友と
二人でブラリと
家を
出た。
固より
何處へ
行かうといふ、
的もないのだが、
話にも
厭きが
來たので、所在なさに
散歩と
出掛けたのであツた。
入梅になッてからは
毎日の
雨降、
其が
辛と
昨日霽ツて、庭
柘榴の花に
今朝は
珍らしく
旭が
紅々と
映したと
思ツたも
束の
間、
午後になると、また
灰色の
雲が
空一面に
擴がり、
空氣は
妙に
濕氣を
含んで
來た。
而て
頭が
重い。
「
厭な
天氣だね。」
「こんな
日は
何うも
氣が
沈んで
可けないものだ。」
味も
素氣もないことを
云ツて、二人は
又黙ツて
歩を
續ける。
道路の
左側に
工場が
立ツてゐる
處に
來た。二十
間にも
餘る
巨大な
建物は、
見るから
毒々しい
栗色のペンキで
塗られ、
窓は岩
疊な
鐵格子、
其でも
尚だ
氣が
濟まぬと
見えて、
其の
内側には
細い、
此も
鐵製の
網が
張詰めてある。
何を
製造するのか、
間断なし
軋むでゐる
車輪の
響は、
戸外に立つ
人の
耳を
聾せんばかりだ。
工場の
天井を
八重に
渡した
調革は、
網の
目を
透して
のた打つ大蛇の
腹のやうに見えた。
「恨ましやすんな、諦めなされ、
日の眼拜まぬ牢屋の中で、
手錠、足械悲しいけれど、
長い命ぢやもうあるまいに
何うせ自暴だよ……」
皺嗄れた
殆ど
聴取れない
程の
聲で、
恁う
唄ふのが
何處ともなく
聽えた。
私は
思はず
少し
歩を
緩くして
耳を
傾けた。
機械の
轟、
勞働者の
鼻唄、
工場の
前を
通行する
度に、
何時も耳にする響と聲だ。
決して
驚くこともなければ、
不思議とするにも
足らぬ。
併し
何ういふものか
此時ばかり、
私の
心は
妙に
其方に
引付けられた。
資本主と
機械と
勞働とに
壓迫されながらも、
社會の
泥土と
暗黒との
底の底に、
僅に其の
儚い
生存を
保ツてゐるといふ
表象でゞもあるやうな
此の
唄には、
何んだか
深遠な
人生の
意味が
含まれてゐるやうな氣がしてならなかツた。
けれども勞働者の唄は
再び
聽えなかツた。
只軋く
車輪と
鐵槌の響とがごツちやになツて
聞えるばかりだ。
若しや
哀れな勞働者は其の唄の
終らぬ
中、
惡魔のやうな機械の
運轉の
渦中に
身躰を
卷込まれて、唄の
文句の其の
通り、
長くもない
生涯の
終を
告げたのではあるまいか。と、
私はこんな
馬鹿氣たことまで
空想して見た。
「何んだか
悲しい唄ぢやないか。」といふと、
「
然うだね。
僕は何んだか
胸苦しくなツて
來たよ。」と儚ないやうな
顏をしていふ。
「何うして
急に
舍して
了ツたのだらう。」
「然うさね。」
其は
永遠に
解けない
宇宙の
謎でもあるかのやう。友と私とは
首を
垂れて工場の前を
通過ぎた。
「
君、
此の
頃躰は何うかね。」と
暫くして私はまた友に
訊ねた。私
達は
會ふと
必ず
孰ちか
先に
此の事を
訊く。
一つは二人
共躰に
惡い
病を
有ツてゐるからでもあらうが、一つはまた
面白くない
家内の
事情が
益々其の
念を
助長せしむるやうになツてゐるので、
自然陰欝な、
晴々しない、
稍もすれば
病的なことのみを
考へたり
言ツたりするのであらう。
「躰?」と友は
些ツと私の
方を見て、「躰は
無論惡いさ。
加此此の
天氣ぢやね。」
「
矢張惡いのか。そりや
可かんね。何ういふ
風に?……矢張
何時ものやうに。」
「然う。まア、然うなんだらう、
頭が
變にフラ/\するし、其に
胸が何うも。」
「
痛むのか。」
「あゝ。」
「そりや
困るな。」
頭の
所爲か
天氣の
加減か、何時もは
随分よく
語る二人も、
