東旭川村にて

島木健作




 私は旭川あさひがはへ來て友人のMに逢ひ、彼の案内で東旭川ひがしあさひがは村を訪ねた。九月も十日すぎのある日だつた。
 Mはほとんど十五年來の友人である。彼とは今度は三年ぶりで逢つた。何年に一度か、どつちかが思ひがけない、といふ逢ひ方で逢ふ。しかし話し出すと昨日まで毎日顏を合してゐたとでもいふ風で、水のやうな淡さである。それだけ深く心に通じてゐるものがあり、愛情も泌みるおもひだ。旅の行く先々にこのやうな友人を今も持つてゐる私は倖せである。私が別に云ひ出さぬうちに、彼は、「村へ行つて見ようか」と立ち上り、「降らねばいいが」と云つて窓から空を仰いだ。
 村行きの電車内に私と向ひ合つて坐つたMを見て、東大出の法學士だなどと思ふものは恐らく一人だつてないだらう。以前から生れながらの百姓の友のやうな男だつたが、今度逢つて見ると愈々さうなつてゐる。
 ゴルフパンツをはいた紳士、村の商人らしい男、百姓などが彼に挨拶する。彼等と言葉を交してゐるMは私などを惚れ惚れさせる。Mがこの地方に住みついてからもう十三年になる。大學を出たその年からだ。此頃は市内に住んでゐるが、長く村に住み慣れてゐた。その後暑さ寒さの何年かを冬は流氷の流れ寄る網走あばしりに送つた。再び上川かみかはに歸つて來てからは、劍淵けんぶち村の市街地に住んで自分で鍬を取り、冷害による凶作の慘をつぶさになめもした。彼とこの平野の人々との間のつながりはさうして深く緊密なものになつて行つた。彼は自分につぐなはねばならぬものがあるとすれば、それは口舌にはよらず行動によつてでなければならぬことをひしとばかり感じたのであつたらう。國と人民とを愛する心がどんなにか深くなければ彼の今日のやうな貧窮に人は長く堪へて行くことは出來ぬ。よし堪へ得てもそのただ中にゐて、信ずる所あるものの莞爾たる笑ひを彼のやうには笑ふことは出來ぬ。
 農民運動やそれに從つてゐる人々の姿をジヤーナルを通してなど知らうとしても一向に知り得なくなつてからもうよほどになる。一般世人はそんなものはもう影を消したのだと思つてゐる。
 さう思はれてゐる時に、事實は、ほんたうに地についた人々の姿がぽつぽつ現れはじめてゐるのである。私は今度の短い旅行の間にも、さういふ人々の姿をもう何人か見て來た。彼等は大抵一つ所に十年以上住みついてゐる。彼等はもはや昔のいはゆる鬪士ではない。妻子を抱へた村民であり町民であつて、何よりも先づ人々と共に泣きもし笑ひもする人だ。
 Mのことではないが、彼等のあるものにはよかれ惡かれ次のことも目立つと思つた。何かの組織の一員になつてゐるが、どうもその組織に自身餘り打ち込んでゐるとは見えない。色々世話役的活動をしてゐるがその組織の人としての活動とも云へぬ。組織の中央機關の動きなどに對しても冷淡のやうだ。一方、少くとも表面は昔の人のやうに思想的に潔癖ではない。それから原則的な問題についてのはつきりした答へは多く聞くことが出來ない。しかし現象追隨主義などといふ言葉が空しくはね返るほどのものは底に持つてゐることが感じられる。
 電車を下りるともうそこは東旭川村だが、歩いて行く道の兩側に廣がつてゐる田の稻は程よく色づき穗は重く垂れて、素人眼にも今年の作は豐穰であると思へた。私はこつちヘ來る前に北海道の稻作は今年は旱魃の爲に惡いだらうといふある東京新聞の記事を讀んでゐた。それは殆ど確定的なやうな筆つきであつたが、私はすぐには信じなかつた。今年の東北北海道は五十日近い日でり續きではあつたが、青森秋田などの地方が、「旱魃にケカツなし」の言葉通り、順調に行つてゐるのを私は毎日見歩いてゐたからだ。現に私が話を聞いた青森縣東津輕郡の郡農會の技手は、自慢の長髯をしごきつつ、喜色滿面に溢れて、平年作の二割増收の豫想を壇上から繰返してゐた。
 寒い地方が恐れねばならぬのは冷害であつて、照り過ぎぐらゐが却つていいのだと聞いてゐる。北海道も同じことで、困つてゐるのは畑作で田は灌漑のわるい一部のみであらうと想像して來たのだ。
