折鞄

徳田秋聲




 とほる何時いつからかポオトフオリオを一つ欲しいと思つてゐた。会社員とか雑誌新聞記者とか、又は医者のやうに、別段それがたいして必要と云ふほどのことはなかつたけれど、しかしそれがあると便利だと思はれる場合が時/″\あつた。一日の汽車旅行とか、近いところへ二三日物を書きに出る場合とか、でなくて長い旅でもこま/\した手廻のものを仕舞つておいて、手軽に出し入れのできる入れものが一つ有つた方が便利であつた。煙草、マツチ、薬、紙、ノオト、頼信紙、万年筆、雑誌、小さな書冊、そんなやうな種類のものは、その全部でなくても、ちよつと出るにも洋服の場合は、ポケツト、和服の場合は袂や懐ろに入れておけないことはなかつたけれど、矢張何か入れ物に取纏めておく方が都合が好かつた。しかしもと/\事務的に出来てゐるポオトフオリオが、事務家とも遊民ともつかない老年の彼にふさふか何うか考へものであつた。融は時々手提の袋などを買つて、その当座二三度持つて歩いて悦んでゐたこともあつたが、何だかぢぢむさい気がして、いつでも棄てつぽかしてしまつた。
「何うだらうポオトフオリオを一つ買はうかな。」
 融は子供や妻と町を散歩したり、買いものに出た場合などに、鞄屋の店頭や飾店の前に善く立停つて言つたものであつた。勿論それは実用品といひ条、彼に取つては人のもつものを、ちよつと玩具に持つて見たい程度の、小供らしい慾望でもあつた。
「お父さんには少し可笑しいな。」子供は言ふのであつた。
 融はその時は子供に遠慮するやうに、買ふことを止めたが、しかし何うかすると、鞄屋の前に足を止めることが、其の後も時々あつた。
 すると大晦日ちかい或日のこと、彼は二三日それが続いたやうに、その晩も妻と大きい子供と町を散歩した。彼はその前の晩も三人で、本屋を三四軒覗いて、劇に関する著述と俳諧に関する書物を買つたが、その又前晩にも、妻と二人で贈りもののお屠蘇の道具を買つたりした。或晩なぞは途中で彼女が遽かに気分が変になつて、急いで家へ引返した。
「何だか頭が変ですから、私帰りますわ。」
 彼女は悲しげな声で融に告げるのであつた。
「あゝ、それあ可けない。大急ぎで帰らう。俺が手を引いてやらう。」融は吃驚して、彼女の顔を見ながら言つた。
「いゝんですの。そんなでもないんですけれど、何だか変ですの。」
 融は若い時分から、時々出逢つてゐるやうに急に、足の鈍くなつた彼女が今にも往来に倒れさうな気がした。それほど彼女の顔色が蒼かつた。顔全体の輪廓や姿も淋しかつた。
「お前の顔色は大変に悪いよ。まるで死人のやうだよ。明朝医者においでなさい。何を措いても屹度だよ。」融は語調に力をこめて、少し脅かすやうに言つた。勿論顔色が凄いほど蒼かつたことは事実だし、秋以来ずつと健康を悪くしてゐることも解つてゐたけれど、その言葉には兎角病気を等閑りにしがちな彼女を、少し驚かしておかうといふ気持の方が勝つてゐたことは事実であつた。
 融は持病もちの彼女の健康に、彼女自身より以上の不安を抱いてゐた。もう二十年の余も前に、産後その病気が発生したときほどの歎きと恐怖は、それほどでもなささうな其の後の経過と医者の診察とで、時々に薄いでゐて、年月がたつにつれて、慣れてしまつてゐたけれど、でも融はひゞの入つた危つかしい瀬戸物か何かを扱ふやうな不安から終始離れることが出来なかつた。そしてその病気に慣れて来て何うかするとまるで余所事のやうな顔をしてゐる彼女を腹立しく思ふことすらあつた。
「自分一人の体だと思はれては困るぢやないか。この頃はちつとも医者へ行かないやうだが、近頃新聞によく出てゐる、腎臓から脳溢血を惹起して死ぬ人のことを読む度に、俺はぞつとするよ。」
 融はついこの頃も、朝早く起きて、子供の弁当なぞの仕度をして、疲れた顔をして長火鉢の傍にすわつてゐる彼女を窘めたことがあつた。頭のわるい彼女は、朝起きを昔しから辛がつてゐたが、ごたつく台所の音が耳に入ると、矢張り寝てもゐられないのであつた。それに一度起きると、ちよつと横になつて体を安めると云ふやうなことが、絶対に彼女には嫌ひであつた。