今日は些ツとも
話が
跳まぬ。
「躰も無論惡いが」と暫らくして友は
思出したやうに、「それよりか、
精神上の
打撃はもツと/\胸に
徹へるね。」
「……………」
「あゝ、僕あもう
絶望だよ!」
投出すやうな
調子で友は云ツた。私の胸は
鉛のやうに
重くなツた。
「
曩の勞働者の唄ね、
君は何う
思ふか
知らないけれど、あれを聽いてゐて、僕は
身につまされて何んだか
泣きたくなるやうな氣がしたよ。」
「然うかい、君も然うなのかい、」と私は引取ツて、「工場の前も
幾度通ツたか知れないが、今日
程悲しいと
感じたことは
是まで
一度もなかツた。其にしても君、
僕等の
一生も
好く
考へて見れば、あの勞働者なんかと餘り
違やしないな。」
「然うさ、五十
歩百歩さ」と、友は
感慨に
耐へないといふ
風で、「
[#「「」は底本では欠落]少許字が
讀めて、少許
知識が
多いといふばかり、
大躰に
於て餘り
大した變りはありやしない。
口では
意志の
自由だとか、
個人の
權威だとか
立派なことは云ツてゐるものゝ、
生活の
爲めには
心にもない
業務を取ツたり、
下げなくても可い頭も下げなければならない。勞働者勞働者と一口に
賤んだツて、
我々も其の勞働者と些ツとも違やしないぢやないか。下らぬ
理屈を
並べるだけ
却ツて惡いかも知れない。」
藝術の
價値だの、
理想の
永遠だのといふことを、
毎も
口癖のやうにしてゐる友としては、今日の云ふことは
何だか
少し
可笑しい……と私は思ツた。
「けれども……、」と友は
少し
考へて、「僕等は
迚も勞働者を
以て
滿足することは
出來ない。よし僕等の
生涯は、勞働者と
比較して
何等の
相違がないとしても、僕等は
常に勞働者的生涯から
脱して、もう少し意味ある、もう少し價値あるライフに
入りたいと
希望してゐる。生れて
人間の價値をも知らず、宇宙の意味をも考へないで、一生を
衣食の
爲に
營々[#ルビの「えい/\」は底本では「/\」]として
浪費して了ツたら、其は随分
辛いだらうが、
高が
些々たる
肉躰上の
苦痛のみなのだから、其の
人に取ツては
或意味に於て
寧ろ
幸福であるかも知れない。
讀書は
徒らに人の
憂患を
増すのみの
歎は、
一世の
碩學にさへあることだから、
單に
安樂といふ意味から云ツたら其も
可からうけれど、僕等は
迚も其ぢや滿足出來ないぢやないか。そんな無意
義な生涯なら
動物でも
送ツてゐる。
如何に何んでも、僕は動物となツてまでも
安さを
貪らうとは思はないからな!」
沈痛な
調子で
恁う云ツて、友は其の
幅のある
肩を
聳やかした。
「あゝ僕等は何うして恁う
不幸なんだらう。
精神上にも
肉躰上にも、毎も
激しい苦痛ばかりを感じて、少しだツて安らかな
時はありやしない。恁うして
淋しい一生を送ツて
行かなきやならないかと思ふと、僕は
自分の
將來といふものが
恐ろしいやうな氣がしてならない。」
「
眞ンとに」と、友は痛く感じたやうな
語調で、「僕等の將來は
暗黒だ。けれども其の
埒外に
逸することの出來ないのが
運命なのだから
爲方がない、
性格悲劇といふ
戯曲の
一種があるが、僕等が
丁度其だ。僕等の
此の性格が
亡ぼされない以上、僕等は
到底幸福な人となることは出來ない。」
「けれども、」と私は
口を
挿んで、「けれども其の一種の性格が僕等の
特長なんぢやないか。此の性格が
失われた時は、
即ち僕は
亡びたのだ。然うしたら社會の人として、
或は
安楽な
生活を
爲し
得るかも知れない。
併し精神
的には、
全く
死んで了ツたのも
同じことなんだ!」
「然うだ、其だから僕等の生涯は
永久に暗黒だと云ふのだ!
