ほつそりと、だが骨組はしつかりしてゐた、その躯幹の上に、小さな頭が載つかつてゐた。赤い
攣れた髪毛が額に迫り、その下で紅と栗との軟い顔がほつとり上気してゐる。黒く澄んだ、
黄楊の葉の目が、やさしく、ただしシニカルでありたさうに折々見上げる。
彼は今日、
重欝なのだ。
卓子に肘を突いたまゝ、ゆつくり煙を揚げてゐる。
尤も喫つてゐるものだけはうまさうだが。戸外は――地面は半ば乾いてあつたかい、空を風は、目標ありげにとぶ、梅雨期の或る一日だ。
そして今彼に対面する者は、彼をただ友人とのみ考へるなら、余りに肉親的な彼の温柔性に
辟易しなければならない破目になるだらう。さしづめ、彼は教養ある「姉さん」なのだが、しかしそれにしては、ほんの少しながら物質観味の混つた、自我がのぞくのが邪魔になる。
友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。
人が、真率にして齢を重ねる時、「習慣」の存在に対して次第に寛容になることは、自然なことである。そしてそれは、それまではよろしい。けれどもやがて彼がその寛容を手段の如く把持するに至つて、彼は堕落である。だが、寛容であることは自説的であるよりも遙かに易しい。良心は遅かれ早かれ、磨滅する性質のものだ。それから、人々によつて真面目な手記と見做されてゐるものはすべて、これら寛容な人達、殊には老人の手によつて遺された。
真率にして富永は齢を重ねていつた。寛容を識つた。ところで
代は甚だしいヂャナリズムでいつぱいだつた。彼は、自我崇拝主義者(となつた)であつた。智的享楽性に乏しくされた。ユーモアを虐待することと、人格者であるといふことと、平和と
苟安とは同義で通用する日本の、そして帝都は彼の育つた雰囲気であつた。かかる時自我崇拝主義は微笑んだ――。
ボオドレヱルは「自我崇拝閣下」と
綽名された。けれども一方、会衆の前に
飄然として出て来て、「君、赤ン坊の脳髄を食つたことがありますか」などといつてゐる。そしてかうした例は彼について多い。然らばボオドレヱルは――ボオドレヱルのは、彼が彼自身の部屋に於ける、天才的狂
爛の、それが対他するに際して、即ち狂爛が諦念の形式にまで置換されるに際して、その瞬間線上に於ける「
自我崇拝閣下」であつたのだと、君が若しボオドレヱルを好きなら考へなければなるまい。さうしてサムボリスムなる名称のきまるまで、その一派は「デカダン派」を以て自称してゐることを思い合せて貰はう。
富永は、彼が希望したやうに、サムボリストとして詩を書いて死んだ。
彼に就いて語りたい、実に沢山なことをさし
措いて、私はもう筆を
擱くのだが、大変贅沢をいつても好いなら、富永にはもつと、
相像を促す良心、実生活への愛があつてもよかつたと思ふ。だが、そんなことは余計なことであらう。彼の詩が、智慧といふ倦鳥を慰めて呉れるにはあまりにいみじいものがある。
そしてこれが、夭折した富永である。誰の目にも大人しい人として映つた。富永がいまさらのやうに憶ひ出される。
(「山繭」一九二六年十一月号)