1998年1月9日

「古典芸能やその速記本をテキスト化する際は、どのような扱いになるのか?」
 みずたまりに書き込まれた、〈ちょも〉さんのこの問いかけにつかまった。
 ちょもさんの頭には、三遊亭圓朝の速記本を電子化できないかというアイデアがあった。

 圓朝と言われてまず浮かんだのは、二葉亭四迷の『余が言文一致の由來』冒頭の一節だ。

「言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――もすさまじいが、つまり、文章が書けないから始まったといふ一伍一什の顛末さ。
 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思ったが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行って、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知ってゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持って行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打って、これでいゝ、その侭でいゝ、生じっか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。」

 要するに、言文一致を目指すにあたって二葉亭が念頭に置いていた雛形は、圓朝の速記本類似の文体だったということになる。
 平凡社の大百科事典で「言文一致」の項を引くと、JIS漢字コードの規格化に際しても大きな仕事をされた林大先生が、圓朝の速記本に言及されている。書き言葉を話し言葉に近づけ、より分かりやすい表現を目指していく中で、速記本の果たした役割はきっと大きかったのだろう。

 もちろん、圓朝の噺そのものを楽しみたいという気持ちもある。
 広島という田舎で育った私は、町の文化である落語に遠い。講談社文庫で出ていた興津要編の『古典落語』シリーズを、二十歳過ぎて読んでイロハをなぞり、後はテープやラジオ、テレビで聞いたのがせいぜいだ。
 演劇と落語という町の芸能に疎い、根っからの田舎者として育っちまったことを知っているから、せめて速記本で圓朝という節目のところをさらいたい思いは強い。

 圓朝の速記本が電子化、公開されれば、教養に飢えたる田舎者にとっては、こりゃあ大した福音だ。

 そこでまず、圓朝の速記本にどんなものがあるのか当たりをつけようと、検索エンジンに聞いてみた。
 すると、「落語に関する1300冊の本」と名付けられたウェッブページが見つかって、ここには速記本だけで、なんと615冊が挙げられている。
 圓朝に関しては、大正の終わりから昭和のはじめにかけて、春陽堂から『三遊亭圓朝全集』が全十三巻で出ており、昭和三十八年には世界文庫でこれが復刻されている。春陽堂版は非売品、世界文庫版にも定価の表示がないので、売り物ではなかったのかも知れない。昭和五十年、五十一年に角川書店から出ている全集は、一冊4800円がついていて、小島政二郎他編になっている。

 では速記本の著作権がらみの扱いは、どうなるか。

 と話を進める前に、表現や芸能の世界には、杓子定規に著作権の概念をあてはめようとすれば、それ自体が痩せ衰えかねない分野があるという点は、一言確認しておきたい。
 落語のような、ネタを語り継ぎながらそこに噺家の個性、味付けが加わって行く世界には、著作権といった概念が輸入されてくる前から、〈話し継ぎ〉の伝統と、おそらくはその仁義のようなものがあったはずだ。誰の作だから、著作者人格権を尊重して一字一句あらためちゃあならない。著作者の死後50年を過ぎないと、無断で話せないとしたのでは、高座自体が沈む。替え歌やパロディー然り。著作権を盾に取れば、〈話し替え〉、〈歌い替え〉、〈作り替え〉を禁じることは出来るだろうが、そうした表現に意味を見いだす側は、法の枠組みをあてはめてゲリラ的な表現を殺そうとする輩の〈野暮〉を嗤い、糾弾する価値観と気骨を養うべきだ。

