彷徨へる

徳田秋聲




 芸術論や人生論をやる場合にも劣らぬ否寧ろそれよりも※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)かに主観的に情熱の高まつて来るのは、彼が先輩G――の愛人I子の噂をする時の態度であつたが、その晩彼は彼自身の恋愛的事件について、仄かな暗示をG――に与へたのであつた。G――はI子とちよつと遠ざかつてゐるやうな場合に、I子に関して、共鳴を惜しまない、彼と語るのが一つの慰安であり救ひであつた。彼とはG――の最も愛してゐる武村青年であつた。彼は真摯で芸術的才能に恵まれてゐたが、往々コーヒ代や電車賃にも窮してゐた。それは彼が芸術的矜持とプロレタリア精神とを失つてゐなかつたからであつた。
 その時も感激的にI子讃美論のはづんだあとで、卒然として武村は眉を昂げながら、彼にはちよつと珍らしい女性との接近について、謙遜した態度で語りだした。
「ぢや女給ぢやないんだね。」
「先生にまでお話してもいゝと思ひますが、I子さんには何うか秘密に。」
「大丈夫だよ。寿美子かね。」
「え、さうです。」
 寿美子は或る若い洋画家の愛人で、彼女自身は提琴家であつたが、時々来てはI子の用事を達してくれてゐた。未だ親がかりであるうへに、さうした愛人をもつてゐることが、一層資産家の彼の父を頑なにしたので、この洋画家と音楽家との愛人同志の生活は幸福ではなかつた。で、I子が寿美子を物質的に助けてゐる訳であつた。
 G――が寿美子を知つたのは、去年の夏頃I子が彼の家庭に入つて間もないことであつた。I子は以前の結婚生活時代から寿美子を知つてゐた。で、I子がG――の家庭にくることを知つて、寿美子が又た手寄たよつて来たのであつた。G――が彼女が其から後に恋愛関係に陥ちた其の洋画家K――を知つたのは、去年の暮、I子がG――の家の直ぐ近くに別に一ト世帯をもつてゐる頃のことであつた。I子は二人の子供をかゝへてゐたので、寿美子にも家に来てもらつた方が、双互の利益だと思つてゐた。
「ヴヰオリンをびい/\やられるのは困るけれど、練習は成るべく私が外出したときにすれば可いぢやないの。」
 しかし愛人の青年が、ちやうど寿美子と同棲することになつてゐたので、二人の生活事情を訴へに、K――が寿美子につれられて、I子を訪問したのであつた。
「なか/\高いところのある青年よ。あの人は今に好い芸術家になりますわ。寿美子さんには過ぎてゐるかも知れないくらゐよ。」I子はその純真さを称讃してゐたが、その帰りがけに段梯子をおりてくる彼に、G――は立ちながら会釈を交はしたのであつた。その後彼と芸術談をする機会が二三度あつた。
 それゆゑ今武村から、彼の恋愛(彼ははつきりさうとは言はなかつたにしても)の新しい相手が寿美子であると聞いたとき、G――はちよつと面喰つた。
「大分前から?」
「いゝえ、つい此の頃。」
「いつから?」
「そんな事は聞かないで下さい。まあ友情以上のものぢやないんですから。」
「あの女の家へ行つたことがある?」
「え、二三度。一度なんかK――君に来られて、ちよつと困りましたけれど、寿美子さんはK――君を愛人として見られるのを厭がつてゐるやうです。愛人ぢやないつて言つてゐますね。」
「さう云ふことは善く口にするやうだね。それに生活の保証を得てゐない。漸とのことで今度千葉の家の側にアトリヱを建てゝもらふことになつて、工事も進んでゐるけれど、父も頑固だし、小姑も沢山あるし、迚も音楽の勉強どころではないだらうから、寿美子は行くのを厭がつてゐる。あの女も家庭婦人ぢやないんだからね。」
「煙草も酒もやりますね。」
「さうのやうだね。」
「酒はづゐぶん飲みますね。」
「あんなに若くて、僕達のことなんか、よく知つてゐてくれる。僕達を力づけてくれたり、泣いてくれたりするんだ。乱視とか聞いたが、あの目にちよつと魅力がある。まあ綺麗な方だね。接吻くらゐなの?」
「まあ……。」武村は肯定も否定もしなかつたが、
