1998年3月22日

●正しい字とは何か

 字体の話を始めるにあたっては、まず確認しておきたいことが一つあります。
「正しい字」というものは、本当にどこかにあるのだろうか、と言う点です。

 ちゃんとした漢和辞典はどれも、ぴったり同じ字体を掲げているかと言えば、そうではありません。細かな点がいろいろ違っています。厳密に点画の細部にこだわるなら、字典によってばらばらと言ったほうが実態に近いでしょう。
 少し漢字に詳しい人は、それまでの字典を集大成して1716年に編まれた、康煕字典に載っている字こそが、「正字」なのだと主張するかも知れません。
 ただし、康煕字典の文字にも、版によって異なっているものがあります。また、康煕字典にはたくさんの誤りも含まれています。

 手書きという技術的な条件の下で、一つの漢字はさまざまに書かれてきました。さまざまに書かれても、「あの字だ」と分かったからこそ、情報交換の大切な役割を果たすことができました。字典を編む際は、その都度、さまざまな通用する字体のパターンの中から、掲載するべきものが選ばれてきました。
 選択にあたっては、漢字がもともとどんなふうに作られたのかという字源や、すでにある字典がなにを選んできたかが、その都度、参考にされました。
 康煕字典が編まれてからは、これが大切な拠り所とされました。
 しかし最後はやはり、編纂者が他の人の仕事を批判的に継承しながら、自分なりの判断をその都度下していったのです。
 字典に何をどう載せるかには、人の判断がつねに関わります。
 どこかに、確固とした「正しい字」が存在しているというのは、幻想です。

 手書きに加え、活字が用いられるようになったことで、字体の変化にストップがかかったかと言えば、そんなことはありません。
 活字をデザインするのは人間です。デザインには、美意識に基づいた処理が介在します。私たちはある統一的な感覚でデザインされた、複数の書体を使い分けています。明朝体やゴシック、教科書体など並べてみれば、細部は異なった点だらけです。
 例えば日本の活字の基本となってきた明朝体は、何しろ「明朝」というくらいのもので、16世紀から明で用いられていた書体です。これが明治初期に、日本に導入されました。もちろん細かな字の細部を検討して、「正しい」から使い始めたわけではありません。一式を丸ごと持ってきて、ともかく使ってしまったのです。

 人の文字に対する考え方も、字体に変化を迫ります。戦後に定められた当用漢字では、政策的に多くの簡略字体が採用されました。これに先立って、第二次世界大戦中にも、簡略字体化が進められています。
 当用漢字を定めた背景には、「従来使われてきた漢字は、数が多すぎるし、字画も複雑すぎる。教育上、また社会生活上、不便が多かった。そこでこれを制限し、字体もなるべく簡単なものとして、広く誰もが書き言葉を使えるようにしよう」という精神がありました。
 ただし当用漢字に含まれない漢字に関しても、字体簡略化の方針をあてはめていくのか否かという点は、先送りにされました。
 朝日新聞社はこのこの問題に対して自ら方針を定め、1950年代に、当用漢字以外の文字に関しても簡略化を進めました。森鴎外の「鴎」を、「區」へんに「鳥」とする代わり、「区」に「鳥」したものは、この試みから生まれた「朝日文字」の一つです。
 かつての手書きだけの時代においても、活字が使われるようになってからも、字体は常に揺らいできました。今後も、さまざまな文字がデザインされ、新しい価値観に基づいた新しい政策が実行されるなどして、字体は揺らぎ続けるでしょう。
 そこで私たちがなしうることは、どのように字体の問題を扱うのが互いのコミュニケーションにとって便利なのかを考えて、その都度、態度を決めて行くことだと思います。

●JIS漢字コードの字体の〈包摂〉

 文字の細部が多少異なったとしても、私たちは「あの字だ」と共通して理解できます。
 ただし、ある部分の異なりの度合いが大きくなってくると、「本当に一つの字と考えて良いのか。それとも別の字と考えるべきなのか」が不安になってきます。
 森鴎外の「鴎」の字などが、その一例です。「區」と「区」では、かなり違って見えるのは確かです。

