復讐

徳田秋聲




 たえ子はそのばんも女中のお春と二人きりのさびしい食卓に向つて、腹立しさと侮辱と悲哀とにみたされた弱い心をひて平気らしくよそほひながらはしを執つてゐたが、続いて来る苛々いら/\しい長い一夜を考へると、堪えられない苦痛を感じた。
 たえ子がこゝへ嫁いでから、彼是一年近くになつてゐた。勿論それは偶然の――と謂つても、今の世のなかで善良な普通の家庭に於ける結婚を取決める場合に、つくされるだけの順序は踏まれたので、東京にゐる叔母夫婦も出来るだけの注意を払ふのに手ぬかりは無かつた。田舎の彼の家柄とか、出身の学校とか、現在の収入とか、性質とか品行とか、それらのものは型どほりに調べられもしたし、見合ひもしたのであつた。そして其の上でまあ其処そこいらが落著おちつきどころときまつたわけであつた。
 彼女自身もそれに不足のある筈もなかつた。幸福な運命の一つを首尾しゆびよく自分に引当ひきあてたらしく思はれて、内心ほつとしたほどであつた。無論二三年前、学校出たての時分にたゞ漠然と頭脳に描いてゐた夢のやうな空想などは、二三のそんな話を受取るたんびに影が薄くなつて、それに無上の寂しさを感じながらも、恵まれた現在の運命に不服はなかつた。けれど品行方正らしく見えた良人おつとが、会社で一日働いて帰つて来ても、晩酌のときなぞに、そんな事にはまるで馴れない彼女に、何かしら飽足りなさを感じてゐることが、程なくたえ子にも判つて来た。最近たえ子は自分で拵へたものを、良人に食べてもらへるやうなことは滅多になかつた。そのうへ夜明頃になつて、絶望と疲労のためにやつとうと/\と眠に陥ちることも珍らしくなかつた。
 そんな事が長く続かうとは思はれなかつた。結婚前からの惰勢か、悪友の誘惑か、でなければ酒のうへの気紛れに過ぎないのだと思はれたが、心配をする段になれば際限がなかつた。その上結婚当時のあまい言葉や優しい態度など思合おもひあわせると、彼の愛も卑劣な欺瞞と賤しい情慾との塊にすぎないのだと思はれた。何も知らない清純な女を係締に[#「係締に」はママ]かけておいて、苦しむのを見て興がつてゐるのだとしか思はれない、彼の享楽気分にさへ触れたやうな不快と屈辱を感じた。
「男はみんなかうしたずるさをもつてゐるものだらうか。」
 考へると際限はなかつた。たえ子は今まで可恥はづかしくて、誰にも洩らさなかつた自分の苦痛を、思断つて友達に話してみようと思つた。
「私今夜はちよつと用達しに出ますから、お留守をしてゐてちやうだいね。」
 たえ子はお春に吩咐いひつけて着替きかへをすると、そのまゝふらりとうちを出た。たとひ良人が今夜は帰るにしても、顔を合せるのも忌々しいやうな気がしてゐた。