「しかし初めて僕の宿へやつて来て、告白されたときには、ちよつと驚きましたよ。しかしI子さんには何うか秘密に。」
「さう言はない方がいゝだらうね。寿美子がI子に何か話をするまでは。」
「それよりも、新橋駅で、S君に見つかつて困りました。S君が何か言つてませんでしたか。」
 S――とは或る文芸雑誌の若い記者であつた。
「いや、何にも。」
「ちやうど二人とも殆んど文無しで、カフヱへも入れない始末だつたもんですから、あすこへ入つて、ベンチに腰かけてゐたのです。」
「何でもないぢやないか。」
「生活がづゐぶん苦しさうですね。K――君から何等の保証もされてゐないらしいんですね。僕も少し何うかすれば可いんですけれど。」
 武村はより好き生活を求めようとしてゐる彼女を、或る劇団の若い人達に紹介したことなどをも附加へた。
「K――君には気の毒だと思ひましたけれど……。」
「舞台へ立ちたいつて?」
「若い人のことですからね。」
「何んな劇団?」
「いや、未だほんの試みに過ぎないものですけれど。外の職業を捜してあげました。」
 話はそれきりであつた。K――をも知つてゐるので、G――には其を肯定することも否定することも出来なかつた。又そんな必要もないのであつた。が、若し望み得べくばさうした新しい事件によつてK――を不幸に陥れたくはなかつた。たゞ総ては寿美子の自由意志であつた。

 或る時I子はしてもらひたい用事があるのに、来べき筈の寿美子が、二三日姿を見せないので、少し苛ついてゐた。I子はその時旅館にゐた。G――も多くの時間をそこで過した。二人は寿美子をつれて歩くと、何となく都合のいゝ場合が多かつた。
 夜風の寒いをりは、I子もそろ/\白狐衿捲を想ひ出す季節であつた。長襦袢の着替や、半コオトも欲しかつた。それら一切のものを、I子は郊外の寿美子の家に当分のうち預けておくことにしておいた。
「何うしたといふんでせう。寿美子さんにも弱つてしまふね。」I子はこぼした。
「今日あたり来るだらう。」
「多分来てくれるでせうと思ひますけれど。」
 二人はその二三日前に、三四日の小旅行から帰つて来たばかりであつた。
 G――は旅行前に聞いた武村の話を思ひだして、擽つたい思ひがした。そして武村に約束したことも忘れて、つひ寿美子の近状について、簡短に話してしまつた。古い因縁から、I子が面倒を見て来てゐる以上、耳に入れておくのが寧ろ至当ではないかと思はれた。
「寿美子さん武村と少し可笑しいんぢやないかい。」
「さう。武村さんが何か言つてゐましたか。」
「詳しいことは聞かないけれど、往来はしてゐるやうだね。僕のところで二人落合つて寿美子が帰りがけに目配せをするから、武村も直ぐ出て行くと、あの辺のカフヱで待つてゐたと言つたやうなこともあるんだつて。お前は気づかない。」
「私も薄々感づいてはゐましたさ。だけど、私そんな事口へ出さない女よ。」
「さう。どんな場合に。」
「はつきり覚えてもゐないけれど。」
「武村の話では、最初寿美子の方から進んだものゝやうにも思へるんだ。それから舞台に立ちたいと言ふから、劇団に紹介したとか言ふやうなことも言つてゐたけれど。」
「何んな劇団?」
「さあ、何んな劇団だか。」
「寿美子さんも考へなしね。舞台に立ちたいのなら、私達にさう言へば可いぢやないの。」
「さう本気でもないのだらう。」
「それなら尚困るわ。尤もK――さんが生活の心配をしてやらないし、千葉へ引込むのを大変厭がつてはゐました。それに私達が始終武村さんを讃めてゐるでせう。寿美子も芸術家ですからね。けれど武村さんに行つて何うする積りだらう。あの人がK――さん以上に、寿美子の生活を保証できないことは解り切つてゐるぢやないの。」
「しかし此の事は寿美子には言はないでくれ。僕がお饒舌をしたやうで悪いから。寿美子自身が話すまではね。」G――は少し薬が利きすぎたのに気づいたが、もう追つかなかつた。
