(一)
長い影を地にひいて、
痩馬の
手綱を取りながら、
彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、
章魚のように頭ばかり大きい
赤坊をおぶった彼れの妻は、少し
跛脚をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。
北海道の冬は空まで
逼っていた。
蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの
麓に続く
胆振の大草原を、日本海から
内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる
紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。
昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど
真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。
二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬が
溺りをする時だけ彼れは
不性無性に
立どまった。妻はその暇にようやく追いついて
背の荷をゆすり上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。
「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」
四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、
所柄といい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中に
唾を吐き捨てた。
草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れてしまっていた。物の
輪郭が
円味を帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。
着物は薄かった。そして二人は
餓え
切っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。
国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。
糊のように粘ったものが
唇の合せ目をとじ付けていた。
内地ならば
庚申塚か石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな
標示杭が斜めになって立っていた。そこまで来ると
干魚をやく
香がかすかに彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。
鬣と
尻尾だけが風に従ってなびいた。
「何んていうだ農場は」
背丈けの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。
「松川農場たらいうだが」
「たらいうだ?
白痴」
彼れは妻と言葉を交わしたのが
癪にさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。
暗らくなった谷を
距てて少し
此方よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな
灯影は、
人気のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその
灯を見るともう一種のおびえを覚えた。人の
気配をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも
仏頂面にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な
面をしていやがって、
尻子玉でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。
良人の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと
開けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。
K市街地の
町端れには
空屋が四軒までならんでいた。小さな窓は
髑髏のそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住んでいたがうごめく人影の間に
囲炉裡の
根粗朶がちょろちょろと燃えるのが見えるだけだった。六軒目には
蹄鉄屋があった。怪しげな煙筒からは風にこきおろされた煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は
熔炉の
火口を開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が
向側まではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、
強て
方向を変えさせられた風の脚が意趣に砂を
捲き
上げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえされて
濛々と渦巻く姿を見せた。仕事場の
鞴の
囲りには三人の男が働いていた。
鉄砧にあたる
鉄槌の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に
見惚れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。
蹄鉄屋の先きは急に闇が
濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。
荒物屋を兼ねた
居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った
濁声がもれる
外には、
真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい
唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したように立停った。立停ってはまた無意味らしく歩き出した。
四、五町歩いたと思うと彼らはもう町はずれに来てしまっていた。道がへし折られたように曲って、その先きは、
真闇な窪地に、急な
勾配を取って下っていた。彼らはその
突角まで行ってまた立停った。遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った
濶葉樹林に風の
這入る音の
外に、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。
「聞いて見ずに」
妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。
「
汝聞いて見べし」
いきなりそこにしゃごんでしまった彼れの声は地の中からでも出て来たようだった。妻は荷をゆりあげて鼻をすすりすすり取って返した。一軒の家の戸を
敲いて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分けかねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。恐ろしいばかりではない、声を出す力さえなかった。そして
跛脚をひきひきまた返って来た。
彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。そこに
下見囲、
板葺の真四角な二階建が
外の家並を圧して立っていた。
妻が黙ったまま
立留ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退
窮った。彼れは道の向側の
立樹の幹に馬を
繋いで、
燕麦と雑草とを切りこんだ亜麻袋を
鞍輪からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝を
滑った。がたぴしする戸ばかりをあつかい慣れている彼れの手の力があまったのだ。妻がぎょっとするはずみに
背の赤坊も眼を
覚して泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。
「何んだ
手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入って
来う」
紺の
あつしをセルの前垂れで合せて、
樫の
角火鉢の
横座に坐った男が
眉をしかめながらこう
怒鳴った。人間の顔――
殊にどこか自分より
上手な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ
不貞腐れるのだった。
刃に歯向う獣のように
捨鉢になって彼れはのさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸を
閉めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。
声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、
口髭の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかった。
赤坊が
縊り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。
上框に腰をかけていたもう一人の男はやや
暫らく彼れの顔を見つめていたが、
浪花節語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。
「お主は川森さんの
縁のものじゃないんかの。どうやら顔が似とるじゃが」
今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、
「
帳場さんにも川森から
話いたはずじゃがの。
主がの血筋を岩田が跡に入れてもらいたいいうてな」
また彼れの方を向いて、
「そうじゃろがの」
それに違いなかった。しかし彼れはその男を見ると
虫唾が走った。それも百姓に珍らしい長い顔の男で、
禿げ
上った額から左の半面にかけて
火傷の跡がてらてらと光り、
下瞼が赤くべっかんこをしていた。そして
唇が紙のように薄かった。
帳場と呼ばれた男はその事なら飲み込めたという風に、時々
上眼で
睨み
睨み、色々な事を彼れに
聞き
糺した。そして帳場机の中から、
美濃紙に
細々と活字を刷った書類を出して、それに広岡
仁右衛門という彼れの名と生れ故郷とを記入して、よく読んでから判を押せといって二通つき出した。仁右衛門(これから彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)は
固より
明盲だったが、農場でも
漁場でも鉱山でも飯を食うためにはそういう紙の端に盲判を押さなければならないという事は心得ていた。彼れは腹がけの
