1998年1月13日
『本とコンピュータ』の三号に、「電子図書館で何を変えるか?」という座談会が載っている。
 実はこの座談会には、前段があった。一つ前の号に、津野海太郎さんが「だれのための電子図書館」と題した巻頭レポートを書いている。日本で進められているいくつかの電子図書館計画を見渡して、「『電子図書館はだれのためになにをやろうとしているのか?』という問への答えが、まだ十分に熟し切っていないようなのだ」と、津野さんは批判的なコメントを寄せた。
 座談会冒頭の津野さんの紹介に寄れば、国立国会図書館で電子図書館を担当されている田屋裕之さんはあの記事を読んで、「あせりすぎだ、という電子メール」を書いたという。
 では直接会って話し合おうじゃないか、となってこの座談会が実現したらしい。

 座談会の冒頭には、田屋さんの以下のような発言が置かれている。
「インターネットによる情報発信のしくみができたのは、せいぜいこの二、三年の話なんですよ。その間、新しい情報通信技術によって図書館になにが可能になるのかを検証してきて、やっと魅力的なメニューや、それを支える理念について考える段階になった。電子図書館の問題が本格的に議論されるのはこれからなんです。それで、津野さんの記事はちょっと急ぎすぎだな、と思ったんですけどね」
 この発言自体は、「今やろうと思ったのに」という言い訳だ。
 とはいえこの後で、「だれのためになにをやるのか」という肝心のところが、せめてその方向性だけでも聞けるのかと思った。
 だが、これまでのプロジェクトでなにをやってきたかの説明は聞けても、理念に踏み込む内容は最後まで田屋さんからは聞けなかった。
 複数あるプロジェクトの内、パイロット電子図書館と呼ばれるものでは、「小さな図書館ぐらいの本や資料をまるごと電子化してネットワークで実際に使ってみる実験」が行われたと、田屋さんは言っている。
 確かにこの発言は、嘘ではない。嘘ではないが、体験ページで実際に覗いてみると、「ネットワーク越しに本が読めるんだろう」という期待は見事に裏切られる。 実態にはさっぱり踏み込まないまま、「実際に使ってみる実験」が行われたことになって進んでいく議論には、強い違和感を覚えた。

『MacWorld』誌の「メディア工房」というコラム欄に、私は「インターネット公共図書館の試み」(1998年1月号)と「電子図書館の理想」(1998年2月号)と題する記事を続けて書いた。田屋さんが田屋さんの立場から説明された個々のプロジェクトについて、私の目で見た感想を述べている。
『本とコンピュータ』よりも少し先に出たこの原稿は、図らずも田屋さんに対する批判をあらかじめ提示する形となった。
 以下に、その原稿をコピーする。

「インターネット公共図書館の試み」
 青空文庫と名付けた私設電子図書館を作ろうと考えたとき、目標としたのは「インターネットを介して本が読めるようにしたい」という一点だった。難しいことは、頭にはなかった。ただ「読みたいときにすぐ開けるように」と、それだけを考えた。
 あらためてなぜわざわざこんなことを書くかと言えば、いわゆる電子図書館の多くで、本が読めそうもないからだ。それも、大規模な国家予算を投入しているところほど、本の姿が見えてこない。いったいなぜ、こんなことになったのか。

