1998年5月9日
 青空文庫には、著作権切れの作品に加えて、著作権の所有者が公開に同意したものもおさめている。
 著作権切れの古い作品に関しては、登録時にまず迷わない。少なくともこれまでは、過去にいったん刊行され、長い時間に〈試された〉作品ばかりが候補にあがってきた。
 一方の新しい作品は、時間に試されていない。いろいろなレベルのものが、私たちの前に示されうる。

 新しい作品を掲載する際の〈敷居〉を、私自身は高くしたくないと考えていた。評価は、文庫を覗いてくれる人全員が、時間をかけて形成すればよい。読まれるものは読まれ、読まれないものは読まれない。それでいいと思っていた。
 けれど今年に入ってからいくつかの出来事が重なって、自分の考え方を、もう少し細かく確かめる必要に迫られた。
 一つは、ワープロ原稿による掲載の申し入れである。「登録して欲しい」と、プリントアウトを送っていただいた。図版類のたくさん入った大部の原稿で、テキストはもらえるとのことだったが、ファイルを整えるのには明らかに大変な手間がかかる。
 自分の時間を使って作業するエネルギーを、私たちは「みんなに読んで欲しい」という気持ち以外に求めることができない。残念ながら、申し入れていただいた作品に、私はそこまでの思い入れを持てなかった。踏み込んで書けば、読んでも中味がよく分からなかった。他の呼びかけ人にも見てもらったが、「自分が手間をかけても載せよう」という人はいなかった。

 この経験を踏まえて、作者本人からの登録申し入れへの対応を話し合って、原則を決めた。
1 ファイルと置き場所は、本人に用意してもらう。
2 本人がどうしても用意できない場合も、原稿を読んだ呼びかけ人が「載せたい」と思えば、その人が中心になって掲載の準備を進める。その際は、文庫自体のディスクスペースにファイルを置いて構わない。ただし、呼びかけ人の中から一人も「載せたい」と思う人が現れなければ、登録要請には応じられない。

 こう決める過程でも、私自身は「選別の敷居は高くしたくない」という点を繰り返し念押しし続けた。取り決めを、敷居のレベルの全体的な引き上げにつなげたくない気持ちがあった。
 だが先日、私はその姿勢にもさらに、修正をかけざるをえなくなった。
 パソコン通信のサロンへのちょっとした書き込み程度のものを、一つ一つ独立した「評論」として扱っている流儀に触れた。それはそれで良い。一つの局面では、果たす役割もあると思う。けれど青空文庫をはじめる際に呼びかけ人たちが共通して抱き、その後加わった呼びかけ人も念頭に置いていたはずの「作品」に対する想定とは、力の注ぎっぷり、練り上げの度合い、まとまりとしての必然性においてやはり、大きな差があると感じた。
 こうしたものに関しては、たとえファイルと置き場所は本人が用意してくれたとしても、一個の独立した作品としては、載せるべきではないだろうと思わざるを得なかった。
「載せたくない作品はあり得る。それを受け入れないのは、当然じゃないか」とかねてから主張してきた複数の呼びかけ人に対し、私は「選別の敷居を高くしたくない」と言い張って、〈対抗〉してきた。
 だが「敷居は低く」という、自分のかねてからの主張をとことんまで突き詰めた実践に触れて、これが自分のやりたいことだろうかと考え込んだ。
 上記の原則1に対して、「我々の誰一人として積極的に載せたいと思えないものは、載せない方がいい」と、呼びかけ人の多くはあらかじめ留保をつけていたのだと思う。
 そこを私一人があえて、口にしなかった。
 本当にしつこいのだが、「敷居は低く」という思いは変わらない。だが今は私も、「載せたくないものはあり得る」とそこに書き添えたいと思う。

 植松さんからの登録申し入れは、こうした論議を呼びかけ人の中でかなり激しく交わしている最中に、いただいた。
 議論を経て、呼びかけ人の一人である浜野智さんが、申し入れへの最初の対応に当たってくれることになった。
 だが、植松さんとのやりとりはすでに私がはじめていたので、浜野さんには引き継がず、そのまま進めた。
 植松さんから送っていただいた二つの作品を読んで、私は片方を〈巧い〉と思い、もう片方を〈面白い〉と思った。
 だから、植松さんの手許では作れないというエキスパンドブック版は、私が用意することにした。作っておきたいと思った。
 その上で、いろいろと細かな注文を差し上げながら、植松さんご自身にファイルの置き場を準備していただいた。

 最後に、作品を読ませていただいた際、植松さんに差し上げた感想を貼り付けておく。

「植松さん

 昨日、帰宅してからオンスクリーンで、先ず、『コーヒーメーカー』を、続いて『新世界交響曲』を読みました。

『コーヒーメーカー』は、とても完成度の高い作品のように思いました。
「できあがっている」という印象です。
 魅力的で少しくたびれていて、哀しい女の子の像が、鮮やかに浮かびます。情景がはっきりと見えました。
 使い込んだコーヒーメーカーと2年前の写真を見つけるところで、胸を締め付けておいて、〈さげ〉がさりげなくすっきりしていて、「達者だな」と感じました。

『新世界交響曲』は、読んでいる途中で、どこまでが〈夢〉や〈幻想〉で、どこからが現実という仕立てにするのか、作者の仕切りが見えなくなって不安が募りました。
 最後まで行っても、作者はきちんと答えを見せてくれません。
 その宙ぶらりんの感覚が、心地よいのか不安なのか見極めが付かなくて、きょとんとしてしまいました。

 昨日、出先で風邪をもらってきたらしく、今日は一日ぐったりしていました。
 紙に打ち出して、二つの作品をもう一度読み直そうと思いました。

 幻想が何重にも入れ子構造になった『新世界交響曲』の不安定に、紙の上では惹き付けられました。
「事に仕える」旅にもう一度出ようとする意思だけが、すべてが奇妙に歪曲した世界の背後に、鉄骨の支柱のように透けて見えました」

 この気持ちと、上記の方針とをバランスさせた結果が、しつこい注文になりました。植松さん、どうぞご理解下さい。(倫)



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