媒介者

徳田秋聲




 青山夫人と自分と出來て了つた翌朝のこと二人の仲を取り持つた指井から電話が掛つてた。尤も明白地あからさまに指井とは云はぬ、『友人です、お掛りになれば分明わかります。』とだけで名前を云はない。
『隨分變なお方ですね。』
 と取り次いだ女中が言つた。
 掛つてみると、電話口ながら何とやら冷かすやうな聲で、
『今日お出でになるでせう。』と
 故意わざと鹿爪らしい調子で訊く。
『如何しやうかと思つてる所。或は行かないかも知れない。』
 と自分も故意と毅然きつぱりした聲で云ひ切つた。
ういはずと行つてやつて呉れたまへな、對手むかふではう一生懸命になつてるんだから。』
『然うかね。』
 自分は電話臺に凭れたまゝ考へて居た、事實今日又出掛けやうか出掛けまいかの問題が未だ解決せられて居ないのだ。
 何しろ昨日のことがあまり突然過ぎた。指井がその前日來て『明日閑か』と訊くから『閑だ』といふと『それぢや面白い所に連れて行かふ』と冗談半分言つたのが始まりだ。それから翌日になつて此方は待ち設けもせぬのに指井が約束の時刻にやつて來て『サア行かふ』と促す。行先は何處とも知らないが、只好奇心に驅られて、『態々連れて行かるゝかな』と笑ひながら後からついて行つた。水道橋から甲武線の電車に乘つて信濃町まで。其處から二丁となかつた。
 斜に走つた黒板塀の三分の一程の所へ株木門があつて重いが音の低い潜戸が閉つて居る、それを入ると二三間して今度は音の高い格子戸、その右側の方の板塀に長方形の細い開き戸が付いて居るのをちらと見て家へ入つた。
『御免』と指井が親密さうに呼ぶと、出て來たのが三十位の婦人、それが青山夫人であつた。
 物の二十分も指井が打ち解けた話をして、便所に立つと、『奧さん一寸』と呼んで、二間位先きの方で何か私々話をした。そして『僕一寸其所まで行つて來たいから少し此所で待つて居て呉れたまへ、遲くもおひるまでには歸つて來るから』と指井は匆々さつさと出て行つた。
『ぢや僕も既う歸らう。』と少し掛引を見せてみたが、夫人は別段止めやうともしなかつた。と云つて自分も歸らうとはしなかつた。
 それから二時間ばかりして、今度は眞實に歸るといふと、
『何日?』と夫人が訊く。
『明日。』と自分は出任せに答へた。
 格子戸を開けた時、婦人は低い聲で『今度は其方から。』と開き戸を指した。
 急いで又甲武線の電車に乘り込むと、丁度その時ドンが鳴つた。電車の中でも、一人呆氣に取られて居るやうな氣がした。
 歸つて差支のない限りで友人に話すと『多分一種の色狂だらう』と是は又非道のことをいふ。
『それほどでもないがね、僕は只連れて行つた奴が怪しいと思ふんだ。何か曰くがあるに相違ない。』と自分は獨りで考へた。
『然うかも知れぬね。』
 と友人は一向氣乘りがせぬ、渠に取つては然く氣乘りのすべき問題でなかつたかも知れぬ。
 恁んな風で、昨日から今日へ掛けて考へてみても未だ眞想がわからなかつた。かと云つて然う重大な問題でもないので、明日は又明日の出來心といふ呑氣な所で考慮へることを見合はしてその儘にして置いた。其處へ掛つたのが指井の電話だ。
『え如何します。』
 と又催促する。
『いや實はたつた今起きたばかりで未だ飯も食はないのでね。所で、今君は何處に居るの?』
『ぢやあね、兎に角私が君を彼所へ御案内した眞意を今日はお話しますから、一寸此處まで來て呉れませんか、今水道橋の自動電話に居ますから。』
『ぢや直ぐ行かう、待つて居て呉れ給へ。』
 と電話を切つた。
『御案内した眞意をお話しする』如何にも魂膽のありさうな口吻くちぶりだつたので自分も不覺つい氣が急いて、飯も食はずに急いで飛び出した。何だか恐ろしいやうな氣もする、指井は自分に八歳も年上で、加之餘り親しい仲でもない。
