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今は亡き俳優手配師の備忘録より
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ウィルビイ・ハーコートがとうとうと語る
演劇に多少なりとも関心を持つものなら皆、ハーコートの素姓を知っている。父は全盛時評判の俳優だったが、異国で熱烈な恋愛事件を起こし、決闘で殺されてしまった。
母は美人で強情なマートレーバーズ。家族の強い反対を押し切って、父と結婚したが、わずか二年後に未亡人になってしまった。
こうしてウィルビイ・ハーコートは十五歳で世の中に放り出され、自立した。ドサ回り劇団を経て、こんにち最高の二枚目俳優としての地位を得た。外から見る限り、充分成功している。自分の劇場を持ち、多少なりとも自作演劇に関わっている。
しかし、
そんな
日曜の夕べ、テーブルを囲むのは総勢わずか六人。楕円テーブルには桃色のランがでんと置かれ、桃色傘付き照明が複数あった。晩餐会は優雅に進行し、マニントン夫人はご満悦だ。
コーヒーと
例によって会話は
今日は日曜日だから、朝刊は簡単な内容のみ。参加者たちは食い入るように聞き入った。なかでもドロシー・ネーションほど熱心な女性はいなかった。
実を言えば、ドロシーに参加資格はない。マニントン夫人の秘書として参列しただけだ。仕事は夫人の手紙や招待状を代筆し、ピアノを伴奏すること。令夫人は人並み以上の歌劇作曲家だった。
晩餐会を土壇場で誰かがキャンセルした為、令夫人が空席を嫌った。なかば自然に、半ば強引に、秘書に出席を命じた。
「本当に素晴らしい劇だよ、私が言っちゃまずいけど。でも昨夜のマンチェスター市民の感想だ」
とハーコート氏がつぶやいた。
誰かが尋ねた。
「作家は誰ですの? ユージン・マレは偽名ですの?」
ほかの誰かがカマをかけた。
「つまりウィルビイ・ハーコートさんの筆名ですか」
ハーコート氏は
「その質問には答えない方がいいかな。妙なことだが、英国民は劇作家を兼ねる制作俳優には冷たい。俳優以外の人物が劇を書くものと頑固に信じている。根拠がないとは言わないけど……。間違いなく、ユージン・マレ氏は時機を見て正体を現わしますよ」
晩餐客は意味ありげにお互いを見た。おそらく参列者が思ったのは、ウィルビイ・ハーコート氏の栄誉にもう一つ、月桂冠が加わった。言い草は極めて謙虚だ。
ハーコート氏は劇の筋書きを
「この内容は全く独創的だと言える。一人の女性をめぐって二人の男性が恋するのは珍しくないが、これは父と息子という設定だ。
当然父親には金がある。五十歳未満だから、どんな愛人も満足するだろう。息子は二十六歳、同様に創造主によって充分才能を与えられている。
父に秘密を打ち明けたが、まさか父の胸中は知るまい。ほとんどの息子がそう思うように、父親はちょっと頑固だ。父親は自分の気持ちを抑えない。そして息子の幸せをわざとぶち壊そうとする。そうしなければ、自分にチャンスがないことを知っている。
権力で、女性の父親を逮捕して、逃亡罪でオーストラリアへ島流しにした。女性の両親はこの逮捕を不当だと思うし、娘もそう思う。やがて父親を助け、父親の名声を取り戻した。実際、父も誇りを失っていなかった。オーストラリアへ乗り込んで得た勝利だ。
まさに、義理と人情の板挟みの事例だ。最終的に勝ったのは、
一方、女性の父親は偽名で身を隠し、前述の息子に手紙を書き、自分の娘が
こうして舞台はオーストラリアのメルボルンに移った。そこで見た痛ましい出来事は、数々の試練を経た娘であったが、かつての恋人が別な女と話しているのを窓越しに見てしまい――」
不意にドロシー・ネーションが割り込んだ。
「その女の手にはネックレスが……。かつての恋人がくれた……。ど、どうもすみません」
ドロシーが真っ赤になった。マニントン夫人は冷ややかに見ていた。
ドロシーが後悔して、
