秋艸道人の書について

吉野秀雄




 秋艸道人会津八一博士の処女歌集『南京新唱なんきやうしんしやう』をはじめてわたしの読んだのは、大正十四年春のことだつたが、集中に見えた二首の難解歌がどうにも気にかかるので、発行元の春陽堂へ問ひ合せて道人の住所を知り、その件をおそるおそる質問に及んだのが、翌十五年の四月、そして道人からすぐに懇切な返事を与へられ、間もなく百万塔の図に「あをによしならやまこえてさかるともゆめにしみえこわかくさのやま」の一首を題した茶掛けを贈られたが、これらが道人の肉筆を見た最初であつたやうだ。
 右の手紙といふのは、一枚きの、いはゆるキラズと呼ぶ和紙数枚にしたためた行書であつたが、その見事さは、いきなり若いわたしの心を打ち、わたしは数金を投じてただちにこれを額に仕立てずにはゐられなかつた。三十五年後のいまも、わが家の一室にかかつてゐるし、道人の目にもいくたびか触れたものである。
 ――わたしはどうしたわけか、少年の時から書が異常に好きで、当時なにを見ても気に入らぬがちの生意気ざかりであつたが、道人の書を一覧するや、なるほど世にはかういふ書もあるのかとおどろいた。わたしはみづからも歌を詠む者の一人として、道人の歌集を尊敬し、やがて押しかけ門人になつたくらゐだが、書においても急速に傾倒の度を加へ、道人の書といへば、小包郵便の宛書きや小札こふだの類までも、ていねいに保存するやうになつてゐた。
 道人の書は、いつたいどんなふうにいいのだらうか。どんなわけで、わたしがむやみに魅惑されるのだらうか。――かう自問を起しておいて、さて自答を考へてみれば、あらましつぎのやうなことになるらしい。
 (一) 道人の書には端的率直な明快さがある。晦渋くわいじふ曖昧あいまいな陰鬱さの正反対で、男性的に朗々としてゐるし、形骸的な固さでない、みづみづとした印象に富んでゐる。
 (二) 道人の書では、いつも縦横の直線と曲線とが均等に配分されてゐる。これは(一)の明瞭性とも関係の深いことがらだが、また黒白二色のり合ひをして、快適な緊張感をかもしださせる根源をなしてゐる。それも一字一字がひきしまつてゐるといふよりも、全体として堂々とうねつたやうなリズムを覚える。一幅、一面の作として、全体の余白がこんなにも生動してゐる書はめづらしいのではあるまいか。
 (三) 道人の書はだれだれの流といふことをほとんど感じさせない。むろん和様には遠く唐様からやうの分子がまさつてゐて、みんしん初あたりの某々の書に、いくらか似たのがないでもないが、それにしても小味な個性とはちがつて、茫漠とした気宇が横溢してゐる。
 (四) 道人の書は、作品にあつては、漢字は漢字、仮名は仮名にかきわけられてゐるが、ただし、両者をまつたく同じ態度でかき、毫末がうまつも区別をつけてゐない。それだから漢字・仮名まじり文の手簡の書が、じつにうつくしい調和を見せることを結果してゐる。
 (五) 道人の書は、どんな場合にも、実用性と現代性を没却してゐない。その見解は斬新であり、進歩的であり、ペンや鉛筆の書の道を、毛筆の書の道とは全然別個に打ち立てようとすらしてゐる。事実、そのペン書きの原稿や書翰の書は、独特の快感を覚えさせた。趣味や気分が先立つことをきらひ、実用的明晰を失はずに、しかも工夫によつては、いくらも美なり個性なりを発揮できることを実証したのが道人の書であった[#「あった」はママ]
 ――わたしの自答はまづこんなところだが、それらは道人の書論とどんな関係を保つてゐるであらうか。道人に親しみ教へられた三十年の間には、書について直接ずゐぶん話をきいたし、また『会津八一全集』には、みづからの執筆や口演筆記の書論が数篇見られるので、それらを思ひ出しつつ、紹介してみることにしよう。
 第一に明快といふことだが、道人は青年時代に、叔父の会津友次郎翁から筆札のつたなさを叱られ、それならひとつ稽古しようかといふので、なによりもまつ先に、文字は自分の意思を、時間的にも空間的にも遠隔者へ伝達するために存在するのだから、一目でそれとわかるやうに、明瞭にかかなけれればならぬと自覚し、それには、明朝みんてう活字を手本にかけばよからうと気づいた。
 ――宋朝そうてうの字は細すぎ、元朝げんてうの字はいくらか不分明、清朝しんてうの字は中心点ができて四方へ開く気味があるのに比して、明朝の字はフラットでアクセントがなく、正方形を線が満遍なくふさいでゐる。横線が細くて縦線が太いといふ点だけは、その必要がないから除外すれば、おほよそ理想的な形体といつてよい。――そこで明朝の初号・一号などの活字をにらめては、大きな正方形の中に、その空間を全部うづめつくすやうに文字をかいてゐるうちに、縦横の直線と弧の曲線との配分をひとしくするのが、もつとも文字を明確にする所以であることを知らされ、同時に習字とは、要するに、直曲線の自由自在な表現以外にはなく、法帖はふでふも師匠もなにも要らないことを悟り、そしてこれを実行した。