『ナーニ對手が惡人だつたら此方はもつと大きな惡人になつてやるばかりさ、一旦度胸を据ゑたら俺だつて。』
 と云ふやうなことまで思ひながら、田舍道なら霜柱がザク/\潰れさうな日蔭の冷い道を乾風に吹かれて急いで水道橋まで下りた。恐ろしく寒い朝であるやうな氣がした。
 指井はインバネスの袖を掻き合せて自動電話の蔭に立つて居た。如何んな顏をして居るかと内々氣に掛つて居たが、寒風に吹かれて顏色が蝋細工みたいに青白くなつて居るばかり、格別變つたこともない。
『ヤア失敬。』と聲をかけると、
 眼鏡の下から笑ひながら、
『イヤお早う。』とお愛想をいふ。
 二人共一寸默つて居たが、其處まで歩かうと堀端傳ひに歩き出して、
『君、彼女あれは一種の色狂ぢやないか。』
 機先を制した方が、といふやうな氣がして、自分は昨日友人が言つた文句をその儘使つて言つた。
『然んなことがあるものか。』と指井は變な眼をして自分を見た。
『でも君がいふやうな世間見ずぢやないやうだぜ。』
『いやそんな筈はない。それぢや外に男でも拵へて居るやうでしたかね。』
『いやそれだけは無いやうだ。少くとも近い頃までにはなかつたことは僕が實驗から證明する。』
と出鱈目のことを云つた。
『然うですか否、結局其處なんです、私が君をお連れ申したのも、そんなのが居るか居ないかを見て戴き度い爲なんです。實の所はね今日委しく御話し申しますが、青山と私とは同郷の友でね、青山が不在中は萬事私が那の家族の面倒を見てやることになつて居るのです。然ういふ位置にありながら君を媒介するなんて甚だ怪しからぬやうな譯だが、そこには又葢もあれば底もありでね、實は直ぐ那の隣家に中學校の事務員とかをして居る氣障な奴が居るんだ。其奴が此頃つけ狙つて居るやうで、毎日ほど入り込んでは誑さうとして居るんです。那の細君は中々確乎しては居るけれど、何しろ世間見ずの女ではあり、もう四年の餘も良人と離れて居るのだから、如何な事から彼奴の甘言に誑されんとも限らないからね。』
『はゝゝそれぢや毒を制すには毒を以てすといふ流義で僕を連れて行つたのだね。』
 と自分は苦笑した。然しもう先の疑虞の念は殘りなく融け去つて居た。
『否そんな譯ぢやないけれど、あんな奴に食ひ付かれちや何うせ金品を捲き上げられるに相違ないから、それでは後を頼まれた私が濟まないと實は心配してね。そんなことなら寧そ君をばと恁ふ思つたやうな譯なんです。君も商賣柄然ういふ經驗も滿更御厭ぢやあるまいと思つてね。』
 と指井が顏を覗きながら言つた。
『それだけかね、もつと身に譯がありやしないかね。』
『然うさ、それだけさ。』
『もつと何かありさうだね、でなけりや餘り迅速過ぎる。君が歸ると直ぐだつたぜ。その時君は餘程の惡人だなあと思つたぜ。』
『ふむ然うかね、尤も前々から君の噂はして居たが然うかね、然しそれほど君に參つちまつたんだらう。』
『ぢやあ眞意といふのはそれだけだね、後で持ち込んで來たつて知らないぞ。』
『あゝ大丈夫、安心したまへ。』
『然うか、それぢや宜し、安心するとせう。』
『だから今日も行くでせう。』
 と指井が又肩をすくめて眼鏡の下から笑ひながら言つた。色の白い、口髭の生えた、立派な男ではあるけれど、何處か恁う奧のあるやうな、厭なところがある。柔和な眼でそして細長いけれど矢張り何處かに恐ろしいやうな所がある。仔細に見ると餘り感じの宜い男ではない。
『兎に角歸つて飯を食つて來なくちや。』
『飯位彼方で食つたつて宜いさ。彼方でも差向ひで食べて見たからう。』
 恁んな調子だ、何事も酸いも甘いも噛み別た指井のことゝ思つて、聞かるゝまゝに昨日のことも細大洩さず話してやつた。ナチュラルな自姓の性質として話すまじきことすらも平氣で話してやつた。
『ふゝ然うかね。』と指井も同じ態度で應答した。
 それから三十分ばかり立つと自分は又水道橋から電車に乘つた。