 暫く外へ出ない間に、世間がめつきり春めいて来たやうに思へた。ひつそりしたよひの町の静かさや、うるほひをもつた星の瞬きや、空に透けてみえる桜の枝などを見ても、淡い春の悦ばしさが感ぜられるのであつた。その辺は一体に勤人の住宅が多かつたので、何処の家でもつゝましげな和楽わらくの声がしてゐるやうに思へた。ピアノの音なども何となく彼女の胸を唆つた。
 たえ子は音楽が好きであつた。容貌などに自信のないところから、一時は音楽家として世のなかに立たうかとさへ思つたこともあつたが、田舎の家の事情が、さう長く学校に通ふことを許さなかつた。自分が音楽の天才でないといふ負目ひけめも、彼女の勇気を挫いた。しかし今となつて見ると、寧ろ芸術にでも精進して、孤独の※[#「りっしんべん+今」、U+5FF4、4-上-14]に生きた方が、何んなに仕合だつたか知れないと思はれた。
 静かな町を三四町も行くと、そこがもう電車通りであつた。たえ子はその間も今電車から降りて来たらしい洋服姿の人達ひとたちのなかに、良人を物色することを怠らなかつたが、かういふ時には、得て行違ひになりがちなものだと云ふ気がしたので、二三台待つても見た。しかし期待は外れて、何の電車も/\彼を卸しては行かなかつた。たえ子は為方なし反対の側へ渡つて、急いで電車に乗つた。
 電車は相変らず満員であつた。たえ子は込合ふ乗客のあひだに、辛うじてあしの踏み場を見つけて釣革につかまつてゐたが、実は時間もさう早くはないので、こゝから四谷まで行くのは大変だと思つた。勿論折があつたら一度は相談してみようとは思つてゐたのであつたが、今夜遽かに思立つたことは何だか唐突のやうにも思はれた。それにこの縁談の橋渡しをしてくれた彼等夫婦のことだから、同情はしてくれても、結局何うにもならずに、好い加減に慰められて悄々すご/\帰るより外ないことだらうと思ふと、結果が見えすいてゐて、騒ぐだけ自分の弱味と辱を浚け出すに過ぎないのだと云ふ気もしたが、現在の気持では、そんなことを考へてゐる余裕は勿論なかつた。で、何といふことなし、思ひきりめかして、小遣ひも多分に帯の間へ入れて、ふいと家を出たのであつた。そして其の時の気分では、事によつたら劇場か活動館のやうな、多くの人の集まる歓楽場へでも行つて、このもだえを紛らさうと云ふ意識もあつたにちがひなかつたが、それには時間がおそかつた。
 電車はいつか白山をおりて、柳町から春日町を経て、水道橋の乗替場のりかへばへ出て来てゐた。たえ子はそこで牛込行きに乗かへたが、その電車は前のよりも一層込合つてゐた。そして劇しく揺られたりぎう/\圧されたりしてゐると、其の方に気が褫られて、今まで煮返るやうに思ひ詰めてゐたことが、何うかすると寂しい影のやうに薄らぐのを感じた。それがまた不思議に彼女の心を寂しくしたりした。電車は荒い響きを立てゝ、くらい通りを走つてゐた。微かな電燈の光が目の前をかすめたり、自働車が昼のやうな白い光を地上に迸らせて通つたりした。
 前からも微かに感じてゐたことではあつたが、たえ子は其の時ふと暗い蔭になつてゐる右の方の手先に何やら這寄るやうな不思議な触覚を感じて、無意識的にひぢすくめた。と同時に肉体の温みを感じ合ふくらゐに近接してゐた一人の青年の顔を振顧ふりかへつた。青年は黒のソフトを※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)まへのめりに冠つてマントを着てゐたが、口髯くちひげを短かく刈込んで、黒いたつぷりした髪が頸や揉上げに盛りあがるやうな分厚ぶあつさでつや/\してゐた。で、鼻はひしやげて、唇も厚かつたし、顔の輪廓もとゝのつた方ではなかつたにしても、決して悪い感じの顔ではないことに気がついた。そのうへ彼はにつこり目元に※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)とぼけた愛嬌をたたへて、じつとたえ子を見返したが、その目の底には暗い影が隠せなかつた。
 たえ子は何となし軽い衝動を感じたが、同時に釣革を左の手に持替へた。節々のしなやかな、小いその手は、黒い絹の手袋に裹まれてゐたが、暫らくすると、下げた方の右の手に、同じやうな触覚が感ぜられた。そして其の瞬間、強い握力を感じた。
 たえ子はかつとしたやうな不思議ふしぎな戦慄を身に感じた。そして不思議な好奇心が彼女をそゝつた。勿論不可抗的な運命のやうに、彼女の手が働きかけた。
 二つ目の停留場へ来たとき、ちよつとした目配せに、全く支配されたものゝやうに、たえ子は人を掻別けて行く青年の後につゞいて、電車をおりてしまつた。