「えゝ言ひませんとも。だけど寿美子さんにも困つちまふわね。そんな事をしてゐれば、今に書かれるわよ。好い意味にしろ悪い意味にしろ、あの人は私のことさへ書いたんですもの。寿美子さんが私達に関係がないなら可いけれど、密接の関係がある以上、武村さんと関係するのは困るわ。いつそ寿美子さんを断はつてしまはうか知ら。」I子は興奮してゐた。
「それも困るだらう。可いぢやないか。寿美子も我々には理解をもつてゐるんだし、書かれたつてさう困ることもないぢやないか。」G――は宥めた。
「さうは言つても、書く人は矢張り可恐いですよ。私が一番立場に困つたのは、何かと言へば貴方に書かれたことぢやないの。それあ、寿美子さんも可哀さうなのよ。このあいだも阿佐ヶ谷へ行つてみると、晩にたくお米がないつて始末なの。私がお米も入れて来ましたけれど。寿美子さんも生活となると、私以上にだらしがないけれど、それも芸術をやるんだから仕方がないでせうが、障子は破けてゐるし、電燈は薄暗いし、よく一人であんな寂しい一軒家に寝るもんだと思ひますね。質のわるい泥棒でも入つて来たら何うするでせう。アトリヱの建築も大事ですけれど、K――さんが幾日も/\あすこに女一人棄てゝおくのも好いことゝは言へませんね。あの人も純真なだけに、さう云ふことのお察しがなくて困るの。私でも幇助してやらなかつたら、何うして食べたり着たりして行くでせう。寿美子さんが悶※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)くのも無理はないぢやないの。でもあの女綺麗なところがあるのよ。私からお金をもらふのさへ気兼なのよ。買ひものをしたつて、計算は一々几帳面よ。だから武村さんとこへ行つた気持も解るけれど。……行くなら行くでも可うござんすさ。でも其方此方渡りあるくのは困りますからね。あの女にはづる/\と引摺られて行くやうなところがあるの。」
「だけど武村も、恋愛関係だとも言つてゐないんだよ。」
「私もそこまでは行つてないと思ひますけれど。それはあの人も、あすこまで進んだんだし、芸術家としては尊敬もしますけれど、あんな貧乏でも寿美子さんが可哀さうだと思ふの。」
 廊下の取附きにある部屋の入口の襖が、その時すうつと開いた。そして其処に、寂しい彼女の顔が現はれた。


 その次ぎにG――がI子の宿を訪ねたとき、寿美子も部屋にゐたが、間もなく用達しに出た。I子の仕立物をでも取りに行つたらしかつた。G――は二女ふたりの気分で、武村のことをI子が寿美子に話して、厳しく小言を言つたことが直感された。勿論二日程前の夜、G――とI子とが寿美子をつれて銀座を歩いてゐたとき、武村が新橋駅で寿美子とゐるところを見られたといふ、雑誌記者S――君と其友人とに出逢つて、一緒にフルーツパラアへ入つた。その折其の事がS――君の口からも、ちよつと洩れた。S――君は其時の女が、I子の友人であることを初めて知つて、怪訝な顔をしてゐた。
 G――は寿美子が外出してから、
「寿美子さんに話したね。」
「ううん、ちよつとだけど、寿美子さんの側から言ふと、少し事実の相違もあるのよ。寿美子さんが最初行つたことは行つたんでせうけれど、寿美子さんの方でも随分困つた場合もあるらしいの。それはあの人も独身の青年ですもの。その位のこと当然だわ。どうも幾度も寿美子の家へ行つてゐるらしいの。泊つても行つたらしいわ。だけどそんな関係のないことは確かよ。多少自覚してゐる女に、そんな事が、さう容易く出来る訳のものでもないものよ。そこは信じてやらないのは可哀さうよ。劇団の方も、舞台に立ちたいんでもなささうなの。武村さんが、やつて見ませんかと言ふから云つて見たまでださうですの。K――さんがアトリヱに気を取られて、薩張りやつてこないのが一体可けないのよ。K――さんはアトリヱができて、大変幸福だけれど、寿美子さんにして見れば、折角アトリヱが建つても頑固な親達や兄弟達と、一つ雰囲気のなかに住む気にはなれないでせうからね。