火と氷のシャスタ山
小島烏水
山仲間から、アメリカで好きな山は何か、と聞かれると、一番先きに頭に浮ぶのは、シャスタ山である。がそれは必ずしも、好きであるからではない、位置が南に偏り過ぎて、雪が早く融けるし、氷河は小ッぽけな塊に過ぎないし、富士山のように、新火山岩で、砂礫や岩石が崩れ易いので、高山植物は稀薄であるし、「好き」になるところまでは行かないが、それでも、最も多く心を惹かれる山である。何故というに、キャリフォルニアからオレゴン州への、境近い街道に、山が聳えて、複式二重の成層火山、シャスタとシャスチナと、二人の容姿端麗なる姉妹が、見る角度に依っては、並んで手を繋ぎ合ってもいるし、また背中合せに丈くらべをしているようでもあり、何となく人懐かしい山に見えるからである。その麓を汽車が通っていることは、丁度富士山の裾を、御殿場から佐野(今は「裾野」駅)、三島、沼津と、廻って行くようで、しかも東海道が古くからの宿駅であるように、シャスタ山麓の村落も、街道も、一八四八年以後の、米国西海岸への移民時代には、ある時には、印度人と白人とが必死になって闘ったり、殊に一八五一年、シャスタ山から、三十五哩離れたワイレカというところに、金鉱が発見されてからは、成金を夢見る山師たちが、鶴嘴をかついで、ほうほうたる髯面を炎熱に晒して、野鼠の群のように通行したところで、今では御伽話か、英雄譚の古い舞台になっている。かつて桑港の古本屋で見たその頃の石版画に、シャスタ火山が、虚空に抛げられた白炎のように、盛り上っている下を、二頭立ちの箱馬車が、のろくさと這いずって、箱の中には、旅の家族とおぼしい女交りの一連が、窮窟そうにギッシリ詰まっているが、屋根の上にはチョッキ一枚になって、シガアを燻らしている荒くれ男たちが、不行儀に、臀や脛をむき出しに、寝そべっているところを描いたのがあったが、延んびりとした大陸性の、高原に引く一筋路を、澄み切った大空の下に、おそらく、ガタピシと石ころに蹴つまずきながら、走って行く一台の馬車は、漂泊の姿そのもののように、一抹の旅愁を引くのに充分であった。
それは、カウボーイの土地である。未だ草分け時代の空気が、澱んでいる。石と打つかっても、林に這入っても、人と自然が肉迫するときのいきりが立っている。そのすべてを超越して、美しいものは、この山の隆々たる肉塊である。新火山のことだから、土の締まりは、しッくりしていない、むしろ危ッかしいほど、柔脆の肉つきではあるが、楽焼の陶器のような、粗朴な釉薬を、うッすり刷いた赤る味と、火力の衰えた痕のほてりを残して、内へ内へと熱を含むほど、外へ外へと迫って来る力が、十方無障碍に放射することを感ずる。絶頂の火口は、今こそ休火山ではあるが、烈々と美を噴く熔炉になっている。その美の泉を結晶したものは、絶頂から胸壁へと、こびりついているところの、氷河である。汽車の窓からも、その中の最大(といっても長さは二哩半位しかないが)のホイットニイ氷河が、銀流しに光っているのが見える。そうして鉄路の附近に、氷河湖の跡が乾からびて、今は青草の生えた牧場になって、牛が遊んでいる。その辺の農家の石垣は、氷河の推し流した堆石を使ったりしているのが、私たち富士山で、万年雪を物色したり、日本アルプスで、「カアル」の痕を、氷河時代の遺蹟か否かと、論じ合ったりしている手合いに、いかに珍しかったろうか。
その氷河で思い出したが、私が桑港にいるとき、一九二四年九月十八日の夕、新聞の号外売りが、声高く「ラッセン火山大爆裂、シャスタ氷河大融解」と、大の字尽くしで呼んでいるので、耳寄りに思って買って見ると、いかにもシャスタ山の、氷河融解、大洪水来と、拳大の活字で見出しがついている。