 最初に訪ねて行つた家で逢ふことの出來た青年のSは、この夏父に死別して一家を双肩にになふことになつたばかりの人だ。私は挨拶がすむとすぐに今年の作柄について聞く。百姓との話の最初に作柄を聞くのは禮儀のやうなものであらう。若ものは今年は先づ先づいいと答へ、自家の前の一段歩ほどの田を指して、ここは青年團の多收穫のための試驗田であると云つた。堆肥四百貫、その他の肥料三十貫が入つてゐるが、自分の見るところでは六石は大丈夫であらうと思ふ、二三日中に坪刈りをして見るのだと云つた。
 あたたかな地方では多收穫栽培法に於て七石八石といふのは今日ではもう珍らしくはないのだらうが、北海道でこれを聞くのは力強いことである。
 稻の背は低く、莖も細く本州のそれを見慣れて來た眼には貧弱である。だから稈は藁細工品としては使ひものにならぬといふことだ。私は青森縣の西海岸を歩いた時のことを思ひ出し、そこで見た稻のすがたと一つであると思つた。あの地方は有名な津輕の凶作地帶ゆゑ、冷害に堪へる品種が行はれてゐるに違ひなく、小さく細いのは發育不良のためではなく、そこでも今年の作はいいとの喜びの聲を私は聞いて來た。私は青年に訊いて今見てゐる稻の品種が富國だといふことを知つた。
 この村では全耕作反別の八割がこの品種で、去年の成績によつて、今年から急にふえたのだといふ。收穫量も多いし、強健でもある。
「ごらんなさい、ああいふ風になるのがあるんです。」指さす方を見ると、一枚の田全部の稻が横倒しに倒れてゐる。富國種にくらべるとずつと莖が長い。「ああなつてゐる上に、あつたかい雨でも降ると、芽が出るんですよ。富國にはそれがないんです。」
「富國といふのはかういふんです、見たところもちよつと變つてゐるでせう。」青年はさういつて、穗からちぎつて、米粒を出して、私の手のひらにのせてくれた。見るとなるほど、肥つたまるい形でよほど變つてゐる。私は生米を口に入れて噛んだ。
 私達が豐穰を喜んでしきりに云ふと、青年は却つて頭を横にふつて、いやいやこれで案外にしいなもまじつてゐるらしいから全體としてはまだ何ともいへぬといつて、大したことはあるまいといふことを強調しさきの自分の言葉を打ち消すかのやうであつた。一體に百姓はいいといふことは云はぬものなのだ。百姓のずるさに見えることもあるが、そればかりではなくて、それだけ百姓はいざといふ土壇場に於てはぐらかされ續けて來てゐるのである。
 樂しい夢想をし續けたあとからすぐにも自分のその考が空恐ろしくもなるものらしい。つねに最惡の場合を考へて生きてゐる。
 馬屋を見たり、納屋へ入つて農具の説明を聞いたりしてから、また馬屋へ來て、此頃徴發に行つたが大き過ぎて戻されたといふ馬の鼻面をなでながら、私は一時間ほどもその青年と四方山の話をした。確に北海道の農村青年の獨自な氣風といふものは感じられる。北海道の農村の新しさが生んだもので、その氣魄も、その考も溌剌としてゐて自由であつた。
 どこへ行つても最大の關心をもつて語られるのは馬のことであつたが、ここでも先づ馬の話から聞かされた。私はつい先達青森縣木造きづくりの有名な馬の糶市せりいちを見て、その盛んな景況に驚き、馬市の立つ期間のお祭騷ぎのやうな町の賑はひを物珍しく感じて來たものだが、この糶市では二歳駒が四百圓ぐらゐで賣買されることが珍しくなかつた。Sはこつちで四百圓などといふ馬は、足をつかんで、かう肩にのつけて行けるやうな馬だと云つて、以前から見れば馬の値は三倍から四倍だらうと語つた。北海道で馬を持たぬ百姓などといふものはルンペンのやうなものだから、この問題は深刻である。
 馬は博勞を通して買ふ。博勞は馬一頭につき百圓ぐらゐの利を見てゐて、腕のある博勞といふのは年に二十頭ぐらゐの馬を扱ふのだといふ。
 儲け過ぎる感じを與へるが、しかし考へて見れば博勞はそのために旅もするのだし、行く先々での滯在の費用なども見ねばならぬのだし、彼等としてみれば無理もないことだ。どんな商賣にだつて仲介商人はあるのだし、昔からちやんと認められてゐる博勞を、此頃馬の値が急に騰つたからといつてそれがことごとく彼等のせゐででもあるやうに惡ブローカー呼ばはりをするのは當らぬ、とSはいふのだ。少しでも安い馬を買ひたいと、自分から馬産地の十勝とかち方面などに出向いたものもあるさうだが、却つて高くついて了つたといふ。願はしいのはお上が何等かの方策を樹ててくれることだ。しかしお上はどんなことをしてくれてゐるか?