「早起きしたときは、子供を出してから少し寝るやうにしたら可いぢやないか。」融はさうも言つたが、しかし融が心配して何か干渉かましいことを言つても、彼女はいつでも素直に「さうしませう」と答へたことはなかつた。格段融の言葉が耳に逆かう[#「逆かう」はママ]訳ではなかつたし、腹では感謝してゐるんではあつたけれど、彼女の気分は、融がじれ/\するほど硬くてむづかしかつた。融は煩く世話をやくことを、控へなければならないやうになつた。勿論融が気づかない時でも、利尿剤とか、処方によつた薬などを、そつと飲んでゐることもあつて、融が苛々するほど、づうづうしくなつてゐる訳でもなかつた。
 その晩も、それほど気分が悪くなかつたけれど、一晩熟睡すると、翌朝はまた何のこともなかつた。そして不断のやうに働いてゐた。それで其の翌晩もまた町へ出て行つた。
 それから又一日おいて、親子は三人で暮の町へ出て行つた。別に大した買ひものもなかつた。化粧品屋で何か二三品彼女が買つたゞけであつた。
「どこかへ行かうかな。」融は途中旅へ出る自分を想像した。
「行つていらつしやいよ。」彼女も勧めた。
「余り遠いところは可けないし、近いところは一杯だらうしね。」融は不決断に言つた。
 彼等は、いつもの家で、彼女の好きな鮨を食べに寄つてから、帰路に就いた。
 途中融は思出したやうに、鞄屋の飾店の前にふと立止つた。
「一つ買はうかな。」彼は子供のやうに惹着けられた。
「お買いなさい、お買ひなさい。」妻も賛成した。
「お父さんが使はなければ、僕が持つて歩いてもいゝよ。」
「それも可いだらう。」
 三人ぞろ/\鞄屋へ入つて行つた。そして品物の選択に取りかゝつた。あれかこれかと三人で良や久らく詮議した果に、彼女の助言で、到頭その中の一つに決めた。さう云ふ場合の彼女の助言が、いつも不決断な融の意志を決定させた。必ずしも彼女がいつでも好い買ひものをするとは決まつてゐなかつたかも知れなかつたが、よく物を買ひぞくなふ融には遠慮のない助言が必要であつた。
 融は何だか嬉しかつた。そして家へ帰つてからも弄くりまはしてゐた。彼はそれを提げて、ちよつと何処かへ行つて見たいやうな気がした。

 その折鞄をさげ出して、融が駅前のホテルへ行つたのは、その翌日の晩方であつた。融は年のうちに遣らなければならない小さい仕事が、まだ二つ三つあつた。それに最近持病の胃腸がまたちよつと可けなくなつて、しばらくお粥ばかり食べてゐたので、何処か暖かい海岸の温泉へでも行きたいと思つたが、仕事の都合でさうも行かなかつた。彼はしかし健康は害してゐたけれども、気分は寧ろ積極的に傾いてゐた。今迄やつて来た仕事や、現在の生活境地に或る飽足りなさと空虚を感じてゐたので、いくらか根本的な計画に取りかゝりたい希望に急立てられてゐた。そして其と同時に、自分自身の健康と妻の健康とを悉皆よくしなければならないことを感じてゐた。そして若し経済状態が許すならば、家庭を離れて、静かな孤独の生活に入りたいとも願つてゐたが、長いあひだ染みこんだ家庭の臭み―それは重もに彼女特有の気分や流儀から割出されたところの、決してさう無趣味でも不愉快でもないながらに、余りに世俗的で外面的な仕事に煩はされがちなことや、一応目端がきいて、しつくり彼の気分に合つて行くらしく思はれる、日常生活の底に、どこか本当に融け合つて行くことのできない、性格や気質から来てゐる矛盾が、遂ひに何うすることもできないものであることに、気づいて来てゐたからであつた。極端に言へば、彼女がほんたうに彼のものになり切つてしまつたのは、三年前脳溢血で死んだ彼女の母を失つてからだと言つてもいゝくらゐであつた。それでもまだ、小心で臆病で勝気な彼女は、ほんとうに自分の両手をひろげて、良人の胸に体を投げかけて来ることのできないやうな、それは遠慮といつて可いか、頑固かたくなといつていゝか、兎に角良人を信じ切ることのできない硬い感じが、彼女をひどく窮窟で哀れなものにしてゐた。そして何かにつけ人情ぶかい彼女ではあつたけれど、本質的な深みのある夫婦愛には触れえなかつた。恐らく融も、長いあひだの色々の場合に於ける自己保存の必要から、対立的に自我的にならずにはゐられない事情もあつて、彼女が母を失ふまでは、本当に彼女をいとしむことが出来なかつた。
