一過程

島木健作




 夕やけが丘の上の空を彩りはじめた。暮れるにはまだ少し間のある時刻である。部屋のなかはだがもううす暗く深い靜けさにひそまりかへつてゐる。十人にちかい男たちがこの二階にありとは思へぬ靜けさである。風が出て來たらしい。寢靜まつた夜などはその遠吠えの音がきこえもする海の上を渡り、さへぎるもののない平地を走つてこの高臺の一軒屋にぢかに吹きつける二月の寒風である。はげしく吹きつけ、細目にあけた窓の隙間からはいる餘勢に壁に下げた何枚かのポスターがかさかさと鳴つた。人々は寒さにふるへ、しかしなにか縹渺としたおもひを誘はれながら、屋鳴りをさせて遠く吹き拔ける風の行方にぢつと耳を傾ける。――
 誰も立上つて灯りをつけようとするものもない。壁によりかかり、言ひ合したやうに膝を立ててその上にうつぶしてゐるもの。長々と横たはり仰向けになつて眼を閉ぢてゐるもの。どれもこれもぢつと動かずにゐる彫像のやうな彼らの姿態は、そのまま過去一ヶ月の餘にわたる精根を傾けつくしてのはげしい生活を物語り顏である。口を開くもものういほどに疲れ切つてゐるのであらう、だがそれにもかゝはらずこの部屋の隅々にまでも行きわたつてゐる何か張り切つたこのけはひはどうだ。事實、ものいはぬ彼らの胸はたつた一つの共通の期待に、――のるかそるか當面のすべてをそれにかけて悔いなかつたその期待にいまふくれ上り、はち切れんばかりになつてゐるのだつた。何か言ひ出してみることはこの際妙に控へられる氣持だつた。かうしてゐるあひだにも時はしだいに迫りつゝある。その最後の時のために、逸り猛つてくるものをぢつと引き締め、溢れ來る感情をひた押しに押さへてただもだしてゐるのである。はじめからあてには出來ぬ期待なら、氣も樂であり、問題はなかつた。事實最初は力の限りたたかつて見ること自體に意義をおき、必ずしもそれの勝敗に執着はなかつたのである。だが中頃状勢は思ひもかけぬ好轉を見せ、時が迫つて來るにつれて阻むものなき一つのいきほひをさへ示したのであつた。それは上げ潮のひた押しに押して來る姿に似てゐた。はじめは誰でもが捨てて顧みなかつたものだけに、今にはかに現實にそれがつかめる見込みがついたとなるとそれだけ逃してはならぬそれへの執着は強く大きかつた。ただそのいきほひで最後の瞬間まで押し切り得るかどうかが疑問だつた。その疑問がいま明らかにされようとする直前の、この息づまるやうにいらだたしい切迫した感じである。
「ちえつ、遲いなあ、一體どうしたつていふんだ。」
 うつぶしてゐた一人がふいに顏をあげると、つひに堪へかねたらしい聲を太い溜息とともにあげた。同時に部屋のなかがにはかにざわめきだした。緊張が破れ、ほつとした氣持に息づき、すると急に活々とした多辯が人々をとらへはじめるのであつた。
「もうわかつた頃だと思ふんだがな。」と一人が腕をあげて時計を見ながらいつた。「開票のすつかり終るのは何時の豫定なんだ。」
「四時頃の筈だが――しかし少しはおくれるだらう。」
「今頃は傳令の奴、いいニユースを持つてやきもきしながら自轉車を走らせてゐるよ。」と一人が笑ひながらいつた。
「おい、みんな行かう。」とふいに大きな聲でいつて荒々しく音を立てて立上つた男がある。それまで部屋のまん中に長々と寢そべつてゐた一人である。立上ると彼はやにはに腕をふりはじめた。
「ぢつとこんなにして、馬鹿みたいにつらをつき合していつまでも居れるもんか。みんな行かうぜ。開票最後の素晴らしい場面が見られないのは癪ぢやないか。」
「行かうか。」と二三人實乘つて來た。
「そりやだめだ。」と若いしかし落着いた聲がおさへるやうにいつた。鼠色のジヤケツの男である。
「なぜだ。」
「なぜつて、事務所をガラ空きにするわけにやいきやしない。」
「だからよ、一人留守番をおいて行きやいいぢやないか。」
「子供みたいなことをいふなよ。俺たちが今ここに待機の姿勢でゐるのはなんの爲だ。おそかれ早かれ結果がわかるんだ。その結果にもとづいて方針を立てて一刻も早くそれぞれの責任地區に向つてふつ飛ぶやうにするためぢやないか。」
「ふん、もつともなことをいひやがる。」と彼はまたそこにごろりと横になつた。「まるで御馳走を前にしてお預けの形だな。」
 人々はみんな聲をあげて笑ひ、同時に彼の最後の言葉に思ひ出したやうに壁の一方を見やるのであつた。四里はなれた市の公會堂をそれにあててゐる開票場から、二時間前に彼らの傳令が持ち歸つた結果が表になつてそこに貼られてゐる。島田信介四千六百八十五票! 彼は次點者である。當選圏内の最下位者政友會の中川誠也とのひらきは三百票にすぎない。そのときから二時間後の今までの間にそのひらきにどんな變化が生じてゐるかが問題なのだ。そのひらきが埋められ、さらにその上に飛び拔けうる見込みでもあるといふのか? それがあるのだ。願望が描き出すあさはかな幻影ではなくて、現實にそれが滿さるべき充分な根據があればこそ、彼らのおもひはいよいよ一つの方向に驅り立てられずにはゐないのである。報告のもたらされた時の開票にはまだ數ヶ村が殘されてゐた。前田郡の小島、添山、前川の三ヶ村がそのなかにはいつてゐる。その三ヶ村は島田がその代表として選出された無産者黨の母體をなす、事實においては一身同體といつていい貧農組合の壓倒的な地盤なのだ。小島の、添山の、前川の、有權者數合せて××人。そのうち組合員××人はたしかだから……。横になつてゐた一人が急に起上つた。かくしをさぐり、鉛筆と手帳をとり出した。さつきから何囘目かの、豫想を文字にして紙の上にならべるたのしみにまたふけらうといふのである。
 屋上をわたる風が遠くへ落ちて行く。又それが來るまでにはちよつとの間のとだえがある。そのとき家の前の道路の上にずずずーつといふもののすれ動く音がきこえた。かたんといふ何かの音とそれにつづいて人の足音がする。自轉車だな、と聞耳をたてたとたんにもう滑りのいい表戸が開いた。
 喊聲をあげて四五人が、一つの塊になつて狹い階段をかけ下りた。――
 口々に何ごとかをいひながら肩にかけんばかりにするその手をはらひのけるやうにして、賀川服の若ものが先頭になつて階段をあがつて來た。どうだつた、結果は? とすぐうしろにつづく男がいつてゐる。ちえつ、勿體ぶりやがつて、と最後に階段を上つた一人が低くつぶやいた。
「杉村?」
 若ものは眼で探した。鼠いろのヂヤケツの青年がすぐその前に顏を出した。内かくしから出した紙きれを彼の手に渡しながら、
「敗けた、」
 と低く一言だけいつた。
 多分に危惧を孕む事柄の成つた大きな喜びの前には往々何らかの技巧が行はれがちである。事實をまつすぐにそのまま投げ出さず、一時は反對のものに見せかけてそれのもたらす喜びを益々大きなものにしようとする、さういふ場合が多いが、ましていま報告を持つて來たのは二十まへの若ものでふだんからいたづらいたづらした眼がよく動くのであつた。人々はさういふ彼に期待し、彼のいつた一言とはまるで反對のものを讀みとらうと、その目もと口もとに見入るのであつた。すぐにもそれがほころびはじめるであらう……だが若ものの表情はいつまで經つても硬いのである。
「ふうん……さうか。」と杉村は手にした紙きれを見ながらいつた。みんなどつと彼によりそつて來、肩と肩とをすり合すほどにして彼の手許に見入つた。とふいに杉村はある種の感動のこもつた叫びごゑをあげた。「どうしたんだ、こりや、……敗けたのは仕方がないとして島田は次點でもないぜ、島田は山内に敗けてるんだ。山内の奴、どうしてこんなにのしたもんだらう。」それから、讀むぞ、といつて彼は讀みはじめた。――
