詩と其の伝統

中原中也




 何時誰から聞いたのだつたか覚えないが、かういふことを聞いたことがある。
 山奥の村に、新しく小学校が設けられる。小学校では、毎年創立記念日に学童の作品展覧会が催される。尋常五年生は毎年関東地方の地図を出品するといふことになる。最初の年には三ちやんが一等賞になる。二年目には五※[#小書き片仮名ン、40-5]ちやんが一等賞をとる。かうして五六年目頃までは、年々、一等は一等でもその一等が目に見えて立派さを加へて行くのだが、その五六年を過ぎてしまふと、一等賞の関東地方の地図は年々おんなじ位の出来ばえとなり、もうその村が格段開けるとかなんとかしない限り、その出来栄は大体変らないといふのである。
 詩も亦寔にそのやうである。最初の年の一等賞の三ちやんがゐたので、二年目の五※[#小書き片仮名ン、40-9]ちやんは何か得をするのである。それは理論や練習の問題ではない。すべてわざの進歩といふものは、見やう見真似で覚えることから発するのである。つまり思念だけでは足りない、思念と物質とが一緒になつて働いてゐるところとか、その結果を見覚えるとかすることが勘甚ママなのである。インスパイヤーされるとは、蓋しそのことであらう。
 ところで、他の事ではいざ知らず芸術では伝統といふものは大変有難いものである。それを肯定するにしても否定するにしても、まづそれがあつてのことなのである。
 扨、日本の詩の伝統はと見ると、(茲では明治初年井上博士に依つて新体詩とママ名された、泰西の詩を見てから後の詩のことを云ふ)余り豊富だと云ふことが出来ない。おまけにそれが短歌や俳句の延長でなしに、純然たる詩の様態を持してゐたのならばともかくも、事実それは屡々短歌や俳句の延長であつたといふか、それらの形の崩れたものであつた。短歌や俳句がちやんとした娘ならば、詩の多くは云つてみればおひきずりであつた。而も兎も角も詩の格を備へたものは、概して概念的であつた。
 何れにせよ、わが詩の伝統は未だ微々たるものである。而して「伝統がない」、謂はば「型がない」とか「見本がない」とかいふやうなこと程、詩人にとつて辛いことはないのである。詩人が辛いばかりではない。読者も亦辛いのである。――とまれ無形の期待なぞといふものはない。期待がこれと口に云へない場合にも期待がある限り期待が期待してゐるなんらかの型、といふものはあるのである。つまり予想出来るその型がないので、大衆の方では詩人に期待しようがものはないのである。するとなると、今度はそのことは詩人にとつて辛いのである。詩人が孤立するからといふのではない。芸術といふものが、普通に考へられてゐるよりも、もつとずつと大衆との合作になるものだからである。
 これを短歌や俳句の場合でみると、大衆は今後歌人なり俳人が書いて呉れようと呉れまいと、書いて呉れるとすればどういふ「型」のものを書いて呉れるかゞ分つてゐるし、従つて大衆の期待があると云へるのである。(茲で「型」といつてゐるのは決して詩の定形を云つてゐるのではないから断つて置く。)だから、短歌や俳句には、既に盛るに不適当な感性が現代にはあると多かれ少なかれ感じられてゐるにも拘らず、歌人俳人の方が詩人よりも遥かに身過ぎ世過ぎは楽だといふ有様である。
 それでもし、二三の人々が云ふやうに、現代生活自体が詩に反撥する所のものを有してゐるので詩が不振とならば、短歌・俳句こそ詩よりももつと不振でありさうなものだと考へてみられねばなるまい。
 私が思ふには、詩の様式は変遷してゆくであらうが、詩そのものが要求されなくなるわけはない。仮りにその要求の満足される場所が生活の方に転移するとしても、転移したら転移したとしての詩心の表現物、即ち詩は要求されるのである。現在の所、だから、詩が要求されないのではない、詩といふ「型」、謂はば詩の生存態がハツキリしてゐないので、詩を要求しようがものはないのである。
 では明治時代には、詩が今よりは振るつてゐたと見えるのはどうかと云ふかも知れないが、それに対しては、恐らく当時猶人々は謂ふ所の「町の英雄」で、娘よりも新手のおひきずりをまた打眺めたものであつたといふやうなことも考へられるし、現今詩人達が明治・大正の遺産だけで間に合はす傾向があるに反して、何しろその見本は身辺に乏しかつた明治の詩人は本場のを勉強し活気を持つてゐたと考へられる。
 で、まづ我々詩人が、詩の生存態をハツキリと掴むことが問題であると思ふ。それにはその本場の作品を、読むことよりほかには手がないと思はれる。「人間修業」だの、「自然に親しむ」なぞといふことが云はれるが、それはもとより大切乍ら、それと詩とは只関係が密接なだけで、先づ何よりも先人の作品は読まれなければならぬ。それを学ばないに拘らず、思念だけでは足りない、何かしら芸術は道具を要するものであるから、作品が読まれなければならぬ。