 JIS漢字コードは、「この字にはこの番号を振る」と決めていっているわけですから、「この字」と言うのが、いったいどこまでの微妙な差異を含むものか、はっきりさせておいてくれないと困ります。
 ただ、その目安を、収録した漢字すべてに当てはまるように、的確に、しかも簡略に示していくことは、かなり厄介です。JIS漢字コードは、1997年に三度目の改訂が行われましたが、それまでは「どこまでを同じと見るか」という点に関して、はっきり指針が示されていませんでした。
 それが1997年の第四次規格では、明確にされましたから、私も野口さんにはっきりお話しすることができます。

 野口さんが『夫婦善哉』の中から引いた例の内、以下に示す物は「差が小さいから同じである」とされているものです。
「同じと考える差の範囲」を、1997年の規格は「包摂規準」と呼んでいます。
 それぞれの文字の後ろに付けた数字は、包摂規準の番号に対応しています。
 例えば「燗」と言う字は、「門+日」と「門+月」は同じと考えるという包摂規準の152に該当しますから、野口さんが例に示した二つの書き方の、どちらも同じであるとされているわけです。
 どちらも同じ。つまりどちらでも良いわけですからフォントをデザインする際には、「どっちの形を選んでも構いませんよ」というのが、JIS漢字コードの立場です。
 どちらかが正しいと言うことではなくて、どちらもその字であるとされているわけです。

 これも気になる点であるしんにょうに関しては、JIS漢字コードの包摂規準は、128で、一点でも二点でも良い、という方針を示しています。
 第一次規格が定められたときに示されていた字体が、第一水準では一点しんにょう、第二水準では二点しんにょうだったので、ほとんどすべてのフォントはこれに従ってデザインされていると思います。ただし1997年の規格の包摂規準は、第一水準の文字、第二水準の文字に関わらず、しんにょうは一点でデザインしても、二点にしても構わないと方針を明示しました。

 漢字には正しい文字とそうでないものがある。
 正しいことの物差しとして、例えば私は康煕字典を選ぶと言った立場をとるなら、そのような文字の形に幅を持たせる考え方は許せないでしょう。(しかしこうした「揺れを許さない」という立場を厳密に守ろうとすれば、既存のフォントは使えなくなるはずです。康煕字典フォントを用意して、自分はもちろん、人にも使うことを強制するしかないでしょう)
 それに対してJIS漢字コードは、漢字の字体をある範囲の揺れを伴うものとしてとらえています。

 以下に、野口さんが例示したもののうち、JIS漢字コードが示している揺れの範囲に収まるものものを列挙します。

襖は、MS明朝、Osakaのグループと、秀英太明朝体で字体に差があるけれど、包摂規準の135によって、同じ字と見なされる。(以下同様に)
噌は、101
儲は、125
燗は、152
嘲は、36
嘘は、166
餅は、155
堵は、125
噂は、11
樽は、11
晦は、98の包摂規準によって、同じ字と見なされる。

 ただし野口さんが示された例のうち、以下の四つはすっきりとは片づきません。
醤の上が「将」か「將」か
掴むの作りが「国」か「國」か
掻くの作りの上が「又」か「叉」か
蝋の作りが「猟-けもの偏」か「獵-けもの偏」か
の差は、本来はJIS漢字コードの包摂規準の範囲におさまらないのです。

「包摂規準の範囲におさまらない」という意味は、「該当の部分がかなり違っているから、別の字と見なそう」と言うことです。
 問題となる部分を持つ別の字では、JIS漢字コードは両者を、異なった字として区別しているのです。
 例えば「国」と「國」という字は、別のコード番号を割り振って、異なった字として登録されていますね。

 ところが、本来は一緒にするべきではなかったはずの何文字かが、過去の改訂作業において、〈不注意に〉ごっちゃにされました。
 もともとは複雑な字画で登録されていた字体が、1983年の改正で、簡略なものに変更されてしまったのです。
 本来は一緒にするべきではないのだから、簡略なものを加えるのだとすると、元のものとは別のコード番号を振って、追加するしか方法はなかったはずです。
 ところが83年の変更では、字画が複雑だった従来の字体が、抹消されてしまいました。
 そこで97年の改訂は、この誤りに補いを付けるための措置を盛り込みました。
 本来は分けるべきなのだけれど、過去の誤りの経緯があるので、特別にこれらに関しては包摂する(どちらの書き方でも良いとする)ことに決めたのです。

