有島武郎




 霜にうたれたポプラの葉が、しほたれながらもなほ枝を離れずに、あるかないかの風にも臆病らしくそよいでゐる。苅入れを終つた燕麥畑の畦に添うて、すく/\と丈け高く立ちならんでゐるその木並みは、ニセコアン岳に沈んで行かうとする眞紅な夕陽の光を受けて、ねぼけたやうな緑色で深い空の色から自分自身をかぼそく區切る。その向うの荒れ果てた小さな果樹園、そこには果ばかりになつた林檎の樹が十本ばかり淋しく離れ合つて立つてゐる。眞赤に熟した十九號(林檎の種類)の果が、紅い夕暮の光に浸つて、乾いた血のやうな黒さに見える。秋になつてから、山から里の方に下つて來たかけすが百舌鳥よりも鈍い、然しある似よりを持つた途切れ/\の啼聲を立てゝ、その黒い枝から枝へと飛び移りながら、人眼に遠い物蔭に隱れてゆく。
 見渡す限りの畑には雜草が茫々と茂つてゐる。澱粉の材料となる馬鈴薯は、澱粉の市價が下つたために、而して薯掘の工賃が稀有に高いために、掘り起されもせずにあるので、作物は粗剛な莖ばかりに霜枯れたけれども、生ひ茂る雜草は畑を宛ら荒野のやうにしてしまつたのだ。馬鈴薯ばかりではない、亞麻の跡地でも、燕麥のそれでも、凡てがまだ耡き返へしてはないのだ。雜草の種子は纖毛に運ばれて、地面に近い所をおほわたと一所になつて飛びまはつてゐる。蝦夷富士の山にはいつも晴れた夕暮れにあるやうに、なだらかな山頂の輪廓そのまゝに一むらの雲が綿帽子を被せてゐる。始めはそれが積み立ての雪のやうに白いが、見るまに夕日を照り返して、あらん限りの纖微な紅と藍との色階を採る。紅に富んだその色はやうやくにして藍に豐かになる。而して眞紅に爛れた陽が、ニセコアン岳のなだらかな山背に沈み終ると、雲は急に死色を呈して動搖を始める。而して瞬く中に、その無縫の綿帽子はほころびて來る。かくて大空の果てから果てまで、陽の光もなく夜の闇もないたそがれ時になると、その雲は一ひらの影もとゞめず、濃い一色の空氣の中に吸ひ失はれてしまふ。もう何所を見ても雲はない。虚ろなものゝやうに、大空はたゞ透明に碧い。
 その時東には蝦夷富士、西にはニセコアン、北には昆布の山なみが、或は急な、或はなだらかな傾斜をなして、高く低く、私が眺め※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はす地平線に單調な變化を與へる。既に身に沁む寒さを感じて心まで引きしまつた私には、空と地とを限るこの一つらの曲線の魅力は世の常のものではない。莊嚴な音律のやうなこの一線を界にして、透明と不透明と、光と闇と、輕さと重みとの明らかな對象が見出される。私は而してその暗らみにひたつてゆく地面の眞中に、獨り物も思はず佇立してゐるのだ。
 蟲の音は既に絶えてゐる。私は、足許のさだかでない、凹凸の小逕を傳うて家の裏の方に行つて見る。そこにはもうそこはかとなく夜の闇がたゞよひはじめてゐる。玉蜀黍は穗も葉も枯れ切つて十坪程の地面に立つてゐたが、その穗先きは少し吹きはじめて來た夜風に逆つて、小ぶるひにふるへてゐるのが空に透いて見えた。空に透いて見えるのにはその外に色豆の支柱があつた。根まがり竹の細い幹に、枯れ果てた蔓がしだらなくまつはりついたまゝで、逆茂木のやうに鋭く眼を射る。地面の上にはトマトの茂りがあつて、採り殘された實の熟したのが、こゝに一つかしこに一つ、赤々と小さな色を殘してゐる。それ以外には南瓜の畑も、豌豆の畑も、玉葱の畑も、カイベツ(甘藍)の畑も、一樣にくすんだ夜の色になつてゐる。一匹の猫が私のそこに佇んでゐるのを眼がけて何所から來たのか、ふと足許に現れた。私はこゞんで、平手をその腹の下に與へて猫を私の胸の所まで持上げて見た。猫は喉も鳴らさず、いやがりもしない。腹の方はさすがに暖い手ざはりを覺えさすけれども、私の顎に觸れた脊の毛なみは霜のやうに冷えてゐた。
