○
運命は現象を支配する、丁度物体が影を支配するやうに。現象によつて暗示される運命の目論見は「死」だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。
我等の世界に於て物と物とは安定を得てゐない。而して安定を得るための道程にあつて物と物とは相剋してゐる。我等がヱネルギーと称するものはその結果として生じて来る。而してヱネルギーが働いてゐる間我等の間には生命が厳存する。然しながら安定を求めて安定の方に進みつゝある現象が遂に最後の安定に達し得た時には、ヱネルギーは存在するとしても働かなくなる。それは丁度一陣の風によつて惹起された水の上の波が、互に相剋しつゝ結局鏡のやうな波のない水面を造り出すに至るのと同様である。そこには石のやうに黙した水の
我等の世界の現象も遂にはこゝに落付いてしまふだらう。そこには「生」は形をひそめてたゞ一つの「大死」があるばかりだらう。その時運命の目論見は始めて成就されるのだ。
この已むを得ざる結論を我等は如何しても承認しなければならない。
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我等「人」は運命のこの目論見を承認する。而かも我等の本能が――人間としての本能が我等に強要するものは死ではなくしてその反対の生である。
人生に矛盾は多い。それがある時は喜劇的であり、ある時は悲劇的である。而して我等が、歩いて行く到達点が死である事を知り抜きながら、なほ力は極めて生きるが上にも生きんとする矛盾ほど奇怪な恐ろしい矛盾はない。私はそれを人生の最も悲劇的な矛盾であると云はう。
○
我等は現在の瞬間々々に於て本統に生きるものだと云つてゐる。一瞬の未来は兎に角、一瞬の現在は少くとも生の領域だ。そこに我等の存在を意識してゐる以上、未来劫の後に来べき運命の所為を顧慮する要はない。さうある人々は云ふかも知れない。
然しこれは結局一種のごまかしで一種の観念論だ。
人間と云はず、生物が地上生活を始めるや否や、一として死に脅迫されないものはない。我等の間に醗酵した凡ての哲学は、それが信仰の形式を取るにせよ、観念の形式を取るにせよ、実証の形式を取るにせよ、凡て人の心が「死」に対して惹起した反応に過ぎない。
我等は我等が意識する以上に本能のどん底から死を恐れてゐるのだ。運命の我等を将て行かうとする所に、必死な尻ごみをしてゐるのだ。
○
ある者は肉体の死滅を恐れる。ある者は事業の死滅を恐れる。ある者は個性の死滅を恐れる。而して食料を求め、医薬を求め、労役し、奔走し、憎み且つ愛する。
○
人間の生活とは畢竟水に溺れて一片の藁にすがらうとする空しいはかない努力ではないのか。
○
然し同時に我等は茲に不思議な一つの現象を人間生活の中に見出すだらう。それはより多くの死を恐れる人をより賢明な、より洞察の鋭い、より智慧の深い人の間に見出すと云ふ事だ。
これらの人は運命の目論見を常人よりよりよく理解し得る人だと云はなければならぬ。よりよく理解する以上は運命に対してより従順であらねばならぬ筈だ。そこには冷静なストイカルな諦めが湧いて来ねばならぬ筈だ。而して所謂常人が――諦めるだけの理解を有し得ない常人が、最も強く運命に力強い反抗を企てなければならぬ筈だ。生の絶対権を主張せねばならぬ筈だ。
然るに事実は全く反対の相を呈してゐる。我等の中優れたもの程――運命の企てを知り抜いてゐると思はれる癖に――死に打勝たんとする一念に熱中してゐるやうに見える。
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「主よ、死の杯を我れより放ち給へ」といつた基督の言葉は凡ての優れた人々の魂の号叫を代表する。四苦を見て永生への道を思ひ立つた釈迦は凡ての思慮ある人々の心の発奮を表象する。運命の目論見に最も明らかなるべき彼等のこの態度を我等は痴人の閑葛藤として一笑に附し去る事が出来ないだらう。
○
死への諦めを教へずして生への精進を教へた彼等の心を我等は如何考へねばならぬのか。
○
こゝまで来て我等は、仮相からもう一段深く潜り込んで見ねばならぬ。
私は死への諦めを教へずして生への精進と云つた。それは然し本統はさうではない。彼等の最後の宣告はその徹底した意味に於て死への諦めを教へたのではない、生への諦めを教へたのだ。生への精進を教へたのではない、死への精進を教へたのだ。さう私は云はねばならなかつたのだ。
何故だ。
○