「M―は郵便を出すのに不便だし、熱海や湯ヶ原も臆劫だし、いつそ松の内だけでもホテルへ出て見ようか知ら。」
 融は二三日前、東京へ出る度に、いつも泊ることにしてゐる、そのホテルへ来てゐるS―氏夫妻に或る劇場でひよつくり逢つて、一緒に観劇に行つてゐた子供の一人をつれて、帰りに銀座のふじ屋の食堂へ入つてから、ホテルへ同道して、その部屋で暫らく遊んで帰つた。その時「暫らくこゝへ来てもいゝな」とふと考へたので、ちやうどS―氏夫妻も来てゐるし、原稿を出すのにも便利なので、ポオトフオリオをさげて、そこへ行つてみようかと思つた。子供のないS―氏夫人は、その時融の子供を見て、大きくなつたのに驚いてゐた。
「お湯へお入りになりませんか。」夫人はお愛相に言つた。
 融の長男は、何んな人中へ出ても、どんな豪い人の前へ出ても、俛いたり硬くなつたりするやうな事は、決してなかつた。余り卑俗な人間でさへなければ、何んな年長者とでも話の調子を合すことの出来る性質に生れついてゐた。そして融が辞退したところで、夫人は子供に勧めた。
「さあ」彼はにこ/\してゐた。
「今用意させましたから。」
「さうですか。それなら入つても可いですが……。」
 後でS―氏の子供観が出たりしたが、融は子供と一緒であつても、少しも父親らしいぎごちなさを感じなかつた。
 そのホテルで一週間ばかり書いたり談じたり読んだりしようと思つて、彼は家を出て行つた。
「年越しには帰らうね。元旦の雑煮も家で食べるからね。」
「貴方が留守だと人も来ませんし、私も体が楽ですから。」妻もポオトフオリオに物をつめてゐる融の子供らしさを可笑しく思ひながら、笑ふこともできなかつた。
 兎に角彼は感冒にかゝらないやうに、妨寒の設備のあるところが必要であつた。
 室を極めてから、彼はS―氏夫婦の部屋の戸を叩いた。戸が開いたところで、ぬつと顔を入れると、夫人は今湯からあがつて、浴衣一枚であつたところで、ベツドの上に体を悚めてしまつた。融はあわてゝ廊下へ出た。
 暫らくすると、夫人が部屋へやつて来た。そして脚本が上場されるについて、S―氏が劇場へ行つてゐることと、もなく帰るであらうことを告げた。暫く話してゐるうち、夫人が、
「食堂へ入らつしやいませんか」と言ふので、融も、
「行きませう。飯を食べて来ましたが、しかし紅茶くらゐなら。」
 案内役の夫人についで、やがて融は食堂へおりて行つたが、時間じかんがちよつと早かつたので、ホールで待つことにして、隅の方の椅子にかけた。融は彼自身と反対に子供や係累のないS―氏夫妻が、海岸の家を閉め切りにして、大晦日だといふのに、東京へ出て来て、二人でホテル住ひなどしてゐる幸福が、如何にも羨ましくて仕方がなかつた。さう云ふ生活も余り幸福なものでないことは、時々S―氏から聞かされたことだが、融のやうな家庭の囚となつてしまつたものには、それは寧ろ贅沢の沙汰だと云ふ気がした。
 食堂の時間が来たところで、夫人は自分の食事の外に、融にも何か取つて、葡萄酒などを注がして待遇したが、その間に劇場の良人へ電話で融の来たことを通じたりした。
 間もなくS―氏が帰つて、食堂へやつて来た。そして食事をしながら、例の快活な調子で、舞台稽古の話などした。
 食事がすむと、又ホールへ出て煙草をふかしたが、夫人の発言で三人で暮の銀座へ行くことになつた。
「行きませう。」夫人が言ふと、
