二人の病人

徳田秋聲




 昨夜も散歩の帰りに、好子は子供のことですこしばかりとほるうつたへるところがあつた。訴へるといつても、それは愚痴とか不満とかいふやうな種類のものでは決してなかつた。たゞ融の亡妻ののこした丸子と、好子自身の子の百合子とに対する彼女の平等な母性愛を基調として、一方が少しでも余計に幸福になつたり、一方が少しでも不幸を感じたりすることのないやうにと、いつも細かく神経をつかつてゐる彼女が、子供のどつちかゞ遠慮して硬くなつたり、怯気づいて萎縮いしゆくしたりするやうな場合に、幸福と感謝に浸つてゐるこゝろに、何うかすると暗いかげが差してくるのでつひ融に訴へずにはゐられないのであつた。
 好子はどんな場合にも、朗らかな正しい眼で二人を見てゐた。可けないことがあれば丸子でも叱らないとは限らなかつたし、百合子のことも表裏ひやうりなく言ふべきことは言つて聞かせるのに躊躇しなかつた。
「どうも百合子が少し増長ぞうちやうしていけない。」好子は時々それを気にしたが、丸子は兎に角として、丸子の多勢の兄弟たちのなかにゐるときの百合子が、余り好くしたとはいへない継母の手元で習慣づけられた、硬くなつて自分のからに閉ぢこもるやうな癖を、動もすると出すので、それが気にかゝつてならなかつた。
 しかし又丸子が好子の愛情を、自分一人のものゝやうにしたがるのはいとしても[#「いとしても」は底本では「としても」]、今まで末の子として何んな駄々児ぶりを発揮しても、皆んなから笑つてとほされてゐた習慣で、不意に同棲することになつた百合子に対して、優越いうえつ感を示すやうなことも、好子にはちよつと気がゝりでないこともなかつた。さうかと言つて、百合子が余り伸び/\して、丸子がおとなしく過ぎるやうなことは、尚更不安であつた。
 融にはさういふ気持がよく解つた。そして、
「やつぱり百合子をお祖母さんとこへ還しませうかしら」と好子が暗い顔をしてゐるのを見ると、それも可いかも知れないと思ふのであつたが、しかしこの二人の子供を並べて育てて行くことは、彼に取つては興味ふかい試みであり、人生修業の一つとして、意義の深いものでもあつた。
 融は長いあひだ、自己を開放することのできないのに苦しんでゐた。利己的な観念から、何んでも彼でも自己ばかりを守らうとするやうな窮屈さから脱るゝことのできない、自分の小ひささに不満を抱いてゐた。
「なぜ自分の子供を自分のものとして、所有しなければならないか。」
「なぜ近よつて来る青年を、自分の子供のやうに愛することができないか。」
 融は長いあひだそれを思ひつゞけてゐた。しかし外界生活並びに自分自身の生活状態から言つて、自己を開放することの危険もわかつてゐた。子供を不幸にしてもならないのであつた。
 勿論好子の子供のことは、それとはいくらか違つた種類の問題ではあつたが、丸子を好子はこれほどに愛し、丸子もまた好子なしには半日も暮らすことのできないほどの深い愛着をもつて来てゐる以上、百合子を好子から引放しておくことは、融には迚も堪へられないことであつた。彼はそれほど好子を愛してもゐたし、好子の愛に感じてもゐた。で、またそれが好子のためにも、丸子のためにも、百合子のためにも、長いあひだの試錬と修業の後、何んな幸福な結果をもたらすかれないのであつた。
 融は自分にも是非ともこの試錬に堪へなければならないことを心に誓つてゐた。
 好子は散歩に出るとき、買ひものに行くとき、きつと二人を両手に引張つて歩くことにしてゐた。丸子の姉の鈴子が同伴の場合には、自分で丸子をつれて、百合子は鈴子が連れてゐた。夜寝るときも、同じやうな形式を取ることにしてゐた。
 昨夜も二人をつれて散歩に出る筈になつてゐた。
「先生もいらつしやいませんか。」
「行つてもいゝね。」
 夕方の町の散歩は、融には長いあひだの習慣になつてゐた。丸子が寝てから、妻と一緒に町へ出歩くことも、夏は殊に殆んど毎夜の癖になつてゐた。そんな場合、妻は何かしら買ひものをした。
 融は若い好子と歩くのが、ひどく人の目に立つことや、行き逢ふ人達のなかには、好子の顔や自分の顔を知つてゐる人も間々あることを意識しない訳に行かなかつたので、何となく気が差した。しかし矢張出て行つた。
