行くものではない。私は言語はその本質として技術的表現行為であると考へて居る。技術であるからには言語の表現には必ず目的意識が伴ふものである。言語表現の目的意識は、我々の言語を表現する場合の状況なり、談話の相手なりに従つて相違して来るが、それらの目的意識を実現する為には技術が必要である。子供に話す場合には、それに相応した表現を取る必要があり、詳密な理論を説く為には言語は厳正であることを必要とする。そこで国語のこれらの理想を考へようとする国語問題には、勢ひ国語を技術的所産と考へる処の言語本質観が必要になつて来る。しかも、この言語本質観は単なる前提或は仮説として許されるばかりでなく、右に述べた様に言語には常に目的及び技術が存在すると云ふことは我々の最も具体的な経験がこれを証明して居るのである。国語問題に於いて考へられる国語の理想と云ふことは、純粋学問の対象として考へる場合でも無視することが出来ないのである。処が従来国語の学問に於いて取扱はれた国語の概念の中には、右の様な国語の技術とか理想と云ふものが全く勘定に入れらて居なかつたのである。新しい国語研究は、右の様な実際具体的な国語を取扱ふことによつて再建されねばならないと考へると、国語問題と国語学には同じ血の流れて居ることを感ずるのである。要するに術と学との一如の見解に於いて私は自らの研究を進めると共に、若き人達に又その様な態度によつて実践的問題に従事することを勧めて居るのである。

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 国語が非常に複雑多岐で、学習や教授に困難であると云ふ声を屡々聞かされる。そしてそれ故に国語をもつと統一し簡易化しなければならないと云ふのである。私はそれらの言葉に対しては、既に述べた様に、国語教育は国語の現状を認識し、そのありのまゝの姿の伝授こそその使命であることを強調して来た。しかしこの忠告には余りにストイック的な態度の強要があることを感じた。私の責任は、これらの多岐に秩序を見出し、これらの複雑に理路を求めることにあることを感じて居る。多岐を単に多岐と考へ、複雑を単に複雑と観じたのでは、国語教育ほど不愉快な又困難な仕事はないに違ひない。しかしながら、複雑であることには複雑である理由があり、多岐であることには多岐である必要が見出されるならば又これらの困難を克服する術が見出される訳である。私は次の様な例を以てこれに答へた。我々の生活には、衣服として、平常服、礼服、寝衣と云ふ様な色々なものを持つて居る。若しこれらの衣服の用法を弁別せずに、寝る際に礼服を着用し、儀式の際に寝衣を纒つたとしたならば、これこそ混乱であり、不便であるに違ひない。種々な衣服の存在も我々がその使途を弁へて居る為に、却つて生活がより快適となり、社会的エティケットも維持されるのである。言語は我々の複雑な社会生活に応ずる為の衣服の様なもので、若しこれを寝衣一着に簡易化したとして、それで文化的生活が保たれるであらうか。そこで考へられることは、世に所謂国語整理と云はれて居る処の国語の量的整理に対して、国語の質的整理と統制とを国語の理想としなければならないと云ふことである。衣服を寝衣一着に簡易化することでなくして、儀式には礼服を、労働には労働服を着ることを明らかにすることである。敬語は国語の複雑な現象であるが、如何なる場合にどう云ふ風に敬語を用ひるかを明らかにすることによつて始めて敬語の社会性が明らかにされ、国語の混乱を防ぐことが出来る様になるのであらうと思ふ。国語の持つこれらの多岐重層性と云ふものは、言語を技術的所産と見る考方から必然的に導き出されて来るものである。新しい国語研究は、国語に対する右の様な考方をどうしても入れて来なければならないのである。

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 日本文化の伝播の武器としての国語の将来は、楽観すべきか悲観すべきか。これは簡単に云ひ切ることの出来ないことである。たゞかう云ふことは云へると思ふ。従来の国語は、一切の日本文化が島国的に成長して来た様に極めて内つ子に育てられて来た。従つて国語の現象に、ひとりよがりの処があり、普遍性に乏しいことが目につく。繊細であり、巧緻であり、奇智が溢れて居る様な処があつても、統一性や普遍性に乏しい。文学などに就いて考へて見ても同じ様なことが云へないであらうか。万葉の歌に対して古今の歌などがより日本らしい性格を持つて居る。国語について見れば、例へば文字の用法や振仮名などに見れば、如何にそこに繊細な用意や奇智が蔵せられて居るかゞ分る。これは国語が、絶えず対外的に自己を拡張したり、外部よりの批判を受けることが無かつたことに起因するものと思ふ。日本文化の歴史を通観して見ると、日本は外国文化の影響を受入れて居る時、いつもその規模を拡大し、豪壮に、普遍的になるのに対して、孤立の状態に於ては、繊細に、緻密に、しかしその為に普遍性や生命の迫力を失ふ傾向がある。今日国語が新しい面に接触して居ると云ふことは、国語の質的発展の上から見て必ずや喜ぶべき現象が生まれるに違ひないと思ふ。国語の普及とか云ふことも重要なことながら、それのみに眼を奪はれることなく、この様な機会に国語の将来性を考へ、反省を加へて行くことが、国語に関心を持つものにとつて大切なことであらうと思ふ。





底本:「時枝誠記国語教育論集 ※(ローマ数字1、1-13-21)」明治図書出版
   1984(昭和59)年4月初版刊
底本の親本:「文教の朝鮮 第一七九号」朝鮮総督府
   1940(昭和15)年7月
初出:「文教の朝鮮 第一七九号」朝鮮総督府
   1940(昭和15)年7月
入力:フクポー
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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