山羊の言

中原中也




芸術に関するあらゆる議論は無用である。 ピカソ

 当今、我々は落付いてはゐない。一日外出して、我々の抱いて帰る印象は雑然として、而も果敢ないものである。
 かうしたことの原因を、或人は経済的必迫に於て観るし、又或人は、生活様式の激変に於て観る。其の他色々あらう。色々あるどころか無数にあつて、空気中のオゾンの量に因ると考へる人だつてないとは云へぬ。
 然し、今仮りにその原因がシカと答解されたとしても、無数の現象の総和である現状は、直ちにどう変るものでもあるまい。
 そこでその現状が、仮りに不安な現状であらうとあるまいと、学問、芸術の興隆に適してゐようとゐまいと、所詮致し方もないことである。尠くとも芸術の立場にとつてはさうである。
(とまれ人は、読んで感得するだけ感得するのであり、聞いて感得するだけ感得するのであり、見て感得するだけ感得するのであり、たづさはつて感得するだけ感得するのである。)
 右に云ふことは然し、何も努力を無視する意ではない。努力だつて、努力出来るだけ出来るのである。
 かくて、芸術にもつと観念が必要だなぞと云ふ人も、せんないことを云つてゐるに過ぎない。その云ふ気持は分るけれど、それに、観念が稀薄であるよりは濃厚な方がよいに決つてゐるけれども、要するに、観念があるだけある上で見たり感じたりしてゐることが芸術になりもするのであるから、そこへ観念を持運んで来たつてたゞトンダお景品たるに過ぎない。
 そこで、芸術が向上するとすれば、何時も全体的にであつて、要素々々の注入は、却て芸術家の統一を破るくらゐのものである。勿論、勉強といふことは、要素々々の注入といふこととも云へようが、その注入が目的ではなく何もひつくるめて出来る次なる統一が芸術活動をなすわけであるから、要素々々のことは所詮個人々々の楽屋内での問題に過ぎない。
 甚だ断片的な云ひ方であるけれども、一寸ピカソの言葉に同感を表してみたかつたまでである。





底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
   2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「文芸通信 昭和一一年八月銷夏特輯号」
   1936(昭和11)年8月
初出:「文芸通信 昭和一一年八月銷夏特輯号」
   1936(昭和11)年8月
※()内の編者によるルビは省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年3月31日作成
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