 くらい川添ひの通りを二人は少し離れて歩いてゐた。
「こつちへ行つて見ませんか。」
 今更極悪さうに彼が言つたやうであつた。たえ子は夢幻のやうな気持であとからついて行つた。
 水は音もしないで、静止したやうに星の影をひたしてゐた。対岸には濛靄が立罩たちこめてどこをてもきてゐるやうな家はなかつた。電車の響きばかりが劇しく耳についた。
「貴女こゝでおりてもかつたんですか。」青年は彼女を振顧ふりかへつて、おど/\した口調でいた。
 たえ子は先刻から胸をわく/\させてゐたが、自分の今置かれた位地ははつきり過ぎるほど意識してゐた。勿論侮辱を感じない訳にはいかなかつたが、それを耐え忍ぶことは大した苦痛でもなかつた。その上それはそんなに思ひがけない事ではなかつたやうにすら感ぜられた。
「いゝえ。」たえ子は微かにこたへた。
「どこへ行くんですか。」
「四谷まで行かうと思つたんですけれど、もう遅いでせうね。」
「四谷ですか。」
「四谷の本村なんですの。」
「さう、もう十時半ですからね。」
「まあ……もうそんなですかね。」たえ子は心安さを示すやうな調子で言つた。
「四谷は貴女の家なんですね。」
「いゝえさうぢやございません。うちは小石川なんですけれど……」
「小石川から四谷ぢや大変ですね。それに今夜は莫迦ばかに寒いぢやありませんか。」
「えゝ。さうね」と、たえ子は笑つて、「失礼ですけれど、貴方学生さんでせうね。」
「え、××大学生ですが、安心してゐらして下さい。」彼も声に出して笑つた。
「それは可いんですけれど、何だか悪いですわね。」たえ子は躊躇ちうちよ気味で自嘲的に言つた。
 二人は河岸に立つて、ぽつり/\そんな話を交換したのち、そろ/\歩きはじめた。
「僕は下町の方で友人と少し飲んで来たんですが、もう醒めてしまつたやうです。お願ひですから御迷惑でも一時間ばかり附合つていたゞけませんかね。」青年は強請るやうに言ふのであつた。
「お酒ですか。」
「え、どこか其処いらのカフエでも何でもいゝんですよ。」
「でも、私何にも存じませんのよ。」
「それあ判つてゐますよ。」
「それに私今夜は、お友達に少し相談したいことがあつて、わざ/\来ましたの。」
「相談つて、何ですか。」
「だつて、初めてお目にかゝつた方に、そんなお話できませんわ。」
「いゝぢやないですか。どこの誰だかも知れないんですから。」
「え……」とたえ子は躊躇してゐたが、「ほんとうにお可恥しい身の上なんでございますの。何うすれば可いか、真実判断がつきませんので、今夜も実は思ひ余つてお友達に御相談に行かうと思つてうちを出ましたの。」
「伺はないうちは、問題の性質もわからないですが……若し僕でよかつたら……僕が伺つたつて、為方がないかも知れませんけれど、何なら話して見てくれませんですかね。」
 結局二人は、飲食ひをするやうな家を見つけて、そこで話をすることになつた。

 たえ子はその晩、やつと/\電車でんしやに間に合つた。勿論どこをさがしても話をするやうな家はなかつた。何処でも戸をしめてゐたり、火を落してゐたりした。さうした会合に適した家もあるにはあつたが、青年はまだそれほどそんな世間に触れてもゐなかつたし、たえ子にも余りぱつとしたところや、人に顔を見られるやうな家は忌避されねばならなかつた。
 家へ帰つてみると女中はもう戸を鎖して寝てゐたが、良人はやつぱり帰つてゐなかつた。たえ子は寂しいうちを見ると初めて吻とした気持になつたが、同時に家を出るまで胸にもや/\してゐた憤懣ふんまんや、嫉妬や反抗心が、水をそゝいだやうに消えてゐた。そして其の代りに自嘲と悔恨とが泌出してゐた。
 甘い私語と、秘密の享楽とに、何となし心から昵みきれない、いやをりのやうなものの舌触りを感じながらも、好奇心の充されたことだけでも、全く無意味ではなかつたやうな気がした。勿論誘惑はおそろしかつた。づる/\惑溺して行くのではないかと気遣はれた。たとひ其が復讐といふ意味で、悩ましい一夜の行為が是認されても可いことだとは思はれても、それは後から附会こぢつけた弁疏に過ぎないのであつた。外来の誘惑が動機であつたとすれば、やつぱり自分の意志の薄弱から来てゐることは争はれなかつた。
 たえ子は次の火曜日の昼頃ひるごろに、再び三越の休憩室で落合ふことを約束して、そこ/\に袂を分つたのであつたが、二度も三度も……そして終ひには抜差ぬきさしのならないハメに陥つて行くのが不安であつた。のみならず、秘密は何時か暴露される時がこないとも限らなかつた。その結果をも想像しない訳に行かなかつた。
 翌日の夕方に、良人が帰つて来た。彼は工業学校出の男で、或る大きな会社の機械部にゐたが、収入はたゞ其処から受ける俸給ばかりではなかつた。その晩も彼は酒気を帯びてゐた。勿論カフエか何かで飲んだのであらうと想像された。
 たえ子は何だか顔を見られるやうな気がして、気が咎めた。夜が一層不安であつた。良人はいつもの通り、ポケツトから夕刊ゆふかんを取出すと、それをちやの電燈の明りで読んでゐたが、やがて風呂へ入つた。たえ子はその間に、晩飯のお膳立をしてゐたが、やつぱりおち/\落着けなかつた。
 するうち良人は風呂から出て来て、鏡台の前で、頭髪に香水を振りかけたり、櫛をかけたりしてから、餉台へ来て坐つた。たえ子も伏目がちに箸を執つてゐた。
 食事をしながら、花信はなだよりや、活動の話をしてゐたが、食後間もなく眠気が差して来て、彼はいつもの寝室で、疲れた体を蒲団のうへに横へた。
 たえ子も夕刊に目を通してから、今日の小使帳をつけなどして、九時を聞くと同時に寝支度に取りかゝつたが、寝所へ行つて、看ると良人はあんぐり口をあいたまゝ、鼾をかいて深い眠におちてゐた。皮膚の黄ろく滞んだ顔に疲労の迹が深く刻まれて、毛孔から汚い分泌物が入染出てゐた。たえ子にはその寝様ねざまが憎らしくも妬ましくも思へて、横になりながらも容易に眠れなかつた。為方なし入つた蕎麦屋の二階が目に浮んだり、薄い口髯くちひげに愛嬌をもつた青年の顔が想出されたりして、心気が一層冴えて来るのに苦しまされた。
 一時間ばかりすると、ぱら/\と廂や庭木の葉にかゝる雨の音が耳についた。いつか彼は腹這ひになつて莨を喫してゐたが、たえ子も寝そべつたまゝ、枕頭へ引寄せた飴を口にしながら白い手を延べて髪を直してゐた。
「それあ私だつて淋しいわ。」たえ子は良人の問ひに答へた。
「己ももう止した。売色なんかいくら遊んだつて、あれ限のもんだ。」彼は言ふのであつた。
「あんな巧いことを言つて、また人を瞞さうと思つて。」たえ子は咽喉で笑つて、
「男なんて随分勝手なものだと思ひますわ。外で何をしてゐるか知れやしないんですもの。たゞお酒を飲むだけなら、泊つてくる必要はないでせう。私ほんとに然う思つてよ、夫婦くらゐお互に信用のおけないものはないつてことを。自分の心だつて信じられないことがあるでせう、貴方なぞきつと。」
 たえ子は天井を見詰めながら、そんなことを言ひ/\してゐるうちに、自身の表情がいつか暗くなつてゐるのを感じた。そしてそれが良人に何の反応もないことに気がついて、そのまゝ口を噤んだ。

