お末はその頃誰から習ひ覚えたともなく、不景気と云ふ言葉を云ひ/\した。
「何しろ不景気だから、兄さんも困つてるんだよ。おまけに四月から九月までにお葬式を四つも出したんだもの」
お末は朋輩にこんな物の云ひ方をした。十四の小娘の云ひ草としては、小ましやくれて居るけれども、
お末には不景気と云ふ言葉の意味は、
お末の家で四月から追つかけ/\死に続いた人達の真先きに立つたのは、
その次に亡くなつたのは二番目の兄だつた。ひねくれる事さへ出来ない位、気も体も力のない十九になる若者で、お末にはこの兄の家に居る時と居ない時とが判らない位だつた。遊び過ごしたりして小言を待ち設けながら敷居を跨ぐ時なぞには殊に、誰と誰とが家に居て、どう云ふ風に坐つて居ると云ふ事すら眼に見えるやうに判つて居たけれども、この兄だけは居るやら居ないやら見当がつかなかつた。又この兄の居る事は何んの足しにも邪魔にもならなかつた。誰か一寸まづい顔でもすると、自分の事のやうにこの兄は座を
八月も半ば過ぎと云ふ頃になつて、急に暑気が北国を襲つて来た。お末の店もさすがにいくらか暑気づいて来た。朝早く隣りの風呂屋で風呂の栓を打ちこむ音も乾いた響きをたてゝ、人々の軟らかな夢をゆり動かした。晴天五日を打つと云ふ東京相撲の画びらの眼ざましさは、お末はじめ近所合壁の少年少女の小さな眼を驚かした。札幌座からは菊五郎一座のびらが来るし、活動写真の広告は壁も狭しと店先に張りならべられた。父が死んでから、兄は兄だけの才覚をして店の体裁を変へて見たりした。而してお末の非常な誇りとして、表戸が青いペンキで塗り代へられ、球ボヤに鶴床と赤く書いた軒ランプが看板の前に吊された。おまけに電灯がひかれたので、お末が嫌つたランプ掃除と云ふ役目は煙のやうに消えて無くなつた。その代り今年からは張物と云ふ新しい仕事が加へられるやうになつたが、お末は唯もう眼前の変化を喜んで、張物がどうあらうと構はなかつた。
「家では電灯をひいたんだよ、そりや明るいよ、掃除もいらないんだよ」
さう云つて小娘の間に
お末の眼には父が死んでから兄が急にえらくなつたやうに見えた。店をペンキで塗つたのも、電灯をひいたのも兄だと思ふと、お末は如何にも頼もしいものに思つた。近所に住む或る大工に片づいて、可愛いゝ二つになる赤坊をもつた一番の姉が作つてよこした毛繻子の
斯う華やか立つた一家の中で何時までもくすぶり返つてゐるのは母一人だつた。
父が亡くなつてからは、母の様子はお末にもはつきり見える程変つてしまつた。今まで何事につけても滅多に心の裏を見せた事のない気丈者が、急におせつかいな愚痴つぽい機嫌買ひになつて、好き嫌ひが段々はげしくなつた。総領の鶴吉に当り散らす具合などは、お末も見て居られない位だつた。お末は愛せられて居る割合に母を
それでもこの一家は近所からは羨まれる方の一家だつた。鶴さんは気がやさしいのに働き手だから、いまに裏店から表に羽根をのすと皆んなが云つた。鶴吉は実際人の蔭口にも
八月の三十一日は二度目の天長節だが、初めての時は諒闇でお祝ひをしなかつたからと云つて、鶴吉は一日店を休んだ。而して絶えて久しく構はないであつた家中の大掃除をやつた。普段は鶴吉のする事とさへ云へば妙にひがんで出る母も今日は気を入れて働いた。お末や力三も面白半分朝の涼しい中にせつせと手助けをした。棚の上なぞを片付ける時には、まだ見た事もないものや、忘れ果てゝ居たものなどが、ひよつこり出て来るので、お末と力三とは