 昨夜は鈴子が風邪をひいて寝てゐたので、丸子が行かないと言出したので、いつまでも目の冴えてゐる百合子もそれにお同伴を強ひられて、涙ぐましい目をしながら、机について、この頃夢中になつてゐる綾取あやとりをやつてゐた。丸子は学校があるので早くから寝ることにしてゐた。
「百合子ちやん、そんな顔をするもんぢやないのよ。丸子ちやんも寝んねしたんだから、貴女もおとなしくお寝んねするんですよ。今夜中に洋服を出来してあげるからね。あれを着て、丸子ちやんと一緒に花の会へ行くんでせう。」
「いゝぢやないか、起きてゐるものはつれて行つても。」
「そんな事いけませんよ先生。余りやさしくしては駄目ですの。」
 融は好子と、大きい子供と、中位の子供と、都合四人で町へ出て行つた。そして緑の深くなつて来た大学の塀へ沿つた舗道へと渡つて行つた。
 途中蜜豆やその他飲料なぞをおごつて、それから融自身はアツシユのステキの持ちごろなのを見つけたので、それを一本奮発したりしてから、ぶら/\と少し遠くへまで歩いた。
「今夜は小伝馬さんたちがついてゐないから、もう少し歩かうぢやないか。」融はさう言つて、いつものやうに気分のはづまない好子を振返つた。小伝馬とは海辺に近いところに育つた彼女の方言であつた。
「疲れた?」
 好子は遽かにいつもの晴れやかな笑顔になつた。
「いゝえ、先生がお疲れにならないんなら……。」
 好子は想像とちがつて体がひどく細こくて※(「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62)ひよわであつた。余り働ける方でもなかつたし、主婦らしい仕事に朝から晩まで没頭することも、彼女の頭脳や趣味が許さなかつたけれど、読むこと書くこと、それから子供たちの洋服を縫ふことと編むこと刺繍することなどには、趣味も深かつたし、細かい感じも働いた。それから子供を日曜学校へつれて行つたり、遊戯を教へたりすることも、飽かなかつた。
 帰りに二人おくれたとき、好子は子供のことで、少し融に訴へたのであつた。そして帰つてからもそれが続いた。
「しかし、まあ善く行つてゐると言ふもんぢやないかな。」
 融はさういふことから問題が大きくなつて、お互ひに後で後悔するやうなことが間々あるので、余り真剣にならないやうにしてゐた。勿論それは彼女が融に「甘へる」ことの現れでもあつたが、何かしら時々融の心をゆすられないではゐられない、衝動から来ることも、時にはあるのであつた。そして融自身にも矢張りそれと同じやうな彼女の所謂小癖があつた。
「それあさうね。だから私決して不平を言つてるんぢやないのよ。」
「解つてゐるさ。」
 そこへ大きい子供も入つて来て、芸術談がはじまつた。好子は洋服を縫ひながら、輝かしい眼をして、時々話に加担した。

 翌朝融が茶の間へ出て行くと、好子は四畳半で、丸子が出て行つて、百合子ばかり残つてゐる寝床のなかに、ぐつたり寝込んでゐた。その横に鈴子も寝てゐた。
 融は庭を歩いたり、新聞を見たりしてから、寂しい気持で、軽い朝飯を取つた。するうち百合子が起きだしさうにしては、仰向きに寝たまゝ丸い目をして綾取りに熱中しはじめた。
「どうだい鈴子、今朝熱は。」
 その声に好子も目をさました。
「大変およろしいやうよ。今朝は六度と少し……。」
「やつぱり風邪かね。」
「私も今朝頭が痛いのよ。咽喉がちく/\痛いの。淋巴腺が腫れてゐますの。」
 看ると彼女は顔色が悪かつた。
「早く診てもらいなさい。」
「何でもありませんのよ。たゞ少し疲れが出て来たやうなの。」
「××へ帰るかね。」融はからかつた。
 ××とは好子の郷里であつた。どうかすると彼女は一二週間××へ帰つて、休養したいとか、百合子を置いてくるとか言ひだすのであつたが、それも「甘へ」の一つであつた。勿論少し真剣に触れ合つてくると、本当にさう思ひつめることもあつた。昨夜もちよつとそれが口へ出た。勿論それは休養といふより、百合子をおいて来ようかと、ふとさう思つたからであつた。
「帰らない。」好子は笑つてゐた。
 融はその日も書くものに悩んでゐた。
