亡鏡花君を語る

徳田秋聲




 明治二十四、五年頃ではなかつたかと思ふが、私が桐生悠々君と共に上京して、紅葉山人の横寺町の家を訪れた時には、鏡花君は既に其の二畳の玄関にゐた。私達と同郷で、特に私とは小学校が一つなのだが、クラスが違つたせいか、其頃には互ひに相識る機会もなく、私達の通つてゐた石川県専門学校が高等中学になる時、一般の入学試験があり、私達も其の試験を受けたが、通路を隔て私と同列の側にゐた桜色の丸い顔をして近眼鏡をした青年がありリーデイングの時、いとも滑かなリイダの読み方をしたのを今でも覚えてゐるが、それ以前に通学の途中、ちよつと其の姿を見たことがあり、田舎には珍らしい、ちよつと印象の深い美しさであつた。君は広坂通のミツシヨンスクールへ通つてをり、私は専門学校へ通つてゐたのであつた。高等中学の試験では鏡花君は他の学科で落ちたものらしく、入つて来なかつたが、余程経つてから、私も大分文学かぶれのしてゐた頃だつたが、棚田といふ大通りの本屋で、新しい小説類の外に漢書を一冊借りて来ては読んでゐた頃、鏡花君も其の主人とは懇意らしく、一度店頭にゐる君を見たことがあり、それが泉といふ男だと主人が言ふのであつた。事によると、其時君は既に紅葉の門に入つてをり、脚気を患つて帰郷してゐた時であつたか、或はまだ一度も上京しない前であつたか、其の点は詳かでないが、俳諧師のやうに道行を着てゐたことが、記憶に残つてゐる。
 私が悠々君と横寺を訪ねた時は、先生には逢はなかつた。同郷の泉君が玄関にゐなかつたら、不在といはれて空しく帰つたにしても、或は再び出直して行つたかも知れないが、高等学校の同窓中山白峰も、先生の門に出入してゐて、私達が先生の許へ郵送した原稿が先生の手紙と共に宿へ返送されて間もなく、白峰からも先生の意志を取次いだやうな手紙があつたが、それも何だか気に喰はず、それ限りになつてしまつた。
 鏡花君の家は金沢でも同じ浅野川口の、新町しんちやうといふ町にあつたらしい。此町には大分前に死んだ田中千里君の邸宅があり、其の父は県立病院の最初の院長で、私も大名屋敷のやうな其の家へ遊びに行つた覚えがあるが、千里君も鏡花君とは竹馬の友だつたといふのに、私と泉君とは遂に相知る機会がなかつた。泉君の家は尾張町の有名な菓子屋森八の裏にあつたさうで、父は飾屋であつたが、母は能師の松本と血縁の江戸ツ子で、早世したが、所持してゐた草双紙や錦絵が少年の頭に与へた感化は少くなく、後年の君の芸術の素地を成したものと思はれる。女が樹に縛りあげられ、打擲されてゐる画などを、能く描いてゐたといふことも、弟の斜汀から聞いたことがあり、町の腕白でもあつたといふことである。父が継母を迎へた時、このスマートな兄は、人の好い弟を使嗾して、お膳の上の飯を引くらかへしたりして、継母を困らせながら、兄自身は反つて継母にお愛想が好かつたといふのである。幼にして母を失つたことが、敏感な少年に与へた刺戟のほども想像されるが、母のイメーヂは慈悲ぶかい観音のやうに美化され、女性を求むる場合、その憧憬が基調となつてゐたことは勿論で、その頃彼を愛した近所の時計屋の娘への思慕もさうした少年の気持であつたものと思はれる。君が後年の恋愛観もかういふ処から来てゐるので、その女性は必ず彼自身のものでなくてはならず、如何なる環境におかれるにしても、弱い彼の庇護者としての母性であり恋人であらねばならぬのである。彼から見れば、世間の良人は大抵薄野呂で、その美しい夫人が彼のフアンでなければならない訳である。この自己中心の恋愛観は、「外科室」初め、大抵の小説に現はされてゐるが、「高野聖」において、完全に象徴化されてゐると言つていい。若き頃の彼は到る処にこの母性愛と恋人を捜し、美しい夫人が彼のフアンである場合、その良人は学者であらうと、金持であらうと大抵阿呆に見えたのである。勿論これは或時は貧しく育つた市井人としての、権力階級への反抗心の現れとなつてゐることもあり、一つ/\の作品を調べてみたら、面白い研究ができさうだが、鏡花の作品には、大抵暗い穴の中から、鋭い目で人生を透し視てゐるやうなところがあり、子供が無関心の情態から、屡ば知らず識らず大人を馬鹿にしてゐると同じ態勢で、人間のカルケチユアを描いてゐることも多いのである。後年それが段々趣味的になり、洒落になり、自己陶酔的に陥り、才華に委せて、自身の興味に溺れて行けたことは、寧ろ彼の芸術生活の此の上もない幸福であらう。