『迚も今日は來て下さるまいと思つて居ましたわ。』と夫人は非常に喜んだ。
 それから一日置いて三度目に行つた時、突然夫人は、
『今日は貴方に怒らねばならぬことがある。』
 と云ひ出した。
『何です。』と怪みながら自分は落着いて答へた。が、夫人は次の間で着物を着換えて居る間も、只『眞正に非道いことを仰しやる。私は昨日一日憤つて泣いて居ましたよ。』とばかりで譯を話さない。
『何がそんなに御氣に障りました? それぢや今日は最早歸りませうか。』
『えゝお歸んなさい。』
 やがて出て來て坐つた。下頤が愛くるしい。
『何です、一體。若し僕が惡けりや謝まりますから。』
『貴方私のことを『色情狂だらう、色情狂なら御免蒙る』と仰しやつたつてね。』
『一體何人がそんなことを言つたのです。』
『指井が然う云ひましたわ、一昨日來て、皆聞いちやつた、祕事まで聞いちやつたつて。』
『それ虚僞ですよ。何人がそんな莫迦なことをいふものですか、そんなことを云ふ位なら今日來やしません。』
『私も然うは思ふけれど、でも『君が歸ると直ぐ持ち上つて了つた』の『隨分烈しい』ことを仰しやつたつて、何んぼお年が若いと云つてそんなことまでねえ、仰しやりはしますまい。指井が故意にそんなことを言つては私を苛めるんですよ。』
『指井君は自分が仲に立つてる癖に如何してそんなことをいふのだらう。眞逆か合はして置いて離して見やうといふ氣でもないでせうがね。』
 自分は内心憤懣しながら訝つた。彼の口吻では此方二人が共謀になつて、悉皆彼方を籠絡して置かうといふやうな話だつた。それで自分も殘らず彼に語つたのだ。それを彼方に行つて云ふとは氣が知れぬ。自分は再び指井の心事を疑つた。
『若しや貴女と關係でもあつたのぢやありませんか、關係がないまでも何か事情が。』
『否如何して、私は嫌で/\仕方がないのですけれど、良人の友人ではあり、如那して面倒を見て呉れますから、それは決して、誓つても宜ござんすよ。』と言つた。
 尤も指井には前に訊いたが『二三遍試しに望を引いてみたが、烈しく振りつけられた。』と言つた。
『それは色んなことを言つては私を苛めるんですよ。でも私何も信じないから宜い。貴方も默つて被居いよ、今日の事もね、でないと又私が苛められるから。』
『ぢや宜しい、お互に何も云はぬこと、又聞いても信用せぬことゝしませう。』
 それで和解はした。が、此の色情狂の言質には何遍となく弱らされた。
 それから四五日して指井が無理に自分を連れ出して例の夫人と三人で三越に買物に行つた。自分も内々着物の一枚も拵へて呉れゝば宜いと思つて居たが着物どころか手拭一筋買つて呉れなかつた。只休憩室で三人して鮓など食つたばかりだ。
 歸りに指井が下足札を出して居る時、自分は偶と夫人に『當分行かないかも知れませんよ。』と云つた。
『何故? 來て下さいよ。』
『何故でもないが年末に近づいて私も忙しいから。』
 その時指井が下駄を穿きながら、搜ぐるやうな眼でじろりと二人を見た。
 歸途は別々になつて夫人は電車に乘り、自分と指井とは一寸其處までと歩き出した。
『莫迦に吝々して居やがるな。歸途にうんと御馳走させやうと思つたのに。』
『でも女ぢやないか、君が然うといへば宜かつたらうに。』
『いや僕としては然うも云へないしね。』と指井は何か云はくのありさうな顏をして『何しても腹が空いた、何かその邊で蕎麥でも食はうぢやないか。』
『一杯飮まうか。』と自分も同意した。
 酒が宜い加減廻つてから、
『駄目だね、如那いふ所へ出ると見られないね、今日は又莫迦に年寄つて居たな、小皺が澤山寄つて居たぜ。』
『ナニ君が嫌氣がさしてるから餘計年老つてみえたのさ。何しろ餘り年が違つて居るからね。』
『年上の女は趣きがないよ。』
『然うだ、趣味がない。』と指井は解らぬながら相槌を打つた。