「ほれ見ろやい、末ちやんこんな絵本が出て来たぞ」
「それや私んだよ、力三、何処へ行つたかと思つて居たよ、おくれよ」
「何、やつけえ」
と云つて力三は
「力三是れ御覧よ。意地悪にはやらないよ」
と云つて居ると、突然後ろで兄の鶴吉が普段にない鋭い声を立てた。
「何をして居るんだお末、馬鹿野郎、そんなものを
あまりの
「その小さい壜の方を耳の垢ほどでも嘗めて見ろ、見て居る中にくたばつて仕舞ふんだぞ、危ねえ」
「危ねえ」と云ふ時どもるやうになつて、兄は何か見えない恐ろしいものでも見つめるやうに
昼過ぎに力三は裏の豊平川に神棚のものを洗ひに出された。暑さがつのるにつれて働くのに
ほつと何かに驚かされて眼をさますと、力三が体中水にぬれたまゝでてら/\光りながら、お末の前に立つて居た。手には三四本ほど、熟し切らない
「やらうか」
「毒だよそんなものを」
然し働いた挙句、ぐつすり
「うるさい子だよてば、ほれツ
と云つてお末はその一つをつきつけた。力三は呑むやうにして幾本も食つた。
その夕方は一家珍らしく打揃つて賑はしい晩食を食べた。今日は母もいつになくくつろいで、姉と面白げに世間話をしたりした。鶴吉は綺麗に片づいた茶の間を心地よげに見廻して、棚の上などに眼をやつて居たが、その上に載つて居る薬壜を見ると、朝の事を思ひ出して笑ひながら、
「危いの
とさも可愛げにお末の顔をぢつと見てくれた。お末にはそれが何とも云はれない程嬉しかつた。兄であれ誰であれ、男から来る力を嗅ぎわける機能の段々と熟して来るのをお末はどうする事も出来なかつた。恐ろしいものだか、嬉しいものだか、兎に角強い刃向ひも出来ないやうな力が、不意に、ぶつかつて来るのだと思ふと、お末は心臓の血が急にどき/\と湧き上つて来て、かつとはち切れるほど顔のほてるのを覚えた。さう云ふ時のお末の眼つきは鶴床の隅から隅までを春のやうにした。若しその時お末が立つて居たら、いきなり坐りこんで、哲でも居るとそれを抱きかゝへて、うるさい程頬ずりをしたり、締め附けたりして、面白いお話をしてやつた。又若し坐つて居たら、思ひ出し事でもしたやうに立上つて、甲斐々々しく母の手伝ひをしたり、茶の間や店の掃除をしたりした。
お末は今も兄の愛撫に遇ふと、気もそは/\と立上つた。而して姉から赤坊を受取つて、思ひ存分頬ぺたを吸つてやりながら店を出た。北国の夏の夜は水をうつたやうに涼しくなつて居て、青い光をまき散らしながら夕月がぽつかりと川の向うに上りかゝつて居た。お末は何んとなく歌でも歌ひたい気分になつていそ/\と河原に出た。堤には月見草が処まだらに生えて居た。お末はそれを折り取つて燐のやうな蕾をながめながら、小さい声で「旅泊の歌」を口ずさみ出した。お末は顔に似合はぬいゝ声を持つた子だつた。
「あゝ我が父母いかにおはす」
と歌ひ終へると、花の一つがその声にゆり起されたやうに、眠むさうな花びらをじわりと開いた。お末はそれに興を催して歌ひつゞけた。花は歌声につれて音をたてんばかりにする/\と咲きまさつていつた。
「あゝ我がはらから誰と遊ぶ」
ふと薄寒い感じが体の中をすつと抜けて通るやうに思ふと、お末は腹の隅にちくりと針を刺すやうな痛みを覚えた。初めは何んとも思はなかつたが、それが二度三度と続けて来ると突然今日食べた胡瓜の事を思ひ出した。胡瓜の事を思ひ出すにつけて、赤痢の事や、今朝の