何しろ自分は自動車をもつてゐて、始終乗りまはしてゐるといふ身分で、兄さんたちはお父さんの商売に、店員として働いてゐるから、夫々報酬ももらつて楽に暮してゐるやうなものゝ、商売の助けをしないで画でも描かうと云ふK――さんは、最近まで殆んどかまいつけずにあつたんですからね。今度二科へ入つたにつけて、初めて地所もわけてくれ、アトリヱも建てゝくれるんですけれど、K――さんがついてゐないと、兎角材料なんか悪くなつて困るといふんですの。兄さん達は自由結婚をしたので、K――さんにはちやんとした処から、お嫁さんを迎へたいと言つてゐるんださうですから、K――さんにいくら深い愛があつたところで、平和に行きさうな気遣ひはないのよ。その場合に当つてみなければ解らないのよ。多勢の小姑や兄嫁に軽蔑されて、実家といふ背景のないものゝ惨めさは、矜も箇性もないものならいざ知らず、芸術にでも生きようとするものには、迚も堪へ切れないことなのよ。寿美子さんも、悩んでゐるらしいの。職業について、独立したいとは思つてゐるらしいんですの。」I子は寿美子のために訴へるやうに言つた。
「寿美子さんの家は、もとは好かつたの。お父さんは代議士もした人なのよ。東京の叔母さんも、来い/\と言つてるらしいんですけれど、矢張り行きたくないのね。K――さんとは、矢張別れないつて言つてますわ。」
「この頃少しぐらついたんだね。」
「音楽家として自分の才分にも疑ひが起つて来たらしいの。様子が変だとは思つてましたけれど、音楽で立つて行けるか何うかと云ふ不安もあるの。生活をK――さんに寄れないとすると、考へなけあならないでせうから。でも矢張りK――さんは自分でも好きだと言つてゐますね。」
 晩飯のとき素破すつぱぬいたG――も、小言を言つたI子も、寿美子のためにビールをぬくことに一致した。寿美子は食卓の一角に坐つて、そつと煙草を喫しながら、時々コツプを手にしてゐた。
「アトリヱへ行つてみたら何うかね。案外気持がいゝかも知れない。苦しくても少しは妥協しなくちや。」G――は笑ひながら言つた。
「何しろ十年計画ですもの。その辛抱が大変だわ。」寿美子は窶れたやうな頬に微笑した。目瞼に酒の酔ひがほんのり出てゐた。
「だから寿美子さんの方でも、早く一人前の音楽家になることさ。」
「えゝ。それが大変ですもの。」
「いや、豪くなればなるほど、家族達とは巧く行かないね。」
「でもK――さんを愛してゐるのだつたら……。」
「何だか解りませんわ。」
「武村さんは?」
「そんな事ないんですわ。」寿美子はすぼめた口から煙を吹きながら、※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)けたやうに薄笑つてゐた。
「ぢや誰が好き?」
「さうね。私Y――先生が好きなの。」
「Y――先生? ほう! 大家ぢやないか。画はさう感心しないけれど。」G――は彼女を見詰めた。
「さう。そんな大家?」
「だけど子供さんが多いの。」
「生活は?」
「貧乏ですわ。」
「へえ! 恋愛があるの。それなら己が援助する!」
「嘘、嘘。私には少し大きすぎますもの。仄かに空想を描いてゐるだけなの。」寿美子はあわてゝ、幾度も打消した。


 ある晩G――の書斎にI子も来てゐるところへ、武村と其の友人が二人訪ねて来た。
 G――は、寿美子がその頃も達すべき用事があるのに、約束をたがへて、親類に急用ができたから、これから行つて来ます、帰つたら直ぐ伺ひます、と言つて断はつて来た。
「あの子にも困るね。」I子はこぼしてゐた。
 で、武村が来たところで、G――は尋ねてみた。
「この頃寿美子に逢はない?」
 すると武村は、
「今そこで皆んなでおでんやへ入つて、飲食ひして別れたばかりですよ。」
「さう!」I子は呆れたやうに言つた。
 武村のその夜の調子は、少し激越してゐた。G――はそれを自分が武村の話をI子に洩らした結果だと感づいてゐた。G――はそれを済まないことに思つてゐた。しかしI子をすら書いた武村が、寿美子を作品に上せない筈はないのであつた。