丼の中を探り廻わしてぼろぼろの紙の
塊をつかみ出した。そして
筍の皮を
剥ぐように幾枚もの紙を剥がすと真黒になった三文判がころがり出た。彼れはそれに
息気を吹きかけて証書に
孔のあくほど押しつけた。そして渡された一枚を判と一緒に丼の底にしまってしまった。これだけの事で飯の種にありつけるのはありがたい事だった。戸外では赤坊がまだ泣きやんでいなかった。
「
俺ら
銭こ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」
赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は
呆れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な
面をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ
其所に行って泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう
向腹を立ててしまっていた。黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから待てととめた。そういわれて見ると彼れは自分の小屋が
何所にあるのかを知らなかった。
「それじゃ帳場さん何分
宜しゅう頼むがに、
塩梅よう親方の方にもいうてな。広岡さん、それじゃ行くべえかの。何とまあ
孩児の痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」
彼れは器用に小腰をかがめて古い
手提鞄と帽子とを取上げた。
裾をからげて砲兵の
古靴をはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の
鞘取りだった。
戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計が六時を打った。びゅうびゅうと風は吹き
募っていた。赤坊の泣くのに
困じ果てて妻はぽつりと淋しそうに
玉蜀黍殻の雪囲いの影に立っていた。
足場が悪いから気を付けろといいながら
彼の男は先きに立って国道から
畦道に
這入って行った。
大濤のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として
拡がっていた。眼を
遮るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと
瞬く無数の星は空の
地を
殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。
七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。
縊り殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。
やがて
畦道が二つになる所で笠井は立停った。
「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」
仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が
要るなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。
玉蜀黍殻と
いたどりの茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、
海月のような低い
勾配の小山の半腹に立っていた。物の
饐えた香と
積肥の香が
擅にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に
卸す音がした。痩馬は荷が軽るくなると
鬱積した怒りを一時にぶちまけるように
嘶いた。遙かの遠くでそれに
応えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。
夫婦はかじかんだ手で荷物を
提げながら小屋に這入った。永く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよく
暖かった。二人は真暗な中を手さぐりであり合せの
古蓆や
藁をよせ集めてどっかと腰を
据えた。妻は大きな溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見たが乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった
歯齦でいやというほどそれを
噛んだ。そして泣き募った。
「
腐孩子!
乳首食いちぎるに」
妻は
慳貪にこういって、
懐から
塩煎餅を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。
「
俺らがにも
越せ」
いきなり仁右衛門が
猿臂を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。
「
白痴」
吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分を
掠奪されてしまった。二人はまた押黙って闇の中で
足しない食物を
貪り喰った。しかしそれは結局食欲をそそる
媒介になるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も
固唾を飲んだが火種のない所では
南瓜を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに
何時の間にか寝入っていた。
居鎮まって見ると
隙間もる風は
刃のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、
抱寝をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は
凡てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
遠慮会釈もなく
迅風は山と野とをこめて吹きすさんだ。
漆のような闇が大河の
如く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの
絶巓の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに
甦った。
こうして仁右衛門夫婦は、
何処からともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。
(二)
仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から
倶知安に通う
道路添いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても
齢をとらないで、働きも
甲斐なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこの
嚊は子種をよそから
貰ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると
戯談を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした
酒喰いの女だった。大人数なために
稼いでも
稼いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男に
逼る
淫蕩な色を
湛えていた。
仁右衛門がこの農場に
這入った翌朝早く、与十の妻は
袷一枚にぼろぼろの
袖無しを着て、井戸――といっても
味噌樽を埋めたのに
赤の浮いた
上層水が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る
薯を洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い
背丈を少し前こごみにして、営養の悪い
土気色の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に
何所か
奸譎い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻を見ると
一寸ほほえましい気分になって、
「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」
といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と
落着きを
以て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。
仁右衛門は
脂のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、
「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。
乞食ではねえだよ」
といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に
臥乱れた子供を乗りこえ乗りこえ
囲炉裡の所に行って
粗朶を一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。
この日も
昨夜の風は吹き落ちていなかった。空は
隅から
隅まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。佐藤の畑はとにかく
秋耕をすましていたのに、それに
隣った仁右衛門の畑は見渡す限り
かまどがえしと
みずひきと
あかざと
とびつかとで
茫々としていた。ひき残された大豆の
殻が風に吹かれて
瓢軽な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った
白樺はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い
狐色だった。仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。
朝食をすますと夫婦は十年も前から住み
馴れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに働いた。しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった
風呂敷を三角に折って
露西亜人のように
頬かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の
鍬で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。
外の小作人は
野良仕事に片をつけて、今は
雪囲をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは
何処までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り