然しお末の腹の痛みは治らなかつた。その中に姉の膝の上で眠入つて居た赤坊が突然けたゝましく泣き出した。お末は又ぎよつとしてそれを見守つた。姉が乳房を出してつき附けても飲まうとはしなかつた。家が違ふからいけないんだらうと云つて姉はそこ/\に帰つて行つた。お末は戸口まで送つて出て、自分の腹の痛みを気にしながら、赤坊の泣き声が涼しい月の光の中を遠ざかつて行くのに耳をそばだてゝ居た。
お末は横になつてからも、何時赤痢が取つゝくかと思ふと、寝ては居られない位だつた。力三は遊び疲れて、死んだやうに眠ては居るが、何時眼をさまして腹が痛いと云ひ出すかも知れないと云ふ事まで気をまはして、
朝になつて見るとお末は何時の間にか寝入つて居た。而して昨日の事はけろりと忘れてしまつて居た。
その日の昼頃突然姉の所から赤坊が大変な下痢だと云ふ知らせが来た。孫に眼のない母は直ぐ飛んで行つた。が、その夕方可愛いゝ赤坊はもうこの世のものではなくなつて居た。お末は心の中で震へ上つた。而して急に力三の挙動に恐る/\気を附け出した。
朝からぶつッとして居た力三は、夕方になつてそつと姉を風呂屋と店との小路に呼び込んだ。而して何を入れてゐるのか、一杯ふくれあがつてゐる懐ろを探つて白墨を取出して、それではめ板に大正二年八月三十一日と繰返して書きながら、
「己りや今朝から腹が痛くつて四度も六度もうんこに行つた。お母さんは居ないし、兄やに云へばどなられるし……末ちやん後生だから昨日の事黙つて居ておくれ」
とおろ/\声になつた。お末はもうどうしていゝか判らなかつた。力三も自分も明日位の中に死ぬんだと思ふと、頼みのない心細さが、ひし/\と胸に
お末はそれでもその後少しも腹痛を覚えずにしまつたが、力三はどつと寝ついて猛烈な下痢に攻めさいなまれた挙句、骨と皮ばかりになつて、九月の六日には他愛なく死んでしまつた。
お末はまるで夢を見てゐるやうだつた。続けて秘蔵の孫と子に先立たれた母は、高度のヒステリーにかゝつて、一時性の躁狂に陥つた。死んだ力三の枕許に坐つてきよろつとお末を睨み据ゑた眼付は、夢の中の物の
「何か悪いものを食べさせて、二人まで殺したに、手前だけしやあ/\して居くさる、覚えて居ろ」
お末はその眼を思ひ出すと、何時でも是れだけの言葉をまざ/\と耳に聞くやうな気がした。
お末はよく露地に這入つて、力三の残した白墨の跡を指の先でいぢくりながら淋しい思ひをして泣いた。
その中にお末だけは力三のないのをこの上なく悲しみはしたけれども、内部からはち切れるやうに湧き出て来る命の力は、他人の事ばかり思つて居させなかつた。露地のはめ板の白墨が跡かたもなくなる時分には、お末は前の通りな賑やかな子になつて居た。朝なんぞ東向きの窓の所に後ろを向いて、唱歌を歌ひながら洗物をして居ると、襦袢と帯との赤い色が、先づ家中の単調を破つた。物ばかり喰つてしかたがないからと云つて、黒と云ふ犬を皮屋にやつてしまはうときめた時でも、お末はどうしてもやるのを厭がつた。張物と雑巾さしとに精を出して収入の足しにするからと云つて、黒の