「さあ。」S―氏は目を輝かしたが、「昨夜は大変だつた。尾張町附近はまるで動きが取れない。何が面白いんか知らないけれど、外に行くところがないからな。」
 やがて四階へ外套なんか取りに行つてから、揃つて外へ出た。融はいつもの癖で、さうやつてゐても、やつぱり家のことが気にかゝつたり、暮に書いた作品に対する不満があつたりして、創作興味の緊張し切つてゐるS―氏が生活と芸術とがぴつたり一つのものになつてゐるのに比べて、余りに自己分裂の多い生活の煩はしさに堪へ切れない自己を哀れまずにはゐられなかつた。
 銀座はその晩も、歩行が困難なくらゐ人出が多かつた。融は暮の外の気分が好きであつたが、家のなかの暮気分も悪くはなかつた。そして賑かな銀座を歩きながらも、自分の子供達と同じ新時代の青年達などの愉快さうにぞろ/\歩いてゐるのを見ると、何だか場ちがひの人間のやうな寂しさをすら感ずるのであつた。
「あゝ、あれが暮の銀座へ一度行つて見たいと言つてゐたつけ。」
 融はふとそんな事を思ひだした。するとづつと以前の或る年の大晦日に、彼女と二人で此処へやつて来て、春の贈りものゝ半衿などを、彼女が猟つてゐたことなどが思ひ出されて、妙に気が滅入るのであつた。
「どうせ春になれば、どこかへ行くつもりだ。来年は二人で伊勢へでも行かうかね。それから京都や大阪も見せてやらう。行かないかい。」融はつい此の頃の晩も、そんな事を彼女に話した。
「え、よし子をつれて行ければね。」彼女は答へたが、余り気も進まないらしかつた。
「行つてらつしやい。」長男も傍から勧めた。
 しかし二日でも三日でも家を棄てゝ夫婦で旅などして歩く気分になりうる彼女ではなかつた。最近母を失つてからは、一層さうであつた。
 母を失つてから、いつも淋しさうにしてゐる彼女を、融は痛ましく思ひながらも、弱くなつた彼女をいたはりうることに、寧ろ今までにない年取つた夫婦の暖かい愛を感じうるのを悦ばずにはゐられなかつた。彼女は数日前も、彼女と子供と三人で、彼女の好きな文楽を浅草に聴きに行つた。家では頭から爪の先きまで、彼女の世話になつて駄々つ児のやうにふるまつてゐる、我儘一杯の融ではあつたけれど、一歩外へ出ると、今度は反対に持病のある彼女を、心持そつと劬はらなければならない立場にあつた。その日も、融は粗雑な敷物のうへを上草履なしで歩いてゐる彼女が、その敷物を気味わるがつてゐることを知つた。
「草履を出さないのは困りますわ。足が冷いんですよ。」
「さう。ぢや僕が草履買つて来てやらう。」融はさう言つて外へ行つた。そして可なり遠いところまで行つて、上草履を一足買つて来た。
「好いのがないんだ。」
「上等ですわ。これなら暖くて……。」
「スリツパがよかつたかな。」
「いゝえ結構ですわ。有難うございます。」彼女は嬉しさうにお礼を言つた。
 そして一と晩親子三人で大阪浄瑠璃を聴いて帰つた。そんな事もあつた。
「それあ、よし子をつれて行けば安心だけれど、大変だぞ。五日くらゐ可いぢやないか。」
「さう行きたいと思ひませんね。勿体ないですもの。子供がもつと大きくなつてから……。」彼女は矢張り気が進まなかつた。
「子供が大きくなる時分には、此方が年を取りすぎてしまふ。」融は言つたが、病気のある彼女が、長い旅に堪へるか何うかは不安であつた。
 彼女が行くと言つても、融がつれて行つたか何うかは素より疑問であつた。彼の頭脳は最近殊に忙しかつた。行楽的な旅などする余裕はなかつた。ホテルへ来る前の晩か、その前の晩かにも、彼は不断のやうに、家庭の年末気分とは全く離れた、彼一人の世界を考へてゐた。
「お餅を切つてくれませんか。」
 ホテルへ立つ前の晩にも、餅を切つてゐた妻がいきなり融に言つた。不断なら切つてやらうと言つても、後で手がふるへるのを案じて、切らさない彼女がどうしてそんな事を言つたかは、其の時の彼には全く気のつかないことであつた。
「笑談ぢやない。おれはそれどころぢやないんだよ。」