それは同日附け、ダンスミールからの電報で、「シャスタの南東頂上が欠損してマック・クラウド谷が吹き飛ばされ、谷の痕跡が、一筋も残らない」などと、誇張した報道であったが、事実は、その前年の冬に雪が少なかったので、氷河は既に五月の始めに、新雪から解放せられ、底部から溶解して、空洞になり、激しい滝水で、氷河のトンネルが出来たのが、支持の力を失って、崩落を始め、岩石や砂礫を押し流して、山麓の村々へと、冠せて来たのであったが、その当時、村では、二、三分ごとに、太砲の音のような響きが聞え、氷河を源とするマック・クラウド河は勿論、サクラメント河まで水色が一変して、当分は濁りがつづいたということであった。私は、その夕、電燈煌々として自動車の目まぐるしく飛び交う賑やかな町中で、一枚の号外を握って、地質時代の出来事であるところの、氷河退却時代が、眼のあたりに見られるのだと思った。飛び廻る自動車も、忙しそうに歩く行人も、右往左往に悲叫遁走する、あらゆる生物の、混乱の姿ででもあるかのように取られた。
それから私は思う、外国の山を見るには、二つの見方が、経験されはしまいか、即ち自分の国の自然に似ている方面と、似ていない方面との二つである。蕪村であったか誰だったか、「花茨故郷の路に似たるかな」は、似た方からの見方だ。その反対に、似ても似つかぬところに、新しい驚異の心を抱かれることもある。シャスタに就いて言うと、氷河地形などは、我が富士山とは似ない方面だが、その他に於て、多くの似顔は、合せ鏡をしている姉妹でもあるかの如くに感じられる、そう思うとき、我々日本人に取って、シャスタ山は、もう錠前を卸した山ではなくなった。
私の観察したシャスタを、漢文者流の口調を借りて、人間本位で言うならば、とかくに不遇の山水である。第一にシャスタ山は、太平洋沿岸に近い山としては、早く発見された方ではない。同じ太平洋岸でも、有名な航海者「ヴァンクウバア」が、フッド火山や、ベエカア火山や、レイニーア火山を発見してから、三十四年も後に、シャスタは、やっと存在を認められた。西班牙の探検者たちが、加州にシエラ・ネヴァダ山脈を見つけたよりも、三世紀も遅れている。メキシコの大火山、ポポカテペトルの第一登山が報告されてから、三百年も後になって、シャスタは地図の上に戸籍が入った。しかし始めて登られたのは、一八五二年のことで、この辺の山としては、遅い方でもなかったが、あとから探検された他州(ワシントン州)の、レイニーア山の方に国立公園を取られてしまい、レイニーア山に関しては、詳細なる地形図、地質図や、一般民衆向きの、要領を得た説明案内などが出版せられて、世の中に紹介されているが、シャスタには、未だそういうものは、何にも出ていない(あたかも富士山が「天地の別れし時ゆ神さびて」とか、古くから言われていながら、今日では、ややともすると、最近発見の日本アルプス上高地あたりに、国立公園を、お先に奪われそうな形勢であるが如くに)。第二にシャスタ山は、初めは海抜一万四千五百尺と測られて、米国最高の山と信ぜられていたのに、その方は、今では、シエラ・ネヴァダのマウント・ホイットニイに、最高の位置を取られてしまい、精密なる実測の結果は、一万四千一百尺に減じて、レイニーアの一万四千四百尺に比してすら、下位に落ちてしまった(あたかも日本最高の富士山が、久しく信ぜられていた三七七八米突という高さが、最近実測の結果、たとい二米突ばかりにしてもかえって減少して、いよいよ台湾の新高山の下位に落ちたように)。第三にレイニーア山や、その属する所のキャスケード山脈を主として、探検する山岳会には、「マザマ」(ポートランド市)があり、「マウンティニーア」(シアトル市)があり、また南の方シエラ・ネヴァダを研究する山岳会としては、盛大なるシエラ山岳会(桑港)があるにもかかわらず、シャスタはその中間に占居するため、どっちつかずの継子扱いを、両方の山岳会から受けていること(あたかも日本アルプスや、秩父山脈が、登山家の興味の中心になって、離群別居の富士山が、大分閑却される傾向があるように)。第四は、山の不幸は、住人の不幸になって、シャスタ山と、切っても切れぬ歴史中の人を、埋没しようとしている。