『それに肉が勝つて居る。』
 つい恁んなことまで云つて了つた。
 それから指井は下谷に豪商の持物になつて居る女が居て、甚大ひどくそれが戀着して居るが此頃何だか嫌になつて居ると話した。
『一度嫌氣がさすと益々嫌になるものでね、僕も然うだが、君も然うだよ。』と言つた。
『それに僕等のやうな覺めたる時代の人は如何しても冷靜になりやすいからね。』
『そしてお互に色情の奴隷ぢやないからね。』
 醉に任せて色々なことを喋舌つた。これ迄の經驗やら、それから得た婦人觀やら何やら。指井は餘り飮まないのに自分だけ無暗に飮んだものだから悉皆り醉つて居たので。
『それでも餘り氣の毒だ僕が恁んなことを言つたと彼方に行つて云はないで呉れたまへ、今日は餘り冷遇したから可哀さうになつて來た。』
 と歸るとき豫防線を張つて置いた。
 歸つてから直ぐ手紙を出した。指井が又色々と厭なことを云ふに相違ないから約束通り信用して呉れないやうに、尚今日當分行かぬと言つたが、此の月曜日には屹度行くから御安心あれと云つた。
 その月曜日のことである。
 指井の模樣は如何だと訊いてみたら、案の定、自分が前日彼に語つたことに殆ど輪を掛けて告げて居る、信用しないから介意しないけれど只困つたのは那の手紙だといふ。丁度折惡く指井が來て居る時屆いたので。仕方なしに眼の前で開いてみると、指井の名があつたから吃驚して、よくも讀まずに火中したのださうだ。すると指井が非常に憤慨して『何も火中なさらなくても宜い、私は別に覗きもせねばお見せなさいとも云ひはせぬ』と恐ろしい權幕で詰め寄つて、凄い顏をしたとのこと、『今一度如那いふことがあらうものなら私は眞正に殺されて了ふ、あんな怖いことはなかつた。』
 と夫人は恐れて語つた。
 で、變に思はせるでもないと思つたから、早速那れは一寸御機嫌を取つただけのこと、云はゞあ手管の一節、何も彼方が見せなかつたからとて憤つて貰つては困る。仲に立つた程の君だ、今少し僕を信用せられても宜からうと手紙を出して置いた。
 すると指井は早速出掛けて行つて、
『いくら貴女が逆上せたところで彼方ではこの氣で居るんだから仕方がない。』
 と自分がやつた手紙を出して見せた。
『如何です、仲々悧巧ですからね。此間も然う云つた、少し焦れさせなくちや駄目だ、女が一度焦れ出したら既う占めたものだと云つて居ましたよ。何うせ貴女は損をするんだ。』
 と恁うだ。
『ぢや貴方は私を餘程惡者だとお思ひなすつたでせう。』と自分は訊いて見た。
『否、何と書いてあつたつて故意と然う書いておやんなすつたんだと思つたわ。』
『でも僕を何んな奴とお思ひなさる?』
『惡者とは思はないわ。』
 夫人は恁う答へた。指井が焦れば焦るほど夫人は耳を假さないに相違ないと思つた。
 それから指井は執念く恁んなことを言つたさうな。
『餘り年齡が違ひすぎるんだ。奴に云はせると趣味がないとも、肉が勝つてるとも思ふかも知れない、何しろ未だ子供ですからね。せめて僕位だと好いが、僕なら丁度好い年合だが。』
 眞正に厭な奴と夫人は眉を顰めて云つた。
『これは面白い。今頃は定めし連れて行くんぢやなかつたと後悔して居るでせうよ。』
『眞正に厭ですね、指井が何處かへ去つて了へば宜い。』
『はゝ然うも行かないさ、指井君が連れて來なければ私達はやはり不見不知なんだから。』
 指井はその他にやれ下谷の女の所へ自分を連れて行くとか、本郷の何處とやらに恁ういふ女が居るから彼所へも連れて行くとかいふやうなことを故意といふ。それから此頃女を拵へて居るさうですよ、若い可愛い女で私も一遍會つた、と焚きつけて見る。かと思ふと、指井自身が來年家を持つかも知れないなぞといふ。貴下の家の二階を私の密會所に貸して呉れないかと云つたこともあるさうだ。
『故意とそんなことをいふんですよ。』と夫人はいふ。
