籠の小鳥

徳田秋聲




 羊三は山を見るのが目的で、その山全体を預かつてゐる兄の淳二と一緒にこゝへ来たのだつたけれど、毎日の日課があつたり何かして、つひ鼻の先きの山の蔭から濛々と立昇つてゐる煙を日毎に見てゐながら、つい其の傍まで行つて見るのが臆劫であつた。
「山にはこちらから料理人が行つてをりますから、宅よりも御馳走がございますよ。」
 嫂は家を出るとき、そんな事を言つてゐたが、その朝今は故人になつた土地の画家のかいた「雨の牡丹」の軸をくれたりした。東京の二流どころの画家のものと二つ展げて、羊三の択ぶに委せたのであつたが、その画の気品には格段の相異があつた。
「牡丹を頂きます。[#「頂きます。」は底本では「頂きます、」]」羊三は一目見ると直ぐ答へた。
「これは立派なものです。」
「さうだ。その男のものは宮内省へも納まつてゐる。」淳二は笑ひながら言つた。
 羊三は母の法事をすませてからも、四五日兄の厄介になつてゐた。男三人のうち長兄が昨年亡くなつてから、二人の気持が何となく以前より融け合つて来た。
「私は実子も何にもないから、明日死んだつてかまはんが、君は長生きしてくれなくちや困る。」
 さう言ふ気持はあつても、口へ出して愛想を言つたことのない淳二も、そんな事を言ふやうになつた。その軸も羊三が近頃ぼろ家を自分のものにすることができたなどの悦びの積りだと思はれた。
 淳二は停車場へ立つとき、煙草の好きな弟のために葉巻など用意して、自分で口を切つて火をつけてくれたりした。
 淳二のために鉱山の持主――といつても旧主筋に当るのだが――が作つてくれた手広い二室つゞきの静かな部屋で、羊三は原稿紙を展げたのであつた。其処の窓から事務所の一部が直ぐ右手に見られたが、前も左も山懐ろの斜面になつてゐて、その斜面にある道が、技師達の社宅への通路になつてゐるとみえて、夕方になると、若い洋服姿の男がその道を帰つて行くのであつた。淳二は朝早く起きると、部屋の外の廊下の端のところに、棚のある二つの箱のなかに飼つてある六七羽の鶫と、二羽の青鳥とに摺餌をやるのが、出勤前の仕事であつた。それは十月の中頃から、かすみ網を張つて、昨夜泊つてゐた谷間を、朝早く出立して、長い旅を急がうとしてゐる鶫の種類を呼ぶための囮なので、亡父から伝はつた淳二の一つの道楽であつた。閑散なこの国のさむらひたちは、昔しさういふことに深い興味をもつてゐたし、網や附属品などを作るのに極めて堪能であつた。囮の選択や飼養法にも特殊の目と優れた技能をもつてゐた。
 羊三も幼年の頃から食べなれた其の鳥が、どこの国から貰つたものよりも美味うまいことを知つてゐた。勿論それは其の食物に因るのであつた。
 兄は羊三とちがつて、でつぷりした立派な体の持主であつた。その上その相貌が日蓮法師に似てゐるといつて、剽軽な寺の住職が、今度の法要のときにも油をかけてゐた。その日蓮の顔にも深い大皺が寄つて、すく/\した口髯は羊三よりも又一段白くなつてゐたけれど、健康は衰へてゐなかつた。そして鳥の世話などするのは、驚くほどまめであつた。
「大変ですな、これだけの鳥の世話をするのは。」羊三は傍へ来て、さう言つて不思議さうに見てゐた。兄がいくらか鳥構とりかまひなどするのを、さう云ふことには全く興味をもたなかつた弟に気をかねるやうにしてゐるのを感づきながら、お世辞のつもりで言ふのであつた。
「なあに、このために朝起きをするから。」淳二は辞少なに答へながら、盛りわけた青いべつとりした餌を一つ/\の籠に差入れてゐた。
 鶫は二種類あつた。胸毛に斑点のある黒いのと、美しい鵯色のものとであつた。前者は勇壮で始終籠のなかを忙しく動いて、空や森に憧るゝやうに、明るい方へ顔をあげてゐたが、後者は人の影を見ると、奥へ引込んでおとなしくしてゐた。
「このしないの方が、品位がありますな。」
「さうだ。味もその方がいゝとも言ふな。」
「私も動物は犬も猫も嫌ひですが、小鳥は好きです。小鳥や草花がなかつたら、ずゐぶん[#「ずゐぶん」は底本では「づゐぶん」]淋しいと思ふ。」
