白紙

立原道造




 突然が僕を驚かす。僕はそのとき、發見したのだ。ひとりの少女は、埃りにまざつて電車にのつてゐた。朝の空氣が僕たちの間を流れる。僕たちは、眼と眼で、そつとうなづきあふ。ちようど知らない人間同士がするやうに。それから、僕は、何でもない數字を計算する。しかし、僕は自分の苦痛からはみ出さうとするこのたくらみに失敗する。すると僕は、動けなくなる。ぼんやり窓のところを見つめるきりだ。町が、走り去つて行く窓のところを。

 それが、はじめて出會つたその少女だつた。……

 だん/\上手になつて行く想像、僕の傍でうつとり息をしてゐる、羚羊のやうなやはらかい瞳。遠近のある少女の身體。しかし、それは少しも彼女に似なくなる。僕は、四分の一の大きさの彼女をしか知らない。やがて僕は、海の底にゐるメクラの魚のやうに苦しくなり出す。
 これが、僕の愛情のきざしだつた。
 そして、僕は、朝の電車で、彼女に、しば/\出會ふのだつた。

 或る日。僕は、親しい友人に、それを、うちあける。その友人が、祕藏の寫眞のやうな僕のその少女を知りたがりはじめる。一種の怖れで、僕は、得意げな顏をする。それから、僕は、わけもわからず、顏を赤らめる。
 友人同士が一しよにうまくやつて行くのは、彼等を裏打ちしてゐる苦痛のおかげにすぎないのだ。
 僕と、その友人は、電車に乘る。僕たちの向ひに、三人の少女が坐る。すると、彼はあはて出す。そして、僕に、そつとさゝやく。
 ――その一人は彼の知り合ひだと。僕は、わざと知らない顏をさせる。彼の頬に、へんな線が浮ぶ。と、同じやうな線が、向ひの少女の顏にも浮ぶのだ。僕ひとりが、わるくはしやぎはじめる。向うの會話は何もきこえない。笑つたり眼を閉ぢたりする動作が僕たちの傍へやつて來る。……

 僕は、こんな風にして、愛情のなかへ沈んで行つた。自分では、その沈んだ深さを測定出來ない。その結果、僕は、自分の愛情を見誤るのだつた。
 そして、あはてて、彼女に手紙を書く。だが、それをいつまでも彼女に渡せない。僕は、それを、ポケツトのなかにそつとしまつたのだ、學校の行きかへりに、ポケツトが氣になる。時間が、その手紙を、感情の汚點しみで古くしてしまふ。

 うまい機會がやつとやつて來る。
 それは、午後の坂道だつた。僕は、その少女とすれちがつた。すれちがふ汽車の速力が何も見せないやうに、僕に何も知らせない。
 僕は、急に決心した。そして、彼女に手紙を渡したのだ。彼女は頬をあからめた、坂道をずん/\のぼりながら。僕は、立つたまゝ、彼女の靴の鳴るのを聞いた。するとかすかな心配がやつて來た。……

 すぐに彼女の返事が待ちきれなくなる。翌日は雨だつた。雨だれの音が、身體のなかに入つて來る。幾日もの間、不用だつた一切が急に必要になる。僕は、自分をだますために、詩を作る。――
(手紙。……
ひとつの返事が來ると、それに返事したい新しい欲望
水仙のにほひ
郵便切手を、しやれたものに考へはじめる……)

 毎日通ふ學校や、友人が、うるさくなる。僕は、病氣のまねをする。
 彼女の返事は來ないのだ。
 かういふとき、彼女の肖像を想像することは、却つて彼女を忘れさせる。それは、待つてゐる時間は、待つてゐない時間よりも、その待つてゐるものを見えなくするからだ。僕のなかで、だん/\ひとりの少女が逃げて行く。僕には、それを追ふことが出來ない。

 さうして、毎日。昨日にました苦痛がやつて來る。昨日は過去だ。過去は手術しない、僕は、苦痛のなかで、ぼんやりしてゐる。僕が時計の文字板カドランから讀むのは、要するに數字にすぎない。僕の期待と無關係な時間なのだ。

 或る夕方。僕は、いつかの友人と一しよに、此の間の坂道を歩く。僕はわざと陽氣さうな笑ひ聲を立てたりする。(それは、一錢銅貨の裏表のやうに苦痛にすぐ近いものなのだ。)
 すると、にせ物の意地わるい天使が遠くからやつて來る。僕は、最初、やさしい顏をしてみせる。そのおかげでだん/\僕には今起つてゐることがわかるのだつた。僕は、急に水のやうな空氣を感じ出す。小さな魚や、古靴や、油や、蛾を。傍にゐる友人が、不思議さうな眼で、僕の横顏を見つめる。彼には何もわからない。僕は、さうして僕を立ち去る。僕の肋骨や足に躓きながら、彼女から立ち去るやうなふりをして。しかしその時、彼女は僕たちとすれちがつてゐた。……





底本:「立原道造全集 第3卷 物語」角川書店
   1971(昭和46)年8月15日初版発行
   1976(昭和51)年8月30日7版発行
初出:「こかげ 第3号」
   1932(昭和7)年9月
入力:八八十零
校正:村並秀昭
2020年2月21日作成
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