『はゝ少し妬け氣味なんでせう。』と自分は顏色を覗きながら言つたが、夫人は默つて居た。
 一方でそんなことをいふかと思ふと、自分の方へ來ては莫迦に白々しいことをいふ。手紙を出した翌る朝、飛んで來て、
『決して然んなことではない。他の信書を見やうなんとそんなことを僕がする筈がない、屹度中傷でせう。』
 とさも心配して來たやうな顏をしていふ。
『いや僕は何とも思つては居ない、只君が誤解されぬやうにと思つてね。何も君に隱し立てをする心要は無いんだから。』
『然うですとも、いや先あ安心した。』
 何だか不得要領なことを云つて歸つて了つた。
 それきり指井と自分とは通り一遍挨拶をする外、詳しいことを云はなくなつた。
 二三日立つてから行つて見ると、夫人は、
『眞正に貴方、御迷惑でせうね、御迷惑でせうね。』
 と厭に御迷惑を振り廻す。
『はゝ既う終局が近づいたな。莫迦に早いな。』
 と自分は思ひながら、
『些とも迷惑なことはありやしません。如何いふ譯です。』と訊いてみた。
『指井さへ居なければ眞正に安心だけれど、彼が色々なことを爲るから、私は如何でも宜いけれど、貴方はこれからといふ大事な身體ですもの。』
『又何か云ひましたな。』
『えゝ何うせ皆虚僞だとは思ふけれど。』
 と夫人は浮かぬ顏をする。
 訊いて見ると恁うだ。
 昨日の朝指井から葉書が來て、良人――目下統監府に居る――から指井に手紙が來た、大變なことが書いてある。是非會つて御相談し度いとのことだ。何だらうと怪んで居ると、一時間も立たぬうちに追驅けて指井が來て今朝又電報が來たといふ。何うも大變だ、何人か無名の投書でもしたのだらう、大變な事になつて了つたと顏色を變へて云つた。そしてその返事だと云つて懷中から手紙を出して讀んで聞かせたとのことである。
『みんな虚僞なんです。ですからその手紙なり電報なりを見せて呉れといふと、忘れたから明日持つて來ると逃げるんですもの。それからその返事の手紙が可笑いんですよ。狂言なんだから切手が一寸とつけてあつたばかりだと見えて、眞ぐ落つこちるんですもの、私が御飯粒で貼つてやりませうと故意と、取れないやうにうんと貼りつけてやつたわ。それからね、序に私が出して置きませうと云つたらそれは狼狽て、否私が歸りに出すと匆々と懷ろに入れて了ひましたよ。』
『はゝ莫迦な眞似をしたもんだ。』
 と自分は彼を憫むだ。
『それでね、此先又どんなことをするかも知れないからと私心配してるんですよ。』
 虚僞とは知つて居ても充分嚇かされたと見える。
 加之子供も既う冬の休暇になるし、又自分も歳末になつて忙しいのに、何時まで莫迦なことばかりやつても居られないと思つたので、
『それでは既う冬の休暇も始まるししますから、先あ模樣を見て邪魔が入らなけりや來年又會うとして今度は此れでお別れとしませう、何分模樣を見てね。若し指井が貴女を脅迫するやうなことでもあつたら、早速私に知らして下さい、私には又私だけの思案があるから。』
 といふやうなことで別れた。仕方がないので夫人も機嫌よく納得した。
 それぎりだ。
 媒介者の指井にはその後一寸/\逢ふが、二人とも忘れたやうにその事は口にせぬ。只指井が益々透き通るほど青白い顏をして、眼の縁を赤くして居る。何となく怖いやうな顏色をして居る。滅多に眼鏡の下から笑ひもせぬといふ位のもの。(終)





底本:「發禁作品集」八雲書店
   1948(昭和23)年9月1日発行
初出:「東亞文藝 第一卷第四號」
   1909(明治42)年4月
入力:林 幸雄
校正:宮城高志
2010年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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