「やつぱりさうなのね。あのひとは駄目ね。」
 武村は腕組みをしながら、少し膝を乗出すやうにして、
「可いぢやないですか。その位のこと。」
「いや……。」I子も少し胸を反らし加減に、
「それと是とは別問題ですけれど、私も武村さんに一度言はうと思つてゐたのよ。私をあんな風に好く書いていたゞいて、大変有難いんですの。作品としてもづゐぶん好いものだと思ひますわ。でも、それですら問題が生じて、大変迷惑しましたの。あの結末は、あゝ云ふ風に書いてこそ興味があるんで、流石だと敬服されますけれど、あの劇場の俳優を私が知つてゐるやうに書かれたことも、人によつては誤解を招き易いんですの。言つてみれば、女の立場はいつの場合でも弱いんですから、何の気なしに書いたことでも、モデルにされるとなると、随分迷惑することがあるのよ。不平を言つてるんぢやないのよ。芸術は芸術ですからね。それから寿美子さんのことも――これは武村さん、貴方に文句を言ふんぢやないのよ。寿美子さんも苦しいから、そんな事もするんでせうけれど、あの女は私が多少援助を与へて、其の代り色々用事を達してもらつてゐるんですの。多分のことは出来ませんけれど、著物も二三度手を通したばかりのものを、K――さんが何んにもしてやらないから、気の毒だと思つて着せてやつたり、此頃のやうに道を歩く人がシヨールをかける季節になれば、去年のを持つてゐるかしら。ないなら買つてやらなければならないがと、先刻もシヨウウヰンドウを見て心配してゐたくらゐなの。舞台へ立つなら立つで、私達に相談すれば、相談相手にもなりますわ。ほんとに真面目にやるつもりなら、遣るのは決して不賛成ぢやないんです。だけど唯一時的の気紛れぢや困るの。」
 すると同伴の青年の一人が、素直にそれを受容れた。彼は二三度武村について来たことがあつた。
「それは私達の、初めたものなのです。まだほんの初めたばかりの、微力なものなんですから、さう云ふ事情でしたら、決しておすゝめは出来ません。私達も止めても可いんです。」
「いや、そんな必要もないぢやありませんか。折角お初めになつたのでしたら、お遣りになつた方がいゝぢやありませんか。寿美子さんが一人ぬけたつて、代りの女優がゐない訳ぢやないんでせうから。」
「それ程のこともないんですよ。」
「もう稽古にでもかゝつたんですか。」
「え、やつてゐるんです。けど、もう止めます。」
「寿美子さんも稽古したんですの。」
「え、二三度。」
 G――が喙を容れた。
「それで寿美子は何うなんです、女優として……。」
「まあ、正直なところあのひとに舞台は何うかと思ひますね。せりふなんかも何うも……。」
「やつぱりヴヰオリンの方が好いんだらう。」G――も頷いてゐた。
 I子は更に、
「若し遣るとしたら、報酬がもらへるんですの。」
「いや、そんな訳にも行かないでせう。」
 話してゐるうちに、寿美子が其の人達のなかに交つて、夜更しをしたり、酒を飲んだりしたことも解つたが、結局I子の気持に基いて、すつかりそんな生活から遠ざかるやうにさせることを、其の青年がI子に約束して、引揚げた。
 色の蒼い、脊の高い方の、今一人の青年は来るから帰るまで、思ひありげに口を噤みきりであつた。


 或晩の事――
 G――がI子の下宿(彼女は一時下宿を出てゐた)にゐるとき、洋画家のK――が訪ねて来た。彼の表情は穏かでなかつた。
「何うなすつたの? この間夜おそく入らしたさうですけれど、私あの晩は先生のところにゐましたの。」
 K――は素朴な態度で、重い口をきいた。
「寿美子が来てやしないかと思つたもんですから。」
「それからづゝとお逢ひにならないの。」
「逢ひません。私が悪いんです。アトリヱの方へかゝつてゐて、出て来る隙がないものですから。夜だけでも来ようと思ふんですけれど、今のところ、別に入口がないものですから、門が早く締つてしまふと、出る訳に行かないんです。」
「ちつとも出て来ないんですか。」
