広島という名の由来

薄田太郎




輝元の築城

 広島城のことを鯉城というが、この鯉城というのはこの土地が己斐の浦に臨んでいたので、己斐が鯉の音に通じるところから、こう名付けられたものといわれる。
 講談調になって恐縮だが、豊臣秀吉が天下をとると、西の方で気になるのは毛利輝元であった。秀吉はなんとなく毛利氏の本城、安芸の吉田にある郡山の城を、どこかよそに移転させようと考えはじめたのである。西の毛利氏の山城、吉田の本城を、なんとかして平地に移して毛利氏と手をにぎりたいと、播州龍野の城主蜂須賀彦右衛門を使って、毛利輝元に広島出向方を勧めたのである。
 当時は広島ともいわず、この土地は見るからにアシのおい茂っていた、水びたしの荒れ果てたところであった。決して、川よ、とわに美しく、などといえるデルタ地帯ではなかった。当時の呼称でいえば五箇荘といわれ、鍛冶塚の荘、平塚の荘、在間の庄、広瀬の庄、箱島(白島)の庄の五つの地域で構成されていた。当時の岩鼻や比治山のスソは海中に洗われて、向宇品に当る手奈島や仁保島は、はるか海中に姿を見せていた。
 毛利輝元は、病没した蜂須賀彦右衛門に代わって秀吉の意を伝える黒田孝高の忠言もあって、ついに平城の建設を決めた。秀吉としては、山城の吉田を攻めるよりも、平城をつぶす方が手間ひまがかからないと思ったことかも知れない。もっとも、大阪城をみた輝元が、淀川デルタにできた城下町をみて、郡山城が山中にあって、物産の出入り口である草津港と五十キロ余りもはなれている不便を考え、将来をおもんばかっての五箇荘出向を決めたと考えても当然である。
 いよいよ、天正十七年二月二十日(一五八九年)、輝元は部下に床几しょうぎ一つを持たせて早朝に出発、途中北の庄(現在安佐郡安古市町)の福島大和守の館に一泊、その翌日、矢賀村の明星院山(現在の二葉山)にまず床几をすえた。ついで、牛田の新山(現在の見立山)、そして己斐の松山に床几を回して、はるかに葦野原の五箇荘をすみからすみまでテイサツし、ようやく箱島の南の島、いまの広島城跡に本城を築く決心をしたワケである。
 これらの山々から五箇荘を見た輝元の目には、はるか沖合いに白いカモメがとび、小さな漁船が一、二そう浮んで、仁保島などがはるかにかすんで見えたことであろう。
 同年四月十五日、築城のクワ入れが行なわれ、輝元の叔父にあたる二宮就辰、穂田元清が普請奉行となって工事が始まり、町人頭の平田屋惣右衛門も召し出されて、城下町建設に一役かった。
 築城の際に輝元は、明星院山で腹臣の福島大和守に、「五箇荘のいずれの地名を採用しても差し当りがあるので、祖先の大江広元の広と、なんじの福島の島を合わせて広島と名付ける」といったと伝えられているが、城を作った地点がもっとも広い島だったので、広島としたというのが自然のようである。

綱引きと川通りもち

 築城の際、佐東郡毛木村出身の佐々木太郎右衛門も、土木工事の腕を買われて輝元に召し出され、普請奉行二宮太郎右衛門を助けることになった。
 この両太郎右衛門が本城のでき上ったとき、祝賀の白島での綱引きで指揮者になった。この白島の綱引きの行事は、以来明治時代まで伝えられた。毛利氏時代の風習としては、この綱引きのほかには、毎年旧の十二月朔日の「川通りもち」があるだけであった。
 旧暦の十二月朔日といえば、大体に正月も終わったころで、寒風の吹くようになった夜、広島の町を流してゆく「かわどうり、かわどうり」という売り声を聞くと、さすがの広島の冬も深くなったものだと思わされた。
 売り声は、大体にこどもの声であるが、時にはサビのある大人の声も聞かれた。こどもたちは、比治山町の中野というもち屋から受けて売り歩いたようである。そして、薬研堀とか大須賀町、さては西地方町、天満町あたりにあったもち屋には、半紙三枚くらいをつなぎ合わせた即製の「川通りもち」の旗が店先につり下げられたものである。
「川通りもち」を入れたもろぶたを肩にしたあのころの姿がなつかしい。とくに花街を流していく売り声には、広島ならではの季節感があった。
 この「川通りもち」の由来は、「芸藩通志」「芸備今昔話」「陰徳太平記」にそれぞれ書いてあるが、あらましはつぎのとおりである。
 観応元年(一三五〇年)、石見国佐波善四郎を討つために発した毛利備中守師親が江の川を渡っているとき、一つの石が川の中から浮かび上って馬のあぶみにかかった。師親は相模国毛利庄の宮崎八幡宮を信仰していたので、「さだめし八幡宮の奇瑞ならんと石をふところに入れ、江の川を一番乗りに打ち渡り」抜群の軍功をたてて安芸国吉田庄に三千貫の知行をえた。
 喜んだ師親は、この霊石の表に「八幡宮」、裏に「午頭天王ごづてんおう」と自筆して、相模宮崎八幡に奉納した。安芸国吉田庄一帯ではこの戦勝を祝って石をもちにたとえて「川通りもち」をつくる風がおこり、毛利輝元が広島城に移るとき、この風習も広島に持ち込まれて、水難除けとして家々に配ることが行なわれたという。霊石は、のちに吉田町内の清神社に移された。
 芸藩通志には、十二月朔日の章に、「市井の人餅を食ふ、郡民もまた或はしかす、是を川通餅と称す、或は膝塗餅ともいふ、是を食へば水を渉て倒れすといへり」と、その由来を伝えている。
 そのかみの毛利城下町に残された「川通りもち」の風習が、長い歳月の冬を生き抜き、戦後も売り声こそ聞かれなくなったが、菓子として昔風そのままに形を残しているのは嬉しいことである。
 広島城は、その後、関ヶ原合戦で輝元は芸備側の土地をけずられて防長二州に追いやられ、福島正則は鯉城にはいって十九年、ついに元和五年正則が広島を離れ、新しく紀州より浅野長晟の広島入りということになる。





底本:「日本随筆紀行第二〇巻 岡山|広島|山口 暮れなずむ瀬戸は夕凪」作品社
   1988(昭和63)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「がんす横丁」たくみ出版
   1973(昭和48)年4月23日発行
初出:「中国新聞 夕刊」
   1953(昭和28)年1月11日
※初出は中国新聞夕刊で連載された「がんす横丁」の第六回記事です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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