 その処女作(夜行巡査が或は最初のものかも知れないが)義血侠血滝の白糸が、なにがしといふ署名で、読売新聞の附録に掲載されたのは明治二十七、八年の日清戦争時代で、私はその時、故あつて越後の長岡で発刊された平等新聞にゐたが、印刷工場で評判になつてゐた。私は大衆的なこの作品には感心ができなかつたが、翌年の一月上京し四、五月頃博文館へ入り、そこで再び君と口を利く機会を得たが、君は既に其の頃興隆した文学の新機運のなかでも、尤も尖鋭的なもので、すばらしい人気であり、「外科室」「化銀杏」などの、今迄の古い人情小説の域を脱した短篇が文芸倶楽部の巻頭を飾つてゐたものだが、その時は既に横寺の玄関を小栗風葉と柳川春葉の両氏に譲り、大塚の旧の火薬庫近くに一戸を構へ、老祖母と弟妹を郷里から迎へて、世帯を営んでゐた。そこは彼の庇護者である、大橋乙羽氏の戸崎町の家とも、さう遠くはなかつた。大塚はその頃は草深いものであつたが、私も単独で遊びに行つたこともあり、皆と一緒にそこで俳句を作つたこともあつた。そこ迄来るには、鏡花君にも飢餓が身に迫つたこともあり、或る時は人の家の書生に住みこんで、炭を切らされたこともあり、又屋台店を出さうとしたこともあつたが、ふとしたことから、紅葉先生の育ての親で叔父さんになる荒木氏の子に当る人に知られ、漸く先生の門下にまで辿りついたものである。これが先生の玄関子をおいた初めで、入門の順序から言へば二番目であり、第一番目は堀紫山氏である。
 そんな関係から、紅葉先生は鏡花君に取つては絶対で、その奉仕振は後から行つたものが、少し迷惑を感ずるくらゐ行き届いたものであり、先生をいくらか我儘にした形もあるが、しかし此の師弟関係の美しさには、又一つの江戸児風の洒落や滑稽気分が多分にあつて、別に厳格といふほどのことはなく、人間的情誼の厚いものであつた。先生が何んな人間でも、おれのところへ来れば一人前にして見せるといふ相当の自信をもつたのも、最初の鏡花がすばらしく当つたのにも因るものであらう。しかし或る意味では師よりも強い一種の人気のあつたことは、鏡花に取つて一つの苦労の種子であつたことは、想像に難くはない。それは鏡花の師への心遣を一層深めたので、やがて又長いあひだにはそれが信仰に似た絶対の尊崇となつたものであらう。勿論鏡花は自己中心の感情から、師に対する独占慾をもつてゐたものでもあらう。この師弟間の感情は「湯島詣」に実によく出てゐる。あれは鏡花君が牛込の榎町にゐた時分、しばらく家を離れて築土の私の下宿に寝泊りしてゐた頃の腹案で、彼はその性癖として、書く前に思構を人に聞いてもらはないと安心できず、書いてからも弟の斜汀に読んで聞かせるのが習慣となつてゐたが、小几こづくゑのうへに何時も小さい神酒みき徳利のやうなものが、水が入つてゐたが、書く時には原稿紙に其の水を振りかけるといふことも、妙な癖だつたが、せせつこましく屡々灰のなかへ指頭ゆびさきを突つこむといふのも、さう云ふ時の一つの癖であつた。その他にも色々の癖があり、先生の手紙を投函する時には、それが紛失してしまひはしないかと怖れ、入れたあとでおまじなひのやうに三度も函の周囲をまはるといふ風であつた。食物にも好悪の感覚が鋭く、私の下宿にゐる間は、大抵生卵を一つこわして、三杯くらゐの飯にぶつかけて食ふのが例であつた。榎町の家では、夜ふかしをするので、紙幣贋造者ではないかと、あやしまれたこともあつた。私は夕方になると、講釈の寄席にさそはれたものだつたが、家庭の愚痴もよく耳にした。
 文章も奇才縦横だが、座談は殊に面白く、怪談が尤も得意であつた。私は柳川君の小説が大当りを取つて、新派劇でも人気を博した時、彼が定紋附ぢやうもんつきの車で乗りまはし、夫人も指に幾箇かの指環を閃めかし桟敷に納つてゐたものださうで、その様子を手真似しながら滑稽や洒落まじりに描写する時の鏡花の様子を今でも思ひ出すが、それにたかる軽薄な芝居ものの描写は一層神に入つてゐた。彼の目はさういふ点で人間の滑稽味を、ずつと奥の奥まで見透みすかしてしもうので、その口にかゝつては、どんな生真面目きまじめな男でもカリケチユアライズされないではゐないのである。
 この天才肌の鏡花も、自然主義全盛時代には戯作者か何ぞのやうに看做されたこともあり、軽い喀血を気にして、数年逗子に転地してゐた前後は、生活も楽ではなかつた。しかし其の後大いなる彼の芸術擁護者が現はれ、文壇の新人にも理解者が多く、生活が安定すると同時に、後の芸術的半生は、恵まれてゐた。私は曾て「黴」で臨終のときの紅葉先生についてちよつとその人間に触れたことが因となり、鏡花春葉の二人からボオイコツトされたものだが、その間でも三人会食し、二人の痛飲ぶりを傍観してゐたこともあつたが、大体初めから文学の傾向がちがふので、昔しの友情は永いあひだ途絶えた形であつたが、弟斜汀の死の前に、少し面倒を見ることになり、死んでから再び鏡花と打釈けることができたが、彼の衷心は何うであつたか疑しい。しかし今はそれは問題ではない。私も人々と共に一度はその作品に目を通し、理解ある批評もしてみたいと思つてゐる。彼をよく知つてゐるものは少くとも私もその主なる一人だと思ふからである。
(昭和1410月1日「改造」)





底本:「徳田秋聲全集 第23巻」八木書店
   2001(平成13)年7月18日初版発行
底本の親本:「改造 第二十一巻第十号」
   1939(昭和14)年10月1日発行
初出:「改造 第二十一巻第十号」
   1939(昭和14)年10月1日発行
入力:きりんの手紙
校正:安野千歳
2020年8月28日作成
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