即ちシャスタ山を、世に紹介するために、全力を尽くした土地草分けのシッソン翁(J. H. Sisson)という開拓者のために、シッソンという地名が出来、同名の停車場まであったのが、いつの間にか、土地がシャスタ・シチイと改名せられて、あたらシッソン翁の名は、草莽の間に埋められようとしている(あたかも富士山の役行者の名が、今日忘られかけて、日本アルプスの先達、ガウランドだの、ウェストンだのという名が、若い人たちの口の端に上るようになった如くに)。それから第五、第六の「あたかも」が、未だ続いて挙げられるが、もうその点は打ち切って、私たち同行四人が、シャスタ山に登ったのは、大正八年(一九一九年)九月十一日のことで、未だこの山の草分けを記念するための、シッソンの名が残っていた時分であった。その頃、シャスタに登る人は、一と夏を通して、百人か百五十人位と登録せられていたし、殊に日本人の登山としては、私たちが初めてのものであった(前に日本人が登っていたという記録があるならば、是非知らせていただきたい)。その私たちの登山にしてからが、時間不足のために、絶頂の剣ヶ峰ともいうべき、シャスタ・ピークまでは、達しなかったのだから、一個の予察地形図をスケッチしたぐらいの、軽い気分で読んでいただきたい、何も登山記だからと言って、死に身になってコチコチと緊張しなければならない、というものでもなかろう。
シャスタへ行くには、私たちの居住地、桑港から、オレゴンへと北向する南太平洋鉄道の便を借りるのである。汽車はサクラメントの大河に沿うて走る、川の底には、堅い凝灰岩などが露出しているが、シャスタを距ること、五十哩位のところから、熔岩が、両岸に段丘を作っている。そして段丘の上に、小舎が建てられたり、馬鈴薯や唐黍が植えられたりして、この辺の畑としては、手入れが届いている。その熔岩は、シャスタの南麓から迸ったのであるが、ちょっと富士山から、桂川に沿うて猿橋まで達しているところの「猿橋熔岩」に似ている。しかし猿橋の方では、熔岩の延長八里ぐらいで、厚さも今日見らるるところでは、四、五米突ばかりの薄い皮であるが、サクラメントへ流れるシャスタ熔岩の厚さは、五十呎から二、三百呎に達している。川上の方へ「シャスタ」が、白い炎を爛々と光らして、汽車の窓から、大抵は右に見えるが、「左富士」のように、左に見えることもある、それほど川は、S字の環を繋ぎ合っている。前に述べたシッソンの停車場へ着くまでには、ダンスミールという、材木を伐り出すので賑やかな古駅があり、その次には、シャスタ・スプリングといって、シャスタ火山の基盤熔岩なる岸壁の間から、地下の伏流が、富士の白糸の滝のように、千筋とまでは行かなくとも、繊細な糸を捌いて、たぎり落ちるところもある、「花茨故郷の路に似たるかな」が、ますます思い出される。
シッソンという寂しい停車場は、富士ならば、御殿場駅に当るところであるが、この方面から見たシャスタは、一座の尖れる火山にしか見えない、それが、シャスタの主峰であるが、汽車が北へ廻るに随って、いつの間にか、主峰の傍に、また一つの同じような火山が出て来る、それはシャスチナで、高さは日本の富士山と同じく、一万二千三百尺であるが、シャスタ主峰は、それよりも更に、約二千尺高く、海抜一万四千百六十二尺と註せられている。火口は、シャスタに一つ、シャスチナに一つ、その双峰を繋ぎ合わせるところの、プラットフォームにも、一つあるという話であるが、私はそれをよく知らない。シャスチナは、多分側火山として噴出したのが、一体の双生児のように、シャスタと癒合したのだろうと思う。成立の原因は違っても、富士の愛鷹山の頂上部が、仮に爆裂飛散せずに原形を保存していたとすれば、シャスチナ位になっているかも知れない。