家庭は
人生の
活動の
源である、と、人に
依ツてはこんなことを云ふ
者もある。
成程、
一日の苦
闘に
疲れて
家に
歸ツて來る、
其處には
笑顏で
迎へる
妻子がある、
終日の
辛勞は
一杯の
酒の
爲に、
陶然として
酔ツて、
全て人生の
痛苦を
忘れて了ふ。恁ういふことが出來たら、其は
嘸樂しいことだらう。併しこんなことが
果して僕等に出來るだらうか、少くとも僕等はそんなことを
爲し
得る
素質を
有してゐるだらうか。
何うして思ひもよらぬことだ。」と少し
苛々したやうな調子で、
「あゝ
孤獨と
落魄!
之が僕の
運命だ。僕見たいな
者が家庭を
組織したら何うだらう。
妻には
嘆きを
懸け
子には悲しみを
與へるばかりだ。僕は、
病床を
侍して
[#「侍して」は底本では「待して」]看護して
呉れる、
優しい
女性の
手も知らないで
淋しい
臨終を
遂げるんだ!」
私は
默して
只歩を運んだ。
實際何と云ツて可いやら、些と
返答に
苦しんだからである
[#「である」は底本では「でかる」]。友の思想と自分の思想とは
常に
殆ど同じで、其の一方の感ずることは
軈て
又他方の
等しく感ずる處であるが、
今の
場合のみは、私は
直に
賛同の意を
表することが出來なかツた。其の生涯の孤獨といふ考には
心から
同情しながらも、
猶他に
良策があるやうに思はれてならなかツた。少くとも自分だけは、もう些ツと
温な、生涯を送りたいやうな氣がしてならなかツた。
ふと
眼を
我歩み
行く
街路の
前方に
向けた。五六
間先から
年頃の
娘が歩いて來る。
曇日なので
蝙蝠は
窄めたまゝ
手にしてゐる
故か、
稍小さい
色白の顏は、ドンヨリした
日光の下に、まるで
浮出したやうに
際立ってハツキリしてゐる。頭はアツサリした
束髪に
白いリボンの
淡白な
好。
娘は
歩みながら私の顏を
凝と見入ツた。あゝ其の意味深い
眼色!私は何んと云ツて其を
形容することが出來やう。
媚るやうな、
嬲るやうな、そして
何かに
憧れてゐるやうな其の眼……私は
少女の其の
眼容に
壓付けられて、我にもなく下を向いて了つた。其の
間に娘は
艶かしい
衣の
香を
立てながら、
靜に私の
側を通ツて行ツた。
「フアゾムレス アイズ!」
私は幾度となく此の
言葉を心の
中で
繰返して見た。
少女の眼は
滅入り
込んだ私の胸を
輕くさせた。今までの
悲哀や苦痛は
固より其によツて少しも
減ぜられたといふ
譯ではないが、
蔽重なツた
雲の
間から
突然日の
光が
映したやうに、
前途に
一抹の
光明が
認められたやうに感じて、
是からの自分の生活というものが、
何だか
生効のあるやうに思はれた。
若き
血潮の
漲ぎりに、私は
微醺でも
帶びた時のやうにノンビリ
[#「ノンビリ」は底本では「ノンドリ」]した
心地になツた。友はそんなことは氣が
付かぬといふ
風。
丁度墓門にでも
急ぐ人のやうな
足取で、トボ/\と其の淋しい
歩を
續けて行ツた。