「子供に小鳥を飼つたら何うだ。」
「それも考へたこともあつたが、今時の子供はなか/\忙しいですから。私たちの時代とまるで違ふんで……。」
 淳二は「ふん」と笑つてゐた。そしてそこの棚の隅においてあつた、小さい木片の束をほどいて、小刀で割りながら、中から虫を出して鳥に与へてゐた。それは是から使用時期になるので、精力をつけるためであつた。羊三は餌の製法などもきいて見たが、兄には兄独得の工夫があるらしかつた。そして其の鳥の飼ひ方や、それから推し及ぼした人間の摂生法などを聞いてゐると、兄は立派な科学者だといふ気がした。
 やがて朝の仕事を終ると、淳二は部屋へ戻つて来て羊三と一緒に朝飯の膳に向つた。
「どうしたい、あの連中は……。」淳二は給仕をしてゐる女に訊いた。
 山はちやうど工夫たちの賃銀値上要求の運動があつたあとで、羊三は東京を立つ前から新聞の記事でそれを知つてゐたが、こつちへ来た頃には、それも大概片着いてゐた。最近の経済界の恐慌で、銅の値の下つてゐるのは勿論だが、各方面の事業が破綻百出の形なので、この山の経営者の立場もひどく苦しくなつてゐた。羊三は町へ来てから、色々の噂を耳にした。山には毎日煙は騰つてゐたけれど、それも漸う人心が落着いたこの頃のことであつた。賃銀値上の運動にたづさはつた連中は、それを好い汐に馘首されたものもすくない数ではなかつた。
 女は「え」と言つて笑つてゐたが、
「今夜また演説があるさうでございます。」
「さうか。それで引揚か。」淳二は苦笑してゐたが、羊三に、
「東京からA――が応援に来てゐるんだが、来たときは大変な景気で、歓迎されたもんだが、何しろ時機が悪いのでな。」
「そいつは一つ今夜の演説を聞かうかな。貴方はそのA――に逢つたことがありますか。」
「今度はまだ逢はん。いつも私が衝に当るんだが、今度は若い連中のお手並を拝見しようと思つて、傍観してゐたんだ。けれど孰にしてもこつちの事情が要求に応じかねるんで、実は人減しをしようと思つてゐた際だから、重立つた連中だけ罷めさしてしまつたんだ。」
 口の重い淳二のこととてそれ以上詳しい説明もしなかつたが、今迄幾度かの同じ争議に出会して、その度ごとに色々の人にも逢つてゐるし、事件の円満解決にも努力して来たので、時代の趨向はほゞ頭脳へ浸みてゐるらしかつた。
「罷められた連中は何うなるんですかね。」
「この近くのものは、帰つて百姓をするものもあるが、今度やられたのは旅のものが多いんで、いづれ何処かへ立つて行くだらうが、他の仕事には余り融通のきかない性質のものだからな。」
 羊三は兄の立場をよく知つてゐるので、それについて自己の見解らしいことは何一つ口へ出しもしなかつた。
「Y―家なんざ、実は外の資本家のやうに悪いことはしてをらんのだ。町の経済界はY―によつて立つてゐたやうなものなんで、その点では功績こそあれ、悪く言はれるところはないんだ。」淳二はY―家を弁護するやうに言つた。
「それと是とは自から別問題だが、今迄の坑夫達も少しみじめだつた。私なんぞ山へ来たのは二十五六の時分だから、坑夫に質のわるい奴がゐると踏んだり蹴たりしたもんだ。彼奴等も匕首なんぞ呑んで、なか/\乱暴だつたからな。」
 淳二はそんな話をしながら、間もなく事務服をつけて、下へおりて行つた。

 羊三は一日部屋に立籠つてゐると、どうかすると、気分がひどく憂鬱になりがちであつた。とかく曇天つゞきで、日によつては白地の単衣もの一枚になつて、筆を執るやうな、残暑の逆襲を見ることもあつたけれど、そんな日でも、夕方になると冷たい風が吹いて、羊三はあわてゝ毛のシヤツを押入から取出したりした。しかし生活が単純だし、誰一人訪ねてくるものもないので、どこへ行つても人に煩はされがちな羊三も、のう/\した気持で筆を執ることができた。