だが、シッソン、ウイードあたりから、仰ぎ見るシャスタの偉大さは、アルプス式の山々に見ることの出来ない鮮明美がある、孤にして閑である、独にして秀で、単にして完き姿である。日本アルプスでも、そうであるが、アルプス式の山は、高台の上に乗っかって、群峰になっているから、槍ヶ岳とか「マッタアホルン」とかいう特異の山形を除いたら、遠くからは、どれがどれやら、個々の山名がちょっと解り兼ねる場合もあるが、シャスタはそうでない、富士もそうである如く、一見分明である、足許から山上までの直径の高さは、モン・ブラン以上である(移民時代の一愛山家は、「シャスタに登ってモン・ブランを笑ってやれ」と言った)。その立体構成面の威嚇的偉大さを、駭くべき簡単なる曲線で、統整して、しかも委曲に至っては、富士で謂うところの八百八谷の線から、おのずと発生する凹凸面の、複雑なる入り乱れのために、眼もあやになることを如何ともしがたい。
私たち一行四人は、九月九日の夕、シッソンに着いて、駅前のパアク・ホテルというのに泊った、目ぼしい商家といっては、よろず屋風の荒物屋と、鍛冶屋があるくらいのもので、私は靴屋に案内してもらい、氷河に辷らない用心に、裏皮を貼りつけて、釘を打ってもらったが、旧式の轆轤を使って、靴屋のおやじが、シュッ、シュッと、線香花火式にやってくれた。登山の準備をしたくも、碌なものがないところで、この節の日本アルプスの登山口の、設備の方が、よほど行き届いているくらいだから、その貧弱さの、見当がつくであろう。
山麓帯の裾野で、日に焼けて、疲労をひどくしたくないので、定めの行程は短いにもかかわらず、翌十日は朝出立した、馬を五頭、一頭は荷物を積んで、案内者の、チャアルス・グーチという男が、裸馬に乗り、アルペン杖を横たえながら、片手で荷馬車を曳いて先登に立って行く。私は馬に慣れないので、少なからず閉口したが、同行中の神田憲君は、この仲間では馬術の達人で、ややともすれば遅れがちな私の馬の綱を、時々引いてくれた。
本街道から製材所の横を切れると、もう既に裾野であるが、富士のそれとは違って、乾き切った砂漠で、セージと通称する白ッ茶けた草や、マンザニタと呼ばれるところの、灌木などが茂って、馬蹄の砂が濛々と舞いあがるのには、馬上面を伏せて、眼をねぶるばかりであった。
それでも、森林帯に入るとさすがに涼しい、中でもシャスタ樅と呼ばれる喬木の一種は、この山、特有とまでゆかなくても、この山の産として最も名高いのであるが、富士の落葉松を、富士松と呼ぶたぐいであるかも知れない。なお登ると、俗にホワイト・バーク・パイン(白皮松)と呼ぶ喬木が出てくる、高さは二百尺位に達するのは珍らしくはない。土地の人たちは、この森林帯の立派さを艶説しているが、レイニーア火山や、ベエカア火山の、それに競べると、さほどの物ではない。ホールス・キャムプという平地に出で馬を下り、野営の仕度をする、海抜九千尺、水も少しはある。今は(一九二二年の春から)このところに「シャスタ・アルパイン・ロッジ」という、立派な山小舎が建設されたそうで、毎年六月十五日から九月十五日まで「小舎開き」をやって、一年に四、五百人の宿泊者は、欠かさないという話であるが、私たちの登った頃には未だ小舎はなく、シェラ山岳会考案の「睡眠袋」を馬に積ませて来たので、蓑虫のように、その中にすッぽり潜り込んで寝たが、乾き切った小石交りの砂地の上で、日本アルプスのように、柔らかい草原を褥にする贅沢は、思いも寄らず、睡眠不足が祟って、翌くる日の登山には、大分こたえた。
森林帯の尽きるところから、大雪渓が始まるが、この雪渓の長々しい傾斜は、さすがに白馬岳あたりの比ではない。翌くる十一日の朝、一行はこの単調の雪渓を、のたり、のたりと登って、巨大な堆石を戴いた雪の「テーブル」の側へ立って写真を撮ったり、雪の穴ぼこの中へ、更紗の紋でも切り篏めたように、小さい翼を休めているところの、可憐なる高山蝶を、いじくったりして、雪渓を、ものの三千五百尺ばかり登ると、富士山の胸突八丁にも喩えられるところの、火口壁へとぶつかった。これを越えると、絶頂に辿りつくことになるので、ここでさえ、高さは一万三千尺近い見当である。最後の噴火のあったという「レッド・ブラッフ」の赭ら岩が、眉を焦すばかりに、近く聳えている。足許一面に、熔岩や、焼石が狼藉して、歩きにくい。生憎時計を見ると、かれこれ午後二時に近い、空気も稀薄になり始めて、絶頂まで、遅々たる足取りでは、今夜中にホテルまで、戻り得られるか否かも、覚束ないので、ここから下山することにした。