お末は実際まめ/\しく働くやうになつた。心の中には、どうかして胡瓜を食べたのを隠して居る償ひをしようと云ふ気がつきまとつて居た。何より楽しみに行きつけた夜学校の日曜日の会にも行くのをやめて、力三の高下駄を少し低くしてもらつて、それをはいて兄を助けた。眼に這入りさうに哲も可愛がつてやつた。哲はおそくなつてもお末の寝るのを待つて居た。お末は仕事をしまふと、白い仕事着を釘に引つかけて、帯をぐる/\と解いて、いきなり哲に添寝をした。鶴吉が店を片づけながら聞いて居ると、お末のする昔話の声がひそ/\と聞こえて居た。母はそれを聞きながら
お末が
十月の二十四日は力三の四十九日に当つて居た。四五日前に赤坊の命日をすました姉は、その日縫物の事か何かで鶴床に来て、店で兄と何か話をして居た。
お末は今朝寝おきから母にやさしくされて、大変機嫌がよかつた。姉に向つても姉さん/\となついて、何か
「どうぞ又是れをお頼み申します――是れはちよつぴりですが、一つ使つて御覧なすつて下さい」
その声にお末がふり返つて見ると、エンゼル香油の広告と、小壜入りの標品とが配達されて居た。お末はいきなり駈けよつて、姉の手からその小壜を奪ひ取つた。
「エンゼル香油だよ、私明日姉さんとこへ髪を上げてもらひに行くから、半分私がつけるよ、半分は姉さんおつけ」
「ずるいよこの子は」
と姉も笑つた。
お末がこんな冗談を云つてると、今まで黙つて茶の間で何かして居た母が、急に打つて変つて怒り出した。早く洗面台を綺麗にして、こんな天気の日に張物でもしないと、雪が降り出したらどうすると、毒を持つた云ひ方で、小言を云ひながら店に顔を出した。今まで泣いて居たらしく眼をはらして、充血した白眼が気味悪い程光つて居た。
「お母さん今日はまあ力三の為めにもさう怒らないでやつておくんなさいよ」
姉がなだめる積りでかうやさしく云つて見た。
「力三力三つて手前のもののやうに云ふが、あれは一体誰が育てた。力三がどうならうと手前共が知つたこんで無えぞ。鶴も鶴だ、不景気不景気だと己ら事ぶつ死ぬまでこき使ふがに、末を見ろ毎日々々のらくらと
姉はこの口ぎたない雑言を聞くと、妙にぶッつりして、碌々挨拶もしないで帰つて行つてしまつた。お末は所在なささうにして居る兄を一寸見て、黙つたまゝせつせと働き出した。母は何時までも入口に立つてぶつ/\云つて居た。鉛の塊のやうな
お末は洗面台の掃除をすますと、表に出て張物にかゝつた。冷えはするが日本晴とも云ふべき晩秋の日が、斜に店の引戸に射して、幽かにペンキの匂も立てた。お末は仕事に興味を催した様子で、少し上気しながらせつせと、色々な模様の切れを板に張りつけて居た。先きだけ赤らんだ小さい指が器用に、黒ずんだ板の上を走つて、かゞんだり立つたりする度に、お末の体は女らしい優しい曲線の綾を織つた。店で新聞を読んで居た鶴吉は美しい心になつて、飽かずそれを眺めて居た。
組合に用事があるので、早昼をやつた鶴吉が、店を出る時にも、お末は懸命で仕事をして居た。
「一と休みしろ、よ、
優しく云ふと、お末は一寸顔を上げてにつこりしたが、直ぐ快活げに仕事を続けて行つた。曲り角に来て振返つて見ると、お末も立上つて兄を見送つて居た。可愛いゝ奴だと鶴吉は思ひながら道を急いだ。
母が昼飯だと呼んでも構はずに、お末は仕事に身を入れて居た。そこに朋輩が三人程やつて来て、遊園地に無限軌道の試験があるから見に行かないかと誘つてくれた。無限軌道――その名がお末の好奇心を恐ろしく動かした。お末は一寸行つて見る積りで、襷を外して袂に入れて三人と一緒になつた。