 寂しい時には、小鳥の囀りが不思議な慰めと悦びとを彼の心に伝へた。森のなかにでもゐるやうに、環境がひつそりと静まりかへつてくると、愛らしい小鳥はピコロでも吹くやうな澄んだ冴えた声で、囀るといふよりも、寧ろ彼等同志むつまじく話し戯れてゐた。それはちやうど潮でも湧きたつやうな、楽しさであつた。羊三はそつと座を立つて、廊下へ出た。そして足音を忍んで、小鳥の籠の置き並べられた箱の傍へ寄つて行つた。
 小鳥はいつか鳴をしづめて、用意ぶかい目を見張つてゐた。羊三は仕方なく部屋へ入つて来た。
「どうだ書けるか。」
 不意に淳二が戸を開けて入つて来た。
「いや、余り静かだと、却つて頭脳あたまがぼんやりするんで。」羊三は答へた。
「どうだ、今日一つ山へ行つてみんか。ストライキもほゞ静つて、職工もそれ/″\持場々々に就いたやうだから。」
「さうですね。では。」
 羊三は一つ急ぎのものがあつたので、それを書きあげてから、ゆつくり作業を見てまはらうと思つてゐたのであつたけれど、傍へ来てみると、彼の気紛れで、格別さう見なくてはならないほどの興味も感じなくなつた。実際また一度や二度行つて見たくらゐでは鉱山の人達の生活なぞわかる気遣ひはなささうであつた。淳二兄はいくらか用心もするだらうし、長くゐてぶら/\してゐるうちに、技師や坑夫に親しくなる機会でもなかつたら、迚も鉱山の生活の内部を知ることはできないだらうと思つた。そんな気持は、兄にはちよつと解らなかつた。
 少し寒かつたけれど、羊三は夏のモオニングを着て出かけた。そして事務所の横からだら/\した坂を登つて、色々の作業場を横に見て四五町も行くと、直きに一つの坑区の傍へ出た。
 その辺は一帯に[#「一帯に」は底本では「一体に」]赭禿の山が、左右に向ひ合ひ、前後に重なり合つてゐた。どこを見てもけ爛れたやうに醜い山の地肌は露出されて、青いものゝ影は殆んど見られなかつた。
 入口に七五三しめを張つた一つの坑口の前へ、淳二は羊三をつれて行つて見せた。カンテラが幾箇となくその口に懸けてあつた。礦石を搬出するために人夫がレールの上を函をごろ/\引いて来ると、そのカンテラの一つを取つて、じめじめした坑内へ入つて行つた。そして暫らくすると、礦石を満載した函がまたごろ/\と引出された。
「こゝへ入るのは危険でせう。足を辷らせでもしたら。」
「滅多にそんなことはない。けれど仕度をしなけれあ入る訳にや行かん。」淳二はさう言つて、しかしそれはちよつと羊三には困難だらうと云ふ表情をしてゐた。
 そして彼は縦坑だとか横坑だとか、坑穴の種類や、坑内の設備、作業の有様なぞを[#「なぞを」は底本では「などを」]一ト通り説明して、
「偶には危険もあるが、まあ爆薬はつぱでも爆発した場合でなければね。それも爆薬はつぱをかけておいて、爆発がおそいので、見に行つたり何かするからだ。」
爆薬はつぱといふのは爆薬のことですね。」
「さう。礦山には礦山特有の言葉があるんでね。人に乗せられたことを、彼奴はつぱにかけられたなんて言ふんだ。」
「あんたはもう穴へは入りませんか。」
「いや、さうでもないが、私もO―の山を開拓して、あすこの設備がほゞ緒についたとき、罷めさせてもらふ[#「もらふ」は底本では「もらう」]つもりだつたのを、此方が少し出なくなつたので、また戻つて遣ることになつたとき、何にもせんでも可いからといふので……しかし今は銅が安いから、手もつけないが、去年この近くに買つた山もあるので、こゝ少くも百年ぐらゐは脈の絶えるやうなことはない。さう云ふ見込みだけはついてゐるんで……。」
「ほゝ」と羊三は驚いたやうに言つたが、かう云ふ山が或る一人の占有に帰してゐることが、不思議のやうに思へた。しかし人間に若し旺盛な私有慾が禁じられたら、誰が苦労してこんな山を掘るだらうとも思つた。
 羊三は淳二について、やがて採礦課の事務所へ入つて行つた。そしてそこにゐる若い技師達に紹介された。
 何よりも先づ今度の賃銀値上の運動の批判が初まつた。今後取るべき賃銀制度について、課長の某氏の意見は、羊三にも妥当らしく思へた。
 それから何号の坑が、もう何間で突きぬけるだらうとか、どこの坑区から何百貫の成績があがつたとか、毛糸のジヤケツを[#「ジヤケツを」は底本では「ジヤケツをを」]着た若い元気のいゝ技手が、しきりに説明してゐた。