「本当にごめんなさい。話に我を忘れていました。日曜版で読んだ気がしたものですから」
ハーコート氏が満面の笑みで尋ねた。
「読んだの? なにも載ってないと思うよ。全紙読んだから。私の小話をよく聞いた方がいいよ。おっとなんだっけ? ああ、ネックレスの件だ。主人公の父親が重い病気で、あっという間もなく死ぬと、裏切りが表に出た。ここからほんとうの見せ場が始まるのだが――」
だが、ドロシー・ネーションはもう上の空で、その時あらぬことを考えていた。制作兼俳優のハーコート氏は自作の別話を展開しており、もし内幕を知っているなら、一枚かんでいる。少しでも分かっていれば、とても濃い人情劇になるのに。
ドロシーがハッと我に返った。劇のあらすじが終わった。
マニントン夫人と客たちは遠くへ出かけた。十五分後もドロシーは実質上の自宅、ストラットン通りの家にいた。マニントン夫人が一、二時間で帰ってくる可能性は低い。ドロシーは衝動的に扉の方へ歩いて、叫んだ。
「やるわ。野蛮クラブへ行ってマーク・ジャーマンに会おう。いつも日曜の夜あそこにいる。作家のユージン・マレを探してもらおう。この際、まだ幸せを見つけられるかも。ユージン・マレがあんな卑怯な盗人とは……。名声もあるのに。いまに、暴いてやる」
まだ遅くなかったので、ドロシーは野蛮クラブまで歩こうと決めた。
運よく、そこで馴染みの俳優手配師ジャーマンを見つけた。すぐドロシーの所へやってきた。愛想のいい男で、眼が澄み、あごが角張っている。
ジャーマンが叫んだ。
「ドロシー・ネーションさん。こんな夜更けにどうしました」
「頼み事に参りました。昔のよしみで助けてほしいの。あなたは私の父と友達だったでしょう。口癖でしたね。私の素姓を知るただ一人の英国人だし、今あるのもあなたのおかげです。オーストラリアから傷心の無一文で帰国したとき、助けてくれました。この話は誰にも話してないですよね」
「お嬢ちゃん、なんたる疑い。秘密をばらしたとでも?」
「いえ、いえ、どうか許して。お分わかり、今晩ストラットン通りで私の素姓をそっくり語られたのよ。ウィルビイ・ハーコートが喋ったの。とても驚いた。ばれたかも。考えてもごらん、晩餐会で、ハーバートとその父親スターリンの物語をハーコートが語るのだから」
「きみに話したというのか」
「いいえ、そうじゃない。昨夜マンチェスターで初演した劇の筋書きよ。知っての通り、目録に書いてあるユージン・マレという作家の新劇よ」
「その作家はハーコートじゃないのかい。続けて」
「ジャーマンさん、ハーコートは劇など書きません。今夜の口ぶりでは原作者のようでしたが、嘘をついています。劇のあらすじは下劣な陰謀を企てた父が、息子ハーバートと私との間に割り込む構成です。
劇そのものですよ。この話を知ってる人で、生き残っているのはハーバートと私だけです。あのハーバートが細部を漏らすとは信じたくありません。今もどこかで私を探しているはず。私もハーバートを探さなくちゃ、でも貧乏で、働かないといけないし。
死んだかもと思い詰めましたが……。
あっ、今わかりました。死んでないわ。だってこの劇を書き、アポロ劇場で演じさせたユージン・マレなる男こそ、張本人のハーバートです。いつも劇作家になる野望を抱いていましたから、たぶんまた外国へ行って、英国へ帰らないと決めたんでしょう。
台本をウィルビイ・ハーコートへ送ったら、気に入った。ハーコートは自分で書いたと暗に認めているけど、名声も……」
ジャーマンが慎重に答えて、
「ああ、言いたいことは分かってる。ハーコートの評判は舞台裏じゃ全然よくない。何度も奴がやらかしたのは、持ち込み台本を改編したことだ。良ければ俺が奴の所へ行って、洗いざらい聞き出してやろう。ただ切り札が無いと、うまくいかないぞ。びっくりするような事実が」
ドロシーがささやいて、