 聞き終つて彼等は聲をのんだ。豫想とはあまりにみじめな相違だつた。最後にものをいふ筈であつた、かの三ヶ村の票數はどこへ行つたか、農民派と稱して二大政黨とは中立で立つた山内が最初微弱な勢力でありながら、なぜに最後に近づくに從つて次第にピツチを上げて來、つひには島田を凌ぐにいたつたか、彼らはそれらについて今はもう何を考へて見ようともしなかつた。急に忘れてゐた疲れが以前に倍したいきほひで襲ひかかつて來た。考へ、動く、あらゆるはたらきをやめてこのままずるずると泥沼のやうな眠りのなかに身を落してしまひたかつた。その場所をもとめるかのやうに彼らはあらためて部屋のなかを見まはした。日がおちると闇の這ひよる足は早かつた。暗くなつた部屋のなかは今朝ものを片づけ、掃除をしたままの姿である。筆や墨汁や、紙の類は片隅によせた小机の上におかれ、謄寫版は久しぶりに箱のなかにをさめられてこれも片隅にあつた。中央には火の消えた火鉢が一つ、燒きすてた反古紙の灰が山をなしてゐる。まる一ヶ月のあひだの足の入れ場もない亂雜を見慣れた眼には、がらんとした部屋の廣さは妙に寒々とした感じである。はげしい言葉を書きつらね、赤インクで彩つたポスターが風にはたはたと音をさせてゐるのを見た時、過去一ヶ月の餘にわたる苦鬪の跡が一瞬のうちに彼らの腦裡をかすめた。すべては無駄な努力に終つたのかとの實感は理窟を越えたものであつた。殘るものはただえたいの知れない暗がりに身心をひきずりこむ抵抗しがたい虚脱感あるのみである。……
 ふたたび表の戸が開く音がし、すぐに一人の男があがつて來た。見上げるやうに高い、横もがつしりとした男である。
「ああ、小泉、」
 と低く叫んで杉村はその方へ走り寄つた。
「どうしたんだ。何をしてるんだ。灯りもつけんで。」
 灯りがつき、彼らは白い光りのなかに複雜な感情のこもつた眼と眼を交した。小泉はそこに立つて、自分の肩ほどの仲間の顏を見下すやうにして、一人々々ぢつと見据ゑた。彫りこんだやうに凹凸の深い彼の顏はいつも變らぬ靜寂を湛へながら、その眼の輝きはさすがに押へ得ぬ興奮を示してゐる。みるみるその顏に血がのぼつた。どんな感情が仲間たちをとらへてゐるかを見拔いたのである。鋭い聲が威壓する力に滿ちて彼の口をもれて出た。
「何をくだらんことを考へてるんだ。何一つまだ終つてやしないぢやないか。はじまつたばかりだ、……しなけりやならん仕事はわかつてゐる筈だ、みんなすぐ部署につくんだ。」
 まつすぐに部屋のまんなかに進み、てきぱきした事務的な口調で彼はつゞけた。
「今後の連絡、會合についての打合せをしみんなそれぞれの責任地區へ歸るんだ。勝つても負けても選擧の結果報告のための、部落の集會、演説會の開催は豫定どほりだ。今度の選擧中の事實にもとづいた暴露材料は、いま縣本部で印刷してゐる。明日の午後には屆くだらう、……それから××反對の示威運動は必ずやる。その具體的な計畫はこれもほぼさきに打合したとほりだ。今晩これから本部で開く常任委員會で最後的決定をする。日取はその直前まで發表しない筈だからみんな動員組織をしつかり固めておいてくれ。」
 そして彼は靜かにそこに坐つた。常任委員會の代表としての自分と、各地區の書記との間に二三の打合せをするためにである。
 彼らは小泉につづいて坐り圓形をつくつた。今までぼんやりしてゐた彼らの顏はよみがへつたやうになり、自分自身を取り戻して見えるのであつた。民衆の投票をめぐつてのたたかひをいつのまにか當選か否かといふことにのみ限つて考へる考へ方にずり落ちてしまつてゐる自分たちを見直した。彼らは俄然あたらしく展開され來つた情勢を見た。そしてそのなかにはどう處して行かねばならぬかについて自覺した。信頼しきつたものにたいする從順さで、小泉のいふところに從ひみなそれぞれの意見をのべ、何を爲すべきかについて決定したのである。短い時間でそれがすんだ。彼らは立ち上り、ずり落ちた洋袴を引きあげしつかと革帶をしめ、帽子を眞深にかぶり、あわただしく階段を下りて外へ出て行つた。――
 最後に殘つたのは小泉と杉村とであつた。
「今晩は?」と小泉が内かくしから何か小さく折りたたんだ紙をとり出し、杉村に手渡しながら訊いた。
「うん、九時から支部長會議をやることになつてゐる、」と杉村は答へ、受けとつたものを靴下のなかにおしこみながら、ここ一週間逢はなかつた小泉の顏をすぐ眼の前にしげしげと見た。かうしてまぢかに見ると、線の深く刻みこまれた顏だけにさすがに疲勞のあとが色濃くあらはれ、彼の心勞をなしてゐるものの何であるかが一目で知れるのある。二人は彼らだけで話し合はなければならぬ事柄について簡潔な二三の言葉をかはした。押しあひ、ひしめきながら奔騰してくるものをうちに感じながら、杉村は辛うじてそれを咽喉のあたりでせきとめた。個人的には小泉と自分とによつて代表され、――しかしそれはもとより彼ら二人のものではなく、一つの組織のものである、意見、方針にたいする不滿と非難とを思ひつめた言葉でいひ現さうとしたのである。それは從來とても漠然とした形で杉村の内部に芽生えてゐた、今その方針の明かな失敗を語る事實を見るに及んでそのものはにはかにはつきりとした形をとるにいたつたのである。だがそれを言葉にして投げつけることを許しはしない冷然たるものを小泉の顏に杉村は見た。彼は眉一つ動かさうとはせぬ。(奴はまた強引に押し切らうつていふんだ!)小泉は何らの相剋するものを自分の内部に感じてはゐないのであらうか? 敗けたこと自體は問題ではない、ただそれがもたらす影響が一つのおそるべき方向をとつて來るときは……
 突然ある不吉な考へが芽生え、それはみるみる大きなものになつて行くのであつた。小泉はもう杉村の存在は忘れたもののやうに手帳をひろげ何か心覺えを書いてゐる。
「ぢやあ、」といつて杉村は立ち上り、階段のところまで行つてちらりと小泉の方を見た。何か心惹かるるものがあつたのである。下へ下りてみると留守居の青年が前後不覺に眠つてゐる。外は暗く風が吹き荒んでゐた。自轉車を走らせ半町ほど行つてふりかへると、高臺の家はちやうど灯りを消したところであつた。

 表戸をあけ、土間を見ると足の入れ場のないほどの履物である。これは意外だつた。時刻は遲いし、今日の集りは半分投げてゐたのにと思ひ、大西がうまくやつてくれたのだなと思ふと、たのもしくありがたい氣持だつた。自轉車を狹い土間に引き込み、ゴトゴト音をさせてゐると、二階から下りてくる音がし、中程に足をとめて、「誰あれ?」と上からもれる明りにすかして見てゐるやうであつたが、僕、といふと、ああ、杉村さん、と大西が下りて來た。
「御苦勞さん、みんな集つた?」といつて段にのぼらうとする杉村にパツと飛びつくやうにしてその手をしつかりとおさへると、ものをもいはず、ぐんぐんもとの入口の暗がりの方へ引つぱつて行くのである。どうしたんだ。どうしたんだ、といひながら杉村はついて行つた。
「杉村さん、敗けたんだつてね。」と低いささやくやうな、しかしひた押しに感情をおし殺さうと焦つてゐる聲である。
「敗けたよ、仕方がない、それで……」
「弱つたなあ、杉村さん、」
「ええ?」といつて杉村はなんといふことなしにどきんとした。
「組合は割れるね、わるくすると。」
「なんだつて、」
「まるで沸いてるんだ、二階の連中は! 一杯機嫌でやつて來るのが多くつてねえ、すつかり不貞腐れてゐるんだ。だからいはんこつちやない、土地のものをナメやがつて選擧なんかに勝ててたまるもんかい、ざまア見ろつて惡口雜言さ。敗けたのを口惜しがつてゐるどころか痛快がつてゐるんだ。むしやくしや腹をどこにも持つて行きどころがないもんでわしひとりにつつかゝつて來る始末さ。今晩の會議なんてとてもものにやなりませんよ。先生は顏を出さない方がいいかも知れない。やつぱり失敗だつたかなあ、杉村さん、地元から立てずに島田さんを立てたのは……」
「默れ! 餘計なことをいふな。」といきなり杉村は呶鳴つた。意外な彼の興奮におどろいて大西は口をつぐんでしまつた。