 牝馬を飼つて仔を生ませろ、といふことを此頃はしきりに云はれてゐますけれど、とSは云つて笑つた。仔は生れたにしてもただでは育たぬ。生れた仔をちやんとした二歳駒にするためにはそれ相應の飼養上の設備がいることである。しかしこのあたりには放牧のための野原一つないのだ。牧草の採取すらも自由に任せぬ。春の農耕時、一ヶ月間の馬の飼料代として五十圓も支出しなければならぬほどである。放牧場もないやうなことでは立派な農耕馬の條件にかなふ骨骼をそなへさせることは困難である。さらに困ることは仔を生んだ親馬が眼に見えて弱つて行くことだ。ナイラや骨軟病や骨膜炎、齒根膜を冒される病氣など、一體に非常に病氣にかかり易くなる。充分な考へなしにうかうかと仔など生ませては却つて虻蜂とらずに終つてしまふ。
 この家の馬小屋の立派なのには私は感心した。東北地方に於て見るやうに農家と一つではなくて獨立した建物である。ひろびろとしてゐて、敷藁も厚く、清潔である。
 なかをのぞいて見ただけで飼主の愛情とよく行き屆いた神經が感じられる。私が感じたままをいふと、S君は率直にその言葉を受けて喜ぶのだつた。
 馬小屋の傍には堆肥場がある。粘土に石灰をまぜたもので築いてある。これの方がコンクリートよりはずつと水を吸はぬのださうだ。役場では一戸當り、年に二萬貫の堆肥を目安に奬勵してゐますが、私のところでは七千貫から八千貫の間ですとS君は語つた。
 立派なのはひとり馬小屋ばかりではない。納屋、農具置場、燃料貯藏場などを見て行くと流石に上川平野の百姓であることを思はせる。納屋は五十坪ほどもあつて、板敷で、仕事場になつてゐる。東北地方の農家の「いなべ」が獨立した家屋になつたやうなものである。ここには動力線が引かれて、日立の一馬力のモーターが※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉する。農業用機械には内地には見られぬものが多い。このあたりの農家は普通一戸分を三町五反歩とするが、農具に固定してゐる金は平均二千圓ぐらゐであらうといふ。S君の家では六町餘から作つてゐるから三千圓を越すといふ。六町餘の田を作る働き手はわづか四人で、しかも三人は女手なのだからさまざまに工夫された農具の助けを借りなくては間に合はぬ。
 しかも氣候の影響ですべての作業の期間は非常に短縮されてゐるのだ。農具のことになるとS君は不平の面持で訴へはじめた。
 試驗場やその他の役人達は此頃しきりに我々が機械を買ひすぎるといふ。北海道の百姓が貧乏するのは一つにはそれが原因だといふ。それはさうかも知れないが我々だつて何も道樂に機械を買ふのではないのだ。いかにも農具の中には一年に一週間か十日しか使はぬものだつてあるが、それだつてみなそれぞれに無くては適はぬものである。次々に新しく農具が改良され、誰もそれを買はぬのならいいが、幾人かでも買つて使ふものがあるとすれば他のものも皆仕事に負けまいとして無理をしてでも買ふやうになるのは當り前のことだ。又ある機械などは共同で買つて共同作業するやうにせよともいはれるが、田圃での共同作業といふものはさうわきから考へるやうにすらすらとやれるものではない。生産の行程の一切が共同ならともかく、ある一部だけさうしろといつても無理なことが多い。それにさうかと思ふと又一方には、我々が何に限らず集つて一緒に仕事をするといふことを心の底では喜ばぬげな役人もゐる。共同作業の習慣をつけると社會主義になるのださうだ。改良された農具や機械が澤山使はれるのは農業の進歩だと思つてやつて來たが、近頃ではそれをも餘り喜ばぬ人があるやうだ。
 私は默つて聞いてゐるだけであつたが、どこへ行つても役人はなぜかう人氣が無いのかと驚くのだ。私は何も組合運動者などにばかり逢つて聞いてゐるのではないのだが。爲政者の精神と政策とが、篤實な農村青年の心を一向にとらへてゐさうにもないのは遺憾である。
 私達は間もなくその家に入つて御馳走になつた。S君は畑から唐黍をもいで來てくれた。もうすつかり固くなつてゐるが、取り立てだから燒いたのをよく噛みしめてゐると美味しい。私などが子供の時に知つてゐた大きな圍爐裏がもうなくなつてゐる。そこにはストーブがあつて年中焚かれてゐる。煮炊き一切はこれでするのだ。燃料の主なものはおが屑である。一尺四方に押し固めたものが三錢五厘で、これの一年の費用がおよそ三十圓であるといふ。晝飯のおかずは茄子の煮つけ一皿だ。事變以後の一汁一菜の聲などと何の關りもない一皿であることは云ふまでもないだらう。
 私達はそれからS君に別れて、ある出征兵士の家を見舞つた。そこでは青年達が集つて勞力奉仕の作業につとめてゐた。彼等の手で稻架木はさぎが立てられてゐる。稻はもう四五日のうちに刈られ始めるのだ。
 凉しい風が吹いて來て、大雪山だいせつざんと十勝嶽と兩方の山頂がいつか雲にかくれてゐた。





底本:「現代日本紀行文学全集 北日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年8月20日作成
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