 融は読みたい本を少しづゝ集めようと思つて、その晩も子供をつれて、本屋を猟りに出た。妻も買ひものがてら従いて来た。

 銀座から帰つてから、融はS―氏夫妻の部屋で、二時間も話しこんでしまつた。
 翌朝もS―氏夫妻と時に顔を合したが、重もに新聞を書いたり、雑誌を読んだりした。
 晩には夫妻にさそひ出されて、風月の食堂へ行つた。
「やつぱり風月がいゝのかね。」
「何うだかわからんが、M―なんか一番旨いと言つてゐるね。あの連中は西洋にゐて、洋食の味は知つてゐるだらう。××屋(俳優)もよく行くよ。」
「僕も久しく行つてみないから。」
 三人は自動車を※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)つた。S―氏夫妻の生活振が、最近可なり余裕のある幸福なものになつてゐることが、融にも感づけた。それも子がないからだと思はれた。彼は子供を多勢もつたことを、不仕合せとも仕合せとも考へなかつた。たゞさう云ふ風に運命づけられた自分の生活だと思ふだけであつた。自分のやうに何時までたつても子供つぽい人間には余りふさはしい運命だとは思へなかつたが、子供で苦労して自分が、真実ほんとうの自分だといふ感じもするのであつた。
「S―に多勢の子供をもたせたら。」融はちよつと皮肉な考へを浮べて見たりした。
 兎に角子供をもたないS―氏の前では、自分が弱者であることを感じないではゐられなかつたが、それも世間的生活だけの意味であつた。事によると、それは単に経済的な問題であるだけで、さう本質的なものではなかつた。
 自動車の窓にうつる日本橋や京橋の大通りは、昨夜と同じく人の海であつた。
 風月の食堂ではS―氏夫妻はお馴染であつた。融は幾年月かで来たが―無論震災で昔しの建ものは焼けたにしても少数の御定連に旨いものを喰はせる家だといふ落着いた感じがあつた。大晦日のことで、客はさう立てこんでもゐなかつたが、三人ばかりの子供をつれた、四十三四の紳士夫妻が、こゝで年越しの晩餐を楽しんでゐるのが、何となし融の目を惹いた。融は今頃家でも、妻の拵へた煮もので、子供たちが打揃つて年越しをしてゐるだらうと思ふと、その方が旨く味へるやうな気がした。大きい方は銀座でも歩いてゐるかもしれないと思つた。兎に角彼は家庭人の悲哀と言つたやうな気分に躓いたやうな感じであつた。実際彼が家庭人か何うかは疑はしいので、今目の前に見る紳士のやうな怡楽は、感じてゐないのであつた。むしろ人間的な悲哀が、彼を繋ぎ止めてゐるに過ぎなかつた。
「これは旨いんだらうかね。」融はカリーフラワを食べながら言つた。
「こんなもの些つともおいしくはありませんわ。」夫人は若い娘のやうに言つた。
「こゝは一番レフアインされた料理なんだらうが……。」
 食事がすんでから、ストウブの傍でお茶を飲みながら料理の話をした。
「こゝのビステーキが有名なんださうだ。」
「ビステーキは確かに好いな。まあ食つたあとの腹工合の好いところを見ると、調理の好いことだけはわかるやうだ。さう云ふ点が好いんじやないかな。」
 それから其処を出てから、銀座へ出た。途中で近代劇の舞台へでも出て来さうな洋装のH―氏夫妻に出会つた。連中がライオンへ来てゐることを、H―氏は告げたので、帰りにライオンへ寄つて、其人達としばらく話を交へてから、やがて其処を出た。

 元日の朝が来た。
 融は少し寝過ぎて、時間がおそかつたけれど、約束がしてあつたので、電車で雑煮を祝ひに、わざ/\家へ帰つた。雑煮は彼自身の好みで、いつも其に決めてゐるので、それでないと寂しかつた。
 家へ帰ると、子供たちの多くは、もう屠蘇と雑煮を祝はつたあとで、台所も一と片着けすんだところであつた。妻はちよつと臆劫さうな顔をして、彼の来たことを、さう悦ばなかつたが、ガスに点火して仕度に取りかゝつた。
「どうしたんだ、又子供と喧嘩でもしたのか。」融は不平さうに言つた。
 雑煮の鍋を仕かけてゐる彼女の顔が、不断でも善くあるやうに、その時も滞んだ色に少しむくんでゐた。でも、融は気にもかけなかつた。