損ねた二匹の
蟻のようにきりきりと働いた。
果敢ない労力に句点をうって、鍬の先きが日の加減でぎらっぎらっと光った。津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には
烏もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて
鮭の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。
昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁右衛門の縁者という川森
爺さんだった。眼をしょぼしょぼさせた一徹らしい川森は仁右衛門の姿を見ると、怒ったらしい顔付をしてずかずかとその傍によって行った。
「
汝ゃ辞儀一つ知らねえ奴の、
何条いうて俺らがには来くさらぬ。帳場さんのう知らしてくさずば、いつまでも知んようもねえだった。先ずもって小屋さ行ぐべし」
三人は小屋に
這入った。入口の右手に
寝藁を敷いた馬の居所と、皮板を二、三枚ならべた穀物置場があった。左の方には入口の
掘立柱から奥の掘立柱にかけて一本の丸太を土の上にわたして土間に麦藁を敷きならしたその上に、所々
蓆が
拡げてあった。その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒に
煤けた
鉄瓶がかかっていて、
南瓜のこびりついた
欠椀が二つ三つころがっていた。川森は恥じ入る
如く、
「やばっちい所で」
といいながら帳場を炉の
横座に招じた。
そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬は
びくんとして耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。
帳場は妻のさし出す
白湯の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事、仁右衛門の小屋は前の小作から十五円で買ってあるのだから来年中に償還すべき事、
作跡は
馬耕して置くべき事、亜麻は貸付地積の五分の一以上作ってはならぬ事、
博奕をしてはならぬ事、隣保相助けねばならぬ事、豊作にも小作料は割増しをせぬ代りどんな凶作でも割引は禁ずる事、場主に
直訴がましい事をしてはならぬ事、
掠奪農業をしてはならぬ事、それから云々、それから云々。
仁右衛門はいわれる事がよく飲み込めはしなかったが、腹の中では
糞を
喰らえと思いながら、今まで働いていた畑を気にして入口から眺めていた。
「お前は馬を持ってるくせに何んだって馬耕をしねえだ。
幾日もなく雪になるだに」
帳場は抽象論から実際論に切込んで行った。
「馬はあるが、プラオがねえだ」
仁右衛門は鼻の先きであしらった。
「借りればいいでねえか」
「
銭子がねえかんな」
会話はぷつんと
途切れてしまった。帳場は二度の会見でこの野蛮人をどう取扱わねばならぬかを飲み込んだと思った。面と向って
埒のあく奴ではない。うっかり女房にでも愛想を見せれば
大事になる。
「まあ辛抱してやるがいい。ここの親方は
函館の
金持ちで物の
解った人だかんな」
そういって小屋を出て行った。仁右衛門も戸外に出て帳場の元気そうな後姿を見送った。川森は財布から五十銭銀貨を出してそれを妻の手に渡した。何しろ帳場につけとどけをして置かないと万事に損が行くから今夜にも酒を買って挨拶に行くがいいし、プラオなら自分の所のものを借してやるといっていた。仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を見守っていたが、やがてそれが佐藤の小屋に消えると、突然馬鹿らしいほど深い
嫉妬が頭を襲って来た。彼れはかっと
喉をからして
痰を地べたにいやというほどはきつけた。
夫婦きりになると二人はまた別々になってせっせと働き出した。日が傾きはじめると寒さは
一入に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの
真闇な頭の中の一段高い所とも
覚しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って
如何しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめてそれを払い落そうと試みた。しかしいくら試みても光った銀貨が落ちないのを知ると
白痴のように
にったりと
独笑いを
漏していた。
昆布岳の一角には夕方になるとまた
一叢の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。
仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして
鉢巻の下ににじんだ汗を
袖口で
拭って、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度
横面をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがて
ぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの
丼に入れて見たり、出して見たり、親指で空に
弾き上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。
九時――九時といえば農場では
夜更けだ――を過ぎてから仁右衛門はいい酒機嫌で突然佐藤の戸口に現われた。佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と
鼎座になって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た
蒲団を
柏に着てぐっすり寝込んでいた。仁右衛門は
悪戯者らしくよろけながら近寄ってわっといって乗りかかるように妻を抱きすくめた。驚いて眼を覚した妻はしかし笑いもしなかった。騒ぎに赤坊が眼をさました。妻が抱き上げようとすると、仁右衛門は
遮りとめて妻を横抱きに抱きすくめてしまった。
「そうれまんだ
肝べ焼けるか。こう
可愛がられても肝べ焼けるか。
可愛い
獣物ぞい
汝は。見ずに。
今にな
俺ら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の
和郎(彼れは所きらわず
唾をはいた)が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。
白痴奴。俺らが事誰れ知るもんで。
汝ゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。
宜し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」
といいながら懐から
折木に包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして
息気のつまるほど妻の口にあてがっていた。
(三)
から風の幾日も吹きぬいた
挙句に雲が青空をかき乱しはじめた。
霙と日の光とが追いつ追われつして、やがて
何所からともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか
耡起されなかったけれども、それでも
秋播小麦を
播きつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のお
蔭で
一冬分の燃料にも
差支ない準備は出来た。
唯困るのは食料だった。馬の背に積んで来ただけでは幾日分の
足しにもならなかった。仁右衛門はある日馬を市街地に引いて行って売り飛ばした。そして麦と
粟と大豆とをかなり高い相場で買って帰らねばならなかった。馬がないので馬車追いにもなれず、彼れは
居食いをして雪が少し硬くなるまでぼんやりと過していた。
根雪になると彼れは妻子を残して
木樵に出かけた。マッカリヌプリの
麓の
払下官林に入りこんで彼れは骨身を惜まず働いた。雪が解けかかると彼れは
岩内に出て
鰊場稼ぎをした。そして山の雪が解けてしまう頃に、彼れは雪焼けと潮焼けで真黒になって帰って来た。彼れの懐は十分重かった。仁右衛門は農場に帰るとすぐ
逞しい一頭の馬と、プラオと、ハーローと、必要な
種子を買い調えた。彼れは毎日毎日小屋の前に
仁王立になって、五カ月間積り重なった雪の解けたために
膿み放題に膿んだ畑から、恵深い日の光に照らされて水蒸気の
濛々と立上る様を待ち遠しげに眺めやった。マッカリヌプリは毎日紫色に暖かく
霞んだ。林の中の雪の
叢消えの間には
福寿草の茎が先ず緑をつけた。
つぐみと
しじゅうからとが枯枝をわたってしめやかなささ
啼きを伝えはじめた。腐るべきものは木の葉といわず小屋といわず存分に腐っていた。
仁右衛門は
眼路のかぎりに見える小作小屋の幾軒かを眺めやって
糞でも
喰えと思った。未来の夢がはっきりと頭に浮んだ。三年
経った後には彼れは農場一の
大小作だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、
護謨長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら
小恥しいように想像された。
とうとう
播種時が来た。山火事で焼けた
熊笹の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように
何所からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の
曖昧屋からは夜ごとに三味線の
遠音が響くようになった。
仁右衛門は
逞しい馬に、
磨ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
凡てが順当に行った。播いた種は
伸をするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には
喧嘩面を見せたが六尺ゆたかの彼れに
楯つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ
憚った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と
諢名していたのだ。
時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の
噂に上るようになった。
一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が
痒くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしては
ぶらりと小屋を出た。そして農場の
鎮守の社の傍の小作人集会所で女と会った。
鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いの
外早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で