 そう聞くと、かつて消された物を復活させて、別のコード番号を与えて組み込んでやれば良かったのではないかと思われるかも知れません。
 けれど97年の改訂作業は、まず「文字の追加・削除・入替えなどの文字集合に対する変更は一切行わ」ないことを大前提として進められました。
 厳密に解釈すれば、一字でも追加したり削除したり、変更したりすれば別の文字集合と考えるべきであること。加えて、またここで追加の措置をとれば、過去の字体・字形の変更によって生じた混乱を繰り返しかねないと言うのがその理由です。

 現在、第三水準、第四水準を新たに加えた、新JIS漢字コードの準備作業が進められています。
 ここで、本来別物として登録するべき字体の復活といった措置も、一挙に行ってしまおうという狙いなのでしょう。

 なお、懸案の「鴎」の「區」と「区」の差も、JIS漢字コードの包摂規準に照らせば、同じ字とみなしてはならない類のものにあたります。
 例えば、「欧」と「歐」は、別の字として別のコード番号を与えられていますね。
 ところが「鴎」に関しても、83年の改訂で字体が入れ替えられてしまったために、97年の改訂で特別に二つの書き方を包摂すると宣言されました。
 つまり、「鴎」に関しては、「區」と書いても、「区」と書いても、どちらでもよろしいとされたわけです。
 フォントによって、あっちが出たりこっちが出たりするのはそのためです。

「どっちでもよい」と言われたとき、秀英明朝はちょっとこだわって、康煕字典よりの選択を行っています。〈正字意識〉を持った人たちはきっと、このフォントを好ましく思うでしょう。

●再び結論

 文字コードが〈包摂〉という要素を抱え込む限り、入力時に自分が見た文字と、受け取った側が見る文字が微妙に異なる事態は、避けられません。
 けれどこのことは、漢字というものがこれまで〈ある字体の揺れ〉を許容しながら使われてきた経緯に矛盾していないように思います。

 例えばJIS漢字コードの包摂規準に対して、「緩すぎる。もっと厳密に分けるべきだ」とか「厳しすぎる。もっとまとめてしまうべきだ」といった批判は、成り立ち得ます。
 ただ私自身は、これまでJIS漢字コードにお世話になってきて、これは不便だなと思ったことはほとんどありません。
 唯一感じるのは、重ね打ち幻想が生み出した、丸付き数字とアクセント付きラテン文字の問題くらいです。
 ですから私自身は無意識に、JIS漢字コードの包摂規準を受け入れてきたのだと思います。

 そんな私ですから、青空文庫の活動は、JIS漢字コードの枠組みに基づいて進めていって良いのではないかと考えています。
 それゆえ、JIS漢字コードの包摂規準が「同じと見て良い」とする点画の相違に関しては、「気にするのはよしましょう」と提案したいとのです。

 点画の微妙な差異を厳密にコントロールしたい場合は、文字コードを使ってのやり取りは不適当だと思います。
 コンピューターで扱う場合は、ビットマップで処理するしかないでしょう。(すべての漢字のすべての字体にコードを振るといった主張があることは知っていますが、私から見れば、現実味を帯びた提起とは思えません。過去に現れたすべての字体パターンを網羅するといったことが、本当に可能だというのでしょうか? そもそも、どこを文字の成立時点として認識するのかも、私には見当がつきません)

 青空文庫の入力や校正に際して、「この字はこれで入れていいのかな?」と迷ったら、『JIS漢字字典』を引きましょう。
 包摂の範囲にあるものか、そうでないものかが一目で分かります。
 JIS漢字コードの約束では、違う字として扱おうと決めている字も「参照」として示してありますから、この点も便利です。

 日本規格協会から出ている『JIS漢字辞典』には、JIS漢字コードの規格表の大事なところも収められていて、この点でも大変勉強になります。
 ただし4800円とかなり高いので、作業にあたっている方が迷ったら、その箇所にひとまず注を入れておいて、誰か『JIS漢字辞典』を持っている人の所で集中して処理するようにしませんか?

 少し長くなりましたが、野口さんの書き込みを読んで、ここまではすぐに言っておきたくなった次第です。

 漢字コードの諸問題に関しては、以下の文章が参考になるかと思います。
・97年の改訂作業を中心になって担われた、芝野耕司先生による、JIS漢字コードの概説
新JIS漢字コード策定の進捗状況
 これはあまり参考にはならないかも知れませんが、私自身の漢字コードに関する基本的な考え方は、「ニューポン!Vol.4」に掲載していただいた「物言うバカ」という原稿で読んでいただけます。

 長々とおつき合いいただいて、どうもありがとう。(倫)



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