 彼女もいくらか元気づいて来た。
 風呂から上つて来た、十七になる愛子が、今にも消え入りさうな呻吟声を立てゝ、縁側まで来て、ぐた/\と倒れた。融はあわてゝ妻を手伝つて寝床へ抱きこんで介抱した。
「逆上せたんですよ。」妻はさう驚きもしないやうに言つた。
 愛子は間もなく顔色が出て来て、口もはつきり利くやうになつた。そこへ年始の客が来た。妻は愛相よくそれを迎へて、屠蘇の道具やお重のものなどを運んで煮ものを取配けたりした。部屋は例年のとほりに、狭いなりにきちんと片着いてゐた。
 その客が帰つたのをきつかけに、融もホテルへ帰らうとした。
「え、貴方は忙しいんだから。」彼女も言つた。
 融は彼女が疲れてゐるのに気づいてゐた。帰つてしまへば、後で寝るであらうことを期待しながら、第二番目に来た礼者と前後して、表へ出た。そして忘れた薬や何かを取りに、二度ばかり小戻してから、急いで大通りへ出た。
 ホテルへ帰つてみると、S―氏は卓子の前にかけて、一心に何か書きはじめてゐた。顔が緊張してゐた。融は部屋へ帰つて、雑誌を読みはじめた。
 その晩彼はS―氏夫妻と、帝国劇場へ行つたが、何か落着かない気分であつた。愛子が若し可けないやうなら、ホテルへ電話がかゝるだらう。そうしたら此処へもしらしてくれるだらう。彼はそんな事を考へながらも、いくらか春らしい劇場の空気に浸つてゐた。
 翌朝彼はけたゝましい電話のベルに呼びさまされた。劇場から帰つた彼は、疲れてぐつすり寝込んでしまつたので、あわたゞしい其のベルの音の震動を耳にしながら、やゝ暫らく其れがどこで鳴つてゐるのかを意識しなかつたが、ふと愛子のことが、仄かに頭脳に浮んで来たので、慌てゝベツトから辷りおちるやうにして、卓上電話にかゝつて行つた。
「もし/\。」彼は夢現のなかで呼かけた。
「お父さんですか。僕ですが……お母さんが悪いんです。何うも脳溢血らしいんですが……。」
 融は遽に暗い気持になつたが、脳溢血といふ言葉を其まゝに受容れることは困難であつた。
「ぢやね、今直ぐ帰るから、誰か好いお医者を一人呼んでおいてくれ。」融は顫へる声で、好い医者に力をいれた。
 融は大急ぎで、しかし割合に落着いて、着ものを着たり、折鞄に紙や万年筆を仕舞ひ込んだりして、別れをS―氏に告げに行つた。S―氏はもう床を離れて、窓ぎわで仕事に熱中してゐた。
「家内が病気ださうで、僕これから帰らうと思ふ。」融がいふと、
「さう。すつかり引揚げるですか。」S―氏も無論それほどの事とは思はないらしかつた。
 融はそれから又一旦部屋へかへつて、下へ電話をかけて、会計と自動車を頼んでから、外套や衿巻をして、力ぬけのした足で、ヱレベータの乗り場へ出て行つた。
 下へおりると、S―氏夫人が、もう其処へ出てゐて、口数は利かなかつたけれど、悲しげな目をして彼の降りてくるのを待つてゐた。融は滞在を略一週間ときめて部屋代を払つてあつたので、残り分の金を受取つて、しばらく自動車の来るのを待つてゐた。
「小型がよろしいんでせう。」夫人はさう言つて、二度ばかり出口までおりて見たりした。
 静かな朝の町に、初荷の荷馬車や、貨物自動車が動いてゐた。融は苦い経験があるので、病気といふと医者の不快を買ふまでも、大騒ぎをする癖がついてゐた。で、その時も脳溢血といふ言葉を、そのまゝ妻の現在の病気に引直して考へることは出来なかつた。それは劇場や電車のなかなぞで、真蒼になつて仆れたことが、若いをりから三四回もあつたからで、今度も多分それだらうといふ気がしたが、しかし其れにしても何時ものより重いと云ふ感じが強かつた。そして町が春気分に耀いてゐたゞけに、彼の気分も一層暗かつた。
 家へ飛びこむと彼は部屋の隅にあつた座蒲団のうへに、折鞄を投げ出して、そこに横はつてゐる妻を見た。妻は彼の裏の家にゐるT―氏の夫人に介抱されて、静かに目をつぶつて寝てゐたが、眠つてはゐなかつた。掛りつけの医者のG―氏と、T―氏が融の机の傍に火鉢に当たつてゐた。