膝をだきながら耳をそばだてていた。
枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。
天鵞絨のように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいような
なごやかな心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
足音が聞こえた。彼れの神経は一時に
叢立った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
「誰れだ
汝ゃ」
低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
仁右衛門は声の主が笠井の
四国猿奴だと知ると
かっとなった。笠井は農場一の
物識りで
金持だ。それだけで
癇癪の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって
胸倉をひっつかんだ。
かーっといって出した
唾を危くその
面に吐きつけようとした。
この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って
焚火なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役をしていた笠井は、おどかしつけるつもりで見廻りに来たのだった。彼れは
固より
樫の棒位の身じたくはしていたが、相手が「まだか」では口もきけないほど縮んでしまった。
「
汝ゃ
俺らが
媾曳の邪魔べこく気だな、俺らがする事に
汝が手だしはいんねえだ。首ねっこべひんぬかれんな」
彼れの言葉はせき上る
息気の間に押し
ひしゃげられて
がらがら震えていた。
「そりゃ邪推じゃがなお
主」
と笠井は口早にそこに来合せた
仔細と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、
閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼を
きょとんとさせて
火傷の方の半面を平手で
撫でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を
下して、今までの
慌てかたにも似ず
悠々と
煙草入を出してマッチを
擦った。折入って頼むといったのは小作一同の地主に対する苦情に就いてであった。一反歩二円二十銭の畑代はこの地方にない高相場であるのに、どんな凶年でも割引をしないために、小作は一人として借金をしていないものはない。金では取れないと見ると帳場は
立毛の
中に押収してしまう。従って市街地の商人からは眼の飛び出るような
上前をはねられて
食代を買わねばならぬ。だから今度地主が来たら一同で是非とも小作料の値下を要求するのだ。笠井はその総代になっているのだが一人では心細いから仁右衛門も出て力になってくれというのであった。
「
白痴なことこくなてえば。二両二貫が何
高値いべ。
汝たちが
骨節は
稼ぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその
公事には乗んねえだ。
汝先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえ
事に
可愛くもねえ
面つんだすなてば」
仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。
「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」
「一概にいったが
何条悪いだ。
去ね。去ねべし」
「そういえど広岡さん……」
「
汝ゃ
拳固こと喰らいていがか」
女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々
荒らかになった。
執着の強い笠井も
立なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った
風も見せずに坂を下りて行った。道の
二股になった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門は
吼えるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにも
背かなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。
仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる震えていた。
生憎女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に
荒れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、
藪道をぐんぐん歩いて行った。ふとある
疎藪の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけはいを
嗅ぎ知った。彼れは
はたと立停ってその奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中で
悪謔うような
淫らな女の潜み笑いが聞こえた。邪魔の入ったのを
気取って女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女の
臭いが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
「四つ足めが」
叫びと共に彼れは
疎藪の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない
草鞋の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に
駈られて、満身の重みをそれに
托した。
「痛い」
それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかかって、所きらわず殴ったり
足蹴にしたりした。女は痛いといいつづけながらも彼れにからまりついた。そして
噛みついた。彼れはとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼れの顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼れはとうとう女を取逃がした。はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり
引掻いたりした。彼れは女の
たぶさを
掴んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような
昂奮のためによろめいた。
(四)
春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と
淫雨とが北海道を襲って来た。
旱魃に
饑饉なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を
漏さない農民はなかった。
森も畑も見渡すかぎり真青になって、
掘立小屋ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。
時雨のような寒い雨が閉ざし切った
鈍色の雲から
止途なく降りそそいだ。
低味の
畦道に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から
真菰が長く延びて出た。
蝌斗が畑の中を泳ぎ廻ったりした。
郭公が森の中で淋しく
啼いた。
小豆を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが
小休むと湿気を含んだ風が木でも草でも
萎ましそうに寒く吹いた。
ある日農場主が
函館から来て集会所で寄合うという知らせが組長から廻って来た。仁右衛門はそんな事には
頓着なく朝から
馬力をひいて市街地に出た。運送店の前にはもう二台の馬力があって、脚をつまだてるように
しょんぼりと立つ
輓馬の
鬣は、幾本かの
鞭を下げたように雨によれて、その先きから水滴が絶えず落ちていた。馬の背からは水蒸気が立昇った。戸を開けて中に
這入ると馬車追いを内職にする若い農夫が三人土間に
焚火をしてあたっていた。馬車追いをする位の農夫は農夫の中でも冒険的な気の荒い手合だった。彼らは顔にあたる焚火のほてりを手や足を挙げて防ぎながら、長雨につけこんで村に這入って来た
博徒の群の噂をしていた。
捲き
上げようとして這入り込みながら散々手を焼いて駅亭から追い立てられているような事もいった。
「お前も一番乗って
儲かれや」
とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をして
唾をはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと
気疎い
草鞋の音を立てて、往来を通る者がたまさかにあるばかりで、この季節の
賑い
立った様子は
何処にも見られなかった。帳場の若いものは筆を持った手を
頬杖にして居眠っていた。こうして彼らは荷の来るのをぼんやりして二時間あまりも待ち暮した。聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、
動ともすると、沈黙と
欠伸が拡がった。
「一はたりはたらずに」
突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。
蓆が持ち出された。四人は
車座になった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう一人の男の腹がけの中からは
骰子が二つ取出された。
店の若い者が眼をさまして見ると、彼らは
昂奮した声を押つぶしながら、
無気になって勝負に
耽っていた。若い者は
一寸誘惑を感じたが気を取直して、
「困るでねえか、そうした事
店頭でおっ
広げて」
というと、
「困ったら積荷こと探して
来う」
と仁右衛門は取り合わなかった。
昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら、面白くない勝負ばかりしていた。
何方に変るか自分でも分らないような気分が
驀地に悪い方に傾いて来た。気を腐らせれば腐らすほど彼れの
やまは外れてしまった。彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は
小休なく降り続けていた。
昼餉の煙が重く地面の上を
這っていた。
彼れは
むしゃくしゃしながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までが
ぽとりと地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして
焦立った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな
煮え
切らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の
年嵩の子供が三人学校の
帰途と見えて、荷物を
斜に背中に背負って、頭から
ぐっしょり濡れながら、
近路するために畑の中を歩いていた。それを見ると仁右衛門は「待て」といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。
「
童子連は
何条いうて
他人の畑さ踏み込んだ。百姓の
餓鬼だに畑のう大事がる道知んねえだな。
来う」
仁王立ちになって
睨みすえながら彼れは
怒鳴った。子供たちはもうおびえるように泣き出しながら
恐ず
恐ず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女の
痩せた
頬をゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の
容捨なく手あたり次第に殴りつけた。
小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやる
藁をざくりざくり切っていた。赤坊は
いんちこの中で
章魚のような頭を
襤褸から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが
漲って、運送店の店先に
較べては何から何まで便所のように
穢かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は
膚まで
沁み
徹ってぞくぞく寒かった。彼れの
癇癪は
更らにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。
集会所には朝の
中から五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけを
喰わされてしまった。場主はやがて帳場を
伴につれて厚い
外套を着てやって来た。
上座に坐ると
勿体らしく神社の方を向いて
柏手を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事を
したり顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れると
尤もらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような
添言葉を付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の
羽目板に身をよせてじっと聞いていた。
「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもある通り、
定まった事は定まったようにせんとならんじゃが、多い中じゃに無理もないようなものの、亜麻などを親方、
ぎょうさんつけたものもあって、まこと済まん次第じゃが、無理が通れば道理もひっこみよるで、なりませんじゃもし」
仁右衛門は場規もかまわず畑の半分を亜麻にしていた。で、その言葉は彼れに対する
あてこすりのように聞こえた。
「今日なども顔を出しよらん
横道者もありますじゃで……」
仁右衛門は怒りのために耳が
かァんとなった。笠井はまだ何か滑らかにしゃべっていた。
場主がまだ何か訓示めいた事をいうらしかったが、やがてざわざわと人の立つ気配がした。仁右衛門は
息気を殺して出て来る人々を
窺がった。場主が帳場と一緒に、後から笠井に
傘をさしかけさせて出て行った。労働で若年の肉を
鍛えたらしい
頑丈な場主の姿は、
何所か人を
憚からした。仁右衛門は笠井を
睨みながら見送った。やや
暫らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か
談り
合いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて
伴れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって
青年のようだった。仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を
喰って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の
遠吠を聞いた
兎のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々を
楯に取った。
「
汝ゃ
乞食か
盗賊か畜生か。よくも
汝が餓鬼どもさ
教唆けて
他人の畑こと踏み荒したな。
殴ちのめしてくれずに。
来」
仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の
留男とは
毬になって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は
何所かしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合いからやむなく、仁右衛門に付添って話をつけるために佐藤の小屋まで廻り道をした。小屋の中では佐藤の長女が
隅の方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。
炉を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いに
罵り
合っていた。佐藤の妻は
安座をかいて長い
火箸を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を
噛み合せて猿のように
唇の間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼で
睨みつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は
素跣のまま仁右衛門の背に
罵詈を浴せながら
怒精のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、
囀るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。
仁右衛門は押黙ったまま
囲炉裡の
横座に坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったり
惜んだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして
皺枯れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な
歪みが現われた。彼れは結局自分の
智慧の足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。
凡ての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて
本統の事情を知った妻から
嫉妬がましい
執拗い言葉でも聞いたら少しの
道楽気もなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そして
晩い昼飯をしたたか喰った。がらっと
箸を
措くと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博徒らの張っていた
賭場をさして彼の足はしょう事なしに向いて行った。
(五)
よくこれほどあるもんだと思わせた長雨も一カ月ほど降り続いて
漸く晴れた。一足飛びに夏が来た。
何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、
辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて
葎のように延びた。雨のため
傷められたに相異ないと、長雨のただ一つの
功徳に農夫らのいい合った
昆虫も、すさまじい勢で発生した。
甘藍のまわりには
えぞしろちょうが
夥しく飛び廻った。
大豆には
くちかきむしの成虫がうざうざするほど集まった。麦類には黒穂の、
馬鈴薯には
べと病の徴候が見えた。
虻と
蚋とは自然の
斥候のようにもやもやと飛び廻った。濡れたままに積重ねておいた汚れ物をかけわたした小屋の中からは、あらん限りの農夫の家族が
武具を持って畑に出た。自然に歯向う必死な争闘の幕は開かれた。
鼻歌も歌わずに、汗を肥料のように畑の土に滴らしながら、農夫は腰を二つに折って地面に
噛り付いた。耕馬は首を下げられるだけ下げて、乾き切らない土の中に脚を深く踏みこみながら、絶えず
尻尾で虻を追った。しゅっと音をたてて襲って来る毛の束にしたたか打れた虻は、血を吸って丸くなったまま、馬の腹からぽとりと地に落ちた。
仰向けになって
鋼線のような脚を伸したり縮めたりして
藻掻く
様は命の薄れるもののように見えた。
暫くするとしかしそれはまた器用に
翅を使って起きかえった。そしてよろよろと草の葉裏に這いよった。そして十四、五分の後にはまた翅をはってうなりを立てながら、眼を射るような日の光の中に勇ましく飛び立って行った。
夏物が皆無作というほどの不出来であるのに、亜麻だけは平年作位にはまわった。
青天鵞絨の海となり、
瑠璃色の
絨氈となり、荒くれた自然の中の姫君なる亜麻の畑はやがて
小紋のような
果をその繊細な茎の先きに結んで美しい狐色に変った。
「こんなに亜麻をつけては
仕様がねえでねえか。畑が枯れて跡地には何んだって出来はしねえぞ。困るな」
ある時帳場が見廻って来て、仁右衛門にこういった。
「
俺らがも困るだ。
汝れが困ると俺らが困るとは困りようが土台ちがわい。口が
干上るんだあぞ
俺がのは」
仁右衛門は
突慳貪にこういい放った。彼れの前にある
おきては先ず食う事だった。
彼れはある日亜麻の束を見上げるように馬力に積み上げて
倶知安の製線所に出かけた。製線所では割合に
斤目をよく買ってくれたばかりでなく、他の地方が不作なために結実がなかったので、
亜麻種を非常な
高値で引取る約束をしてくれた。仁右衛門の懐の中には手取り百円の金が暖くしまわれた。彼れは畑にまだしこたま残っている亜麻の事を考えた。彼れは居酒屋に
這入った。そこにはK村では見られないような
綺麗な顔をした女もいた。仁右衛門の酒は必ずしも彼れをきまった型には酔わせなかった。或る時は彼れを怒りっぽく、或る時は
悒鬱に、或る時は乱暴に、或る時は機嫌よくした。その日の酒は
勿論彼れを上機嫌にした。一緒に飲んでいるものが利害関係のないのも彼れには心置きがなかった。彼れは酔うままに大きな声で
戯談口をきいた。そういう時の彼れは大きな愚かな子供だった。居合せたものはつり込まれて彼れの周囲に集った。女まで引張られるままに彼れの膝に
倚りかかって、彼れの
頬ずりを無邪気に受けた。
「
汝がの頬に
俺が
髭こ
生えたらおかしかんべなし」
彼れはそんな事をいった。重いその口からこれだけの戯談が出ると女なぞは腹をかかえて笑った。
陽がかげる頃に彼れは居酒屋を出て
反物屋によって
華手なモスリンの
端切れを買った。またビールの
小瓶を三本と
油糟とを馬車に積んだ。
倶知安からK村に通う国道はマッカリヌプリの