「ちよつと短かい材料はないかな。」
「あれをそつちへ廻してはいけませんの。」
 それは今十枚ばかり書きかけてある、彼女の原稿を言ふのであつた。融の材料として彼女が書きはじめたものであつた。
「あれは長くもあるし惜しい。好子のものとして発表した方がいゝ。もつと手軽に書けるものはないか。」
「ありますわ、いくらでも。」
 庭にゐた融は四畳半の縁側へ近よつて来た。好子は黒瞳の深い目が遽かに冴えうるんで来て、材料としての或る事件を話しだした。体に軟かい蒲団を絡ひながら、上半身を縁の方へ持出して話した。
「それもちよつと手がかゝるな。」
 融は梅の若葉の下に彳みながら、好子と笑みかはした。
 庭には若葉が日に深くなつて行つた。融はこの頃またそんなものを見るやうな気分になつてゐた。
 やがて融が縁側へあがつて、書斎へ入らうとすると、好子は鏡台を取出して、顔を直してゐたが、ふと振返つて彼を見ると、口をつぼめて嫣然した。そして鏡台の傍を離れると、すいと傍へ寄つて来た。
「私どうしても離れられない。」
「ぢや矢張離れるつもりでゐたの。」
「さうぢやないけれど。」
 二人は机の前にすわつた。
「だけど私何だか変よ。頭が痛いの。」
「それならお休みなさい。」
「こゝへ寝てはわるい。」
「いゝとも。その方が僕も書ける。」
 暫らくすると、臥床がそこへのべられた。熱をはかると、八度五分ばかりあつた。
「私はちよつと熱が出ると、すぐ九度ぐらゐになる女よ。冷めるのも早いの。」
 直きに午後になつた。その日は丸子は珍らしく、いつも粘りついてゐる好子を離れて、学友の家へ遊びに行つてゐたが、四時頃にぶらりと帰つて来た。
「さあ小母ちやんの傍へいらつしやい。百合子もおいで。」
 二人は傍へ寄つて来た。好子は二人を腹の上へ載せたりした。
「あら好い気持。おばさんの掌をつかんでちやうだい。だるくて仕様がないのよ。」
 丸子は頬を好子の側へもつて行つたり、手に唇をつけたりした。
「さあ、お舟にのつたまゝ小さい声で謡ふの。」
「ぱらツ、ぱらツ……。」
 子供は声を合して謳いはじめた。
 融はカステラをもつてこさせて、二人に切つてやつた。好子にも与へたり、自分にも食べた。
「どつさりあるからいくらでも上げるけれど、丸子はやつと病気がなほつたばかりだからね。百合子は少し余計食べてもかまはない。」
「さあ、皆んなあつちへ行つて遊ぶのよ。」
 好子はさう言つて、子供を出してやつた。
「私幸福よ。百合子のところも、こんなにして戴いて。」涙ぐましい目に微笑みながら、細い手を差しのべた。
 鈴子の熱が晩方にまた少し昇つた。そして何んにも食べないといふので、融が行つてみると、彼女は蒲団に顔を隠くして泣いてゐた。
「どうしたの。苦しいの。」
 鈴子は微かに首をふつた。
「心臓が苦しいんぢやない。」
 彼女は熱が出ると、心臓が何時も気づかはれるのであつた。昨日も氷でそこを冷したのであつた。
 何をきいても、鈴子は首をふつてゐた。
「どうしたんだらう。」
 融は好子の傍へ来て言つた。
「寂しいんですよ。こちらが少し陽気だつたもんで。私後でそばへ行つて寝ますわ。お母さんがいらつしやらないから、病気のときは悲しくなるんですのよ。それにお年頃が感じ易い時分ですから。昨夜あたりでも、私がおやさしくしてあげると、涙ぐんでいらつしやるのよ。先生もちよい/\行つておあげにならなければ……。」
 融はまた鈴子の傍へ慰めに行つた。
(大正15年7月「不同調」)





底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
   1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「不同調 第三巻第一号」
   1926(大正15)年7月1日発行
初出:「不同調 第三巻第一号」
   1926(大正15)年7月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年11月27日作成
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