 その暗闇のなかにだが杉村は顏いろを變へたのである。おそれてゐた不安がこれほどまでに早く現實のものとして迫つた來ようとは思はなかつた。あたりはしーんとし、耳を澄まして聞くまでもなく、二階で何かののしり笑ひさざめいてゐる聲は明らかにいつもとはちがふのである。……杉村は逡巡した。がすぐ氣を取りなほし、今來た、といつた氣輕さをよそほつてとんとんと階段をのぼつて行つた。うしろで大西が何かあわただしく小聲でささやいたやうである。
「やあ、失敬々々、すつかりおくれつちまつて。」
 と障子をあけるなり杉村はいひ、わざと無雜作にそこに鞄を投げ出した。何ごともなかつたふうに平氣をよそほひ、何ごとにもこだはらぬ態度を全身をもつて示してゐるのだが、顏の筋肉が硬ばり、へんにゆがむのをどうすることもできなかつた。
 障子をあけた瞬間になかでの話はひたと止んだ。杉村はそこへ坐つたが誰もものをいひかけて來るものはない。廣くはない部屋に膝をつき合して向ひながら、一口もいひ出すもののないほどの氣づまりはない。おそろしい暗默の敵意である。どつちか先に口を切つた方が敗けであるやうな沈默の抗爭である。――杉村が敗けた。
「今日は馬鹿に集まりがいいね。……今晩は會議の形式はとらずに選擧の結果についてお互ひに意見を述べあひ、今後の對策について相談しあはうぢやないか。敗けたものはまア仕方がないとして。」
 いひながら刺すやうな多くの視線をからだ一杯に感じ、それまでうつむいてゐた杉村はそのときはじめて顏をあげて一點を見た。かつちり視線の合つたのが、ほぼ正面に坐つて、臆することなく眞直ぐこつちに顏を向けてゐる石川剛造であらうとは! 勝利と侮蔑と嘲笑と憎惡との錯雜にゆがんだ表情は、復讐の快さのうちにふしぎな統一を見出してゐる。杉村は今はとめどもなくべらべらとしやべり出すことでおのれの氣弱さを蔽はねばならなかつた。だがそれに應じてくるものは一人もなく、しかし彼らは彼らだけの言葉と表情で勝手にしやべり始めたのである。――
「まるまる一ヶ月まで阿呆な暇だれをしてしまうたのう。」
 ほーつと肩でする思はせぶりな太い息と共に吐き出したのは、組合の政治部員と黨の幹部を兼ね、今度の選擧には辯士隊の一人であつた山田三次である。
「山田なんざあまだいいわ。もともと口が達者で演説が飯より好きに出來とる男ぢやてのう。今度といふ今度こそはしつかとたんのうするまでしやべつたやらうに。第一やることがはでぢやわ。――わしを見んかい、わしを! 一日ぢう机の前に坐らせられてよ。鋤鍬持つ手に筆を持つてよ。飯代がいくら、人夫賃がいくら、紙がいくら、墨がいくら、何がいくらかにがいくらと帳面つけぢや。それがてんでお日さんにも當らずとまるまる一ヶ月ぢや。毎日歸るじぶんにや、足が痺れて棒のやうやつたわ。それでも勝てるか思へばせいも出た、敗けたんぢやつまらん。」
 選擧事務員であつた川上直吉がさういひすててごろりと横になつた。
「まあ、さういふな川上、お前の手蹟のいいのを見込まれたのが因果ぢやと思へ。百姓にやもつたいない手蹟ぢやけに。」
「ほめてもらうておほきに。」と川上は笑つた。
「日當は帳面の上だけの事やて一文にもなりやへんし、選擧にや敗けるし、――あーあ、ほんまにおれも田中みたいに政友會の辯士さやとはれてしこたまもらへばよかつた。こななことになるんやつたら、裏切者になつたかてそれが何ぢやい!」
 最後の捨鉢的な一句には、ふざけたなかにへんに眞に迫つたものがあり、みんな何かを考へさせられた面持である。
 ひとり完全に取り殘されたかたちの杉村は、持つて行きどころのない眼を部屋の片隅にうつした。と、彼はそこに意外なあるものを見てにはかにけはしい面持に變つたのである。そこの瀬戸の火鉢には藥罐がかけられ、今はじめてそれと氣づいたのだが、田舍によく見る口の平べつたく大きな三合入りの銚子がその中につけてあつた。しんしんと鳴つて湯はたぎり、なかの銚子がゴトゴトと低い音をたててゐる。部屋へはいるとすぐに鼻をついた酒の匂ひは、彼らが外から持つて來たもののほかに内からのものがあつたのである。事務所備付けの湯呑みがそのあたりに亂れ、もういいかげん色づいた三四人が火鉢を圍んでゐる。
「君、そりやどうしたんだ!」
 思ひもかけなかつた事柄が人々と杉村とを相語らしむるきつかけとなつた、はげしくいつてしまつたあとで、杉村はさういふ自分の不幸を思つたが遲かつた。暗默の敵意はこの偶然のつまらない事柄をなかだちに、今は公然のあらはなものになつて了つたのである。
「組合の事務所で酒をのむことだけはうやめたらどうかね、ええ、君、事務所でだけはお互ひにだらしのないまねはしたくないんだ。一般組合員にたいする影響も考へなくちやならないからね。事務所で何か祝ひ事でもした時はそりや別だ。しかし今日はみんな會議に集まつたんぢやないか。」
「ああ、ああ、わかつとりまさあね、そななことあんたにいはれんかて。」
 憎々しげにそのうちの一人がいひ放つた。顎をつき出しうすら笑ひをさへうかべて。何といふ不貞腐れかげんであらう。杉村はさすがに周章し、狼狽した。從順な飼犬がたちまち牙をむき出すのに逢つたおどろきであつた。
「わしらは今日は何も會議に集まつたんぢやありません。祝ひ事に集まつたのやよつて一杯くんどるんぢや。」
「祝ひ事?」
「さうや、」
 にやりと笑ひ、氣を持たせるやうにちよつと間をおき、
「組合の解散祝や。」
 とずばりといつてのけ、そしてくつくつと聲をたてて笑ふのであつた。
 一座の冷やかな視線のなかに杉村は蒼くなつた。親愛な仲間はいつの間に忽然としてこの惡意に滿ちた敵に變つたものであらう……おちつかねばならぬと杉村は思つた。興奮してはぶちこはしである。何事を追求してみる要もない。今晩のこの集會は流してしまはう。選擧については觸れず、しばらくはこのままそつとしておくのほかはない……しかし彼のその意志に反して向うが切り込んで來たのである。
「杉村君、」とそのとき山田三次がいつた。何か改つてものをいふ時にはくんづけにし、標準語でものをいふのがかつて巡査であつたことのあるこの男の癖である。
「選擧の結果について意見を述べあふやう、あんたはさつきいひなすつたが、あんた自身こんどの選擧の慘敗の原因は一體どこにあると思ふかね?」
「そりや、いろいろな原因はあるが……」
「ふん、いろいろな原因はあるが、その第一は(原文五字缺)でつぎは大衆の無自覺か。相變らずね。杉村君、君らはふだん自己批判々々々々て口癖のやうにいつとるが、結局自分に痛くないやうな批判しかやらうとはしないんだ。今度の選擧の慘敗の原因だつて、今となつては君らにもちやんと氣づいてゐる筈だ、それを知つてゐながら、以前にいつた言葉の手前、率直に認めるほどの勇氣がないんだ。敗けた原因はほかにはない、そもそもの出發點にあるのさ。島田信介を候補者に立てたといふ點にあるのさ。島田信介だなんて、そりや黨の幹部でもあり、えらい人間でもあらう、けど君、ありや全くの他國人ぢやないか。島田はこの縣に何のゆかりがある? この地方の人間と何の馴染がある? そんな人間を立てたかて勝つ見込みのないのは最初からわかつとる。だからわしらここにゐるものの大半はそれに反對したんだ。そしてあくまでも土地のものを立てることを主張し、この地區のみならず、縣全體としてももつとも古い農民運動の功勞者として石川剛造君を推薦したんだ。」そこで彼はちらりと横目ですぐ側の石川剛造の顏を盜み見た。石川は依然身動きもせずぢつとこつちを見つめてゐる。「それを君らが日和見主義だとか、當選第一主義だとかなんとかいつて反對してさ、阿呆らしい、當選を目的にしない選擧運動がどこにありますかい。そして書記會議で何から何までお膳立てをして中央委員を虱つぶしに説いてまはつて無理矢理に[#「無理矢理に」は底本では「無理失理に」]島田支持にして了つてさ、あの日の中央委員會を自分たちの都合のいいやうに牛耳つたんだ。――君たちは一體、農民の地方意識がどんなに根深いものか知つてゐるのか。いやそれより百姓そのものについてどれだけ知つてゐるといふんだ。」
