1998年1月1日

 今回の著作権法改正の狙いは、インターネットへの対応だ。
 青空文庫を例に取れば、サーバーに〈本〉を並べておき、訪ねてくれた人の求めに応じてファイルをダウンロードできるようにするといったことの権利関係は、これまでの著作権法でははっきりと規定されていなかった。
 ところがそんな法律の整備状況とは無縁に、インターネットの利用は急速に進んでいく。私たちも、青空文庫をスタートさせた。
 そうした現実に追いつこうと、特許権や著作権に関する国連の専門組織である世界知的所有権機関(WIPO)が、インターネットを頭に置いて、「WIPO著作権条約」と「WIPO実演・レコード条約」という二つの条約を採択した。
 これを受けて、著作権法の一部を改正する法律が、我が国でも昨年の6月に成立し、本日から施行される運びとなった。

 新しい著作権法では、青空文庫のように、利用者の求めに応じてその都度自動的にファイルを転送するといった行為に、「自動公衆送信」という名前が与えられた。
 インターネットの使い方に即して、新しい法律用語が定義されたということはつまり、電子ネットワークの世界にも著作権法の考え方を適用していく姿勢が、はっきりと示されたわけだ。

 では具体的に、何がどう定められたのだろう。

 改正著作権法には、ある作品を自動公衆送信できるようにするか否かを決められるのは、その作品の著作者であるという条項が付け加えられた。(第二十三条 著作者は、その著作物について、公衆送信(自動公衆送信の場合にあっては、送信可能化を含む。)を行う権利を専有する。)
 誰かが勝手に、他人の著作物をサーバーに置くことは許されないと、法律によって示されたのだ。

 この規定が、青空文庫にかかわってくるのは、どんな場合だろう。

 ある書き手が、ある作品に関して出版社と契約を結び、本を出しているとする。
 なにしろ「自動公衆送信」などという言葉が定められたのはつい半年前なのだから、契約書はまず、この権利に触れていないだろう。
 特別の契約を取り交わしていないのなら、上記第二十三条の規定がそのまま適用される。
 つまり、青空文庫のような形でインターネット上にテキストを置くか置かないかは、書き手本人が自由に決められる。たとえ出版権に関する契約を交わしている出版社であっても、著作者が自動公衆送信できるようにしようとする意思を阻むことはできないと言うことだ。

 今後、目先の利いた出版社の中からは、出版契約を取り交わす際、自動公衆送信権をあらかじめ契約の中に含めてしまおうとするところが出てくるだろう。
 商行為を行っている出版社が、インターネットでの公開をあらかじめ自らの権利として囲い込んでおきたいと考えるようになることは、きわめて自然な流れだ。

 一方著者の側からは、どんな動きが出てくるだろう。
 インターネットで作品を届ける権利が認められるのなら、これを使って儲けようとする書き手が出てくるだろう。自分自身で課金制のダウンロードの仕組みを整えてもいいし、どこかの有料電子書店に作品をあずけても良い。
 紙の書籍に関する契約を結ぶ際、出版社側が自動公衆送信権に関しても規定したいと望むなら、その分、割り増しの条件アップを求める人たちもでてくるだろう。
 さらに書き手の中からは、インターネットでは無料で公開し、紙の書籍に関しては出版社と契約して商品として出すという、青空文庫にとっては望ましい道を選んでくれる人も出るかも知れない。

 実は私自身、ある書籍に関して、「インターネットではただ」を実践しようと考え、出版契約を結んでいる出版社と半年近くに渡って交渉を重ねている。
 ネットワーク社会の将来を、おそらく日本ではもっとも遠くまで見通している上に、強力な法務部門を抱えるこの出版社は、実にタフなやり取りの相手である。
 今後、自動公衆送信をめぐって起こりうる事態の予行演習という考えもあって、いささか辟易しながらも進めてきたこの交渉の経過と結末も、いずれこの欄で報告することになるかも知れない。

 こうした新しい動きに対し、出版社があらかじめ先を読んで囲い込みを図ることは、きわめて自然だと思う。
 しかし書き手の側に、インターネットという新しい機会を利用して、新しい試みに踏み込んでみようとする意欲が生まれることもまた、自然の流れである。
 これまでの社会体制に最適化して自らを形成してきた組織が、転機にあって貪欲さに磨きをかけようとするのも当然だろうが、そうした組織と付き合うことに、新しいやり方を見つけようとする書き手が不安と嫌悪を覚えるだろうという点だけは、現時点でも指摘しておきたいと思う。

 新しい可能性への挑戦は、これまでのルールとの闘いをもまた、手繰り寄せずにはおかないだろう。(倫)



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