厳めしく道庁や鉄道管理局や区役所の役人が見て居る前で、少し型の変つた荷馬車が、わざと造つた障害物をがたん/\音を立てながら動いて行くのは、面白くも何ともなかつたけれども、久し振りで野原に出て学校友達と心置きなく遊ぶのは、近頃にない保養だつた。まだ碌々遊びもしないと思ふ頃、ふと薄寒いのに気がついて空を見ると、何時の間にか灰色の雲の一面にかゝつた夕暮の暮色になつて居た。
お末はどきんとして立ちすくんだ。朋輩の子供達はお末の顔色の急に変つたのを見て、三人とも眼をまるくした。
帰つて見ると、頼みにして居た兄はまだ帰らないので、母一人が火のやうにふるへて居た。
「
と云つて、
「生きて居ばいゝ力三は死んで、くたばつても大事ない手前べのさばりくさる。手前に用は無え、出てうせべし」
と突放した。さすがにお末もかつとなつた。「死ねと云つても死ぬものか」と腹の中で反抗しながら、母が
「まあお坐り」
姉は
「お前お母さんから何んとか云はれたらう。
と云ふのを
「いゝさ
「何を食べさすもんか」
今まで黙つてうつむいて居たお末は、追ひすがるやうにかう答へて、又うつむいてしまつた。
「力三だつて一緒に居たんだもの……私はお
と暫くしてから訳の判らない事を、申訳らしく云ひ足した。姉は疑深い眼をして
かうしてお末は押し黙つて居る中に、ふつと腹のどん底から悲しくなつて来た。唯悲しくなつて来た。何んだか搾りつけられるやうに胸がせまつて来ると、止めても/\
而してお末は一時間程ひた泣きに泣いた。力三のいたづら/\した愛嬌のある顔だの、姉の赤坊の舌なめずりする無邪気な顔だのが、一寸覗きこむと思ふと、それが父の顔に変つたり、母の顔に変つたり、特別になつかしく思ふ鶴吉の顔に変つたりした。その度毎にお末は涙が自分ながら面白い程流れ出るのを感じて泣きつゞけた。今度は姉が心配し出して、色々に言ひ慰めて見たけれども甲斐がないので、仕舞ひにはするまゝに
お末は泣きたいだけ泣いてそつと顔を上げて見ると、割合に頭は軽くなつて、心が深く淋しく押し静まつて、はつきりした考へがたつた一つその底に沈んで居た。もうお末の頭からはあらゆる執着が綺麗に無くなつて居た。「死んでしまはう」お末は悲壮な気分で、胸の中にふか/″\とかううなづいた。而して「姉さんもう帰ります」としとやかに云つて姉の家を出た。
用事に暇どつた為めに、
「お末何んだつて食べないんだ」
「食べたくないもの」
何んと云ふ可憐ななつッこい声だらうと鶴吉は思つた。
鶴吉は箸をつける前に立上つて、仏壇の前に行つて、小つぽけな白木の位牌に形ばかりの御辞儀をすると、しんみりとした淋しい気持になつた。余り気分が
お末は黙つたまゝで兄の膳を
鶴吉は何んとなく
「姉さん所に忘れた用があるから」
と云つて居た。鶴吉は急に怒りたくなつた。
「馬鹿、こんなに
云つてる中に母に肩を持つて見せる気で、
「わがまゝな事ばかししやがつて」
と附け加へた。お末は素直に返つて来た。
三人とも寝てから鶴吉は「わがまゝな事ばかししやがつて」と云つた言葉が、どうしても云ひ過ぎのやうに思はれて、気になつてしかたがなかつた。お末はこちんと石のやうに押し黙つて、哲に添寝をして向うむきになつて居た。
外では今年の初雪が降つて居るらしく、めり込むやうな静かさの中に夜が更けて行つた。
案の定その翌日は雪に夜があけた。鶴吉が起き出た頃には、お末は店の掃除をして、母は台所の片附けをやつて居た。哲は学校の風呂敷を店火鉢の