行く手を示す人
 青空文庫には、何人かの先生がいた。
 福井大学教育学部で国語学を研究されている岡島昭浩さんは、真っ先に上げたい一人だ。ご自身で電子化されたものと、いろいろな人がインターネット上で公開しているものを集め、「日本文学等テキストファイル」と名付けたリストにまとめられている。おさめてあるのは、著者の死後50年を経て著作権の切れた作品だ。書名のクリックによって、誰でもすぐにファイルを引き落として読める。
 グーテンベルク・プロジェクトにも、大いに励まされた。主宰者のマイケル・ハートによれば、この試みは何と1971年に始まったという。アメリカの軍事予算に支えられ、インターネットの前身が産声を上げて間もない頃だ。イリノイ大学の材料研究所に設置された大型機のオペレーターになった彼は、空き時間にマシンを使うことができた。金銭に換算すれば実に大きなものとなるこの時間を活用できないかと考え、「図書館代わりに使おう」と思いついた。先ずは『独立宣言』を入力し、ネットワークに連なっている人、全員に送りつけてみた。その後、ゆっくりとした歩みではあったが、ボランティアによって電子化された著作権切れの作品が積み上げられていく。昨年は、長らく居候していた大学のコンピュータから追い出されたり、支援してくれた他大学からのサポートを打ち切られたりと散々だった。だが新しい拠点に移り、多方面からの支援を仰いで、電子テキストの収集と公開の作業が続けられている。
 インターネット公共図書館は、司書の側からのアプローチだ。1995年の年明けを前後する時期、ミシガン大学情報図書館学部の大学院生を対象としたセミナーで、〈インターネットと図書館〉が論議された。
「ネットワークによる分散環境を利用して、図書館と司書、そして図書館員の職務とをどう有機的に結びつけていくか」
 この問いに答えるために、実際に電子図書館を運営してみようと話が転がった。興味を持ったたくさんの学生の中から、先ずは35人が集まって作業に着手し、3月には公開にこぎつけた。ワークステーション1台を学部から提供してもらい、月額18ドルのディスク・スペースも学部の支援を受けて用意した。「司書たちは過去数百年にわたり、形ある紙の本に盛り込まれた情報と知識の世界を、秩序立てようと試みてきた。今、新しい器としてデジタルのメディアが登場したのなら、そこでも当然同じ役割を果たすべきではないか」そう考える彼らは、〈司書魂〉をいかにしてインターネットで発揮するか、実践の中から答えを模索し、関連の情報を集めると共に、電子テキストもここで公開している。現在では、W.K.ケロッグ財団、その他の支援を受け、専従者2名を置けるほど体制は強化されている。
 こうした先人たちの努力に学び、その成果を汲みながら、電子本の技術を利用して読みやすさを加えようとしているのが、青空文庫だ。

本の読めない電子図書館プロジェクト
 財政的な基盤の弱い、あるいはほとんど存在しないところからスタートしたこうした試みとは対照的に、大きな予算を与えられて動き出した電子図書館計画もある。実は我が国でも進められている。だが、青空文庫の骨組みを作っていく際には、こうしたプロジェクトはなんの参考にもならなかった。どこに行っても、満足に本が読めないからだ。
 通産省には、プロジェクトが二つある。
 一つ目の「パイロット電子図書館システム」は、1993年度の第三次補正予算で、景気対策の資金がついて始まった。目標は、全国の公共図書館の目録データを共通のフォーマットに基づいて再整備し、ネットワークを通して検索できるようにすることだ。どこにどんな本があるかを知るのが目的とされている。加えてもう一つ、「文献を電子的に蓄積し直す」ことも目標とされている。「ならば当然読めるだろう」と、誰もがそう考えるだろう。ところがこの計画では、印刷物をそのままキャプチャーして、ビットマップデーターで保存、提供する方式をとっている。テキストをコードに依らず、画像として送ればどんな使い勝手になるか、骨身に染みてそのばかばかしさが痛感できるので、システムの体験ページで是非試してみて欲しい。
 ちなみにこのプロジェクトには、3年間で20億円があてられる。ここで開発された技術は、2002年に電子図書館として開館が予定されている、国立国会図書館関西館(仮称)で利用されると言う。ネットワーク上にではなく、地面の上に物理的に用意されるこの図書館の箱作りには400億円以上を要し、システム構築に別に数百億円かかるという。
 伝えたいという衝動を持った書き手がいて、知りたい、学びたい、味わいたいと望む読み手がいる。この二つの願いを結びつけるために先人が用意したのが、印刷の技術であり、出版産業と書籍流通の仕組み、そして図書館制度だ。ネットワークされたパーソナルコンピューターを得て、紙の制約を離れた新しい体制作りに挑戦するチャンスを私たちは与えられた。その時、新しい白紙の上にまず書き込むべき登場人物は、著者と読者である。原点は、「書かれたものが読めること」だ。目録も検索もとても大切ではあるが、そもそも基本中の基本を外したのでは話が始まらない。
 通産省のもう一つの試みを含め、文句を付けられずに終わったプロジェクトが、この国にはまだいくつかある。それらに関しては、仏頂面を来月まで持ち越してそこで書く。