それを私の考へなりに云つて見よう、それはある人々には余りに明白な事であらうけれども。
彼等は運命の心の徹底的な体験者であるのだ。運命が物と物との間の安定を最後の目的としたやうに、彼等も亦心と心との安定を最後の目的とする本能に燃えてゐた人達なのだ。彼等の表現が如何であれ、その本能の奥底を支配してゐた力は実に相剋から安定への一路だつたのだ。彼等は畢竟運命と同じ歩調もて歩み、同じリズムもて動いたのだ。
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皮相の混乱から真相の整生へ、仮象の紛雑から実在の統一へ、物質生活の擾動から精神生活の粛約へ、醜から美へ、渾沌から秩序へ、憎から愛へ、迷ひから悟りへ、……即ち相剋から安定へ。
我等の歴史を見るがいゝ。我等の先覚者を見るがいゝ。又我等自身の心を見るがいゝ。凡てのよき事よき思ひは常に同一の方向に動いてゐるではないか。即ち相剋から安定へ……運命の眼睛の見詰めてゐる方へ。
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だから我等は何を恐れ何を憚らう。運命は畢竟親切だ。
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だから我等は恐れずに生きよう。我等の住む世界は不安定の世界だ。我等の心は不安定の心だ。世界と我等の心は屡やうやく建立しかけた安定の礎から辷り落ちる。世界と我等とはあらん限りの失態を演ずる。この醜い蹉跌は永く我等の生活を支配するだらう。それでも構はない。我等はその混乱の中に生きよう。我等は恐れるに及ばない。我等にはその混乱の中にも統一を求める已み難い本能が潜んでゐて、決して消える事がないからだ。それで沢山だ。
我等は生きよう。我等の周囲に迫つて来る死の諸相に対して極力戦はう。我等は肉体を健全にして死から救ふ為めにあらん限りの衛生を行はう。又社界をより健全な基礎の上に置く為めに、生活を安全にする為めにあらゆる改革を案出しよう。我等の魂を永久ならしめんためにあらゆる死の刺を滅ぼさう。
我等がかく努力して死に打勝つた時、その時は焉ぞ知らん我等が死の来る道を最も夷らにした時なのだ。人はその時に運命と堅く握手するのだ。人はその時運命の片腕となつて、物々の相剋を安定に持ち来す運命の仕事を助けてゐるのだ。
○
運命が冷酷なものなら、運命を圧倒してその先きまはりをする唯一つの道は、人がその本能の生の執着を育てゝ「大死」を早める事によつて、運命を出し抜く外にはない。運命が親切なものなら運命と握手してその愛撫を受ける唯一つの道は、人がその本能の執着を育てゝ「大死」を早める事によつて、運命を狂喜させる外にはない。何れにしても道は一つだ。
○
だからホイットマンは歌つて云つた。
「来い、可憐ななつかしい死よ、
地上の限りを隅もなく、落付いた足どりで近付く、近付く、
昼にも、夜にも、凡ての人に、各の人に、
早かれ遅かれ、華車な姿の死よ。
測り難い宇宙は讚むべきかな。
その生、その喜び、珍らしい諸相と知識、
又その愛、甘い愛――然しながら更らに更らに讚むべきかな、
かの冷静に凡てを捲きこむ死の確実な抱擁の手は。
静かな足どりで小息みなく近づいて来る暗らき母よ。
心からあなたの為めに歓迎の歌を唄つた人はまだ一人もないと云ふのか。
それなら私は唄はう――私は凡てに勝つてあなたを光栄としよう。
あなたが必ず来るものなら、間違ひなく来て下さいと唄ひ出でよう。
近づけ、力強い救助者!
それが運命なら――あなたが人々をかき抱いたら。私は喜んでその死者を唄はう。
あなたの愛に満ちて流れ漂ふ大海原に溶けこんで、
あなたの法楽の洪水に有頂天になつたその死者を唄はう。オヽ死よ。
私からあなたに喜びの夜曲を、
又舞踏を挨拶と共に申出る――部屋の飾りと饗宴も亦。
若くは広やかな地の景色、若くは高く拡がる空、
若くは生活、若くは圃園、若くは大きな物思はしい夜は凡てあなたにふさはしい。
若くは星々に守られた静かな夜、
若くは海の汀、私の聞き知つたあの皺がれ声でさゝやく波。
若くは私の魂はあなたに振り向く、オヽ際限もなく大きな、面紗かたき死よ、
そして肉体は感謝してあなたの膝の上に丸まつて巣喰ふ。
梢の上から私は歌を空に漂はす、
紆り動く浪を越えて――無数の圃園と荒涼たる大草原とを越えて、
建てこんだ凡ての市街と、群衆に埋まる
私はこの歌を喜び勇んで空に漂はす、オヽ死よ」 (一九一八、九月十七日)