 茲で一寸話は変るが、由来西洋の詩は鈍感なものであるといふやうな通念がある。勿論それは余りお菓子の欲しくない人が駄菓子の方が寧ろ美味い、といふ時のやうなふうにして発生した通念と見えるが、それにしても、一応の由来はあると思へるので、一寸その事に就いて云つてみれば、
 西洋人の方が、我々よりも尠くも形の上では楽天的である、従つて即興的であるよりも構成を怡しむ習性を一層持つてゐる。つまりより一層造型的だと云へるであらう。だから東洋のものに対する時よりも、もつとずつとゆつたりとした気構へが要すると思はれる。況や、風俗は異つてゐるに於てをや。
 猶、俳句のやうに微妙なものはないと云はれるが、私自身も随分さう思ふが、だから西洋の詩は微妙でないかといふにさうではない。――因みに、各民族の古い時代には、俳句の如く短詩形があり、それがまた非常に微妙なものであつたといふことを、俳句がそれに相当するといふのではないまでも、一応想起されたいのである。例へば印度古詩。又、旧約聖書の「詩篇」に於いて、「ヤーエ」と呼ぶ時に、ヤーエといふ一単語の音色が既に今では感じ切れない程の微妙な意味をも有してゐたであらうことなぞ、一応想起されたいのである。
 話は元に戻る。よく読まねばならぬ。思念を現はしてゐるその様子を会得しなければならない。さもない限り、思念の深い人にはなるとも、詩人とはならない。此の事は、まだ詩といふ型がハツキリしてゐると云へない現状に於いて、十分に注意される必要がある。つまり、絵といふからには絵具や画布、大工といふには槌や鉋、まづその道具ですることが面白いのでない限りそのこととはならないのである。又一方、大衆としては、詩といふ型がハツキリしてゐない限り、詩に詩以外の物をも要求してかゝる場合があるのだし、無理からぬことでもある。
 詩といふものが、恰度帽子と云へば中折も鳥打もあるのに、帽子と聞くが早いか「ああいふもの」とハツキリ分るやうに分らない限り、詩は世間に喜ばれるも、喜ばれないも不振も隆盛もないものである。扨私は、明治以来詩人がゐなかつたといふのでは断じてない。まだ詩といふものが、大衆の通念の中に位置する程にはなつてゐないと云ふのである。大衆の通念の中に位置しない限り、算出される詩の非凡と平凡とを問はず、詩の用途といふものはなく、あるとすれば何か他の物の代用としての用途をしかしてゐないと云へるのである。
 事実、詩といへば「ああいふもの」と、一般的にハツキリと位置するものとなつたとしたら、楽しむ方でも作る方でも、事情は一変するのであるが、これは容易に首肯されさうでゐて、却々了得され難いことだと思はれる。
 序で乍ら、詩程ではない迄も、小説だとて、まだ一般的にハツキリと位置してはゐない。寧ろ通俗小説の方が、その点では小説(つまり純文学作品の)よりも進んでゐると考へられる。勿論私は茲で多く読まれる少なく読まれるの問題には関係なく、小説と、通俗小説との、通念としての確立振りを問題にしてゐるのである。それといふも恐らく通俗小説の方がより豊富な伝統を持つてゐたといふか、それとも通俗小説の方が小説よりも一層に容易に伝統から得をすることが出来たといふかそのどつちかであると思ふ。
 要は、何度も云ふやうだが詩人がその先人のお手本――茲では必竟本場のお手本といふことになるが――を、よく呑み込まなければならない。詩人の性向の新奇と古風とを問はず、まづはその「道」に馴れなければならぬ。その上での作品でない限り、アマチュア芸だし、民族の詩となる日は来ないのである。
 短歌や俳句の、なんとその「型」、その生存態のハツキリしてゐること!――では、と諸君は云ふかも知れぬ、詩人がみんな歌人か俳人かになればよいではないか。
 御尤もだが、さう云ふからには、諸君は短歌、俳句、詩、といふ三つのものを随分同一性質なものだと思ひ過ぎてゐるのだ。恰かも此の三つのものは、大工と左官が或る意味では全く近く、而も別々なものであるやうに別々なものである。芸術、技術等の世界では、道具とか形式とかの相違が非常に大きい役を演ずるのだといふことは茲でも繰返し想起される必要がある。
 では詩とは、どういふものかと問はれるでもあらう。出来ることなら即座にお答へしたい。だが、では帽子といふものはどういふものでせう? 恐らく「ああいふもの」と、貴方にも私にも互ひによく分つてゐるから「ああいふもの」なのですが「ああいふもの」だといふ以外に、此の場合他の如何なる言葉も帽子の属性なり用途なりの指示に止るほかはないでせう。
 とはいへ詩とは、かういふものだと、何とか云つて見たく思ひます。で吃り吃り左に云ふ所は、どうか笑はないで聞いて貰ひたい。