 その間に、運搬夫がたえず窓の外を函を引いて、往つたり来たりしてゐた。そして其のたんびに、窓口で証明をもらつてゐた。
 選礦作業場へは、その課長もついて来て、淳二と一緒に、羊三に説明してくれたが、機械の響きに遮られて、羊三はどうかするとその話を聴取るのに苦しんだ。
 それから次ぎ/\まはつて夫々の作業場を一々見てあるいて、終ひに銅を吹いては鋳型に入れてゐるところで、総ての仕事が完成されるのであつたが、そこの事務所へやつて来たのは、大分おそかつた。羊三はそれによつて、作業のざつとした概念を与へられたに過ぎなかつたけれど、労働といふものが、その気持になりさへすれば、思つたほど不愉快なものではなささうに感じた。そして又この鉱山の労働者が、都会で見かける電線や道路や高い建築などに働いてゐる多くの労働者よりも、遥かに幸福な日を送つて居るらしく思へた。勿論どの作業場を見ても、彼等の顔は蒼くて寂しくて、硬ばつてゐた。彼等がそれらの荒い仕事に、心から楽しんで従事してゐるとは決して思へなかつた。
 淳二は粗末な小倉服をつけた事務員の一人と、いつか鳥猟の話に夢中になつてゐた。ハイカラな若い技師たちは、不思議な二人の話に、にや/\笑つてゐた。
 帰つて来たのは、もう五時頃であつた。二人はいつものとほり電気風呂へ入つてから、やがて晩餐の膳に向つた。
「礦山生活もさう悲惨なもんでもないやうですね。坑夫は何のくらゐ取るもんです。」羊三は食後梨子の皮をむきながら、兄にきいた。
「さう、そいつは成績次第なので、まあ腕のいゝ奴で二円位は取る。中には子供も女房も、それ/″\稼いでゐるものもゐるんで、相当収入はある。」
 淳二はさう言つて羊三の間ひに答へるだけで、それ以外のことは余り多くを話さなかつた。
「今日はみんな変な顔をしてゐた。あのなかには表面運動に賛成して、その実参加しないのもゐる。今下へ寄つてみると、こいつは直ぐそこにゐる奴だが、A―が東京からやつて来たとき、真先に旗をもつて景気をつけてゐたんだが、運動は失敗するし、首はられるといふんで、こゝを立つにも借金で、身動きがならないところから、蒼くなつて泣きを入れに来たんだ。無理もないことで、参加しなければ、成功したとき肩身が狭いし、成功しなければ口が干あがるんだから、彼奴等としても実は向背に迷ふんだ。」
「弱いもんですね。」
 羊三が言ふと、淳二は違つた意味で、
「弱い。」と呟いてゐた。
 それから暫く、この山の最初の礦脈の発見された時から、発展の径路などについて、羊三はぽつ/\話す兄と差向ひに寛いでゐた。
「私もこの山に、こんなに長くゐるつもりもなかつたんだ。O―礦山を買ふことを提言した因縁から、あの山へ行くことになつて、あすこに前後六年もゐたりして、段々年を取つてくる。山をやらうと思へば、私ならいくらでも金を出してくれるものもあるし、希望者もあつたけれど、自分に子供があるんぢやなし、儲けたところで仕方がないと云ふ気もしてゐたんで、後継者のあるまでと思つて、つひ[#「つひ」はママ]今日までやつて来た。こんな事で、一生果てるのも残念だが、今となつてはもう年を取りすぎてしまつた。」
 淳二はいつの間にか取出した、かすみ網を編みながら、感慨ぶかさうに言つた。
 淳二は隙をみては、網まで自分で編んでゐた。もうそんな網を作るものも、今は絶えがちになつてゐた。あつても精巧なものは得られなかつた。
「今日逢つた採礦課長なんざ何うです、後継者として……。」羊三はきいた。
「あれなぞが有望な方だ。差づめさういふ順序かも知れない。F―なんかも、製錬ぢやあのくらゐの男は、他の礦山にはゐない。あれも何うかと思つてゐるんだが、あの男も少し小胆で、多勢の人間を使つて行けまいかと思ふ。」
 F―も羊三たちと、いくらか縁繋ぎになつてゐた。
「F―がそんなに豪いんですか。」
「どこへ行つたつて立派なもんだ。礦業界で知らないものはない。」
