「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。そいつらは私の
其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」
私も女房に別れてより
それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。
初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、
「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで
「イカガーデス」にこ/\してゐる。
「たびたびどうも、複製をお送り下すつて
「
「アスタ・ニールズン!」
私一人の住居のある、西荻窪に来てみると、まるで店灯がトラホームのやうに見える。水菓子屋が鼻風邪でも引いたやうに見える。入口の暗いカフヱーの、中から唄が聞こえてゐる。それからもう直ぐ畑道だ、蛙が鳴いてゐる。ゴーツと鳴つて、電車がトラホームのやうに走つてゆく。月は高く、やつぱり流れてゐる。
暗い玄関に這入ると、夕刊がパシヤリと落ちてゐる。それを拾ひ上げると、その下から葉書が出て来た。
その後御無沙汰。一昨日可なりひどい胃ケイレンをやつて以来、お酒は止めです。試験の成績が分りました。予想通り二科目落第。云々。
静かな夜である。誰ももう通らない。――女と男が話しながらやつて来る。めうにクン/\云つてゐる。女事務員と腰弁くらゐの所だ。勿論恋仲だ。シヤツキリはしてゐねえ。私の家が道の角にあるものだから、私の家の傍では歩調をゆるめて通つてゐる。
何にも聞きとれない。恐らく御当人達にも聞こえ合つてはゐない。クンクン云つてゐる。
夢みるだの、イマジネーションだの、諷刺だのアレゴリーだのと、人は云ふが、大体私にはそんなことは分らない。私の頭の中はもはや無一文だ。昔は代数も幾何もやつたのだが、今は何にも覚えてゐない。
それでも結構生きながらへることは嬉しいのだが、嬉しいだけぢやア済まないものなら、どうか一つ私に意義ある仕事を教へて呉れる人はゐないか。
世には人生を、己が野心の餌食と心得て、くたぶれずに五十年間生きる者もある。
或は又、己が信念によつて、無私な動機で五十年間仕事する人もある。
私はといへば、人生を己が野心の対象物と心得ても猶くたびれない程虎でもなく、かといつて己が信念なぞといふものは、格別形態を採る程湧き出ても来ぬ。何にもしなければ怠け者といふだけの話で、ともかく何かしようとすれば、ほんのおちよつかい程度のことしか出来ぬ。所詮はくたばれア、いちばん似合つてるのかも知れないけれど、月が見えれば愉しいし、雲くらゐ漠としたのでよけれア希望だつて湧きもするんだ。それを形態化さうなぞと思へばこそ額に皺も寄せるのだが、感ずることと造ることとは真反対のはたらきだとはよう云うた、おかげで私はスランプだ。
尤もスランプだからといつて、慌てもしない泣きもしない。消極的な修養なら、積みすぎるくらゐ積んでゐる。
発掘されたポムペイ市街の、蠅も鳴かない夏の
――なんてヒステリーなら好加減よすとして、今晩はこれで眠るとして、精神を
毎朝十一時に御飯を運んで来る、
私は先晩の水を飲んで、煙草を二三本吸ふ。それが三十分はかゝる。それから水を汲んで来て、顔を洗ふ。薬鑵に水を入れかへたり、きふすを洗つたり、其の他、一々は云はないけれど、男一人でゐるとなると、
それらがすむとまた一服して、新聞は文芸欄と三面記事しか読みはしない。ほかの所は読んでも私には分らない。だいぶ足りないのだらうと自分でも思つてゐる。
今朝の文芸欄では、正宗白鳥がホザイてゐる。勝本清一郎といふ、概念家をくすぐつてゐる。「人間の心から、私有欲を滅却させようとするのと同様の大難事である。」なぞと書いてゐる。読んでゆくと成程と思ふやうに書いてゐる。ところで私にはなんのことだか分らない。私が或る一人の女に惚れ、その女を私有したいことと、人間の私有欲なんてものとが同日に論じられてたまるものか、なんぞと、読んぢまつてから、その文章の主旨なぞはまるでおかまひなしに思つちまふ。
凡そ心も精神もなしに、あの警句とこの警句との、ほんの語義的な調停を事としてゐて、それで批評だの学問だのと心得てゐる奴が斯くも多いといふことは、抑々、自分の心が要求しはしなかつた学問を、本屋に行けば本があつたからしたんでさうなつたんだ。
「やつぱり朝はおみおつけがどうしたつて要りますなあ」だの、「扇子といふやつはよく置忘れる代物ですなあ」とか云つてれあともかく活々してる奴等が、現代だの犯罪心理なぞとホザき出すので、通りすがりに結婚を申込まれた処女みたいなもんで、私は慌ててしまふんだ。
大学の哲学科第一年生――なんて、「これは深刻なんだぞオ」といふ言葉を片時も離さないで、カントだのヘーゲルなぞといふのを読んでゐる。
なあに、今日は雨が降るので、却々散歩に出ないんだ。