 詩とは、何等かの形式のリズムによる、詩心(或ひは歌心と云つてもよい)の容器である。では、短歌、俳句とはどう違ふかと云ふに、その最も大事だと思はれる点は、短歌・俳句よりも、度合的どあひにではあるが、繰返し、あの折句だの畳句だのと呼ばれるものの容れられる余地が、殆んど質的と云つても好い程に詩の方には存してゐる。繰返し、旋回、謂はば回帰的傾向を、詩はもともと大いに要求してゐる。平たく云へば、短歌・俳句よりも、詩はその過程がゆたりゆたりしてゐる。短歌・俳句は、一詩心の一度の指示、或ひは一度の暗示に終始するが、詩では(根本的にはやはり一篇に就き一度のものだらうとも)それの旋回の可能性を、其処で、事実上旋回すると否とに拘らず用意してゐるものである。で、これを一と先づ「ゆたりゆたり」と呼ぶことにして、
 此のゆたりゆたりが、日猶浅く大衆のものとなつてゐないので、つまり「ああいふものか」とばかり分り易いものとなつてゐないので、大衆は詩に親しみにくいのだし、詩人の方も産出困難なのである。事実我々が詩作の場合に、我々の周囲に一杯ある短歌や俳句の影響は余りにも浸入するといふやうな有様なのである。尤も、此の浸入が不可ないといふのではない、勿論裨益もするのだが、短歌や俳句が我が詩心界を代表する如くに一本立ちに、詩は猶それを代表することは出来なく、而も時勢は既に詩歌として短歌・俳句だけでは間に合はない詩的要求の萠芽を見てゐると云ひたいのである。勿論かういふことは、これと明確に云へることではないが、今仮りに手短かに云つてみるならば、短歌・俳句は、その形の大小を云ふのではないが、はやかぼそい歌声と我等が耳に響くのである。斯かる時詩は猶男の子として誕生してゐないとあつては、情ないことでもあるが、ただ此の場合、短歌や俳句といふ詩歌の形態が衰亡することを以て、詩歌そのものの衰亡となすならば早計であらう。人が、詩歌といふ「ああいふもの」を欲しくなる時がある限り、詩歌といふものは存するのである。
「散文が結果的に一つのイデーの下に凝集してゐるに対し、詩は一つのイデーから出発する」といふ河上氏の言を借用するとして、その真偽如何を問はず、詩が欲しくなる時、詩人は「一つのイデーから出発」してゐるもの即ち詩に赴くのであつて、他の物へではない。
 散文が、詩にとつて代るのだらうと云ふ人があるかも知れぬが(人間の歌の呼吸が、散文程に長いものとなり得るとは一寸考へられないことからして、散文が詩にとつて変るなぞといふことは荒唐なことだとしか思へない、)もし小説が近頃流行するのでそんな気がするとならそれは小説の要求が強くなつたといふよりも、小説といふものを憧憬する青年が多くなつたといふことなぞ云つて置かう。
 で、序でに、論旨を現代生活と連関させてみるならば、現在我が国が、芸術に対する関心を余り持つてをらぬといふのならば私にも分る。だがもし、音楽よりも文学にだとか、文学よりも絵画に関心は向いてゐるといふやうなことならば、此の場合私には分らない。蓋し、今仮りに文学よりも絵画の方により多くの関心が注がれてゐると云ひたい人があつたとすれば、それはその人自身が文学よりも絵画の方を好きなのであらう。
 何やかと少しく話は乱れたが、何かしら道具を以て作されるものが詩であつて、それは、その詩の伝統を習得することによつて習得されるものである。それはその伝統の保守と超克とを問はず、伝統あつての話であり、新体詩と呼ばれて以来の詩の伝統は、猶貧しいものであるから、それを本場からよくソシヤクしなければならないと自ら鞭打したかつた迄である。
 紙数に余裕があるので、何かのために、左の言葉を手帖より抜書きして擱筆することとする。
「此の世の中から、もののあはれを除いたら、あとはもう意味もない退屈、従つて憔燥が残るばかりであらう。それで、今仮に詩的性情を持つ一青年があつたとして、かの成巧せる実業家、成巧せる政治家が、子供や孫、一族郎党でもゐなかつたとしたら、どんなに退屈するものであるかは、一寸理解され難いのである。
 成巧といふことは、悪い例で云へば、成巧した、さて人々に尊敬させたい、とか、では、チツト道楽を始めよう、とか、直ちに次の事業なり計画なりに取かゝるのでない限り自体さうした経過を採るものなのである。而も、さういふ経過を採る所以のものは、人間が、本来先づもののあはれを求める傾向を有するからである。
 即ち、幸福の実質といふのは、もののあはれである。
 此の事は、誰にも彼にも、云ふと云はないと感じられてはゐる。而も、通念には、なつてゐない。
(一九三四、六、三)





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
初出:「文学界」
   1934(昭和9)年7月号
入力:村松洋一
校正:小林繁雄
2009年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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