「知るものか!」と、山田の言葉を受けて川上直吉がはげしく言ひ、すぐにあとをつづけた。「一體、組合の書記連中は杉村君の前でいうては甚だすまんが、このごろどうも出しやばりすぎるんや。先生先生いはれとるが、書記は結局組合の事務員にすぎん、組合から給料をもらうて事務を取つとる事務員や。規約に書記の仕事をはつきりさせておかんいふのもわるいが、オルグたらなんたらいうて書記がいろんなことに口ばし入れるのは大間違ひぢや。東京や大阪に住んどつて、學校途中でよして、一年や二年田舍さ來てゐたかとてなんで、百姓のことが――」
「ああ、もう理窟いふのはおいとかんか。」と突然石川剛造が鷹揚に手をあげておさへるやうな仕ぐさをし、始めて口を切つた。仲間にいふだけいはせておいて、自分は一語も發せず小氣味よげにその場の樣子を見てゐた彼はさういふと同時に立ち上つた。
「わしやもう歸りますぜ。會議もないやうなふうやよつて。」
 そして彼は杉村の方はふりかへつても見ず、ずんずん部屋の外へ出て行つた。それは一つの示し合した合圖のやうにも見えるのであつた。殘つた人々は一せいに立上り、石川のあとに續いたのである。
 これは偶然であらうか? そのよつて來るところには遠いものがありはしないか。自分も立つて茫然として彼らの後ろ姿を見送りながら、一時に複雜な思ひが犇めき合つて來るのを杉村は感じたのである。
 どういふわけでその地方が最後の處女地として殘されたものであらう。そこに住む村人たちの生活條件が何も他に比して惠まれてゐたわけではない、一に地理的状況によつたものであるとおもはれる。事務所のある町からは遠く距つてゐ、そこへはいるには曲りくねつた峠の道を何里か上り下りせねばならなかつた。片側は絶壁になつてをり、片側ははるか下に鬱蒼とした木々の梢が見えるばかりの谷間だつた。眞直に走つてゐる道が突然右に左に急カーブしてゐるところが五ヶ所ほどもある。それを知りつくし慣れ切つてをればこそ夜更けの下り坂の自轉車の上ではかへつてとりとめのないもの思ひにふけり勝ちで、あつといふ瞬間にはもうブレーキはきかず、夜目には見えぬ砂けむりを立てて自轉車もろとも谷底におちこむ慘事が年に二度や三度はあるのだつた。さういふ地理的條件が、峠のこつち側の町に事務所を持ち、はたらく農民の組織のために奔走してゐる人々にも、いくらかおつくふな氣持を持たせたのであらう、かなり遲くまでさういふ組織とは無縁であつたのである。
 だがとうとう時が來、ある日その郡の三ヶ村の有志が町の組合の事務所を訪ねて來た。彼らが歸つたあとその夜遲くまで事務所の二階には燈火が赤々と輝いてゐた。人々は興奮してゐた。とうに誰か適當な人を送らねばならぬと氣にはかかつてゐた、それが今日向うから進んではたらきかけて來たのだ。處女地にはかうして鍬がはいつて行く。だが一體誰をこの未墾の地に送つたものであらう。ここでも仕事は多く人手は極度に少なかつた。今一定の部署がなく仕事を見ならつてゐるのは、この春學校を止してこの土地へ來たまだ若い杉村順吉一人きりだつた。ほかの仲間たちはそれぞれの地區におちついてもう一年二年と經つてゐた。杉村かその古い仲間たちか? 人々はそこではたと當惑したのである。未經驗な杉村に荷の勝ちすぎることは誰の目にも明らかだつた。かといつてその土地にいくらかでもなじんだ仲間を他に移すといふことは、農民の場合は勞働者の場合にも増して極力避けられねばならぬことである。結局杉村をやることにして議論のけりはついた。若々しく氣負ひたつて遠慮がちながら自分を主張する杉村ののぞみが入れられたわけだ。
 翌日峠の下まで五人の仲間に送られて來、かゞやかしい首途の第一歩を峠の道に向つて踏んだ日の清純な感動を、いつの日にか杉村は忘れうるであらう。
「この度は御苦勞樣のことで。」とその日の晝、村のちよつとした飮み屋の二階で開かれた十五人ほどの集りに自ら世話役と名乘る四十恰好の男が挨拶した。言葉の句切り句切りに先生、先生と呼ぶのである。すつかり赤くなつて照れながら杉村はしかし親しみにくいものを感じしつくりしない自分の氣持に當惑した。ある種の農民の型が彼の頭のなかにはできあがつてゐた。だがそれは獨斷であるとばかりはいへず、わづかの經驗ではあつても彼が見聞きした現實の農民が土臺になつてゐるのである。今彼の眼の前にあるものはぞろりとした絹ものを着、太い帶に時計を卷きつけ、白足袋をはき、まるで商人の感じである。言葉も標準語を器用に使つた。峠の向うだから萬事におくれてゐるだらうと考へたのはこつち側のひとり合點で、國境を越えたすぐ向うには工業都市として有名な隣縣のY市を控へてゐ、Y市のこの地方にたいして持つ意義は大きかつたのである。
「組合の本部の方からはどの位の費用が出るのでせうな。つまりその何ですな、先生の、こちらへの御滯在の費用として。」と、その會合をT郡組合支部結成第一囘準備會といふことにして、どこに事務所を構へるかといふことになつたとき、さきの男がさぐるやうな眼つきをしていつた。彼はもう冷たい打算を働かしてゐるのだつた。はたして組合にそれだけのねうちがあるかどうかそれはこの秋でも越してみねばわかることではない。そしてそれがわからぬうちはびた一文でも出すことではない。「さあ、私の生活費として十圓ぐらゐでせうね。そのほかに通信費なぞは出ますけれど。」と杉村はいつた。で人々はそれきりしばらくだまつた。いくら田舍だとてそれくらゐの費用で一軒の事務所を構へるといふことは不可能である。彼らはそれから一時間以上にわたつて一つ事のまはりをどうどうめぐりした。杉村を當分彼らのうちの誰かの家に泊めるのほかはなく、しかしうるさいことにはできるだけ係りあはぬのがとくだといふ腹がみんなにある。A―がとこは? と名ざされると、名指された本人はあわてて顏の前で手をうちふり、とうから用意してゐたらしい言葉でそれぞれの理由のかげにかくれるのである。つひにある老いた自作農の家にそれが押しつけられた。いよいよそれにきまると今度は急に損をしたやうな氣持のして來るものもあるのだつた。
「B―の親爺もうまいことをやつたものさ、組合の事務員を家さ泊めときや、なんぼちつとばしでも毎月きちきちと現ナマがはいるけんな。」さういつた一人の言葉を杉村はいつまでも忘れなかつた。――
 それからの三年間は何といふ偉大な一時期であつたことだらう。偉大といふ言葉をそれに冠して少しも言ひすぎであるとは思はない。社會の上に見ても杉村個人の上に見ても。その複雜さ、その豐富さ、その意味の深さにおいてその三年間は杉村の過去二十年の全經驗を越ゆるものであつた。疑はず全身で生きるといふことはかくも素晴らしいものであるか。その秋はじめて準備會を持つた組織は翌年の春には正式の支部八つ七百人を越ゆるものとなつていた。この地方の各所に當時まだ殘存してゐた麥年貢撤廢の成功が發展の重要なモメントとなつたのである。急激に組織はのびまる一年後のその秋にはおくれて登場したその地區は他の古い地區を完全にしのぐ勢力となつてゐた。今は獨立した事務所を持ち、杉村は有給の書記となり、オルグとしての才能を認めらるるにいたつた彼の得意は知るべしであつたが、何がしかしさうした急速な發展の原因であつたものだらう。何よりも時のいきほひである。それに杉村の努力もなみなみならぬものがあつたにちがひはないが、組織の發展を促した諸矛盾そのものが、反對物を導き出す要因ともなりうるやうなものであつたことに、若い杉村は長く氣づかずにゐたのである。半ば封鎖された自然經濟のうちに生きてゐる東北地方の農民を見慣れた杉村の眼にはこの地方の農民生活は驚異であつた。