「哲」
とお末が云つた。
「う?」
と哲が返事をしても、お末が何んとも言葉をつがないので、
「姉や何んだ」
と催促したが、お末は黙つたまゝだつた。鶴吉は歯楊枝を取上げようとして鏡の前の棚を見ると、そこには店先にある筈のない小皿が一枚
七時頃になつてお末は姉の所に行くと云つて家を出た。丁度客の顔をあたつて居た鶴吉は碌々見返りもしなかつた。
客が帰つてからふと見ると、さつきの皿がなくなつて居た。
「おやお母さん、こゝに載つてた皿はお母さんがしまつたのかい」
「何、皿だ?」
母が奥から顔だけ出した。而してそんなものは知らないと云つた。鶴吉は「お末の奴何んだつてあんなものを持出しやがつたんだらう」と思つて見まはすと、洗面所の側の
九時頃になつてもお末が帰らないので、母はまたぶつ/\云ひ始めた。鶴吉も、帰つて来たら少し
「叔父さん、今、今」
と
「どうしたい、そんなに慌てゝ……伯母さんでも死んだか」
と云ふと、
「うん、叔父さんとこの末ちやんが死ぬんだよ、直ぐお出でよ」
鶴吉はそれを聞くと妙に不自然な笑ひかたがしたくなつた。
「何んだつて」
もう一度聞きなほした。
「末ちやんが死ぬよ」
鶴吉はとう/\本当に笑ひ出してしまつた。而していゝ加減にあしらつて、女の子を返してやつた。
鶴吉は笑ひながら奥に居る母に大きな声でその事を話した。母はそれを聞くと面相をかへて跣足で店に降りて来た。
「何、お末が死ぬ?……」
而して母も突然不自然極まる笑ひ方をした。と思ふと又真面目になつて、
「よんべ、お末は精進も食はず哲を抱いて泣いたゞが……はゝゝ、何そんな事あるもんで、はゝゝゝ」
と云ひながら又不自然に笑つた。鶴吉はその笑ひ声を聞くと、思はず胸が妙にわく/\したが、自分もそれにまき込まれて、
「はゝゝゝあの娘つ子が何を云ふだか」
と
そこに姉が
その朝早く一度お末は姉の所に来た。而して母が散薬を飲みづらがつて居るから、赤坊の病気の時のオブラートが残つてゐるならくれろと云つた。姉は何んの気なしにそれを渡してやつた。と七時頃に又縫物を持つて来て、入口の隣の三畳でそれを
三十分程経つたと思ふ頃、お末が立つて台所で水を飲むらしいけはひがした。赤坊を亡くしてから
鶴吉の店にかけこんで来た姉は前後も乱れた話振りで、
医者をと思つて姉の家を出た鶴吉は、直ぐ近所の病院にかけつけた。薬局と受附とは今眼をさましたばかりだつた。直ぐ来るやうにと再三駄目を押して帰つて待つたけれども、四十分も待つのに来てくれさうにはなかつた。一旦
五六丁駈けて来てから見ると足駄をはいて居た。馬鹿なこんな時足駄をはいて駈ける奴があるものかと思つて
鶴吉は人力車に頓着なく姉の家に駈けつけて様子を聞くと、まださう騒ぐに及ばぬらしいとの事であつた。鶴吉は思はずしめたと思つた。お末は壜の大小を間違へて、大壜の方のものを飲んだに違ひない。大壜の方には苛性加里を粉にして入れてあるのだ。それに違ひないと思つたが、それをまのあたり聞く勇気はなかつた。
人力車を待つのに又暫くかゝつた。
やがてお末は医師の家の二階の手広い一室に運ばれて、雪白のシーツの上に移された。お末は喘ぐやうにして水を求めて居た。
「よし/\今
如何にも人情の厚さうな医師は、診察衣に手を通しながら、お末から眼を放さずに静かにかう云つた。お末はおとなしく