 火曜日が来ると、たえ子の心は自然に彼の青年の方へ動いて行つた。
 勿論興味を追求して止まないやうな彼女の気分が、或る飽足りなさを感じてゐたことも争はれなかつたが、約束を裏切ることも不安であつた。何時何処で逢つても、差障りのないやうに、別れぎわを明白きつぱりさせておく必要もあると思はれた。
 しかし後の企図は全く失敗に終つた。彼女はまた別れぎわに、第三回目を約束しなければならなかつた。
 逢つたところは、勿論指定どほりの彼の宏大な建物のなかであつたが、二人は長くはそこに彷徨いてゐなかつた。
 たえ子は彼のために万年筆を一本買つたが、やがて其処を出ると、電車で築地へまはつて海岸へ出た。船で水を渡ると、向ふの土地にさうした会合に適当した家のあることを、青年は誰からか教はつてゐた。たえ子は幾度か躊躇したが、そのまゝ別れることは出来なかつた。
 青年は野球などの好きな男で、体には若い血が躍動してゐるやうに見えた。そして塩湯へ入つてから、ビールを飲みながら、一つ二つ話してゐるうちに、彼の田舎も相当な資産家であることも知れた。
「あなたも勉強中の体なんですから、こんなことはもう止しませうね。私はそれを言はうと思つて、今日は来たのよ。」
 青年はそれに感謝の意を述べた。
「僕にだつて良心はありますよ。」
「でも私もさうですけれど……それは何といはれても為方がないけれど、貴方も、随分大胆ね。」
 彼はさすがに紅い顔をした。
「さう言はれちや形なしですね。」彼は笑ひながら
「しかし反応はきつとあるから不思議ですよ。」
「そんな事を言つちや、私厭やよ」たえ子は慍つたやうな目をした。
「貴女の場合は別です。貴女の動機は、寧ろ同情に値ひしますよ。そんな非人道的な人には、復讐してやるが可いんです。僕はそれを思ふと、痛快ですね。」
「貴女の場合なんて……ぢや、貴方は私きりぢやなかつたんだわ。」たえ子は暗い不快な目をして、彼を見た。
 しかし黙つてゐる彼を、その上辱しめることは出来なかつた。
 時間が流れるやうに過ぎた。そして其処を辞して、ふら/\渡場の方へ出て来た時分には、水の上はもう微暗い夜の色に蔽はれてゐた。繋つてゐる船のうへにも、対岸の人家にも電気がついて、何となし侘しい寂しさが、心に喰入つてくるのを感じた。たえ子は涙ぐましいやうな気持になつてゐた。それは必ずしも感傷的な其の場の気分から来てゐるのではなかつた。あの家を出ぎわに、耳にした、興味半分の青年の自白が、ひどく彼女の幻影を裏切つたからであつた。
 実に彼は、そんな経験を屡々してゐるらしかつた。そして興味の対象が、大抵の場合処女であつたことなどを想合せると、たとひ其が深い悪意ではないにしても、其だけに又赦しがたいことのやうに思はれて、たえ子の心は憎悪に燃えた。
 たえ子は自然ひとりでにそれが色に出たが、口へ出して言ふ資格はなかつた。
 ひつそりした海岸の町らしい、宵の築地河岸を、二人は距離をおいて、黙つて歩いてゐたが、やがて明い劇場のそばまで来ると、一緒に電車に乗つた。
「今度ね、貴女の都合を見て、どこかもつと面白いところへ行きませう。」青年はたえ子に囁いた。
「え、貴方考へてちやうだい。」たえ子は応へた。
 しかしやつぱりあの大きなデパートメントストアで落合ふことになつて、乗換場でたえ子は彼と別れた。早くこの不安と悩みから脱れなければと、さう思つた。

 次の日が直きに来た。
 その頃には、浅猿しい弱点を弄ばれてゐたことが、次第に分明はつきりして来て、耻と悔とが此上の追求を許さなかつた。
 たえ子はその日その店に買ひものゝあることを告げて、良人の同行を求めた。
 予定の昼過に良人は二階の休憩室で彼女を待つてゐた。
 群衆のなかに青年の姿を見たのは、それから二十分もたつてからであつた。何うしたのか彼は鼻梁から右の半面へかけて、一面に繃帯をしてゐたので、ちよつと見それたが、彼はたえ子を見はぐさなかつた。しかし其と同時に、彼女の良人が附いてゐることをも、見遁さなかつた。彼はそのまゝ見え隠れに二人の後を追つた。
 ふと彼女の姿が見えなくなつたと思つて四下あたりを見まはしてゐる青年の傍へ、やがて彼女の顔が現はれた。青年ははつとしたやうに立停つて、急いで窃と彼女に手を差延べながら、
「球で怪俄をして、つひ後れて済みませんでした。」
「いけませんですよ。」たえ子は手を引込めながら紅い顔をして言つた。
「これ限りお目にかゝりません。どうぞ悪しからず。」
 たえ子は言棄て、急いで良人の傍へ行つた。彼は帽子の売場の前に立つてゐた。
 青年は詰問する間もなかつた。
(大正10年5月「中央公論」)





底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
   2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第三十六年第五号」
   1921(大正10)年5月1日発行
初出:「中央公論 第三十六年第五号」
   1921(大正10)年5月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「りっしんべん+今」、U+5FF4    4-上-14


●図書カード