朝、杉村はY市に續く表の道をひつきりなしに通る、蔬菜の山を積んだ車の音に眼をさました。畑の一角をかこつて觀賞用の草花をつくるものがあり、傾斜した日あたりのいい山の手には果樹の類の植ゑられることが近年めつきりえて來た。二男三男に植木屋を仕込んでゐる百姓もぼつぼつあつた。Y市にM―紡績の支工場が出來ると、早速女工の勸誘員になり、隣接地方の娘さがしに出かけて行くものが少くなかつた。時々投機的な對象物がどこからともなく村々を襲ふのであつた。最初せきせいいんこがはやり出しそれが下火になると兎が、それから食用蛙がはやつた。百姓たちは熱病にかかつたやうな眼つきをし、田圃の仕事の餘暇をぬすんではそのへんをうろうろし、人に逢ふとすぐにお互ひの袖の下に手を入れて指をにぎり、顏を見合せてにやりと笑ふ。これでか、いやもう少し、うん、買つた、よし賣つた、などといふのである。それらは暴風のやうにやつて來、百姓たちの金を何處へかかすめとり、又暴風のやうに去つて行くのである。青年時代を何年間か都會生活に過したものが多く、さういふ農民は農民に特有と思はれる魯鈍と無智からは一應遠いものに見えるのであつた。新聞の相場欄を理解する知識を持ち、時の政治家の人物をあげつらふのであつた。――組合の組織の急速な發展の原因はこれらの諸現象の交錯したなかにあつたといへる。小作料減免の要求においては彼らは強腰で一歩もあとへ引かなかつた。裏切りを拒ぐための小作料の共同保管は彼らに不必要で、組合加入後の彼らは、――いや、それを目的に彼らは組合に加入したといへるのだが、小作料をすぐにも賣つて金に代へ、前記のいろいろなおもはくにはそれを投じた。組合が勢ひを得て以來小作人同志の間で讓渡される、あるひは地主から代償として得る耕作權の價格が急激に上昇し、土地そのものの價格が下つてくると、土地賣買のなかだちを口入師くにふしに早がはりした農民があちこちの人の溜りに姿をあらはした。――
 これほどの組織人員を持ちながら、これほどに「夜刈の思ひ出」に乏しいところがほかにあるだらうか? 共同作業や、競賣の際の大衆動員のこれほど利かないところがほかにあるだらうか? 地主との間の係爭の解決はすべて辯護士と書記の手に委ねられ、彼らの觀念によれば辯護士は文字どほり「お抱へ辯護士」であり、書記は會社の事務員にほかならなかつた。事務員が、事務員がと公然口にした。彼らの出す組合費で月給をまかなつて、この兩者を雇つてゐるのである。――それですんでゐる間はまだよかつた。だが、辯護士や書記の個人の力がいかに無力なものにすぎないかが暴露され、ほんとうの組織の力で事件を解決しようとの機運が組合の下の方から起つて來、杉村がこの機運の先頭に立つやうになると、組合の上の方の勢力と事毎にかち合はなければならなかつた。そして某生命保險會社代理店の看板を家の前に下げてゐる石川剛造を先頭とするその勢力が、いかにしぶといものであるかを、彼らの育て役であつた杉村自身、いまはじめて知つたのである。
 ちやうどかういう状勢にある時に國會選擧が行はれることになつた。人々はあらたな興奮の渦にまきこまれた。村にはにはかに「政治家」がふえ、その地方出身の時めく顯官を君づけで呼び、彼らと「一杯のんだ」といふものが出て來た。二年前に組合が主體となつて成立した無産者黨も當然彼らの候補者を立てねばならなかつた。地元の人間を立てるか外から連れて來るか、それが議論の主要點となつた。杉村の所屬する地區は小數の反對者を除いて石川剛造を中央委員會に向つて推薦した。そしてそれは充分に力強い發言であつた。ほぼ組織人員數に比例して中央委員は選出され、この地區選出の委員は多數を占めてゐたからである。――杉村はたちまちヂレンマにおち入つた。なんとしても石川剛造を支持することは出來なかつた。彼自身の獨立した意見としてさうであつたし、その春から小泉と杉村とがメンバーとなつた一つの組織は選擧についての指令をあたへ、それに忠實に從ふときはなほさら石川を立てることはできなかつた。しかも杉村を支持する下の組織がなほ充分な結成を見ない今日、正面切つて石川と對立することは組織を崩壞せしめる危險を孕まないとはいへぬのである。いくたの經緯を經たのちに、結局組合の中央部の幹部の島田信介を縣外から連れて來て立てることにした。農民の濃厚な地方意識を認めなかつたからではない、それに屈服せず、積極的にそれを打破するためにも、縣内の有力者間の内部的對立を避けるためからもそれが適當であるとしたのである。杉村ははじめて政治家らしい策動をやつた。石川一派を中央委員會で破るために。そして破つた。
 選擧運動の全期間にわたる石川とその支持者たちの、あるひは陰險な、あるひは公然のサボタージユは、多少の豫期を越えてはげしかつた。借りてある筈の演説會場が借りてなかつたり、貼つてある筈のポスターがその村にはいつても一枚も見當らなかつたりした。こつちの選擧事務員中のあるものが、ひそかに敵方の選擧事務所に出入りしてゐたといふうはさも全然の流言とは思へず、あてにしてゐた投票がどこかへ消えて了つたとしても、必ずしもふしぎはないと思ひあたるところが多いのである。

「大西、今日はもう遲いから泊つて行けや、な、いいだらう。」
 みんなが立ち去つたあとの白々とした部屋のなかに向ひ合つて坐り、杉村はいつた。このごろずーつと事務所に通つて來て杉村の仕事を助けてゐる、青年の大西を、今晩はなぜかこのまま歸したくない氣持がしきりだつた。
「うちさなんにも言つて來なかつたから、おれやつぱり歸るよ。」
「さうか、ぢやあもう少し話して行かないか。」
 火鉢の金網の上に大西の持つて來てくれたかき餅をのせ、燒けるのを待ちながら、若く精氣のあふれた大西の顏を頼もしいものに思ひぢつと見つめてゐた。するとにはかに話したいものが胸に滿ちて來た。小泉に話さうとし、彼の持つきびしいものに押されていひ出せず今まで胸にわだかまつてゐたものである。
「下で聞いていたらう、……連中の言つてゐたことを。」といつて彼はちよつと照れたやうな顏をした。
「遲かれ早から來なければならないことがやつて來たまでのことさ。だからおれはちつともおどろいてなんかゐやしないよ。選擧は一つのきつかけになつたまでのことで、それがなくつたつて何かの動機で遠からず起ることだつたのさ。實際どこの組織だつてある程度まで發展して來たときには必ず一度は經過する過程なんだからな。問題はそれをいかに乘り越えるか、どうして内部的對立を單なる對立に終らしめずに發展への足がかりにするか、といふことにあるんだ、――それはわかつてゐる、だが、」杉村は額に手をあててうつむき、大西への言葉が自分自身への低くつぶやくやうな聲に變るのであつた。「おれにこの波がうまく乘り切れるかどうか? おれはそれが不安なんだ、恥しい話だが本音を吐けばそれについての充分な自信がおれにはない。組織人員のふえて行くことにばかり目をうばはれ、有頂天になり本質的なものを見失つてゐた。組合内部に氾濫してゐる小ブルジヨア的な要素におれ自身いつのまにか曵きずられてゐた形だ。そして氣がついて見た時にはもうその矛盾は荒療治をしなくちや解決の出來ないものになつて了つてゐた。君たち若い連中を僕の周圍にしつかり固めようとにはかに努力しはじめたのなんかも、實際泥繩式だといつて嗤はれても仕方がないんだが、……」
「杉村さん、そりやなにもあなたひとりの責任でも罪でもありませんよ。」とだまつてゐた大西がそのときいつた。さつき階下で歸つて來た杉村をとらへてものをいつたときの大西とは別で、圓い顏に微笑をたたへ、もうすつかりおちつきを取戻してゐるやうに見えるのであつた。
「先生は何から何まで、自分ひとりの肩に背負つてるふうに考へなさるから大へんだ。それぢやあんまり苦勞が多すぎなさる。……先生個人の問題ぢやなくて組織の問題ぢやとわしや思ひますけんど。」
