一子相伝の書として観世家、今春家などに秘蔵されていた『風姿花伝』は、1909年に吉田東伍校駐(ママ)『能楽古典世阿弥十六部集』が刊行されるまで、一般には公開されていなかった。その意味で、1918年に没した吉田東伍による校注と公開に向けた作業の新規性、創作性は極めて高かったろうと思われる。
 岩波文庫版『風姿花伝』校訂者の一人である野上豊一郎は、1927年に岩波文庫から『風姿花伝』を『花伝書』として出しているが、先の吉田東伍による仕事の成果は、同書にも引き継がれたであろう。
 岩波文庫版『花伝書』の刊行後、観世家は写真整版によって、世阿弥直筆の『花伝第六花修』を刊行している。さらに、今春家旧蔵本『風姿花伝』五編が、川瀬一馬によって刊行されている。
 こうした世阿弥研究の成果を引き継ぎ、西尾実が改訂を行い、すでに故人となっていた野上豊一郎との共同校訂という形を取って刊行したのが、今回問題となった岩波文庫版『風姿花伝』である。
 同書の凡例において西尾は、「本書の底本に用いた緒傳本の借覧と、校訂本の刊行を許された觀世元正氏のご厚意に對し、深く感謝する。」と書いている。さらに同書は、底本として用いたものと、吉田東伍校駐『能楽古典世阿弥十六部集』とで異なっている点を、逐一明示している。
 岩波文庫版『風姿花伝』も、明らかに既存の研究と公開に向けた努力の成果を受け継いでいる。


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