 さう云ふ兄にしたところで、優れた頭脳と経験の持主だといふことは、羊三も他から聞いて知つてゐた。最近死んだ甥――といつても羊三より一つ少いだけであつたが――のS―にしても、やつぱりさうであつた。
「S―や何かも一つになつて、独立でやるのも可かつたですな。」
「私は若しやれば、大阪の兄さんを呼ばうと思つてゐたんだが、到頭その機会もなかつた。」
 羊三はそんなにしみ/″\した述懐めいた言葉を、曾てこの兄の口から聞いたことがなかつた。彼等は山で人と成つたやうなものではあつたけれど、生涯をこゝで暮してしまつたのは、一つは古い主従関係の情誼からでもあつた。羊三にはそれが不思議でならなかつた。
 やがて羊三は、若い事務員に誘はれて、今夜の演説を聞くべく、事務所を出て行つたが、人が集まるには、まだ間があつた。今夜は多分中止だらうと云ふ噂も伝はつた。羊三はしばらく其の辺を徘徊した果てに、いつか興味がそれてしまつた。帰つてみると、兄は廊下へ出て、囮に火をかけてゐた。籠の鳥は、目眩まぶしい電燈に照らされてきよろ/\してゐた。兄が広間へ入つて寝たのは、それから二時間もたつてからであつた。
 演説会場にあてられた労働者の倶楽部では、今演説が[#「演説が」は底本では「演説会が」]崩れたとみえて、熱狂的な万歳の声が、連りに聞えてゐた。羊三は久しぶりで、頭脳が冴えてゐたので、次ぎの間で、切迫して来る創作的興奮に駆られながら、せつせとペンを働かせてゐたが、どうかすると、先刻の兄の述懐が、頭脳に浮んで来た。そして兄の生涯について考へさせられたと同時に、長いあひだにいくらか貯へて来た富に対する羨望の情も、どこかへ消し飛んでしまつた。
「クイ、クイ。」
 火をかけられた黒鶫が、思ひ出したやうに、威勢よく二声三声続けざまに啼いた。
 翌朝起きてみると、兄の淳二は小鳥を物干場の柱の上高く括りつけた、長い棹に仕かけられた、長さ一間ばかりの籠掛に、籠の鳥を一つ/\かけて、吊しあげてゐた。籠掛には、籠のたけだけの距離をおいて、籠をかけるやうに折釘がうつてあつた。
 空たかく掲げられた籠の鳥は、爽やかな朝風を受けて、どれもこれも大空へでも放たれたやうに、元気よく籠のなかを駈けまはつてゐた。
 羊三は、父が鳥を訓練するやうに、やつぱりそんな事をしてゐたのを、屡ば見た。勿論それは、遠くの山や谷々から渡つてくる仲間の群を見のがさないやうに、遠見の視力を養ふためであつた。
「なか/\手がかゝりますね。」
 羊三はよくもそんなに兄がまめ/\しく働けるものだと、驚嘆の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)りながら言つた。
「何に、何うせ閑なんだから。」
 淳二はさう言つて第二の籠掛を吊すべく、竹竿を別の柱に縛りつけてゐた。
 羊三は、庭の隅の大きな果樹の幹のうへに、父が囮を吊しあげる時分のことが思出された。それは朝のやゝ寒い、多分十月の末頃のことであつたであらう、荒れた庭に虫が啼いて、樹木や石のうへに、露がしと/\してゐた。
「兄さんが体が弱いので、父が毎年鳥構ひにつれて行つたものだ。私もお蔭で、さんざ鳥の世話をさせられた。」
 羊三は三十年も四十年もたつた今日、兄がやつぱりそんな事をやつてゐるのだと思ふと、すく/\生へた[#「生へた」はママ]頬髯の白い兄の顔が、何うやら父の面影にそつくり似て来るやうに思へた。
 羊三だけはそんなことには、何の興味も感じなかつた。
 朝飯がすむと、羊三は昨夜おそく出来あがつた原稿を綴ぢたり、封筒に入れたりした。
「仕事はもう済んだか。」淳二はその労を劬はりでもするやうに訊いた。
「は、どうかかうか。」
「どのくらゐ書けた。」
「三十枚ばかりですが、ちよつと儲かりました。」羊三は笑つてゐた。
「どのくらゐになる。」
「いくらにもなりやしません。でも、近頃は好いんです。一頃のやうな貧乏はしなくともすみますから。しかしなか/\遣切れないんで。」
 そして彼はその報酬について、兄の問ひに答へた。