 杉村は思はずはつとして顏をあげた。この若ものが何氣なく言つた言葉は杉村の虚をつきさす鋭さを持つてゐた。彼は固唾を呑む思ひで次の言葉に耳を傾けた。
「必要ならばどうにも仕方がないから荒療治でもなんでもやりませうよ。」事柄がはつきりした形をとり、あれかこれかがもはや許されぬと知ると同時に、彼はかへつて平氣になつたものらしい。
「けど、乘り切ることが出來るかどうかつて、今にも組合がつぶれでもするやうに先生みたいに心配することはないと思ひますが。やつて見にやわからんことなら今から心配しても無駄ぢやし……、それにわしの考へでは分裂しても案外石川なんぞについて行くものはないといふ氣がします。ついて行つても一時ですね。」なぜさうなのか、彼はそれの根據については説明せずに過ぎて行つた。だが働くものが、おなじ働く仲間を信じてゐる確かさがそこにはあつた。「それから先生、先生の前でこんなことをいつちやわるいが、わしには事務所の書記中心の農民運動はもうだめぢやといふ氣がしますが……、今の組織はその點でまちがつとるといふ氣がしますが。青年部の鬪士養成なんぞもその見地からばかしやられて來て、たとへば先生と今のわしらの研究會ね、ありやほんにためになるけんど、ああやつてちつとましな青年が出て來るとそいつをすぐに事務所の書記に引上げるといふ、今までのやり方にはどうも賛成出來んのです。第一、百姓をやめて町さ來てゐては、部落の衆となじみがうすくなるから今度のやうな時には困るものね。やつぱりあくまでも部落さしがみついて、みんなと結びついてをらんことには……。」
 彼はそこで休み、鉈豆に刻みをつめ、口に持つて行つた。淡々として何氣なく言つたその言葉が、どれほどの力をもつて杉村に働きかけたかを彼自身果して知つてゐるだらうか。杉村は感動でほとんど押し倒されさうになつたのである。いつの間にかかういふ大西に生長したものであらう。最後の彼の意見のごとき、つい先日、杉村が小泉と論じ合つたばかりの問題ではないか。
「さうだ、さうだ、それにちがひないんだ。書記中心、事務所中心の農民運動はもうだめなんだ。これからは――」
 感情が激してそのつぎの言葉につまるうちに、大西は急に何かに思ひついたらしくにつこりし、まるで別のことをいひはじめた。
「先生も少し休むんですね。だいぶ身體が弱つてをられるやうだから。實際、去年の秋の忙しさからすぐに選擧ですからねえ。息のつく暇もありやしない。何もかも忘れて少しお休みになつたらいいんです。今のことだつてそれほど差迫つたことでもない、差迫つてゐたところであわてたつてどうにもなるこつてなし、――先生、D―温泉ね、あそこはいいですよ、一度あそこにいらつしやい、月十五圓ですみますが。」
 それには答へず、杉村はぢつと大西の眼に見入りながらしみじみといつた。
「これからはなんといつても君たちだ、君たちがほんとうの農民運動をやらなくちや。もう一ぺん下から叩きなほすんだ!」それからちよつと間をおいて憂はしさうに聲をおとした。「春の大會はしかしさぞもめることだらうなあ。うまく行つてくれればいいが――」
 そして我にもあらぬ感傷のなかにずるずるとずりおちて行く自分をどうすることも出來なかつた。

 大西が歸つてからも杉村はしばらく起きてゐた。ぼんやり坐つて、いろいろな想念が秩序なく頭のなかに犇めきあふに任せておいた。大西は樂觀していつたが、彼がその責任者である組織の運命、それの當面してゐる諸問題、組織者としての自分の能力についての反省などが彼のなかでからみ合つた。農民が所屬してゐるそれぞれの層の組織内での重さ輕さが問題であると思つた。組織運動の一つの段階のちやうど終りに來てゐるといふ氣がした。つまり富農的小作人とでも名づけていい要素が、ある時期、特に初期の時期に組織内に壓倒的な力を持つのは必然なのだが、その時期が今終らうとしてゐる。彼らは彼らの持つ限界に到達したわけである。もし貧農的要素と彼らとの間に對立が起れば、その對立は避けるべきではなくその結果組合の數的勢力が微弱になつても仕方がないと杉村は考へた。そして現在貧農的要素が組合内に力弱いことは事實である。數の上での大小はともかく、組織内での實權を彼らは持たなかつた。村における彼らの社會的地位の輕重が、無産者的な組織のなかにまでそのまゝ持ち込まれてゐる奇妙さについて杉村は考へた。――そこで彼の考へは組織外のおおびただしい數の貧農の上にまでのびて行つた。直接小作料の問題で立ち上る氣力のない貧農、又は立ち上つても會費を納入し、恒久的な組織に保持しえない貧農についてである。廣汎なその層を問題にして來ると今のやうな組織と要求の取上げ方だけでは無力だつた。どうしても別個の新しいたたかひの形態が必要であり、今まで輕視されてゐた小作料以外の要求が重要視されねばならぬ時である。杉村は最近讀んだ支那の農民運動について考へあのなかにこそ多くの示唆があるのにちがひないと思ふのだつた。――しかし問題がそこまで進んで來ると、それの重大さ困難さの前に、組織者としての自分の能力について反省せずにはゐられなかつた。この仕事にこそ命を賭して悔いぬと全身で思ひこんだ。だがその三年間に實際にしとげた仕事の貧しさといふものはどうであらう。大西その他二三の青年を見出したことが結局最大の成果であるやも知れぬ。杉村が仲間たちの間で多少重んぜられてゐたのは、組織者としての能力の優越のためではなく、仕事の前に私の生活を無視し抹殺する彼の態度に一應の敬意が拂はれてゐたにすぎない。すべて和やかなもの、浮々するもの、駘蕩たるものは彼にあつては退けられ、きびしくはげしいものだけが迎へられた。酒や煙草や、豐かな食物などが退けられてゐたのも、あながち健康や、經濟のためばかりではなかつた。書記たちの會議があり、その夜町の事務所に泊るとき、杉村は自分の隣に寢た筈の仲間たちの姿が、いつか消えてゐるのをいくどか見た。彼らがどこへ行くかを杉村は知つてゐた。そして杉村はかつてさういふ仲間たちの後を追つたことはなかつた。一度だけ、ある夜その明るい街の方へ足を向けたことがあつた。だが、彼のふところのなかの、そしてそこで使はるべき金が、百姓の米を賣つた金から出てゐることに思ひあたつたとき、杉村は逃げるやうにして事務所へ歸つて來た。「血の一滴、精力の一とカケラといへど仕事のために。」彼はそれを聲に出していつてみた。しかしさういふ杉村の態度には、さういふものを追求してゐるのと同樣な、拘泥し囚はれたものが感じられ、萬事に圖太くなり切れぬ小心な潔癖が結局組織者としても小さなうつはに過ぎぬことのあかしであるかも知れなかつた。――
 頭のなかは熱し切つてゐるくせに、どこかうつろな片隅がぼそんと口をあけてゐるやうな氣持だつた。親しみ深く見慣れた机や書棚や、雜然と積みあげられた書類の山や、何から何までが妙にカサカサとして味氣なかつた。やはり身體が少し弱つてゐるのであらう。急に氣がゆるみ、何度目かの疲れが襲つて來、上衣を脱いだそのまゝの姿で、杉村は部屋の隅の寢床に横になつて眠りこんだ。

 敗戰後に當然來るべきものがしかし案外に早く來た。――それから三日目の午後、杉村はある村の選擧報告の演説會に出かけて行つた。そこでの演説を終へ、他の村へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らうと道へ出かゝると、五人の紳士がそこに待ち伏せてゐて杉村を何處かへ連れ去つて了つたのである。その場では杉村一人であつたが、その後二三日のうちに書記たちは半分に減り縣本部や各地區の事務所はガラ空きになつた。
