田舎の県立中学で歴史の教師をしてゐた彼が、今度京都の或私立中学の校長を勉めることになつた。頭は良くないが読書家で、読書以外の時間は常に気を揉んでゐなければ済まない男であつた。
丈が低く、セカセカと腰から下だけで歩く、時折首が怖ぢ気のついたやうに揺れる。洋服の袖はまるで中に腕がないかのやうにポウとなつて胴より心持前に振ら下つてゐた。
此の上に載つてる顔――額には動物園の猿のやうな皺が深く刻まれ、その皺と皺との間は筋肉がプクリと高い。色は浅黒く、脂ぎつてもゐる。鼻中隔の着際が生れたばかりの時突かれでもしたやうに窪んで、彼の癇高い声が而も鼻に掛かり、恰度山羊のそれのやうになるのは多分それが原因だらう。又それがために、彼の上唇の辺は見るからに不平の多い人間である。極く田舎の、孝行息によくある、不整で毛の長い眉を持ち、学校に少しでも関係のある者を見る時はその下の黒い瞳がキロリと動いた。白髪交りの荒い頭髪は何時も三四分位に刈揃へられ、さうした顔面の上に「ワ」の字型に懸つてゐた。薄曇りの空が針葉の間から隙いて見える、根を張り樹脂の多い、男松の印象を此の顔は与へた。
彼を校長としてゐる中学は、京都市の私立中学では一番好いと云はれてゐる。彼が此の中学に転任と定つた際、最初此の学校のことゝして聞いたのはそのことであつた。然るに来てみると、彼の眼に映つた此の中学は目茶苦茶なものであつた。彼が今迄、田舎の中学にばかりゐたために一つにはさう思へたのだが、そんなことには気付かなかつた。
「これでは不可ない!」と第一日の日、彼は頭に思込んだ。「さあこれから、俺はこれを改めなくちや……」
だが今迄のやうに、自分のすることは直ちに郡視学の耳に入り、県視学に聞達するやうなことは、都会ではあるし、それに私立中学のことだからないだらうと思はれた。市から少し離れた、田圃の中に建つ校舎の様が、茫然淋しく心に描かれてゐた。…………
彼が此の中学に来てから三日目、登校して校長室に外套を掛けるや、
朝の空気が尚冷々とした広い一室の右と左に、ズラリと縦に二列に教師達の粗末な机が並んでゐた。正面の窓から差込む朝日が、それ等の机の上の硝子で出来た印肉皿や、罫紙の上を薄く班らに流れてゐた。彼が這入つた時、教師達は誰も話をしてはゐなかつたが、それと知ると其処にゐた全部の者は一斉に、不馴れな人間に対する心意気のない、畏敬の表情を作つて差向けてゐた。彼はこれからしようと思つてゐる訓辞はまた後で、全部教師等の集つた上ですることにしようかとも一度は顧つたが、……もう堪らなかつた。
「皆さん!」と、彼の山羊のやうな声が響き渡つた。同時に彼自身にも分らぬ悔恨に似た情が、ギクリと頭蓋骨を震はせた。見ると教師達は起立し、それから自分を注目してゐた。
拙く長々と喋舌り立てられた、偶に滑らかに出た一節の後では、面を上げて教師達を一渡り見廻した。時には自分の珍しい是等の聴手は如何思ふことだらうと
彼は、「私は考へるのである」とか、「私は思ふのである」とかを、成可く交互に使はうと苦心した。又、「本校」と口にする時には、愛好の調子を含めようとして努力してゐた。けれども彼の「本校」といふ言葉の中には、「私立」といふことを非常に特殊扱ひしてゐる響があつたために、ズツト此の学校に勉めて来てゐる教師達には、一種異様に聞えたのである、訓辞はたゞ訝しさを与へたばかりであつた。反感を抱いた者さへも中にはあつた。遅れて来て途中から聞いた者は尚更さうであつた。
校長の去つた後で、途中から来た者と初めからゐた者とは話合つた。そして最初から聞いた者がやはり自分と同じ訝しさを抱いたことを知つた時、彼等は妥協の笑ひに顔を見合せた。暫く一室は、カサコソと賑つてゐた。
壁一重隔てた校長室で、校長は矢鱈にその方に気を取られてゐた。校長はその賑はしさが自分のことからだといふことしか分らないのでヤキモキした。
(何だか今の訓辞を修正して来たい気持になつた。明日は別の事を訓辞して、それとなく今日のを和げようと考へた。併し、彼は自分がかういふ場合修正しようとして試みると却て悪くなることを所謂、経験で知つてゐた。…………)
訓辞は其の次の日もあつた。