「なら教えるわよ。劇の結末がめでたしになるように書き換えられている。ハーコート氏に会って聞きなさい。なぜ、ネックレスを手にした第二の女が出現したあとの話を削除したのか。使わなかったのかもしれないけど、絶対使っているはずよ。とても劇的だから見逃せないはず。これが絶好のかまし所よ」
ジャーマンが時計を見た。どうやら決心がついたようだ。
「今夜行くよ。ハーコートは寝る前にいつもシバー・クラブで半時間過ごす。喫煙室で会えるだろう。きっと
小一時間後、ジャーマンはシバー・クラブの喫煙室に着いた。ハーコートのほかに、あと一人しかいない。少し経つと、制作兼俳優ハーコートと、凄腕の俳優手配師ジャーマンの二人きりになった。
ジャーマンがぶっきらぼうに言った。
「ところで、このたびの成功おめでとう。マンチェスターに駆けつけた新聞記者のツーソンに会ったよ。強烈な話をしとったぞ。実話だと確信している。だが、ネックレスを手にした第二の女を見てから後の逸話を削ったのは失敗だったな」
ハーコートがニヤニヤして立ちすくんだ。虚栄心をくすぐられ、劇のことで頭が一杯になった。仕掛けの巧妙さに気づかない。知らず罠にハマった。
「割愛せざるを得なかった。だろ、結末が台無しになる。それを入れたら、悲劇になっちまう。でも、なんで知ってるんだ?」
「ああ、我々劇場手配師は些細なことも知ってる。忘れるなよ、芝居はほとんど我々経由だ。誰がユージン・マレだい? 当然、偽名だろ? アホどもがキミが書いたと言ってる。我々はごまかせないぞ。実は全て知ってる。今晩ここへ来たのは作家のマレの住所を聞くためだ」
結局、すんなり決した。ウィルビイ・ハーコートにはもう
ハーコートが愛想よく、
「実を言うと、全く知らないんだ。男が来て自作劇を読んでくれという。人生に疲れたとか、自分の人生が書いてあるとか、終わりにするつもりだとか。数日後に台本の一節を読んだとき、奴は人生に決着をつけたと思ったな。長編を短くして、舞台にかけたら、受けた。奴は死んで埋葬されたから、物語を披露しても、一銭ももらえない。もちろん俺は原作者とは言ってないよ。そんなことを言う馬鹿は俺の知ったこっちゃない。よけりゃ、ユージン・マレの手紙をやるよ」
マーク・ジャーマンは満足して、それで良しとした。
一週間後、大衆週刊誌に次の記事が載った。
「当誌の信頼できるマーク・ジャーマン手配師によれば、ウィルビイ・ハーコートの最新ヒット劇『世の終わり』に新たな秘話が加わった。原作者はハーバート・スターリン氏、かつての前途有望な短編作家だ。劇中の女主人公はある若い女性に触発されたものであり、この女性とスターリン氏は一時婚約したが、不運が重なって、引き裂かれてしまった。スターリン氏はいま外国のどこかに存命。もしこの記事が目に入ったら、クレーブン通り四四五に連絡されたし、お手紙乞 う」
「ドロシー・ネーション嬢はマニントン夫人の秘書をしており、同嬢によれば、有能な作曲家である令夫人の新曲が、フォン・ゼイドラ皇太子殿下のお許しを得て、同殿下へ奉納された。マニントン夫人は今月の月末までストラットン通りに滞在の予定」
「ドロシー・ネーション嬢はマニントン夫人の秘書をしており、同嬢によれば、有能な作曲家である令夫人の新曲が、フォン・ゼイドラ皇太子殿下のお許しを得て、同殿下へ奉納された。マニントン夫人は今月の月末までストラットン通りに滞在の予定」
ジャーマンがほくそ笑み、読み上げたこの二つの記事は、うまく左右に並べてあった。
「生きていれば、おびき寄せる。あのような劇を書ける人物なら自殺しないさ」
一週間後、訪問客がストラットン通りに来てネーション嬢に面会を求めた。そのとき同嬢は、一人で応接間にいた。
男は多くを語らず、女も何も言わない。長い沈黙を経て、両者は口を開いた。もろもろで胸がいっぱいだった。
スターリンがやっと沈黙を破り、
「やあ、ドロシー、全部話してくれないか。迫真の舞台だそうだね」
ドロシーが嬉しそうに微笑んで、
「劇ですね、良ければ一緒に書きましょう。そして、知り合いのウィルビイ・ハーコートにやらせましょう」
了