 ただし今日の所は、野暮を承知で著作権概念の枠組みの中で、ちょもさんのおたずねにそって話を進めたい。

 三遊亭圓朝は、1839(天保10)年に生まれ、1900(明治33)年に没している。
 新作の多かった人と言うから、一番厳しく条件を設定して、彼の創作落語を念頭に置いて話を進めよう。
 現行著作権法の、50年という保護期間は、圓朝の場合はるかに過ぎている。(より厳密には、1899年(明治32)年に成立した旧著作権法では保護期間が死後30年と定められているから、圓朝のそれは1930(昭和5)年ですでに消滅している。)
 残された問題は、速記本に編者もしくは著者が立てられているか否か、もし立てられている場合、その編者、著者の権利をどのように扱うかだろう。(この点は、先日報告した校訂者の権利に関する問題と通じてくる。)
「落語に関する1300冊の本」の記載に寄れば、春陽堂版『三遊亭圓朝全集』の著者欄には「圓朝会」と入れてある。(編なのか著なのかは、実物をあたらないと確認できない)
 旧著作権法の規定では、団体名義の著作物に関しては、発行後30年で著作権が切れるとされている。
 春陽堂版で最後に出ているのは、13巻で1928(昭和3)年1月1日発行。同書に関して圓朝会に著作権、あるいは著作権相当の権利が生じていたとしても、旧法の規定に従って、1958(昭和33)年で切れている。現行著作権法が施行されたのは、1971(昭和46)年1月1日。附則の第二条、第二項で、新法が施行される前に旧法の規定で権利が切れているものは、適用外とされているから、この点でも問題はない。
 つまり、春陽堂版の『三遊亭圓朝全集』は、少なくとも法的には、誰に断る必要もなく底本にできる。

※ここでは、円朝の権利が「1930(昭和5)年」、円朝会の権利が「1958(昭和33)年で切れている」と書いているが、これは誤り。旧著作権法の第九条は、期間の計算について「著作権の期間を計算するには著作者死亡の年又は著作物を発行又は興行したる年の翌年より起算す」と定めている。よって正しくは、それぞれ1931(昭和6)年と1959(昭和34)年。筆者は、『ヴィヨンの妻』著作権侵害未遂事件に繋がる起算時点の誤認を、ここでも犯している。(倫)

 とここまでの話なら、「みずたまり」への書き込みなり、ちょもさんへのメールで済ませてしまってもよさそうな内容だ。
 それをわざわざ、少ししゃっちょこばった「そらもよう」に持ってきたのは、圓朝速記本の電子化という試みが、ひょっとすると青空文庫を脱皮させる一つのきっかけになりはしないかと思いはじめたからだ。

 私たちはほんの数人で、自力を頼んで文庫をスタートさせた。
 すでに公開されているテキストへの道しるべとなると共に、作品のテキスト化をぼちぼち、もっぱら自分たちで進めようと考えていた。
 それゆえ、段取りや手順や予算といったことは、さっぱり詰めないでいた。
 ところがはじめてみると、協力を申し出てくれる人がいる。
 期待もされる。
 文庫の活動を、大きくダイナミックに展開することには、「どこまで踏み込んでいくのだろう」と、正直、私自身には懸念のようなものがつきまとう。
 けれどそのもう一方で、集められるだけの力や資金をしっかり引き寄せ、受けとめて、結果的に共有できる電子テキストを一段も二段も豊かなものに育てられるのなら、やはり大胆に足を踏み出すべきではないかとの思いも、日増しに強まっている。

 そんな中で、ちょもさんが一言漏らしたのが、圓朝の電子化だった。
 もしも圓朝全集が電子化され、青空文庫でも公開できるようになったとしたら、どんなに素晴らしいだろう。
 これだけの分量となると、何人か協力しあったとしてもボランティア・ベースで進められる話ではないだろう。
 とすれば、圓朝電子化プロジェクトのようなものを企画し、スポンサーや支援者を募って作業を進めることを考えた方がいいのかも知れない。
 私たち自身の力だけでは、とても話は進まない。
 圓朝なら圓朝に、強い思い入れを持つプロジェクトの推進役が、是非とも必要になる。
 電子化で実現できることを、それぞれの道の人たちにうまく伝え、彼らにこそ先頭に立ってもらわなければならない。

 今はまだ、ほんの思いつきの段階だが、絞り込んだテーマごとに電子化プロジェクトを組み上げられないか、今後の大切な課題として考えていきたい。(倫)



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