 私はその猫を抱いたまゝで裏口から家に這入つた。内井戸の傍をぬけて臺所の土間まで來ると、猫は今までの柔和さに似ず、沒義道にも私の抱擁を飛びぬけて、眞赤な焔を吐いて燃えてゐる圍爐裡の根粗朶の近くに駈けて行つた。まだ點けたてゞ、心を上げ切らない釣ランプは、小さく黄色い光を狐色の疊の上に落して、輕い石油の油煙の匂ひが、味噌汁の匂ひと一緒にほのかに私の鼻に觸れる。
 六つになつた惡太郎の松も、默つたまゝ爐の向座に足を投げ出して、皮を剥いだ大きな大根の輪切りをむし/\と嚼つてゐる。私も別に聲もかけずにそつと下駄を脱いで自分の部屋へと這入つて行つた。かん/\起してある火鉢の炭からは青い焔が立つてゐる。而してゑがらつぽい炭酸瓦斯が部屋の空氣を暖かく濁してゐる。
 夜おそく、私は寢つかうとして雨戸のガラス越しに戸外を見た。何物をも地のしん深く吸ひ盡すやうな靜かさが天と地とを領し盡してゐる。其中に遠くでせゝらぎの音だけがする。兎にも角にも死の如き寂寞の中に物音を聞くのは珍らしい。晴れ亙つた大空一めんに忙はしく瞬きする星くづに眼をやりながら、じつと水音を聞きすましてゐると、それは私の聞き慣れたものであるやうには思へない。遠い凹地の間を大小色々の銀の鈴が、數限りもなく押しころがされて行くかと疑はれる。
 雨戸のガラスはやがて裂けはしまいかと思はれるほど張り切つて見える。私はそれに手を觸れるのをさへ恐れた。私は急いで再び寢床に歸つた。寢床の中のぬくみは安火よりも更らに暖かく私の足先きに觸れた。
 朝寒が私に咳を強ひた。咳が私をあるべきよりも早く眼ざめさせた。少しでも垢じみた所には霜が結んでゐるかと思はれるやうな下着の肌ざはりは、こゝの秋の寒く更けたのを存分に教へてくれる。私はそつと家を出て畑の方へ行つて見た。結ばれたばかりの霜、それは英語で Hoarfrost といはるべき種類の霜が、しん/\として雪のやうに草の上にも土の上にもあつた。殊更らにその輪廓の大きさと重々しさとを増した蝦夷富士は、鋼鐵のやうな空を立ち割つて日の出る方の空間にそゝり立つてゐる。私が身を倚せてゐる若木の楡の梢からは、秋の野葡萄のやうに色づいて卷きちゞれた葉が、そよとの風もないのに、果てしもなく散りつゞいて、寒さのために重くなつた空氣の中を靜かに舞ひ漂つて、やがて霜の上にかさこそと微かな音をたてゝ落着くのだつた。
 今日も亦、寒い雨と荒い風とが見舞つて來る前の、なごやかな小春日向が續くのだらう。私が朝餉をする頃には、今にも雨になるかとばかり空は曇り果てるだらう。而してそれが西南から來るかすかな風に追はれると、陽の光で織りなされたやうな青空が、黄色い光を地上に投げて、ぽか/\と暖く短い日脚をも心長く思はせるだらう。而してあの靜かな寂しい夕方が又來るのだ。
 かうして北國の聖なる秋は更けて行く。
(『婦女界』大正十年一月)





底本:「有島武郎全集第八卷」筑摩書房
   1980(昭和55)年10月20日初版発行
底本の親本:「有島武郎著作集第十三輯『小さな灯』」叢文閣
   1921(大正10)年4月18日
初出:「婦女界 第二十三卷第一號」
   1921(大正10)年1月1日発行
※初出時の表題は「秋(習作)」です。
入力:きりんの手紙
校正:木村杏実
2021年5月27日作成
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