「一週間前に行つて見ました。その時はゐました。」
「武村さんと逢つたさうですね。」
「え、其の人とも其の前に逢ひましたが、一週間前に行つたときには、何でも牛込にゐる人だとか云ふ、早稲田の人が来てゐました。」
「はゝ、どんな人?」
「痩方の脊の高い……。」
「顔のさう大きくない、頭髪を分けた蒼い色した人ぢやなくて?」
「さうです。」
「はゝ。あの人だわ。この間三人で来た。」
「さうらしいな。」
「始終黙つてゐたから、変だと思つてゐたら。そして何んな風でしたか知ら。」
「私が入つて行つても、別に挨拶もしず、胡坐を組んでゐますから、私も避けるやうにしてゐたんです。寿美子は一体、誰の前でも愛人といふ振をしないでくれと言ふんですから。」
「変だね。」G――は苦笑したが、焦燥じれつたく思つた。
「その時もそんな風?」
「え。」
「で、その男に対して寿美子さんは?」
「親しい口の利き方をしてゐました。」
「可笑しいな。」
 K――の言ふところでは、つひ此頃二人の間に分れ話が出た。そして喧嘩分れになつた。K――はそのまゝ千葉へ帰つたけれど、後で考へてみると、矢張り二人は愛し合つてゐるのであつた。で、翌日行つてみると、彼女はゐなかつた。で置手紙をして帰つた。しかし外の男が来ることを考へると、手紙をおいて来るのは、不安だと感じたので、今度はそれを撤回することにした。それから一昨日も昨日も彼女と出逢ふことが出来なかつた。そして其の揚句に、今日は彼女から、こんな手紙を受取つたといふのであつた。
「どれ/\!」I子が取つて黙読した。読み了ると、
「これぢや駄目ぢやないの。明かに宣言してゐるぢやないの?」
 G――も取つて読んだ。よくも寿美子がこんな文章を書けるものだと、彼は心を惹かれたが、文字は悲痛で絶望的であつた。
「これは駄目ぢやないか。こんな女のために貴方の悩むのは詰らない。」
「みんな僕が悪いんです。僕はあの女のために、当分又アトリヱを棄てようと思ふんです。あのまゝにしておいてくれる約束で、父にも其の話をしたのです。」
「けど、芸術の方が大切ぢやないかね。寿美子さんのことは当分放抛つて、アトリヱへ立籠りたまへ。君の作品がもつと世間へ出るやうにすれば、寿美子だつて還つてくるに決つてゐる。」G――は勧めた。
「さうですね。さうした方が好いでせうか。」K――は逆らひもしなかつた。
 三人で外出した。そして通りの喫茶店へ入つた。
 G――はK――の純情が、むしろ痛々しく感ぜられた。
「あれさうぢやないんですよ。寿美子はやつぱりK――さんを愛してゐるんですよ。あの手紙は、二人の運命を呪つてゐるに過ぎません、K――さんが、詰り親に頭があがらないから、脅かしたものでせう。自分の方へ惹きつけるために。」I子は帰り途でK――に別れてから、G――に話した。
「それをK――さんに言ふと可けないから、わざと絶望のやうなことを言つたんですけれど……。」
「さうか知ら。しかし此の二週間ばかりが、寿美子の危険期であつたのは事実だね。」
「寂しいから、少し自棄になつたといふ程度のものよ。女は皆なさうよ。誰だつて、あんな寂しいところに、明日のパンもなしに独りで放抛つておかれゝば、あゝなるのが当然よ。年が行かないんですもの。」


 四五日すると、G――はK――からの手紙を受取つた。それは彼の忠告を無にしない意味での、二人の結びつがりについての、仄かな報告を兼ねての礼状であつた。
(昭和3年2月「新潮」)





底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
   1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十五年第二号」
   1928(昭和3)年2月1日発行
初出:「新潮 第二十五年第二号」
   1928(昭和3)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード