實驗室

有島武郎




 兄と彼れとは又同じ事を繰返して云ひ合つてゐるのに氣がついて、二人とも申合せたやうに押默つてしまつた。
 兄は額際の汗を不愉快さうに拭つて、せはしく扇をつかつた。彼れは顯微鏡のカバーの上にうつすらたまつたほこり隻眼かためで見やりながら、實驗室に出入しなかつたこの十日間程の出來事を、涙ぐましく思ひかへしてゐた。
 簡單に云ふと前の日の朝に彼れの妻は多量の咯血をして死んでしまつたのだ。妻は彼れの出勤してゐる病院で療治を受けてゐた。その死因について院長をはじめ醫員の大部分は急激な乾酪性肺炎の結果だらうと云ふに一致したが、彼れだけはさう信ずる事が出來なかつた。左肺が肺癆に罹つて大部分腐蝕してゐるのは誰れも認めてゐたが、一週間程前から右肺の中葉以上に突然起つた聽診的變調と、發熱と、腹膜肋膜の炎症とを綜合して考へて見ると粟粒結核の勃發に相違ないと堅く信じたのだ。咯血が直接の死因をなしてゐると云ふ事も、病竈が血管中に破裂する粟粒結核の特性を證據立てゝゐるやうに思はれた。病室で死骸を前に置いて院長が死亡屆を書いてくれた時でも、院長は悔みや手傳ひに來た醫員達と熱心に彼れの妻の病氣の經過を論じ合つて、如何しても乾酪性肺炎の急激な場合と見るのが至當で、斃れたのは極度の衰弱に起因すると主張したが、彼れはどうしても腑に落ちなかつた。妻の死因に對してさへ自分の所信が輕く見られてゐる事は侮辱にさへ考へられた。然し彼れは場合が場合なのでそこに口を出すやうな事はしなかつた。而して倒さに着せられた白衣の下に、小さく平べつたく、仰臥さしてある妻の死骸を眺めて默然としてゐた。
 默つて坐つてる中に彼れの學術的嗜欲はこの死因に對して激しく働き出した。自分は醫師であり又病理學の學徒である。自分は凡ての機會に於て自己の學術に忠實でなければならない。こゝに一個の死屍がある。その死因の斷定に對して一人だけ異説をもつものがある。解剖によつてその眞相を確める外に途はない。その死屍が解剖を不可能とするのなら是非もないが、夫れは彼れ自身の妻であるのだ。眞理の闡明の爲めには他人の死體にすら無殘な刃を平氣で加へるのだ。自分の事業の成就を希ふべき妻の死體を解剖臺の上に運んで一つの現象の實質を確定するのに何の躊躇がいらう。よし、自分は妻を學術のために提供しよう。さう彼れは思つた。暫らく考へてから彼れは上の考へにもう一つの考へを附加へた。妻は自分が解剖してやる。同じ解剖するなら夫に解剖されるのを妻は滿足に思ふだらう。自分としては自分の主張を實證するには自分親ら刀を執るのが至當だ。その場合解剖臺の上にあるものは、親であらうが妻であらうが、一個の實驗物でしかないのだ。自分は凡ての機會に於て學術に忠實であらねばならぬ。
 彼れは綿密にこの事をも一度考へなほした。彼れの考へにはそこに一點の非理もなかつた。しつかとさう得心が出來ると、彼れは夫れを院長に告げて許可を受けた。その晩彼れは親族兄弟の寄合つてゐる所で所存を云ひ出した。云ひ出したと云ふより宣告した。親族は色々反對したが甲斐のないのを知ると、せめては肺部丈けの解剖にしたらどうだと云つた。若し死因が粟粒結核なら他の諸機關も犯されるのだから肺部だけですますわけには行かないと彼れは云つた。夫れなら他人に頼んでして貰へと云つた。彼れは自分のするのが一番いゝんだと云つた。そんな不人情がよくも出來るものだと涙を流して口惜しがる女もゐた。彼れは妻の介錯は夫がするのが一番いゝのだと云つて動かなかつた。妻の里の親達は勿論、親族の大多數は、その場の見えばかりからでも、彼れの決心に明らさまに反對な色を見せた。學術に對する俗衆の僻見をこれほど見せつけられると、彼れは意地にも初一念を通さずには置けなかつた。而して妻は自分にとついだ以上は自分のものだから、その處置については他人を煩はすまでもないと云ひ切つてしまつた。列坐の人々は呆れたやうに口をつぐんだ。
 愛憎あいそを盡かした人々の中に、彼れの兄だけは何處までも彼れの決心を飜へさうとした。今朝も兄はわざ/\彼れの實驗室までやつて來て、色々と話し合つてゐたのだ。
「お前は自分の生活と學術とどつちが尊いと思つてゐるんだ」
 兄は扇をたゝむと、粘氣ねばりけのある落着いた物言ひをして又かう論じ始めた。彼れは顯微鏡のカバーの上のほこりから物惰氣ものうげに眼を兄の方に轉じた。
「僕は學術を生活してゐるんです。僕の生活は謂はゞ學術の尊さだけ尊いんですよ。……もういくら論じたつて同じぢやありませんか」
 さう云つて彼れは立上つた。而して壁際のガラス張りの棚の中から、ミクロトームのメスを取り出して剃刀砥かみそりどにかけ始めた。滑らかな石砥いしどに油をたらして、その上に靜かにメスを走らせながら、彼れは刃物と石との間に起るさゝやかな音にぢつと耳をすましてゐた。手許てもとから切先きつさきまで澄み切つたかたはがねの光は見るものを寒くおびやかした。兄は眼をそばたてゝ、例へば死體にしろ、妻の肉に加ふべき刃を磨ぎすます彼れの心をにくむやうに見えた。
「そんなものを使ふのか」
 彼れは磨ぐ手をやめて、眼近くメスを見入りながら、
「解剖に使ふんぢやない、是れはプレパラートの切片シュニットを切る刃物です。慣れつてものは不思議でいでると音で齒の附具合が分りますよ。生物學者は物質的メヒャニッシュな仕事が多いので困る」
「俺れはこのきはになつてもお前の心持ちにはどこか狂つた所があるやうに思ふがな、お前は今學術を生活するんだと云つたが、自然科學は實驗の上にのみ基礎を置くのが立場たちばだのに、生活は實驗ぢやないものな。話があんまり抽象的になつてしまつたが、お前の妻の肉體に刃物を加へてどこか忍びない所がありはしないかい。少しでもそんな心地があつ……」
 そこに小使が這入つて來て、死亡室に移してある彼れの妻の處置を如何したらいゝかと彼れに尋ねた。九時から解剖をするからすぐ用意をして置けと彼れは命じた。兄は慌てゝそれはもう少し待つてくれと云つたが、彼れは敵意に近い程な激しい態度で兄の言葉を遮りながら小使を死亡室に走らした。
 兄は歎息して默つてしまつた。彼れも默つた。部屋の隅の瀬戸物の洗槽ながしに水道の龍頭から滴る水音だけがさやかに聞えた。病院の患者や看護婦の騷がしさも、研究部にある彼れの實驗室の戸の内には押よせて來なかつた。彼れは解剖後の研究に必要な用意をするためにせはしかつた。整温器オフフェンにパラフィンを入れてアルコール、ランプの灯をともしたり、ヘマトキシリン、イオシン、ホルマリン、アルコホール、クロロホーム、石油ベンジンなどの小瓶を順序正しく盆の上に列べたり、〇、八ミクロの切片シュニットを切り出すやうにミクロトームを調節したり、プレパラート、グラスをアルコールに浸したりしてゐる中に、暫らく打捨てゝあつた習慣が全く元にもどつて、彼れは研究者の純粹な心持ちに這入つて行つた。彼れの前にもう妻はなかつた。興味ある患部の縱斷面や横斷面が想像によつて彼れの眼の前にまざ/\と見えるやうだつた。半ば膿化した粟粒が肺の切斷面や腹膜やに顯著に見られたら愉快だらうと彼れは思つた。先刻さつきから考へる力を失つたやうに默つたまゝ、うつむいて、扇をつかつてゐる兄が弱々しい殉情の犧牲の如くに憐れまれた。
 眞黒に古びてはゐるが極めて正確な懸時計の針が八時五十分を指した時、小使がまた現はれて解剖室の用意が出來てゐる事を報告した。彼れは一種の勇みを感じた。上衣を脱いで眞白な手術衣に手を通しながら、
「兎に角仕度したくが出來てしまつたから僕は行きます。人間はいつか死ぬんですからね。死んでしまへば肉體は解剖にでも利用される外には何の役にも立ちはしないんですからね。Y子なんぞは死んでをつとに解剖されるんだから餘榮ありですよ。……兄さんはすぐお歸りですか。お歸りならどうか葬式の用意を……」
「俺れは立合はせて貰はう」
 この兄の言葉は彼れにも意外だつた。「どうして」とその理由わけを聞かずにはゐられなかつた。
「お前と俺れとは感情そのものが土臺違つてしまつたんだ。假りにも縁があつて妹となつてくれたものを、お前はじめ冷やかな心で品物でも取扱ふやうに取扱ふ人達ばかりに任せて置く氣にはどうしてもなれないんだ。お前はお前で、お前の立場たちばを守るのなら、それは俺れはもうどうとも云はないが、俺れの立場もお前は認めてくれていゝだらう」
「無論認めますがね、解剖と云ふものは慣れないと一寸我慢の出來ない程殘酷に見えますよ。それでよければいらつしやい」
 さう云つて彼れは兄にも手術衣を渡した。
死體解剖の掲示
と彼れ自身が無造作に書いた半紙の掲示が、廊下をふきぬける朝風にそよいでゐるのを見て、二人は廊下の出口で解剖室用のスリッパに草履をはきかへた。薄暗く冷たい準備室に兄を待たして、彼れは防水布の胸あてをし、左の手にゴムの手袋をはめた。兄弟は互に顏を見合せて、互にひどく血色が惡いと思ひ合つた。
 不思議な身ぶるひが彼れを襲つた、彼れはいつの間にか非常に緊張してゐた。手を擴げて眼の前にもつて來て見ると、いつになく細かく震へてゐた。意志の強い彼れはそれを不愉快に思つた。而してたしなめるやうに右手を二三度嚴しく振りまはしてから、兄と共に解剖室に這入つて行つた。
 解剖臺の二つ置いてある廣やかな解剖室の白壁は眞夏の朝日の光と、青葉の射翠とで青み亙るほどに清々きよ/\しく準備されてゐた。助手と見學の同僚とが六人ほど彼れの來るのを待ちかまへてゐた。あるものはのどかに煙草を燻らし、あるものは所在なげに室の中を歩きまはつてゐたが、這入つて來た彼れの姿を見ると一寸改つて挨拶した。
 一體彼れは醫者に似ず滅多に笑はない口少なゝ男だつた。内科の副醫長の囘診だと云ふと、看護婦などはびり/\した。人をおこりつけるやうな事は絶えてしなかつたが、彼れは何處にも他人をもぐりこませるやうなすきを持つてゐなかつた。高い額と、高く長い鼻と、せばまつた眉の下でぢつと物を見入る大きな隻眼かためとを持つた彼れの顏は、その日は殊更らに緊張してゐた。何處にか深い淋しさをたゝへた眞劒な表情は、この晴れやかな解剖室を暗くするやうにさへ見えた。
 彼れは兄に椅子を與へて置いて死屍の乘つてゐる解剖臺のそばに來た。若い二人の醫學士は煙草を窓からなげ捨てゝ、机について記録の用意をした。見學の人達もそろ/\臺のまはりに集つた。彼れは二人の助手と二人の記録者とに「今日は御苦勞を願ひました」ときつぱり挨拶して解剖臺の上に鋭い眼をやつた。死んだ妻の前に立つ彼れを思ひやつて、急にヒステリックにむせび出した二人の看護婦の泣き聲が後ろで聞えた。
 無造作に死體を被つた白衣の上には小さな黒い汚點しみのやうに蠅が三四匹とまつてゐた。枕許には型の如く小さなカードが置いてあつた。彼れは夫れを取上げて讀んだ。
 三谷Y子。二十歳。八月一日午前七時死亡。病症、乾酪性肺炎。
 三谷Y子――その名は胸をぎゆつとゑぐるやうに彼れの網膜に寫つた。彼れは然し自分の感情を人に氣取けどられるのを厭つた。彼れはせき込む感情を、強い事實で拂ひのけるために死體から白衣を剥いで取つた。
 昨日まで彼れの名を呼び續けに呼んで、死にたくないから生かしてくれ/\と悶え苦んだ彼れの妻は、悶えた甲斐も何もなく痩せさらぼへた死屍となつて、彼れの眼の下に仰臥してゐた。顏と陰部とを小さなガーゼで被うてある外は、死體にのみ特有な支那の桐油紙とうゆがみのやうに鈍い冷たい青黄色い皮膚が溢れるやうな朝の光線の下に曝されてゐた。永く湯をつかはなかつた爲めに足の裏から踵にかけて、かさぶたのやうにあかがたまつてゐた。肉が落ちたので、手足の關節部は、骨瘤のやうに氣味惡く眼立つてゐた。肺癆に罹つてゐた左胸は右胸に比べると格段に小さくなつてひしやげてゐた。
 見學の人達は好奇ものずきな眼をあげて彼れの顏に表はれる感情を竊かに讀まうとした。彼れの隻眼かためは、いつものやうに鋭く輝く外には、容易に自餘ほかの意味を語らなかつた。彼れは冷靜な明瞭な獨逸語で死體の外貌上の報告をしはじめた。彼れの手は冷たい死體の皮膚を蠅を追ひながらあちらこちら撫でまはした。記録者はフールスキャップに忙しくペンを走らせた。其音だけが妙に際立つて聞こえた。
「メス」
 やがて彼れの發したこの一言に、室内は一時小さくどよめいた。助手の一人は解剖臺に取りつけてある龍頭をひねると、水は氷柱つらゝでもつるしたやうに音もなく磁器製の解剖臺に落ちて、小さな幾條かの溝を傳つて、中央の孔からゆかの下に流れて行つた。一人の助手は黒塗りの滑らかな檢物臺オブゼクト、ティッシュを死體の兩脚の間に置いた。看護婦は大きな磁盆にしこたま大小のメス、鋏、鋸、楔、止血ピンセット、鉗子、持針器の類を列べたのを持つて來た。牛刀のやうな腦刀も備へられた。膿盆は死體のそここゝに幾個も配置された。人々の右往左往する間に、記録者は机を解剖臺に近く寄せて、紙を改めて次ぎの瞬間を待ちかまへた。
 彼れはこのひまに兄の方を見た。兄は眞蒼まつさをな額に玉のやうな冷汗を滴らしながら、いつの間にか椅子から立上つて、腕を組んだまゝぢつと死體を見詰めてゐた。「もうお歸りになつたらどうです」彼れは試みにかう云つて見た。兄は返辭をしなかつた。彼れの言葉を聞取り得なかつたのだ。
 彼れは靜かに準備の出來るのを待つてゐた。人々がもとの位置に立ちかへると、彼れは手術衣の腕を高々と看護婦にまくらせた。
 乾酪性肺炎か粟粒結核か、事の眞相を否應いやおうなしに定むべき時が來た。自分の臨床上の技倆と研究上の蘊蓄とを、院長はじめ他の人々のそれと比較すべき時が來た。さう思ふと彼れの隻眼かためは光つた。何んと云つても未だ漸やく三十の彼れは、少くとも老練と云ふ事を誇り得るまでに多くの經驗を積んだ反對意見の人々の壓迫を感じない譯に行かなかつた。誰れも彼れの内心の葛藤を知らないのが一つの便利ではあつたけれども、彼れの不安を人に氣取けどられまい爲めには、彼れの意志を極度に働かせねばならぬ程のものだつた。
「解剖上の現象」
 かう彼れは記録者に報告しておいて、メスを死體の喉許にあてがつたと思ふと、覺えのある腕の冴えを見せて、まつすぐに引きおろした。こんな事には慣れきつた二人の看護婦も思はず兩手を顏にあてゝ下を向いてしまつた。兄は二三歩後ろによろけて、部屋中に響きわたるやうな鈍い呻聲うめきごゑを立てた。兄の眼は然し寸時も死體から離れなかつた。
 どす黒い血が解剖臺の眞白な表面のあちこちを汚し始めた。眠さうな音を立てゝ窓際でまはつてゐる蠅取機の甘酸い香を離れて解剖臺の方に飛んで來る蠅の數はふえた。牛肉屋の前を通つた時のやうな一種の血なまぐさい香が忽ちに清淨な空氣を汚なくした。
 彼れの解剖の手際は水際だつてゐた。見る見る中に胸部から腹部にかけての諸機關は個々に取除けられて、左胸部に肺癆の爲めに潰滅した肺の殘塊が咯啖樣の粘液に取りまかれて殘つてゐるのと、直腸部に填充した脱脂綿が所々ところ/″\血に汚れて、うねくつて露出してゐる外には何も殘らなかつた。内臟はふちの高い圓い膿盆に盛られて死體の足許に置かれた。若し比喩が許されるなら、夫れは珍らしい果物でも盛つたやうだつた。尖端を上にむけて置いてある心臟の如きは殊に桃を聯想させた。
 内臟が抉出されてしまつて見ると、見學の人々は死體に對して本能的に感ずる一種の遠慮も、今朝の解剖に限つて存在する死體と執刀者との異常な關係なども、忘れてしまつて、學術的の興味に釣り込まれた。あるものは強直した死體の手の指を強ひてまるめて拳固を造り、心臟を持出して大さを較べて見た。而して、
「隨分この心臟ヘルツクラインだねえ」
と云つて彼れに示したりした。
「どつちだらう、クラインだとルンゲンが犯され易いのか知らん、ルンゲンが犯されると心臟ヘルツが小さくなるのか知らん」
 そんな事を云ひ合ふ人々もあつた。
 彼れは内臟を一つ/\黒塗の滑らかな臺の上に乘せて腦刀で縱横に斷割たちわつて見ながら、綿密な報告を落着いた言葉で記録者の方に云ひ送つた。著しく擴大した脾臟を割いて見ると粟粒状の結節を到る所に發見した。彼れは心の内で飛上るやうな勇みを感じた。然し彼れは落着いてゐた。
「脾臟。形状普通。著しく擴大。色普通。中部到る處に粟粒状結節あり」
 彼れは冷靜に報告した。腹膜にも肋膜にも多數の結節を認めた。この上は肝腎かんじんの右肺部を檢査しようかと思つたが、粟粒がどの位廣く結成されたかを確めるために頭蓋骨を開いて腦膜を調べて見たくてたまらなくなつた。彼れは始め妻の首から上には手を觸れまいと思つていた。まだ乙女の純潔と無邪氣とをどこかにそのまゝ持つてゐた妻の顏にメスをあてゝ支離滅裂にするのはとても忍び難い事だつた。どうせ腐るにしても彼女の顏はなるべく長くそのまゝにして置きたかつた。それだけの理由からでも彼れは妻を火葬にしまいと思つた程だつた。妻が少しも疑はない信頼と尊敬と戀慕とを以て、よく彼れのうなじに手をまいて、近々と彼れの顏の前で他人には見せない蠱惑に滿ちた微笑ほゝゑみをほゝゑんだ、さう云ふ記憶は現在の事のやうに鮮かに殘つてゐた。
 彼れは大膿盆に置かれた肺臟に手をかけながら、貪るものゝやうに死體の頭部に眼をやつた。顏は雪白のガーゼに蔽はれてゐて見えないが、髮の毛は、つやをこそは失つたけれども、漆のやうな黒さで木枕から解剖臺の上に乘り餘るほど豐かだつた。彼れは夫れを見ると鋭利なメスを頭蓋骨に達するまで刺透して、右の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみから左の顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)にぐつと引きまはしたい衝動に襲はれた。彼れの感じたその衝動は研究心以外の不純なある感情―― Sadistic と言ふ言葉でゝも現はさなければならないやうな――が湧いたのではないかと思ふほどに強いものだつた。彼れは今までの通り、見た所は冷靜であつたが、その心の中には熱い一種の欲望が燃えて來た。彼れはとう/\助手に指圖して腦の抉出に取りかゝつた。
 又ざわ/\と一しきり人々が動いて位置をかへた。助手は根元で無造作に結へてある元結もとゆひを切つて、兩耳の後ろと旋毛つむじの邊にかけて前頭部と後頭部の髮を二束ふたゝばに分けた。分け目には日の目を見ない一筋の皮膚が冷やかな青白さをもつて現はれ出た。
 その準備が出來ると彼れは死體の枕許に立つた。而してメスを右の耳の下の髮の分け目の所につき刺した。顏の上には前頭部の髮の毛がもつれあつて物凄く被ひかぶさつてゐる。
 突然彼れのメスを持つた右手が、しつとり冷たい手のやうなもので握りしめられて自在を失つた。緊張し切つた彼れの神經は不思議な幻覺に働かれて、妻のこはばつた手が力強く彼れの無謀を遮ぎるやうにも思つた。と、冷水を腦のしんに注ぎこまれたやうに彼れの全身はぞつとした。
「氣でも狂つたのか、亂暴にも程がある」
 かすかな、然し恐ろしい程力のこもつた聲が同時に彼れの耳を打つた。見かへる鼻先きに眞蒼まつさをになつて痙攣的に震ふ兄の顏があつた。またゝきもせずに大きく彼れを見詰めてる兄の眼は、全く空虚な感じを彼れに與へた。彼れにはそれがうつろな二つの孔のやうに見えた。その孔を通じて腦髓までも見ようと思へば見通せさうだつた。
 たゞ瞬間の奇快な妄想ではある。然しこの時彼れの眼に映つた兄は兄のやうには見えなかつた。妻の死靈に乘り移られた不思議な野獸が、牙をむいて逼りかゝつて來たやうに思はれた。彼れの大事な仕事を土臺からひつくり返さうとする大それた邪魔者のやうに思はれた。緊張し切つて稍平靜を失ひかけた彼れの神經は疾風に見舞はれた冬木の梢のやうにぎわ/\と怒り立つた。彼れは兄弟の見界みさかひをも失はうとした。而して次ぎ來るべき狂暴な動作を頭にたくらみながら、兄の握りしめてゐる右手を力まかせに拂ひのけようとした。その瞬間に彼れの手はひとりでに自由になつた。兄は眼を見開いたまゝ棒倒しにセメントのゆかの上にどうと倒れたのである。
 彼れの命令によつて、兄は看護婦に附添はれて、失神したまゝ病室に運ばれた。
「あれは僕の兄です。看護で頭が疲れてゐる所に、見た事のないこんな有樣を見たもんだから……餘計な御心配をかけました。……僕は少し疲れた。關口君、君一つやつてくれ給へ。腦膜が見たいんだから注意してなるべく完全に剥離してくれ給へ」
 かう彼れは助手に云つた。彼れは努めてもとの冷靜にかへらうとしてゐたが手の震へをとゞめる事が出來なかつた。夫れを人々に知られるのをにくんだ。
 實際手を洗つて窓際に來て見ると彼れは相當に疲勞してゐた。彼れは衣嚢かくしから卷煙草を出して火を摺りながら、四方を建物で圍はれた中庭に眼をやつた。
 八月の日は既に高く上つて、樹々きゞの蔭を小さく濃く美しい芝草の上に印してゐた。卵色のペンキが眩しく光る向ひの建物の壁際かべぎはのカンナの列は、燃えるやうな紅と黄の花を勢よくに擡げてゐた。もちの木の周圍には羽のある一群の小蟲が飛びかひながら、集つては遠ざかり集つては遠ざかりしてゐた。その間を大きな蜻蛉が襲撃するやうにかけぬけた。看護婦が間遠まどほに眞白な印象を殘して廊下に輕やかな草履の音を立てた。蟲が一本調子に靜かになき續けてゐた。彼れの吐き出した青い煙は、中庭の空氣の中をゆるく動いて行つて、吹きぬけの亙廊下わたりらうかの所まで來ると、急にあわてたやうに搖れ動いて殘りなく消え失せた。凡てのものはしん/\と暑さに蒸れた。向うの建物の燃えるやうな屋根瓦の上には、眞青な火のやうに雲のない大空が輝いてゐた。そこから電車のきしみ走る音が幽かに聞こえた。
 彼れは庭から來る照り返しを避けるやうに隻眼かためを細めながら、生氣の充ち溢れた自然の小さな領土を眺めやつた。
 解剖臺からはごし/\と鋸で物をひく音が聞こえた。彼れの妻の頭蓋骨は今椀の形にひき割られてゐるのだ。彼れは見返へらうとはしなかつた。
 日影になつた建物の窓に二人の看護婦の姿が現はれた。二人は彼れが解剖室から見てゐる事には氣が附かないで、さも親しげにより添つてゐた。忙しい仕事から漸くひまを得たやうに、二つの若々しい健康さうなその顏は上氣して汗ばんでゐた。美しくさへあつた。中でも若い方の一人はふところから小さな桃色の書箋紙に書いた手紙を取出して、二人は互の顏を觸れるほど寄せ合つて熱心に讀みはじめた。二人は時々をかしさうに微笑ほゝゑんだり、嬉しさうに眼を見合せたりしてゐた。眞夏の光の中で、凡ての情熱を初めて經驗してゐるらしい二人の處女の姿は、彼れに何とも云へぬ美しさと可憐さとを味はした。
 解剖臺からは鋸の音とちがつたある鈍い音が又聞こえて來た。夫れは鋸の切れ目に鐵の楔子をさし入れて、椀状の頭蓋を離すために、木の槌で輕くたゝく音だ。彼れは自分の頭にその楔子をさし込まれたやうな苦痛を感じ始めた。
 彼れは現在華やかな眞夏の景色を眺めながら、それと少しの關係もない自分を見出した。一度後ろを振向けばそこに彼れの世界があるのだ。まざ/\と何事も明らさまな晝の光の下で、最愛のものゝ腹を割き頭をゑぐる……さうする事が自分の事業に對して一番忠實な處置であるのを信ぜねばならぬ彼れの世界はすぐその背後に廣がつてゐるのだ。「自分の生活と學術とどつちが尊いと思つてゐるんだ」と今朝兄の云つた言葉が突然恐ろしい意味を持つて彼れのふところに飛び込んで來た。「自分は學術の爲めに全力を盡すべき一個の學徒である。自分は自分の學術に十分の信頼と十分の興味とを持つてゐた。然し自分が人間として要求し又要求せねばならぬものは生活することだ。生活を生活して見る事ではない。經驗する事だ。實驗する事ではない。然るに自分の奉事する學術は一から十まで實驗の上に立脚してゐる。自分の一生は要するに最小限の生活と最大限の觀察から成立たねばならぬ。自分は生活をそれほど局限して學術に奉事する滿足と覺悟とをほんとに持つてゐるのか」さう彼れは嚴しく自己に詰問した。「生活と學術とどつちが尊い。我れを見失つてどこに學術がある」彼れは今までの自己の立場たちばをはつきり辯解すべき術を知らなかつた。
 むしやくしやして彼れは吹殼すひがらを芝生になげ捨てようとしたが、ふと窓際で手紙を讀みつゞけてゐる少女だちを驚かしてはいけないと思つて、室内のゆかの上に落して踏みにじつた。今の彼れの心には、その二人の少女は彼れの及びもつかない美しい存在のやうに見えたからだ。
「出來ました」
 助手が彼れの方にかう呼びかけた。默想は破れてしまつた。彼れは今までの慣習に引きずられてその先きを辿らなければならないのを知つた。而して再び解剖臺の方に進んで行つた彼れの顏には前の通りな冷靜な緊張した色だけが漲つてゐた。人々は暑がつて顏や手をハンケチで拭つたが、彼れの顏には汗一つ見えなかつた。
 彼れは然し死體の頭部に眼をやる事はしなかつた。而して黒塗の臺の上に置いてある腦膜を取上げた。脾臟程に顯著ではないけれども結節は可なり明瞭に觀察された。妻が死前に激烈な頭痛を訴へて、思想に一種の混亂を來した理由わけも説明せられるやうだつた。
 もう疑ふべき餘地は全くない。彼れの診斷は院長はじめ多數の醫員の所見を壓倒して勝利を得たのだ。彼れの隻眼はまたひとりでに輝いた。窓際で休息してゐた時彼れを犯した不安は、いつの間にか忘れられて、彼れは又熱意をこめて目前の仕事に沒頭して行つた。
 つぎに彼れは敵の本城に逼るやうな勢で大膿盆から肺臟を取上げた。人々も亦非常な興味をもつてそのまはりに集つた。今日の解剖の最頂點クライマックスはこゝにあるのだ。彼れは外部の記述が終ると、腦刀を持ち直して縱にづぶりと刃先きを入れた。彼れが診斷した通り中葉以上の患部の稍粗雜な海老茶色の表面には、咯啖樣の色をした粟粒がうざ/\する程現はれ出た。
「是れはひどい」
と誰れかゞ驚歎する聲がすぐ起つた。彼れは思はず、最愛の妻の肺臟を、戰利品でもあるかの如く人々の眼の前に放り出した。
「死因。粟粒結核の結果と見るを至當なりとす」
 昂然として彼れは記録者の方に向いてかう云つた。
 列席者の中でそれに異議を稱へようとするものは一人もなかつた。
「胃」
 彼れは破竹の勢でべちや/\に潰れた皮袋のやうなものを取上げて臺の上に置いた。彼れの目的が達せられると、彼れの熱心は急に衰へて一時も早く悲しい孤獨に歸りたかつた。彼れは心の底にすゝり泣きのやうな痛みを感じた。然し濟ますべき事は順序通り濟ましてしまはねばならなかつた。見學者の中にも欠呻をしながら、患部の切片を入れたガラス瓶を衣嚢かくしにしまつて、そろ/\歸仕度かへりじたくをするものがあつた。
 胃の解剖からは何の結果も得べき筈はない、さう彼れは思ひながらも、型の通り鋏を取つて一方を切開いて見た。その内部からは既に胃壁に凝着した血液が多量に黒々として現はれ出た。
「咯血を嚥下したんだな」
 思はざる所に不意におもしろい事實を見出したやうに、一人の醫員は、死體が同僚の妻である事も忘れて、かう叫んだ。
 彼れはこの有樣を見ると思はず、手の甲で眼をかくしながら二三歩たじろいて後ろを向いてしまつた。この有樣を見た瞬間に、妻の斷末魔の光景が、彼れの考へてゐた學術の權威、學徒の威嚴、男の沈着、その外凡ての障碍物を爆彈のやうにたゝき破つて、いきなり彼れの胸にまざ/\と思ひ浮べられたからだ。
 それはまだ三十時間とはたゝない昨日の明方あけがたの事だ。彼れの妻の病室は醫員や看護婦の出入でごつた返してゐた。その日一日の壽命はないと家族の人々も覺悟してはゐたが、こんな變調が突然起らうとは思ひもよらなかつたのだ。丁度夏の夜が早くも東明しのゝめにならうとする頃、熱の爲に浮されて囈言うはごとを云ひながらも、うと/\と眠つてゐたY子は、突然はつきり眼をあいてとこの上に起き上つた。
「氣がちがひさうに頭が痛みます。私の腦は破裂するんぢやないでせうか。私はもつと生きてゐたいんですから、先生、どうか助けて下さい。殺さないで下さい。どうか/\……あゝ痛い/\/\……死ぬのはいやです……私は死にたくないんです」
 さう云ひながら彼女はそこに居合はした醫員にすがり附かうとした。醫員は惡靈にでも追はれたやうに顏の色をかへて飛び退いた。眞蒼まつさをに痩せさらぼへたY子の顏の二つの眼だけに、凡ての生命が死に追ひつめられて立籠たてこもつたやうに見えた。彼女はその眼で少しでも生命のあるものは引よせて食はうとした。隅の方に坐つて彼女の不幸を悲しみながらも、その病氣のために自分の研究の中挫したのを殘念に思ふ程の餘裕を有つてゐた彼れは、この有樣を見て、そんな事を考へてゐた薄情さを悔むと共に、ほんとに眞劍な同情が勃然として湧き起るのを感じた。彼れは始めてのやうに自身の生命を自覺して、死の本統の恐しさに震へ上つた。而してたまらなく妻が憐れまれてその寢床にかけよつた。次の瞬間に二人は堅く抱きあつてゐた。妻は熱に燃える眼を見開いて、見入つても/\飽き足らないやうに彼れの顏を凝視した。
「あなたゐて下すつたのね。私死んではいけないわね。私、死ぬやうな事はしてゐませんよ。助けて頂戴、ね、ね。私本統に死ぬのはいやなんですもの。こはいんぢやない。いやなんです。胸が苦しくなつた。どうしたんでせう、火が附いたやう……あゝ、苦しい……」
 その時彼れはかたびらの胸許にどつと生暖いものを感じた。見ると夫れは火のやうな鮮血だつた。妻の顏は一段と蒼ざめて、瞳はつり上つて急に生氣を失つてゐた。やゝともすると居睡りでもするやうに彼女の顏は彼れの胸にもたれかゝつて來た。
「Y子。氣をしつかりお持ち。何んでもないんだからな」
 彼れは思はず妻の耳もとでこんないゝ加減を叫んだ。而して彼女を靜かに臥かした。
 暫くすると彼女はまた前のやうに異常な活氣を現はして起上つた。而して又多量の咯血をした。さう云ふ事が二度も三度も續けて行はれた。
 何時の間にか世の中は眩しいやうな朝の光になつてゐた。
「こんなぢや……血が無くなるだけでも死にます……コップ……コップを下さい」
 看護婦が水をついでコップを持つて來ると、彼女は別に飮むでもなく、それを枕許に置かした。而してコップを見入りながら何かを考へてゐるやうだつたが、やがてむく/\と身を起すと又咯血した。然し彼女は瀕死の病人に似もやらず、素早すばやくもコップの水をゆかにあけて、それを口許に持つて行つた。コップには八分目程血が滿ちた。
 Y子は暫らく恨しげにコップを見やつてゐた。と、いきなりそれを脣にあてゝ自分の血をぐつ/\と飮みはじめた。
 座にあるものは思はず片唾かたづを飮んで、平手打ちでも喰はされたやうに後ろに靡きたぢろいだ。一人として彼女からコップを奪はうとするものはなかつた。
 彼れが正氣を取かへしてコップを妻からもぎ取つた時にはもうそれはからになつてゐた。
 是れが彼女の死に反抗する最終の激しい努力だつた。彼女の意識はだん/\不明瞭になつたが、それでも咯血する度毎たびごとにその血を吐き出さずにみこんだ。而して激しくむせた。頭の毛をかきむしつた。
「アツ……」
 やがて凡ての執着を、帛を裂くやうな鋭く高い一聲に集めて絶叫すると、その途端とたんに彼女は死んでゐた。
 胃を鋏で開いて見た瞬間に、是れだけの記憶が、同時に、その癖正確な順序を取つてはつきりと彼れの心を襲つたのだ。最後の絶叫を彼れはもう一度たしかに聞いたと思つた。三日も不眠不休でゐた彼れの腦は輕度の貧血を起して、胸許に嘔氣をさへ覺えた。見學の人々は彼れが突然よろけて後ろを向いてしまつたのを見て怪顏けげんの眼を見張つた。
「くだらない事を想ひ出したらもう解剖がいやになつた。關口君、花田君勝手ですが跡の始末を君等にお頼み申します。夕方には僕が引取りに來ますから」
 かう彼れは後ろを向いたまゝで云つた。人々はさすがにいかにも氣の毒さうに彼れを見やつた。
 彼れは武士が武器を捨てゝ遁世する時のやうな心持ちでゴムの手袋を脱ぎ捨てた。※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そう/\に手を洗ふと、助手が用意してくれたいくつかのガラス瓶に入れた内臟の切片を興味もなく受取つて解剖室を出た。
 凡ては彼れの前で空に見えた。妻の死因が粟粒結核であるのを確めて、たつた先刻さつき心ゆくまで味つた近頃にない喜び――一つは自分より熟練だと考へられてゐる多數の先輩に對して見事に占め得た勝利の喜び、一つは自分の妻の病症の眞相をしかと確めて何にともなく復讐をしおほせた喜び――その喜びは跡方もなく消えてしまつた。彼れの心は眞底しんそこから哀愁に搖り動かされ、自暴自棄にさいなみ苦しめられた。
 掲示場の前を通る時彼れは今日の解剖の廣告が掲示板にぶら下つて風にひらめいてゐるのを見た。彼れは力をこめて引剥ひつぱがすと、いま/\しげに夫れを丸めて庭に投げ棄てた。
「稚氣、衒氣……而かも嚴肅に取あつかはねばならぬ、妻の死體と記憶とをめちや/\に踏みにじつて、心竊かに得意を感じた稚氣、衒氣! 恥ぢて死ね」
 部屋に歸つてからしつかりと考へる積りでゐながら、急性な彼れの本心は瞬時も彼れに餘裕を與へて置かなかつた。彼れは足早に廊下を歩きながら絶間なくこんな考へに驅り立てられた。
 自分の部屋に這入らうとするところに小使が來て、彼れの兄の腦貧血はもう囘復して先刻さつき家に歸つたと云つて兄が書き殘したといふ封書を渡した。
 實驗室――彼れの庵室とも、城郭とも、宮殿とも昨日まで思つて、この六年間立籠たてこもつてゐた實驗室を彼れはいま/\しげに見まはした。そこは機械と塵埃との荒野だつた。今朝、妻を解剖する可否を兄と論じながら、彼れが自信と興味とに心ををどらして、殘りもなく準備したミクロトーム、染色素、その外のものゝきちんと一つの机の上に列べてあるのが、積み重ねられた枯枝のやうに今の彼れには見えた。棚の中に等身に集められたプレパラートもあてもない無益な努力の古塚だつた。そこにあるもので、一つとして命のあるものはなかつた。何の關係もない物質がごつたかへして秩序もなくころがつてゐる間に、龍頭から絶えず流れ出る水道の水だけが、たゞ一つすがすがしい感じを彼れに與へて音も輕く涼しかつた。それほど室内は彼れには厭はしく汚く見えた。魔術師は法力を失つた。自己僞瞞の世界が彼れの眼の前でがら/\と壞れた。
 手術衣を脱いでゆかになげ捨て、綿のやうに疲れ果てゝ放心した彼れは、死んだものゝやうに椅子に身をなげかけた。而してあてどもなく壁を見詰めてゐた。
 暫らくすると彼れの眼の中に無念の涙が熱くたまつて來た。身も魂も投げ込んだ積りで努力に努力を重ねて來た半生の生活は跡方もなく根こそぎにされて、彼れは凡ての人の生活から全く切り放なされてしまつたのを感ぜずにはゐられなかつた。凡ての科學者は疑はしげもなく銘々の研究にいそしんでゐる。彼等は自分の仕事にどれ程の自覺を持つてゐるのか、またどれ程自己省察の眞劍さを缺いてゐるのか、それは判らない。然し兎に角彼等は各自の研究室で實驗所でこつ/\と働いてゐる。彼等は彼等だ。彼れは彼れだ。彼れにはもう彼等の心は通じなかつた。中庭を見やりながら彼れが考へた事は、理窟としてゞなしに、實感として否應いやおうなしに彼れに逼つた。彼れの妻の胃袋の中に凝固した血糊ちのりを見出した瞬間から、彼れはこれまでの生活の空虚さをしつかりと感じてしまつた。實際をいふと妻の死因を實證した時にも、思ひあがつた誇と滿足との裏に、何所か物足らない不思議な感じがあつた。それを實證したとて、それが彼れの妻との悲しい關係を如何する事も出來ないではないかと云つただけでは説明し足りないが、何かさういふやうな不滿がすぐ頭を擡げてゐたのを彼れは感じないではなかつた。さういへば、實驗に熱中してゐた最中でも、ある重大な研究結果を發表する喜びに際會した時でも、よく考へて見るとそこには一味の物足らなさが附きまつはつてゐた。さういへばずつと過去に遡つて、科學の研究に一生を委ねようと決心した時にも、彼れは自己をある程度まで殺してかゝる覺悟をした苦痛の覺えがあつた。六年間彼れは心の底のこの不平にやさしい耳を傾けてはやらなかつたのだ。而して強ひてそれがあるべき事であると思ひなさうと努めてゐたのだ。白紙のやうな無益な過去を彼れは眼の前の塵によごれた冷やかな壁に見た。砂の上に立てられた三十年の空しい樓閣――それは今跡方もなく一陣の嵐に頽れてしまつた。彼れの隻眼は押へ切れぬ悲痛の涙を湛へてまじ/\と實驗室を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はした。
 徒らに正確な懸時計は遠慮なくけうとい音に時を刻んでゐた。その音と、龍頭を流れ下る水の音とが、森閑とした眞夏の暑い沈默を靜かに破つた。ツァイス會社製の、無駄な飾りのない、然しいかなる點にも綿密な親切と注意との行き亙つた、從つてたくらまないで美しい直線や弧線の綜合を成就した顯微鏡も、今は彼れの使役を拒むものゝやうに見えた。彼れは又窓の外の並木を眺めた。二階から見るので梢だけが鳥瞰的に眼に映つた。それは今まで氣附かないでゐた珍らしい樹の姿だつた。一つの葉も光に向いてゐないのはなかつた。而して無邪氣に快濶に手をつなぎ合つて、夏の光の中に戲れてゐた。彼等はあの無邪氣と快濶とを以て、風にでも雨にでも小跳りするのだ。彼れの住む世界にもこんなものがあるのか。こんなものゝある世界にも彼れが住んでゐるのか。さう彼れは苦い心で思つた。
 やゝ暫らくして彼れは長い溜息と共に椅子から立ち上つた。而して手術衣を脱がうとするとその衣嚢の中でかちつと堅いものにぶつかり合ふ音を聞いた。彼れは何げなく衣嚢に手を突込んで指先きに觸れたものをつかみ出して見ると、それは解剖臺から持つて來た四つのガラス瓶だつた。水より輕やかに澄んだ薄いアルコールが七分目ほど入れてあるその底に、表面だけ蛋白の凝固した小さな肉片が一つづゝ沈んでゐた。それを見ると彼れはぎくつとして夢から覺めたやうに解剖室の光景を思ひ浮べた。妻の――昨日までは兎も角も生きてゐて、彼れと同じに人間であつたその妻の形見といつては、これだけになつてしまつたのだ。如何して二人はこの世に生れたのだ。如何にして二人は十億の人間の中から互々を選び出して夫婦になつたのだ。如何して妻は彼れよりも先きに死んだのだ。如何して彼女の肉片は寸斷されてアルコールに漬けられるやうな運命に遇つたのだ。如何してこの偶然のやうな不思議が彼れの心をいつまでも/\すゝり泣かせるのだ。
 科學を生活する――何んといふおほそれた空言を彼れは恥かしげもなくほざいたものだ。
 彼れはどう考へていゝか判らなかつた。然し彼れは考へ直して見るより外に道を知らなかつた。
 深い絶望に沈んだ彼れはすがるやうな心になつてその瓶を四つとも取上げて自分の額にあてた。妻が死んでから今まで彼れの強い意志でせきとめてゐた涙が、燃えるやうに、盲いた眼からもはら/\と流れ落ちた。





底本:「有島武郎全集第三卷」筑摩書房
   1980(昭和55)年6月30日初版発行
底本の親本:「有島武郎著作集 ――第三輯――」新潮社
   1918(大正7)年2月20日発行
初出:「中央公論 第三十二年第十號秋期大附録號」
   1917(大正6)年9月1日発行
※「眞劒」と「眞劍」の混在は、底本通りです。
※図は、底本の親本からとりました。
入力:木村杏実
校正:きりんの手紙
2023年2月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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