山裾の
椴松帯の間を縫っていた。彼れは馬力の上に
安座をかいて瓶から口うつしにビールを
煽りながら
濁歌を
こだまにひびかせて行った。幾抱えもある椴松は
羊歯の中から真直に天を突いて、
僅かに
覗かれる空には昼月が少し光って見え隠れに眺められた。彼れは遂に馬力の上に酔い倒れた。物慣れた馬は凸凹の山道を上手に拾いながら歩いて行った。馬車はかしいだり跳ねたりした。その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い
現に出たりした。
仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森
爺さんの
真面目くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が
如何にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声を立てて笑おうとした。そして自分が馬力の上にいて自分の小屋の前に来ている事に気がついた。小屋の前には帳場も佐藤も組長の某もいた。それはこの小屋の前では見慣れない光景だった。川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、
「
早う内さ行くべし。
汝が
嬰子はおっ
死ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」
といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を
一度気にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に
飛び
退いたように思った。仁右衛門は酔いが一時に
醒めてしまって馬力から飛び下りた。小屋の中にはまだ二、三人人がいた。妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に
蹲っておいおい泣いていた。笠井が例の
古鞄を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。
「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」
笠井が
逸早く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように
怨むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。
章魚のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい
唯一つのものだった。たった半日の
中にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく
心許なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くように心に
逼って来た。彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。
勿体ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を
呪文を
称えながら
撫で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は
腸をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま
瞬きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の
禿上った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。
小半時赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に
手拭を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を
摘み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は
甲斐甲斐しく
良人に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。
「わしも子は
亡くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間
業では及ばぬ事じゃでな」
笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。
赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める
成人のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。
赤坊が死んでから村医は巡査に
伴れられて
漸くやって来た。
香奠代りの紙包を持って帳場も来た。
提灯という見慣れないものが小屋の中を出たり
這入ったりした。仁右衛門夫婦の
嗅ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。
世話に来た人たちは一人去り二人去り、やがて川森も笠井も去ってしまった。
水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。仁右衛門は何という事なしに妻が
癪にさわってたまらなかった。妻はまた何という事なしに
良人が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく
唾を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を
更かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずに
ぼんやり小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。
やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に
角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。
暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の
鍬を右手に
提げて小屋から出て来た。
「ついて
来う」
そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な
啼声で動物と動物とが
互を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、
のっそりと立上ってその跡に
随った。そしてめそめそと泣き続けていた。
夫婦が行き着いたのは国道を十町も
倶知安の方に来た左手の岡の上にある村の共同墓地だった。そこの上からは松川農場を一面に見渡して、ルベシベ、ニセコアンの連山も川向いの
昆布岳も手に取るようだった。夏の夜の透明な空気は青み
亘って、月の光が燐のように
凡ての光るものの上に宿っていた。
蚊の群がわんわんうなって二人に襲いかかった。
仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の
立列った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々
頬に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で
押拭った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの
吐胸を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように
呆れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて
頑童の
如く泣きおめき始めた。その声は醜く
物凄かった。妻は
きょっとんとして、顔中を涙にしながら恐ろしげに
良人を見守った。
「笠井の四国猿めが、
嬰子事殺しただ。殺しただあ」
彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。
翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには
華手なモスリンの
端切れが乱雲の中に現われた
虹のようにしっとり朝露にしめったまま
穢ない馬力の上にしまい忘られていた。
(六)
狂暴な仁右衛門は赤坊を
亡くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように
烈しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が
片端から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。
一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、
捨鉢な気分になって、馬の売買にでも多少の
儲を見ようとしたから、前景気は思いの
外強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど
賑わった。丁度農場事務所裏の
空地に仮小屋が建てられて、
爪まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を
牽いた。
その翌日には競馬があった。場主までわざわざ
函館からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、
刺戟の強い色を
振播いて歩いた。
競馬場の
埒の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く
桟敷をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て
細面の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、この辺では際立って
垢抜けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前で手柄を見せようと争った。
他人の
妾に目星をつけて何になると皮肉をいうものもあった。
何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る
喝采の声は乾いた空気を伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。
仁右衛門はその頃
博奕に
耽っていた。始めの
中はわざと負けて見せる博徒の手段に
甘々と乗せられて、勢い込んだのが失敗の
基で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は