 ――がたんと厚い扉のしまる音がし、ついで鐵と鐵のすれ合ふ音がし、消えて行く靴音を耳で追ひながら、その部屋のまん中に崩れるやうに横になつて、杉村はとろとろと何時間か眠つた。――田舍の留置場は人數も少く規則もルーズだつた。一眠りして起きると、ああ、こゝへ來たんだつけ、とあらためて氣づき、小さな窓から日の傾きかげんを測るともう日暮れにほど近い時刻らしかつた。何ヶ月前かにもこゝへ來て、見覺えのある壁の落書を見てゐると、過去と現在と將來の見透しが走馬燈のやうに腦裡をかけ巡つた。何度來てもそれはその度毎のことで、慣れ切るといふことは出來ないものとおもはれる。しかし時が經ち、夕飯を終へて灯りが淡く房内を照す頃になると氣持はぢんとおちついて來た。とんでもないところで大西のいつた休養ができると杉村はわらつた。とらへられたことによつて當面の困難な任務から一時でも解放されることの氣易さを、ちよつとでもそんな氣の起ることを恥ぢながらも感じた。
 うつらうつらしてゐるうちに十日ばかりが經つてしまつた。――が、すぐに杉村は思ひがけない衝撃にぶちのめされなければならなかつた。
 ある日杉村は町の本署へまはされた。留置場のある建物へ導かれ、廊下の隅に立つて待つてゐると、一人の男が房から出され、持ちものの調べがはじまつた。俺の代りによそへやられるんだな、と思つてひよいと見ると、和服姿で顏ぢゆう髯だらけになつてはゐるが、まぎれもなく小泉だつた。向うはとうに氣がついて、ちらりとこつちを見ては眼にものをいはせてゐる。
「ちよつと便所へ。」とそのとき小泉はいひ、いふかと思ふともう場馴れたふうでずんずんと便所の方へ――杉村のゐる方へあるいて來た。彈力のある精悍な身のこなしに何かあるなととつさに心に身がまへると、すれちがひさまに、
「共産黨狩りだ。」
 と低く一言だけいつた。低くしかし鋭い聲だつた。
 はつと思ふともうはげしく動悸が來た。それは部屋へはいつたのちまでも容易にはとどまらなかつた。度を失つた狼狽にしばらくぼんやりしてゐたが、急に聲をあげてはつはつと嗤つてやりたかつた。自分をあざける笑ひをである。知らぬが佛とはいへなんと心のどかにこの十日間を暮して來たものであらう。おそろしい陷穽がその間にも着々と準備されつゝあつたのを知らずに。杉村はとらへられた當初から今が今まで事柄の性質をきはめて簡單に考へてゐた。選擧後の大衆運動をふせぐための豫備檢束にすぎないとしてゐたのである。それは餘りにも自明であり、思ひなほして見ることすらもなかつた。だが今の小泉の一言は? ほかの誰がそれを聞いても平氣でゐることができたであらう。だが小泉と杉村の二人だけは平氣では居れぬわけがあつた。事柄は重大なものを含んでゐるのである。
 ふとあることに思ひ當つて杉村は青くなつた。單純な恐怖ではなく複雜なものを孕んだ感情だつた。そしてたとへそれについて訴へる自由が今あたへられたとしても、何人にたいしても話し得ないその事の性質を考へると杉村はたまらなかつた。彼は齒の根も合はぬほどにふるへ、ゐたたまれなくなつて起上り、戸口のところへ立つて行つた。むしやうに人の顏が見たく、さうしたならば氣も樂になるであらうと考へた。
 鐵格子から向うの房内をすかして見て、彼はふたたびあらたなおどろきに打たれた。戸口にちかい壁によりかかつて、これもやはりなにかものほしさうに外を見てゐるのは組合員の一人ではないか。幹部でもなんでもなかつた、しかし日頃から見知り越しの一人だつた。彼はなんのために引かれて來たものであらう。それはいふまでもないことで、もうそんなところまで手をのばしてゐるのかと、馬鹿らしさといきどほりとが一緒になつて胸をつきあげて來るのだつた。しかし思ひがけない顏を見出したよろこびは大きく、かつは知りたいと願つてゐることが聞けるとおもふ豫想にはずむ心はおさへがたく、とんとんと合圖の扉をたたいたのである。
 向うはまつすぐ扉のところまで寄つて來、杉村を認めたやうである。緊張した顏つきになり、房内をふりかへつて何かいふと、人のけはひがしてすぐに二三人立つて來た。一人ではなかつた! みんな見知つた顏である。
 咽喉元まで何か出かかる言葉を、さすがに外をはばかつておさへ、その代りあらゆる親愛の情をそれ一つにこめた微笑を杉村は投げあたへた。
 何がそれに向つて答へられたか。
 ぢつとまたたきもせず杉村を凝視してゐるいくつかの眼は、眼尻に皺一つ寄せなかつた。それは險しくきついものになるばかりであつた。口元はいつまで經つても綻びず、固く結ばれたままにゆがむのであつた。野良からそのまま連れて來られたらしい仕事着のままのもゐる、髯も髮ものび放題の憔悴し切つたその顏にいつかはつきり浮びあがつてゐるものは、人をつきさす非難の色以外の何ものでもなかつた。杉村はいきなりひつぱたかれたやうな氣持だつた。
 突然なかの一人が黄いろい並びのわるい齒を齒ぐきもろともむき出した。
「ちえつ!」
 はげしく舌打ちをし、手をあげ、拳を作つて宙にうちふるやうにすると、ふたたび鐵格子をしつかと掴んで、喰ひ入るやうにこつちを見るのである。――
 事實憎惡と怨恨と憤怒とがこれらの人々をとらへてゐたのである。長い間彼らは何のために自分たちがこゝへ連れて來られたかを知らなかつた。それを今日の晝になつてやうやく知つたのだ。はじめ二日か三日で出れるものと人もいひ自分も信じてゐたのに、それが十日二十日とつづきしかも何らの取調べもなく過ぎたとき、彼らの不安と焦躁とはしだいに大きなものになつて行つたのである。何よりもいけなかつたのは、彼らが生れおちるときから[#「ときから」は底本では「とから」]、手足を動かさずにゐた日が數へられるやうな人間であつたといふことだ。全身をもつて働きつゞけることのなかに樂しみをも苦しみをも見て來、坐つてものを考へるなどはおよそ肌に合はないことだつた。最初の二三日彼らは互ひに顏をつき合せてボソボソと何か話し合つた。だがふりかへつて見れば、單調な一本道を十年一日のごとくあるきつゞて來たにすぎない各自の生活を、彼らは知り盡してゐるのである。話題はすぐにも盡きてしまふ。はなれて見るとやたらに土がなつかしく、晴れた青空を見ては春おこしを思ひ、耕作がおくれるといふ考へに心を灼いた。――やがて何日間か過すうち、彼らの肉體と精神は何か調子の狂つたものになつて行つた。考へるべき對象を失つた頭には暗い穴のやうなものがあき、働きかけるべき對象を持たぬ手足は急速に彈力を失つた。あるものはそれをかなり鋭く自覺したし、あるものは自ら意識せず、視線の向け所に迷つてあらぬ方を見つめてゐる濁つた眼つきや、妙にべたついて見える立居ふるまひにそれを示した。白晝何ものもない壁を見てゐてくすくす笑つたり、袖で鼻や顎のあたりをやたらにこする仕ぐさをして見たり、夜は何か叫んで突然とび起きたりするものが段々ふえて來るのだつた。――
 それが今日はじめて引き出され、はげしい言葉で立て續けに問ひつめられたとき彼らは相手の顏をいつまでもまじまじみつめてゐるばかりだつた。わづかに事柄が杉村に關するものであることを知つたが、杉村がやつたと推察され、そのために自分たちまでが追求されてゐる事柄は、彼らにはまるで無縁な餘計なこととしか思へなかつた。何を問はれてもただ無意味に頭を下げ、相手を忘れて杉村への怨み言を口ごもりつゝかきくどいた。その部屋を引下るとき彼らの一人がおそるおそる尋ねた。明日は出していただけますか? 問はれた紳士は、はつはつと大口を開いて笑ひ、言つたものである。今年ぢゆう一杯だ! 足が腐る迄も居るがいいわさ! 夢中で歸つて來た彼らはしばらくは足がふるへて立てなかつた。ほんのちよつとの間でも外の空氣に觸れ、出られると思つた出鼻を挫かれると、失つた自由の壓力が二重の強さで迫つて來、物狂ほしいほどの心になるのだつた。やがて落着きを取戻して來るにつれ彼らの、憤怒はたつた一人の人間に、――彼らをこのみじめな状態につきおとした責任者に向つて燃えたのである。彼奴はどこにゐるだらう。何でまたおれたちは彼奴のためにこんな目にあはなけりやならないんだ!