「
と聞いた。鶴吉はこゝで運命の境目が来たと思つた。而して恐る/\お末に近づいて、耳に口をよせた。
「お末、お前の飲んだのは大きい壜か小さい壜か」
と云ひながら手真似で大小をやつて見せた。お末は熱のある眼で兄を見やりながら、はつきりした言葉で、
「小さい方の壜だよ」
と答へた。鶴吉は雷にでも
「ど、どれ位飲んだ」
それを見た医師は疑はしげに首を傾けたが、
「少し時期がおくれたやうだが」
と云ひながら、用意してある薬を持つて来さした。劇薬らしい鋭い匂ひが室中に漲つた。鶴吉はその為めに今までの事は夢だつたかと思ふほど気はたしかになつた。
「飲みづらいよ、我慢してお飲み」
お末は抵抗もせずに眼をつぶつてぐつと飲み
十五分程経つたと思ふと、お末はひどく驚いたやうにかつと眼を開いて、助けを求めるやうにあたりを見まはしながら頭を枕から上げたが、いきなりひどい嘔吐を始めた。昨日の昼から何んにも食べない胃は、泡と粘液とをもどすばかりだつた。
「胸が苦しいよ、兄さん」
鶴吉は背中をさすりながら、黙つて深々とうなづくだけだつた。
「お便所」
さう云つて立上らうとするので皆がさゝへると、案外丈夫で起き直つた。便器と云つてもどうしても聞かない。鶴吉に肩の所を支へてもらつて歩いて行つた。階段も自分で降りると云ふのを、鶴吉が無理に背負つて、
「
と云ふと、お末は顔の何処かに幽かに笑ひの影を宿して、
「死んでもいゝよ」
と云つた。
下痢は可なりあつた。吐瀉の是れだけあると云ふことが、せめてもの望みだつた。お末は苦しみに背中を大波のやうに動かしながら、はつ/\と熱い
お末は胸の苦しみを訴へるのがやむと、激しく腹の痛みを訴へ出した。それは惨めな苦悶であつた。それでもお末は気丈にも、もう一度便所に立つと云つたが、実際は力が衰へて床の中でしたゝか血を下した。鼻からも鼻血が多量に出た。而して
そこに金の調達を奔走して居た姉もやつて来た。而して麻のやうに乱れたお末の黒髪を、根元から堅く崩れぬやうに結び直してやつたりした。お末を生かしたいと思はないものはなかつた。その間にお末は一秒々々に死んで行つた。
でもお末には生にすがると云ふやうな風は露ほども見えなかつた。その可愛いゝ堅い覚悟が今更に人々の胸をゑぐつた。
ふとお末は昏睡から覚めて「兄さん」と呼んだ。室の隅でさめ/″\と泣いて居た鶴吉は、慌てゝ眼を拭ひながら枕許に近づいた。
「哲は」
「哲はな」
兄の声はそこで
「哲は学校に行つてるよ。呼んでやらうか」
お末は兄に顔を
「学校なら呼ばなくもいゝよ」
と云つた。是れがお末の最後の言葉だつた。
それでも哲は呼び迎へられた。然しお末の意識はもう働かなくなつて、哲を見分ける事が出来なかつた。――
「おゝよし/\。それでよし。ようした/\。ようしたぞよ。お母さん居るぞ泣くな。おゝよしおゝよし」
と云ひながら母はそこいらを撫で廻して居た。而してかうしたまゝで午後の三時半頃に、お末は十四年の短い命に別れて行つた。
次の日の午後に鶴床は五人目の葬式を出した。降りたての真白な雪の中に小さい棺と、それにふさはしい一群の送り手とが汚いしみを作つた。鶴吉と姉とは店の入口に立つて小さな行列を見送つた。棺の後ろには位牌を持つた
姉は珠数をもみ/\黙念した。逆縁に遇つた姉と鶴吉との念仏の
(一九一六年[#「一九一六年」はママ]一月、「白樺」所載)