一月ばかりの間に幾多の改革が行はれた。
修身課の受持である二人の教師は他の学課に廻され、全校の修身課を彼は一人で受持つた。
彼には何か云つた後で、「さう、なくちや――なくちやならぬ」と慌てるやうに附加す癖があつたが、殊に修身の時間にはそれが頻々として出された。間もなく生徒達はこれを真似て笑ひ興じた。又生徒達は、彼の修身の時間、吃度三つは引用される、カーライルかそれでなければスマイルスかの言葉を、暗誦してはその後に「さう、なくちや――さうなくちやならぬ」と喰ッ付けた。
これは校長が若い時分から、自分の生来根太い狡猾な性質に困り果てながら、聖賢の書を漁つた時に、始終心で云つてたことが、今生徒を前にした今、形を取つて表れて来たのである。
さうして今でも、「さう、なくちや――なくちやならぬ」は、時に自身に向つて云はれてる場合があつた。
文房具と、正午にはパンと牛乳を支給してゐた校内の売店は、「学生が学生の武器である文房具を、学校に来てから整へるやうなことでは不可ない」といふ理由の許に廃された。「正門が立派でなければ愛校心が湧くものではない」といつて是迄の木の門は打倒され、石の門が建てられた。退学処分に遇ふ生徒なども少くなかつた。
生徒の父兄達からは校長を罵つた無名投書がチヨクチヨク来るやうになつた。余り叱らぬ先生の前で、生徒達は聞こえよがしに校長の悪口を言合つた。…………
校長は朝、学校に出掛ける時何か妻君に小言を云ふやうになつた。そして学校に来ては、
丈が高く顔の小さい、額がノツシリしてフロックコートのよく似合ふ、前校長の容姿が何時か彼の心を離れないものとなつてゐた。
其の中学を市中の私立で一番評判の良いものにしたのは前校長であつた。それを彼は聞知つてゐた。
教師達はみんな授業に就いてゐた。
校長室で、彼は卓に頬肘を突いて、眠さうな、赤い顔をして先刻から考へてゐた。
「自分が教育に熱心な余り……」と復考へた。その一句が頭の中に
彼は二三日前、給士を呼んで、色んな学校の裏面に就いて訊ねようとしたのであつた。それが最早教師達には知れてゐるやうに彼には思へたのである。
校長が給士に訊ね事をするといふやうなことが、一般に余り感心されないことゝ考へられてゐることは、五十歳に近い今迄に幾度か彼も見聞きして来た。だがそれを自分で確めたことは甞て一度もなかつた。
「自分が教育に熱心な余り……」とまた出て来て、もうその先は考へる余地がなかつた。
「併しまあ好い……」彼はこんなに考へ悩むのは自分の神経で、実際にはまだ教師達が給士一件を知つてゐる筈のものではないだらうと思つた。と、近頃では教師も生徒も以前よりは自分に馴れたことや、父兄からの投書も間々になつたことを思起した。「さうだ、校長の身で全校の修身を抱へてゐるやうな者は一寸此の市中にでもあるまいからな……」
訓辞も近頃ではホンの特別な場合以外にはしなくなつてゐた。今でも折には矢も楯も堪らない程訓辞の必要を感じたが、そしてまた実際腹案を立てゝ登校したこともあつたが、教員室に覗いて教師達から威勢の好い挨拶をされるともうその勇気はなくなつてゐた。で、教頭と生徒監との席に自分から行つて、簡単に口出しをするのが落ちであつた。
教師達も最早七分は校長の宅を訪問してゐた。大抵の者が彼を自宅に訪問すると尠くとも前よりはズツと彼を好きになつた。それは大概何処でもさうであるが彼の場合は特にさうであつた。別に、それだからといつて彼は自宅では態度を変へるわけではなかつた。寧ろ強ひて変へまいとしてゐた。
一度、基督教の伝導婦を妻君に持つ、丸顔の、袴など高く穿くが何だか自堕落な感じの、植物課の教師が訪ねて行つた時、校長は、妻が酷いヒステリーなので、随分私も学校で嫌な顔をしてゐる日があるに違ひないがと話した。それを聞いた教師は非常に同情した。そして今でも生徒の校長を悪く思つてるらしい口吻を聞付けた時には、「人間といふものは
――一体自分の評判は好いのか悪いのかと自問してみると何とも決りが着かなかつた。けれども兎に角、教師達が彼に威勢の好い声を掛始めたといふことが彼を安心させた。
校長は初め、笑顔の好い教師程気になつた頃、達沢といふ上席教師が中でも一番気になつた。といつて彼は、此の男にばかりは言葉を挟むわけにも行かなかつた。
達沢は大男で、頭髪がネグロ人のやうにモシヤ/\してゐて、顎が剪落されたやうに短いため、此の顔は分厚な将棋の駒を想はせた。赤黒い顔に鉄縁の眼鏡を掛け、紋付羽織が好きで何時もその広い胸ははたけられてゐた。彼の叔父さんには代議士がゐるとかいふことだつたが、彼もよく政談や坐禅の話を、大変大きい声か、それとも大変小さい声かでしてゐた。常識的な敏感性を持つてゐて、凡そ一ヶ月に一度づゝ新しい所説を持つた。そして新しいのが出来る毎に、授業時間には自信を以てそれを生徒達に喋舌つた。生徒達が傾聴しないからといつて別に昂奮もしなかつた。時には憶出したやうに超然と粧ひさへした。生徒達は彼を「兄貴」と呼んでゐた。
彼は校長が自分を快く思つてゐないことも知らないではなかつたが、校長に話掛けられゝばニタニタ笑ひながら、大きい声で校長の頭の上を声が通過するやうな物の云ひ方をした。話した後暫くは、校長も此の男に対する悪感が薄らいでゐるのであつた。
その教師とも今では可なり気が合ふやうになつてゐた。そして此の教師が如何にも学校を自分のものゝやうな態度で何事でもするのは、此の教師の出身中学が此の中学だからなのだと平気で今は思はれた。だが実際此の教師が、学校の問題を独断で片附けるやうなことは可なりあつた。
或時彼は代議士の選挙運動事務所に学校の道場を使ふが好いかと校長に申出た。校長はそれを聞くと初め一寸は危惧の念に駆られたが、「なあに課業の妨げにはなりませんよなあに」と大きい声で云はれてる中遂に承諾せざるを得なくなつた。
「その候補者の
その日が来ると羽織袴の、揃つて粗雑な顔をした運動員達が道場の内や外を迂路ついてゐるのが見られた。彼等は何れも勇立つてゐた。
候補者なる人は、来ると先づ校長に挨拶した。彼は握太の黄色いステッキを提げ、額が禿げ上つてゐて出ッ腹の太つた男であつた。彼の笑といふ笑は哄笑であり、その度に鳩尾の上辺りに垂れてゐる白の、幅広く厚くもある旧式の羽織紐が、トロントロンと揺れた。候補者の要領のよさに、間もなく校長は好意を持ち始めた。自分は校長の権威のために、道場の方には我不関でゐようと考へてゐたのに、遂に昼食時間道場の方に足を運んだ。そして、「門外漢の頭ではありますがァ」と云つて置いては、自分の選挙に対する意見を吐いた、彼は満足であつた。
「達沢君もー」と云つて候補者は、その時傍に来た達沢から校長にと視線を移すと、カラカラ笑つた。「これも未来の立派な政治家ですな」
校長は背ろ手を組んで、同意の笑を満面に湛えてゐた。達沢は嬉しげにたゞニタニタしてゐたが、ヒヨイと顔を外向けると真面目くさつて、一人の若い運動員に必要もなさゝうなことを云付けてゐた。
校長が来てから一年余りの此の頃、達沢は教頭の席にゐる。校長は何処とはなしにザワザワした全校の空気の中に消滅してゐた。彼はたゞその日その日が、憂鬱を持つことなく済んで行くことで不満は覚えなかつた。改良事項は今以てチヨイチヨイ持出されたが、その実績を見ることは忘れてゐた。
教室の窓々には金網が張られてゐた。それは折々フットボールが飛んで来て窓硝子が割れるので、校長の考案したことであつた。其の他小便所には、滴が前に零れるからといふので、滴の受け板が附けられた。枡と枡との境の板よりもウンと受け板が手前に出してさへあれば零しはしまいといふ校長の意見通りにその受け板は取附けられた。生徒は用達が困難になり、それに見た所それは実に滑稽な便所となつた。
今や学校中が、「手製の嫌味」といふ風なもので充ち満ちた。又校内の空気には、毎日蒙古砂塵が漂つてるやうな気がされた。教師も生徒も、抜出して見れば是といつて悪くなつたわけではなかつたが……可なり目に立つのは小使共のずぼらであつた。
所が一日、予告もなく府庁の学務課から参観に来て、校長には二言三言だけ普通の話をして立去つた。その
「いや、これでは不可ない?」彼は目覚めに夜着から頭を出す、恰度其の時のやうに彼が学校に対する過去一年間を振返つた。だが何だかモヤモヤと温い摺鉢のやうなものが脳膸の天井に