 その杉村が今突然彼らの前に姿を現したのである。
 しをれ切つた姿で杉村はもとの場所へ歸つて來た。そこへうづくまりしばらくはぢつと動かずにゐた。いひ知れぬ寂寥がうちからうちからとせきあげて來た。それはかつて味はつたことのないものであつた。彼らのあの眼なざしほどに今の杉村をぶちのめすものはない。あらゆる種類の困難には勇氣をもつてあたることができる。その勇氣はだが單に杉村の肉體にのみ依存するものではない。杉村その人を支へてゐる一つの大いなる存在に由るのである。その支柱の崩れ行くさまを杉村は今眼のあたりに見たのである。彼はその原因について考へ、その一半が自分たちの側にあることを見た。だがそれはいかにしてもある程度までは避け難いことにも考へられた。――いつか彼は昔よんだある小説を思ひ出してゐた。ロシアの作家のもので、彼らのなかで彼らのために働いてゐた農村オルグを縛つてつき出した農民を描いたものであつた。なほ多く經なければならないであらうあたらしい試煉の數々について、杉村は思はないわけにはいかなかつたのである。

 一月が經つた。向ひの房の四五人はその間にも二度ほど調べられた模樣だつた。杉村は歸つて來る彼らの顏から何ものかを讀みとらうとしたが不可能だつた。やがて彼らはある日姿を消し(釋放されたのであらう)、その翌日杉村は呼び出されたのである。
 導かれて部屋にはいり、机をへだててそこに坐つた眼の鋭い洋服男の顏を、やや棄鉢な氣持で下から見上げた。たつた一つ、そのことのためにまんじりともしなかつた夜も多かつたその事實が、いや應なしに今はわかるのである……。
「暫くだつたな。」と彼はいつた。杉村はだまつてうなづいて見せた。しかし髯の濃いその圓顏はどこで見た顏かにはかに思ひ出せなかつた。
「元氣か?」
「ええ、元氣です。」
 髯の男は内田と名乘り、赤革の鞄をひらき何かを探つてゐたが、一枚の紙を取出すとそれを擴げ、突然杉村の前にぐつとつきつけた。そして杉村の眼のなかにぢつと見入り、無言でゐる。杉村の顏に動く表情のどんな瑣末な陰翳をも見逃すまいとの意氣組である。
「どうだ、おどろいたか、もうこれだけわかつてるんだ。」
 どぎもをうばひ得たつもりなのであらう。そこで彼ははじめてにやりとわらひ、煙草を口へ持つて行つた。杉村は眼の前にひろげられた紙を見た。美濃紙二枚ほどの大いさである。中央に長方形が描かれ、ある組織の機關名と括弧して人の名とが書いてある。その長方形はたくさんの線で、周圍の圓形や四角形に結合され、その各々には同樣に機關名と人の名とが記されてゐる。赤いアンダーラインのしてあるその一つを、相手はだまつて指でついた、杉村はそこに自分と小泉の名を見た。
「どうだ みんな言つて了ふかね?」
「ええ……」とちよつとためらつたのちに、「少し考へてからにしませう。」といつた。
「ふん、」と彼は鼻を鳴らした。「鐵の規律か、――それもよからう。だが君は手※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しがよかつたな。感心したよ。」
「え、なんですか。」
「白つぱくれるな!」と彼はそこではじめて大きな聲を出し、とんと机をうつて見えを切つた。
「何か一枚ぐらゐおれや出るかと思つたよ。ところがどうだ。掃き清めたやうにきれいなもんだ。合法出版物のはてまですつかり(原文四字缺)ゐやがる。覺悟してゐたんだな。――だがまあいい、證據物なんざあ何もいらんよ。今更な。」彼はうそぶき、あざけるやうな笑ひをもらした。
 え、なんですか、と聞き、そのときは事實彼のいふところを解しかねてゐた杉村は、この數瞬間にすべてを理解した。――(原文二字缺)をもはばからず感動のために彼は泣けさうになつて來た。
「どうだ、いふかね。」と又きいた。
「今日はいひたくないんです。」とこんどはきつぱり答へた。
「さうか、それもいいだらう。――ぢやあ根くらべと行くとしようか。」
 よろしい、根くらべでもなんでも、と昂然として杉村は答へたい氣持であつた。張りつめてゐた心がゆるみ、最初は嘘のやうな、夢のやうな氣持でただぼんやりしてゐたが、しだいに腹のしん底からの勇氣が溢れて彼を滿した。この一ヶ月間の苦惱と疲勞とが、ほんのみじかい時間のうちに除かれてしまつてゐた。何が來ようと今はそのものに體あたりでぶつかつて見せる氣力の充實を彼は感じた。
 それにしても誰の仕事だらう? 大西かな、木村かな、と親しみ深い青年たちの顏を杉村は思ひ出してゐた。捕へられた日の朝、杉村は一通の文書を受けとつたのである。讀んで短い時間のうちに處分しなければならぬ文書だつた。しかし彼はそれを讀み、何かの方法で心おぼえに書きとめておきたい内容をその文書に見た。すぐにそれを果すべきではあつたが、演説會の時間が迫つてゐたので、封筒のなかに入れ、ある所にしまひこんで彼は家を出て行つた。めつたにない不注意を犯して了つたのは、そこの演説會をすますと一度歸つて來るつもりであつたからだ。捕へられてしばらくは、尋常一ぺんの檢束とたかをくくつてゐたからであらう、彼はそれについて餘り考へもしなかつた。しかしすぐに彼らの檢擧の眞の性質を知つてからは、夜も晝も絶え間なく彼を責めさいなんだものは許すべからざるさきの日の不注意だつた。それを思ふだけで杉村の滿身の血は凍つた。事務所は當然荒されてゐる筈である。もしもあれが人手にはいつたら!
 不安にをののきながら一日も早い取調べをその爲に彼は願つた。そして今彼はすべてがかつて思つても見なかつたほどに有利に解決されてゐることを知つたのである。青年のうちの誰であらう? 彼はふたたびそれを考へた。彼が捕はれ、事務所が荒されるまでにはほんのちよつとの隙があつたにちがひはない。その隙に乘じての青年たちの敏速な行動であつたのである。それにしても彼はかつて自分が青年たちの知らない組織の一人であることを明したことはなく、ましてさういふ場合の處置について依頼したことはなかつたのだ。それだけに感動は大きく、こみあげて來る熱いものをせきとめることはできなかつた。――
「まあいい、今日は歸れ。」
 内田の聲に杉村は囘想を斷たれた。内田が立つたので彼も亦立つた。立上つた内田は何か考へてゐるふうであつたが、ちよつと待て、といつて次の室へ行き、風呂敷包みを一つ下げて戻つて來た。かなりの嵩のものを机の上にどさり、とおき、
「大西つて知つてるだらうな?」
 と訊いた。
 今はくらべもののないほどの大いさで彼の心を占めてゐるその名をふいに指され、杉村は思はずぎくりとした。きつとした心で顏をあげた。それには一向氣づかぬらしく、内田は自分で風呂敷包みの結びを半分ときかけながらつゞけた。
「特別待遇だぞ。大西の差入れだ。差入れなんて、まだ許す時ぢやないんだが、俺がはからつてやるんだ。」
 包みを披いてみると、袷、洗濯したメリヤスシヤツ、猿又、紙などがあり、その上に別の一包みになつて、飴玉と花林糖の紙袋があつた。
「御馳走になります。」とことわつて、また腰をおろし、杉村は飴玉を口に入れた。ただしやぶつてゐるのがもどかしく音をさせて噛み碎いた。袋を見ると事務所の前の駄菓子屋のそれである。彼らの研究會のすんだあとによく買ひつけてゐた店であつた。大西の無事はこれでわかつた。もう一つ知りたいことがある。自分とおなじ状態にあるといふことだけしかわかつてゐない小泉の消息である。それを内田に訊かうとし、咽喉まで聲が出たが、ぐつとおさへつけた。
 部屋のなかで着替へ、今まで着てゐたものをそこの隅におき、杉村は房へ歸るために廊下へ出た。
 廊下の窓はどこも開け放たれ、爽かな風が音を立てて流れてゐた。もういつか四月も末であつた。窓のすぐ下は賑やかな道路で、春日のなかによそほひのあらたまつた人々の往き來する姿が美しかつた。失はれた自由がまた強く胸に來た。すぐ目の前の電柱に何か大きなポスターが貼つてある。斜に貼つてあるので「赤化思想排撃大演説會」の文字と、その肩にならんでゐる辯士たちの顏ぶれまでがよく見えた。東京から來た二三の名士にならんで、石川その他二人の名がまじつてゐた。いつもの年ならあのポスターの代りにもうメーデーのそれが貼られる頃だが、と杉村はちよつとそんなふうに考へた。さうしたものが公然と貼られてゐる事實は、その後の組織の運命をもの語つてゐるやうであつたが、それを見、今の自分をふりかへつて見ても、すべてが終つたとの感じはしなかつた。むしろ反對の、まだ踏み出したばかりだとの感じの方が強かつた。杉村はさつきからずうつと大西たちの姿をそこにあるもののやうにはつきりと眼に見つゞけてゐたのである。うながされて彼は暗い部屋につゞく階段を下りて行つた。
(一九三五年六月・中央公論)





底本:「島木健作作品集 第四卷」創元社
   1953(昭和28)年9月15日初版発行
初出:「中央公論」中央公論社
   1935(昭和10)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2010年3月9日作成
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