「今ね、電話でお帰りを止めやうとしてゐたところです。」
 さう言つて皆んなが割合何でもなささうな顔をしてゐるので、融は出鼻を折られて、遽かに頭脳が軽くなるのを感じたが、決して楽観はできないといふ気がした。
「さうですか。心配ないんですか。」
「大丈夫ですよ。静かにしておけば、落着きますよ。」G―氏は事もなげに言ふのであつた。
 融は何だか安心出来ないやうな気もして、そのまゝ火鉢の傍にすわつて、ホテルの話などしてゐるあひだも、時々G―氏にきいた。
「誰か一人呼ぶ必要はないでせうか。」
「いや、いつものあれですから、心配はないですよ。」G―氏は言ふのであつた。
 融は脳溢血の危険なこと恐ろしいことは、十二分に分つてゐたけれど、診断がむづかしいものだとは思はなかつた。で、今朝お雑煮をしまつたあとで、何時ものとほりに長火鉢にすわつてゐた彼女がふと嚏をしたところで、頭がぴりりと痛んだ。そして洟汁をかむと、痛みが一層強くなつたと同時に、顔の色が変つて体が崩れさうになつた。子供があわてゝ背後へまわつて介抱しようとした時には、彼女はもうぐつたりとなつてゐた。
 融は、ぼんの窪のところへ手をやつたり、鼻と耳のあひだを痛がつたりしてゐる彼女の状態に不安を感じながら、割合医者に信頼してゐたところもあつた。彼女は後脳のあたりに、ざく/\針が刺つてゐるやうな感じがしてゐるらしかつたので、何うやら脳溢血らしいと云ふ気もしたが、それにしては口も利けるし、手も動くので、やつぱり医者を信じていゝやうにも思つた。
「まあ夕方までかうやつておいて下さい。」G―氏は間もなく帰つて行つた。
 融は病床へ寄つて行つた。
「何うだね。」
 妻は目と顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)のあたりへ手をやつて、痛みを訴へた。
「いつもとは違ひます。」彼女は低い声で言ふのであつた。
 融の頭は脳溢血だと云ふ直感が大部分を占めた。
「急いでM―博士を呼んで来てくれ。」彼は長男に命じた。
 長男は出て行かうとしたが、急に又彼女が止めるやうに何か言ふのであつた。そして同時に便通を訴へた。
「ぢや、ちよつと待つて。」融は小供に言つた。そして女中に便器をもつてくるように命じた。
「じいつとしておいで。大便は僕が取つてあげるからね。動いちや可けないよ。」
 さう言つてゐるうちに、上半身を擡げた彼女は、苦しげな歪んだ顔に嘔吐を催して来たことを告げた。小ひさな洗面器が、持ち来たされたところで、彼女の口から濁黄色をした悪いものが、だら/\と吐出された。そして吐いてしまふと、
「私もう駄目です」と言つて、ぶる/\ほゝのあたりを顫はせながら、机のうへに仆れた。が口籠つてしまつた。目もあがつてしまつた。
 それを見ると融は遽かに大変だと云ふ気がした。そして「早くM―さんを……それからG―さんにもさう言つて。」
 G―氏から来て、一本注射をして間もなく、M―博士もあわたゞしい様子で駈けつけてくれたけれど、何んにもならなかつた。恐らく彼女はそれから一時間ともたなかつたであらう。そして其が彼女の生涯の終りであつた。
(大正15年4月「改造」)





底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
   1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「改造 第八巻第四号」
   1926(大正15)年4月1日発行
初出:「改造 第八巻第四号」
   1926(大正15)年4月1日発行
※「買い」と「買ひ」、「ベツド」と「ベツト」、「子供」と「小供」、「ほんたう」と「ほんとう」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード