子供の世界

有島武郎




 私の父が亡くなる少し前に(お前これから重要な問題となるものはどんな問題だと思ふ?)と一種の眞面目さを以て私に尋ねたことがある。それは父にとつて或種の謎であつた私の將來を、私の返答によつて察しようとしたものであつたらしい。その時私は父に答へて、勞働問題と婦人問題と小兒問題とが、最も重要な問題になるであらうと答へたのを記憶する。
 勞働問題と婦人問題とは、前から既に問題となりつゝあつたけれども、小兒の問題はまだほんとうに問題として論議せられてゐないかに考へられる。しかしながら、この問題は前の二問題と同じ程の重さを以て考へられねばならぬ問題だと私は考へる。
 私たちは成長するに從つて、子供の心から次第に遠ざかつてゆく。これは止むを得ないことである。しかしながら、今迄はこの止むを得ないといふことにすら、注意を拂はないで、そのまゝの心で子供に臨んでゐた。子供の世界が獨立した一つの世界であるとして考へられずに大人の世界の極小さな一部分として考へられてゐたが故に、我々が子供の世界の處理をする場合にも、全く大人の立場から天降り的に、その處理をしてゐたやうに見える。この誤つた方針は、子供の世界の隅々にまで行き渡つた。家庭の間に於ける親子の關係に於ても、學校に於ける師弟の關係に於ても、社會生活に於ける成員としての關係に於ても、この僻見は容赦なく採用された。すべてが大人の世界に都合がいゝ樣に仕向けられた。さうして子供たちはその異邦の中にあつて、不自然なぎごちない成長を遂げねばならなかつた。かくして子供は、自分より一代前の大人たちが抱いてゐる習慣や觀念や思想を、そのまゝ鵜呑みにさせられた。かくの如き不自然な生活の結果が、どうなつたかといふことは、ちよつと目立つて表れてはゐないやうにも見える。なぜならば、かくの如き子供虐待の歴史は、非常に長く續いたのであるから、人々はその結果に對して、殆ど無頓着になつてしまつてゐるのだ。
 しかしながら、誰でも自分の幼年時代を囘顧するならば、そこに成長してまでも、消えずに殘つてゐるさま/″\な忌まはしい記憶をとり出すことが出來るだらう。若しあの時代にあゝいふ事がなかつたならば、現在いまの自分は現在いまのやうな自分ではなく、もつと勝れた自分であり得たかも知れないといふやうな記憶がよみがへつて來るだらう。
 もとより、この地上生活は、大體に於て、大人殊に成人した男子によつて導かれてゐるものだから、他の世界の人々が或る程度まで、それに適應して行くのは止むを得ない事ではある。しかしながら、從來の大人の專横は餘りに際限がなさすぎた。そのために、もつと姿を變へて進んで行くべきであつた人類の歴史は、思ひの外に停滯せねばならなかつた。一つの小さな例をとつて見ると、キリスト教會の日曜學校の教育の如きがそれである。子供の心には大人が感ずるやうな祷りの氣分は、まだ生れてはゐない。然るに學校の教師は、子供がそれを理解すると否とに拘らず、外面的に祷りの形式を教へ込む。子供は一種の苦痛を以て、機械的にそれに自分を適應させる。
 しかも、教師は大人の立場からのみ見て、かくすることが、子供を彼等の持つやうな信仰に導くべき一番の近道だと心得たが、しかしその結果は、子供の本然性を根底的に覆へしてゐるのだ。ロバート・インガソールといふ人が、日曜學校に行つてゐた時のことを囘想して、毎日曜日に彼は教會の椅子に坐らされて、一時間餘りも教師から、自分には理解し得ない事柄を聞かされるのだつたが、その間大人にふさはしい椅子に腰掛けて居らねばならなかつたので、兩足は宙に浮いたまゝになつてゐてその苦しさは一通ではなかつた。しかも、神の惠みを説きまくつてゐる教師の心には、子供のこの苦痛は、聊かも通じてゐるやうには見えなかつた。その時、彼れは染々と、どういふ惡いことをしたお蔭で、日曜毎に自分はこんな苦しい苛責を受けねばならぬのかと情なく思つた。彼れのキリスト教に對する反感は、實にこの日曜學校の椅子から始まつたといつてゐる。日曜學校の椅子――これは小さなことに過ぎない。しかしながら、そこには大人が子供の生活に對して、どれほど倨傲な態度をとつてゐるかを、明かに語るものがある。かくの如き事實は、家庭の生活の中にも、學校の教育の間にも、日常見られるところのものではあるまいか。
 子供は自らを訴へるために、大きな聲を用意してゐない。彼等は多くの場合に於て、大人に限りない信頼を捧げてゐる。然るに大人はその從順と無邪氣とを踏み躙らうとする。大人は抵抗力がないといふだけの理由で、勝手放題な仕向けを子供の世界に對して投げつける。かゝる暴虐はどうしても改められなければならない。大人は及ばずながらにも、子供の私語さゝやきに同情ある耳を傾けなければならない。かくすることによつて、人間の生活には一轉機が畫せられるであらう。
 私は、初めに、大人は小兒の心持ちから離れてしまふといつた。それはさうに違ひない。私たちは明かに子供と同じ考へ方感じ方をすることは出來ない。しかしながら、この事實を自覺すると否とは、子供の世界に臨む場合に於て、必ずや千里の差を生ずると信ずる。若し私たちがそれを自覺するならば、子供の世界に教訓を與へることが出來ないとしても、自由を與へることが出來る。また子供の本然的な發育を保護することが出來ると思ふ。良心的に子供をとり扱つた學校の教師は、恐らく子供の世界の中に驚くべき不思議を見出すだらう。大人の僻見によつて、穢されない彼等の頭腦と感覺の中から、かつて發見されなかつたやうな幾多の思想や感情が湧き出るのに遭遇するだらう。從來の立場にある人は、かくの如き場合に何時でも、彼等自身の思想と感情とを以て、無理強ひにそれを強制しようとする。このやうなことは許すべからざることだ。子供をして子供の求むるものを得せしめる、それはやがて大人の世界に或る新しいものを寄與するだらう。さうして、歴史は今まであつたよりも、もつと創造的な姿をとるに至るだらう。子供に子供自身の領土を許す上に、さま/″\な方面から研究が遂げられねばならぬといふことは、私たちの眼の前に横はる大きな事業の一つだと信ずる。(完)
(『報知新聞』大正十一年五月)





底本:「有島武郎全集第九卷」筑摩書房
   1981(昭和56)年4月30日初版発行
底本の親本:「報知新聞」
   1922(大正11)年5月6日〜7日発行
初出:「報知新聞」
   1922(大正11)年5月6日〜7日発行
入力:きりんの手紙
校正:木村杏実
2021年5月27日作成
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