シャスタへの登路は、氷河踏査を主とするならば、私たちの路を取らずに、南のマック・クラウド村から登るか、またはやや北行して、シャスタとシャスチナ間の、窪地を目指して登る方が、よかったということを、後から聞かされた。後の路を取れば、九千尺の高度から、ホイットニイ氷河の末端が出現して、「クレッヴァス」や、堆石の状態がよく判明するということであった。
登山記としては、これだけだ。短くして、呆気ないのは、私も知っている、しかしシャスタ山は、我が富士山の如く、登る山であるが、同時に眺望する山だ。この山を中心にして、周囲の展望は変化する、大空へ掛けた額面として、横から見たり、裏返しに見られる山だ。
私は、その後、幾回となく、山麓を通過した、半周した、約四分の三まで廻った。かくて視たところを綜合して言えば、山の頸部は、三十五度の傾斜から、次第に緩和して二十度、十五度、十度と、延んびりした線を、大裾野へ引き落し、末端は五度位にちぢんでいるが、富士山の如く、草山三里、木山三里、石山三里という割り当ては、シャスタには応用出来ない。草山は、まあいいとして、木山はシャスタでは、谷地帯になっているし、殊に石山に該当するところは、万年雪と氷河の喰い込みで、岩頸は、篦でえぐったように「サアク」の鈴成りが出来ているから、サアク帯と呼ぶ方が適当である、その「サアク」からは、言うまでもなく、氷河が流れていて、九千尺以上に五個あるという話であるが、私の望んだのは、ホイットニイ氷河と、南方のマック・クラウド氷河の二つである。前者は前にも述べた通り、シャスタとシャスチナの間の、鞍部に懸垂しているが、アルプスのベルニーズ・オーバアラント山地あたりの大氷河に比べると、恐らく雛形ぐらいの小さいものだろうが、それでも擬似氷河ではない。小さいなりに、完全な真氷河であることは、「クレッヴァス」の凹凸が、かなりの遠くから肉眼でもハッキリと見えるし、大氷河でなくては、滅多に見られないところの、側堆石までを具備しているのでも伺われる、終堆石は弦の切れた半弓を掛けたように、針葉樹帯の上に、鮮明に懸かっているのみならず、そこから流下した堆石は、累々として、山麓に土堤を高く築いている。ただ巨大な堆石が、現在見当らないのは、何分にも、氷河が小さく、谷の削り方も浅くて、「剥ぎ取り」が、深く利かないためであろう。もう一つのマック・クラウド氷河の方は、現在では最小の氷河であるが、山麓同名の村に、「マッド・クリーク」という小流があって、その岩壁には、氷河の引ッ掻いた条痕が、鮮明に残っているところを見ると、昔は今よりも、大きな氷河であったらしいことを示している。
要するに、シャスタの氷河は、この山の属するキャスケード山脈の最南端だけあって、キャスケードの氷河としては、一番小さいものであることに疑いはないが、仮に、富士山の氷河が成立したとしたら、あるいはまた、日本アルプスの劍岳や立山群峰が、もう五百米突も高くて、氷河の小塊が出来るという想像が、容れられるとしたら、まあこんなものだろうと推測せられるだけに、何となく、捨てがたく思われるのである。
ここで、冒頭に戻って同じ言葉を繰りかえす、アメリカで好きな山は何かと聞かれると、一番先きに頭に浮ぶのは、シャスタ山である、それは必ずしも、好きであるからではないが、最も多く心を惹かれる山であると。
終りに、この一文を、同行四人の中、馬術の達人であった神田憲君の霊前に献げる。同君は、その後帰朝して、過般の大震災で、鎌倉で圧死の不幸に遭われた、他の二人は、野坂滋明君と国府精一君とである、今は米国と日本に別れていて、共に健在である。
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