疾の昔にけし飛んでいた。それでも馬は
金輪際売る気がなかった。
剰す所は
燕麦があるだけだったが、これは
播種時から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍
糧秣廠に納める事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。商人どもはこのボイコットを
如何して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問をして糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。
仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。
自分の番が来ると彼れは
鞍も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の
糶では一番物だと
賞め合った。仁右衛門はそういう
私語を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは
外の馬の跡から
内埒へ内埒へとよって、少し
手綱を引きしめるようにして
駈けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて
埃を含んだ風が
息気のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて
馬場を八分目ほど廻った頃を
計って手綱をゆるめると馬は思い存分
頸を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが
鞭と
あおりで馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような
喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに
響いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然
桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと
埒の中へ
這入った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に
固唾を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の
華手な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて
敲きつけられるように地面に転がっていた。彼れは
気丈にも転がりながら
すっくと起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。
後趾で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は
潮のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は
惘然したまま、
不思議相な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる
外はなかった。
獣医の心得もある
蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり
路の小石を二つ三つ
掴んで入口の
硝子戸にたたきつけた。三枚ほどの硝子は
微塵にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは
悠々としてまたそこを歩み去った。
彼れが気がついた時には、
何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり
河面を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような
渦紋を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその
戯れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。
凡ての事が
他人事のように順序よく手に取るように記憶に
甦った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸は
ぷっつり切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を
片輪にしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。
彼れは夜中になってから
ひょっくり小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを
嗅ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に
怪我でもあったのではなかったか――彼れは
炉の消えて
真闇な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。
「今頃まで
何所さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。
傷しい事べおっびろげてはあ」
妻は眠っていなかったような
はっきりした声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の
片隅をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に
蓆をあてがって胸の所を
梁からつるしてあった。両方の
膝頭は白い切れで巻いてあった。その白い色が
凡て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない
囲炉裡の前に、
草鞋ばきで頭を垂れたまま
安座をかいた。馬も
こそっとも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは互に憐れむように見えた。
しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、
燕麦が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、
賭場に出かけた。
競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めの
中は打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は
河添の
窪地の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って
残虐を極めた
辱かしめかたをしたのだと
判った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の
硝子を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。
犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな
田舎にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは
皆目つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を
躓かしたのは間接ながら笠井の娘の
仕業だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。
秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角
実ったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは
案の
定燕麦
売揚代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の
種子は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が沢山出来た。
その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつすかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、
如何しても応じないので、財産を差押えると
威脅した。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと迫って来た。しかし彼れは
頑として動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。
(七)
「まだか」、この名は村中に恐怖を
播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ
疾の
昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を
体よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。
凡て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。
仁右衛門は
押太とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは
博奕だけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かど
纏まった金を作るのは何でもないと思った。いまに見かえしてくれるから――そう思って彼れは冬を迎えた。
しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には
横わっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間
稼ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている
外はないのだ。来年の
種子さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。
焚火にあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考えこんだまま暮すような日が幾日も続いた。
佐藤をはじめ彼れの
軽蔑し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を
搾取られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした
屈托もしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。
冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように
何所から何所まで真白になった。そこから雪は
滾々としてとめ度なく降って来た。人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜の
中に一尺も二尺も積り重なる日があった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない
斑点だった。
仁右衛門はある日膝まで
這入る雪の中をこいで事務所に出かけて行った。いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして
竹箆返しに
跡釜が出来たから小屋を立退けと
逼った。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ
倶知安からでも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると妙に
向腹が立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋に帰った。
金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は
不愍さから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていた
斧で
眉間を喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬を
牽いて小屋に帰った。
その翌日彼れは身仕度をして
函館に出懸けた。彼れは場主と
一喧嘩して笠井の
仕遂せなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中で自分のいい分を十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人
睨めつけた。
函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのに
胆をつぶしてしまった。
不恰好な二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。
動ともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように
威丈高にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。
やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れは
つまごを脱いでから、我れにもなく
手拭を腰から抜いて足の裏を
綺麗に押拭った。澄んだ水の表面の
外に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋の
襖をあけると、
息気のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。
板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、
障子に近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るような
座蒲団の上に、
はったんの
褞袍を着こんだ場主が、
大火鉢に手をかざして
安座をかいていた。仁右衛門の姿を見ると
ぎろっと
睨みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の
一眼でどやし付けられて這入る事も得せずに
逡みしていると、場主の眼がまた床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上に
にちゃっにちゃっと音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。
「何しに来た」
底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に
銜えて青い煙を
ほがらかに吹いていた。そこからは
気息づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん
刺戟した。
「小作料の一文も納めないで、どの
面下げて
来臭った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
そして部屋をゆするような
高笑が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう
怒鳴ったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。
仁右衛門は
すっかり打摧かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の
頑丈そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は
気息苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は
動ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら
俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして
唯呆れて黙って考えこんでしまった。
粗朶がぶしぶしと
燻ぶるその
向座には、妻が
襤褸につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを
節孔のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の
膝の上には赤坊もいなかった。
その晩から天気は激変して
吹雪になった。
翌朝仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけて
薄ら積っていた。鋭い口笛のような
うなりを立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が
小凪ぐと
滅入るような静かさが
囲炉裡まで
逼って来た。
仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かの
きっかけに勢よく立ち上って、
斧を取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく
撫でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその
眉間に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に
応えて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。
痙攣的に後脚で
蹴るような
まねをして、潤みを持った眼は
可憐にも何かを見詰めていた。
「やれ怖い事するでねえ、
傷ましいまあ」
すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。
「黙れってば。物いうと
汝れもたたき殺されっぞ」
仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い
皺枯れた声でたしなめた。
嵐が急にやんだように二人の心には
かーんとした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は
雑巾のように汚い
布巾を胸の所に押しあてたまま、
憚るように顔を見合せて突立っていた。
「ここへ
来う」
やがて仁右衛門は
呻くように斧を
一寸動かして妻を呼んだ。
彼れは妻に手伝わせて馬の皮を
剥ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて
裸身にされて
藁の上に堅くなって
横わった。白い
腱と赤い肉とが無気味な
縞となってそこに
曝らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。
それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は
良人の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って
隅から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままで
つまごをはいた。妻が風呂敷を
被って荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。
小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。
仁右衛門は一旦
戸外に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に
細く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。
天も地も一つになった。
颯と風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりに
靡いて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身は
忽ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような
刺戟は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は
睫毛に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。
国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に
這入った時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。
その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。
二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ
倶知安の方に動いて行った。
椴松帯が向うに見えた。
凡ての
樹が裸かになった中に、この樹だけは
幽鬱な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を
衝いて、
怒濤のような風の音を
籠めていた。二人の男女は
蟻のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。
(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ擱筆)