「電子図書館の理想」
 先月号では、二つのタイプの電子図書館を紹介した。〈本〉の読めるものと、読めないそれである。

謎のプロジェクトが目指すもの
 通産省の進めている二つのプロジェクトの内、「パイロット電子図書館」には、前号で触れた。全国の図書館がどんな本を持っているか、ネットワークから検索できるようにすることが目標の第一。加えて二つ目の課題として、電子図書館の実証実験が掲げられており、システムをインターネットで体験できる。だが、引き落とせるのはすべて、印刷物をスキャニングしてビットマップ化したものだ。
 図体のでかいイメージを受け取るはめになると、電子本の骨格にはテキストこそを据えるべきだと、あらためて痛感させられる。検索性、音声や点字への変換、電子翻訳への繋がりといったさまざまな可能性を捨てて、何が電子化だろう。古文書や漫画など、一部の領域ではイメージが必要となる場合があるが、そこはあくまで従だ。
 ただし、「次世代電子図書館」と名付けらた通産省のもう一つのプロジェクトと向き合うと、「パイロット」にはまだ救いようがあるように思えてくる。少なくともここでは、何をやろうとしているかが見える。
「次世代」では、21世紀に実現するべき電子図書館システムの「あるべき姿を検討しつつ、その基盤技術の確立を目指していく」という。「目標は当面、決められない。何を作るか考えながら、必要になりそうな技術の開発にとりあえず投資しよう」とはなから居直っている。1996年度から99年度までの4年間で、このプロジェクトには40億円がつぎ込まれるという。予算の配分を受けるのは、大手コンピューターメーカー各社だ。研究開発項目には、ネットワーク上のデータ交換にまつわる、きわめて一般的な言葉がならぶ。

郵政省と文部省系列の電子図書館
 電子図書館を名乗るプロジェクトを進めているのは、通産省だけではない。郵政省の系列にも試みがある。
 広帯域のデジタル通信回線、B-ISDNを、産業と文化の両面でどのように使っていけるか…。関西文化学術研究都市を中心に研究、開発を進めている組織に、BBCC(新世代通信網実験協議会)がある。電子図書館はここで、応用分野の一つの柱として想定されており、京都大学工学部長尾眞教授のグループと富士通が組んで、アリアドネと名付けられたシステムが開発されている。京都大学の蔵書の検索ができるほか、世界の電子図書館にリンクが張ってある。
 アリアドネの売り物として強調されているのは、「図書そのものを参照できる」、つまりネットワーク越しにテキストが読める点だ。利用できる作品をリストアップしたページに入れるので、のぞいてみて欲しい。総数11冊の内、学外者の私には5冊開けた。このプロジェクトは、すでに終了している。つまりこれ以上、ここの図書館の本は増えないということだろう。
 一方文部省の学術情報センターでは、1997年4月から、NACSIS-ELSと名付けた電子図書館サービスを始めている。ネットワーク越しに受け取れるのは、学会誌だ。利用者は、大学や高等専門学校の教職員、大学院生などに限られが、この試みは少なくとも継続的な運用を目指している。
 電子書庫に入っている中味は、1997年11月25日付けのデータで確認してみても、まだまだ少ない。今後の予定も含めて、30学界の55誌を収めるというふれこみだが、実際に数えると、27誌の、それもほんの数巻ずつが収録されているだけだ。もちろん、同センターでは、これを拡充していくだろう。ただし気になるのは、ここでも紙に刷った雑誌をスキャニングし、イメージで保存、提供すると決めている点だ。
 ネットワークを介して、さまざまに活用できる〈生きた本〉を配る仕組みが作りたいのなら、これから作る出版物の基礎をテキストデータに移すと覚悟を決め、過去の出版物を地道にテキスト化する流れを形成することが不可欠だ。
 新しい書籍、雑誌の出力形態の一つとして、紙に刷り出すのは構わない。けれど後世に受け継いで行くべきは本体は、テキストデーターである点を肝に銘じ、その保存と公開の体制整備に、一人一人の本の作り手こそが、最優先で取り組んでいくしかないだろう。適当なマークアップを用いて、電子雑誌としてだすのは、特に少部数のものでは有効だ。ただしそこでも、核となるテキストを保持できないようなフォーマットを用いるのは、愚の骨頂である。
 読む側にも、電子本の受け入れという大きな態度変更が求められる。
 さらに、紙の本に縛り付けられたままの言語による過去の資産を、生きたテキストとして蘇らせようという大河のような意思の形成もまた、不可欠だろう。
 確かに迂遠には見える。
 だが狭き門より入るこの道以外に、理想の文書共有環境に近づく道はない。
〈電子図書館〉の理想を手繰り寄せるという役割は、一人図書館のみが担えるものではない。組織、機構としての既存の図書館を守る立場にある人にとっては、むしろ自己の解体を迫られるような極め付けて困難な作業なのだと思う。
 もしもインターネットの環境がなければ、私は官製電子図書館計画の迷走を嘆き、憤慨するしかない。だが、私たちにはウェッブページを立ち上げて、自ら信じる電子図書館の姿を目指して歩み始めることができる。何の基盤もない私的なプロジェクトには、大した成果は残せないかも知れないが、大枚をつぎ込んで進められる愚行の、根底的な貧しさを写す鏡になるくらいはできるだろう。



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