 道人はこれをほんたうの手習ひと称し、世間でいふ手習ひは目習ひにすぎぬと喝破かつぱした。
 道人の唱へる手習ひの実行はかんたんである。――筆は垂直にささへ、垂直の形を保ちつつ動かせ。さうせずに筆の尖と腹が出しやばると、線のユニフォーミティの原則がこはれる。縦の直線は上から下へ、下から上へ、どんなに長くとも、身体ごとぶつかつて弓弦ゆんづるのごとく引つぱれ。横の線も左から右へ、右から左へ引きこなせ。そのほかに、渦巻きをかくことも益があらう。渦巻きは円とは異なり、どこを切りとつても、他の部分とはべつな形を呈するといふ特色をもつてゐるためだ。これも中からかきはじめるのと、外からかきはじめるのと、また右巻き左巻きとで、四とほりあるが、どこからでもいかやうにも引けるやうに錬磨しておけ。――といふに尽てゐる。
 道人がごく若いころに発明した手習ひの法は、こんなわけのものであつたが、それがおのづから文字源流へのめざめといふ大問題に乗つかってゐたことは、じつに非凡といはざるをえない。
 その後道人は碑学・帖学をきはめ、金石文や書道史の専門家として世に立つたが、高句麗かうくりの広開土王碑や前秦の広武将軍碑の文字が、自分の編み出したプリンシプルにそつくり合致してゐるのを見て、ひどくよろこんだといふ。また周の石鼓の籀文ちうぶん、秦の小篆せうてん、前漢の古隷これい、後漢の八分はつぷん六朝りくてう今隷きんれい等、それぞれ多かれ少なかれ、例のユニフォーミティを示してゐるが、前後三千年を通じ、ユニフォーミティの感覚が衰へるたびごとに、秦漢の篆隷てんれいかへらうとする運動を繰り返したのが中国書道史のたしかな一面であることを、どこかに強く説いてゐたことを記憶する。
 道人の愛好した書を察すれば、周のかなへの文字や、秦漢六朝の金石の文字にあつたことはいふまでもなく、しんの王羲之この方の一字一字に神経のゆきとどいた、繊細な味はひのある書を、陰気でいたいたしいといふふうなことばで評してゐる。
 さらにいへば、道人は先人の創造した個々の影響をうけることを極端に警戒し、拓本や法帖を見るにも、Aだけを見ずにかならず同時に、Aとまつたくおもむきの反対なBをあはせ見てゐたと告白してゐる。だからまた、永字八法だ、七十二法だなどといふ筆法上の技術は、枝葉末節の話で、線などはひる蛞蝓なめくじのやうに引いたつて、いつかうさしつかへなからうではないかと主張し、「どれも皆頭のいい人で,学問もあり経験も豊富だといふやうな人達を集めて相談してゐる、といつたやうな」書よりも、「田舎者ばかりだが、何となく元気の溢れるやうな」書のはうが、どのくらゐ気持がいいかしれないといつてゐる。
 つぎに漢字と仮名との関係についてであるが、道人は日本の書家連が二種に分かれ、一種の人々は中国人の作つた漢文・漢詩を、中国人の筆法そつくりにかいて中国人を気取り、べつの一種の人々は平安から鎌倉にかけて、少なくとも七百年前に完成した草仮名をそのまま踏襲し、現代人のおもはくもなにも無視して日本趣味に没頭し、そして両者が漫然と水に油の並存をつづけてゐることを痛罵してゐる。これはその後数十年間に、道人の指し示した方角へ変転しつつあるかにうかがはれるが、それだけに、道人の言説は正しかつたと、いまにしてうなづけるのである。
 道人は仮名をかくにも、漢字同様のユニフォーミティの原則を用ひ、また青壮年時代はいざしらず、還暦以後はできるだけ変体仮名を避け、現行活字体の仮名を、表意性をはなれた表音性のみの一体と認識し、ひたすら明瞭にかくことを根本の念願としてゐた。道人の漢字・仮名まじり文の調和したうつくしさは、墨書の書翰などにもつともよく現はれてゐるとおもふ。
 現代の要求する書はなにか。街上の看板や雑誌の表紙の誌名のやうな、はつきりした文字である。かういふ重大な一事を忘却しないで、しかもこれを美術的に表現しようといふのが、道人の新鮮な、また強烈な意欲であつたのである。





底本:「日本の名随筆64 書」作品社
   1988(昭和63)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「吉野秀雄全集 第五巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月30日発行
初出:「淡交」淡交社
   1961(昭和36)年8月号
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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