「ほゝ、好いもんだな。」
「しかし怠けてゐる時が多いんで。それに生活に追はれがちですから、本を読む隙もないし、その日/\を胡麻化して行くに過ぎないのですから。」
 羊三は少し得意になりながら言つた。
「さうだらう。」淳二は軽く受けてゐた。
 羊三は女が来たとき、その郵便物を出すやうに頼んだが、兄は間もなく事務所へ出て行つた。馘首された職工たちが、ぽつ/\別れを告げて、今朝あたりこゝを立つて行くと云ふ噂を、その女は淳二にしてゐた。
 淳二はたゞ寂しい顔をしてゐた。
 羊三は仕事が出来あがつたなら、もう一度ゆつくり山の作業を見もし、技師たちにも逢つて、親しく話を聞きたいと思つてゐたが、差迫つた一つの責任を果すと、遽かに解放されたやうな気分になつて、この上山に止まつてゐるのが怠窟に[#「怠窟に」はママ]感ぜられた。遽かに町が恋しくなつて来た。三十年もこゝに縛られてゐた兄の生活が、しみ/″\考へられた。
 羊三は新聞など見ながら、そこに横になつてゐたが、するうち疲が出て、頭が懶くなつて来た。うと/\と眠気がさして来た。
 戸の開く音がしたと思ふと、うつら/\してゐた羊三の傍に、兄があわたゞしげな表情をして、押入のなかでシヤツか何かを捜してゐた。
「どうだ、一緒に帰らんか。」淳二は羊三の起きあがるのを見て言つた。
「急に用事ができて、帰ることになつたから、これから立たう。」
「さうですか。僕も余り長くなつてもと思つてゐたところですから。」
「それから是をあげよう。何かの参考になるだらう。」淳二はさう言つて、山の歴史と言つたやうなものを渡した。わざ/\写さしたものであつた。
 羊三が[#「羊三が」は底本では「淳三が」]仕度をして下へおりて行くと、兄は更めて事務所の重立つた人たちに、彼を紹介した。実はそれらの人達とも、早く挨拶を取交したかつたのだけれど、わざと控へてゐたのであつた。
 間もなく電車に乗つた。電車は直きに出た。
 特色はなかつたけれど、その辺の山は割合ひに姿が優しかつた。そして岩の多いところなどでは、試掘の跡らしい穴が処々に見られた。
 電車のなかには、山を出された男らしい、若い人の姿も見られた。
 羊三は兄の用事が何であるかを考へたりした。羊三が山に長く止まることを、周囲――特に礦山主に対して憚かるのではないかなどゝも思つたりした。
 しかし其の想像が全く間違つてゐることが、後で羊三にも解つた。羊三がちよつと耳にしたところでは、それは全く、今度の事件に骨を折つてくれた其の筋の人達の労をねぎらふためらしかつた。
(大正12年6月「新潮」)





底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
   2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第三十八巻第六号」新潮社
   1923(大正12)年6月1日発行
初出:「新潮 第三十八巻第六号」新潮社
   1923(大正12)年6月1日発行
※「鉱山」と「礦山」、「云ふ」と「言ふ」、「淋しい」と「寂しい」、「工夫」と「坑夫」、「A――」と「A―」、「目を見張」と「目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った箇所が、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記で異なっている場合はママ注記にとどめました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:えにしだ
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネツトの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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