「続スウィス日記」発掘の始末

附「スウィス日記」の由来

小島烏水




 故辻村伊助の「スウィス日記」と「続スウィス日記」とを、一冊に合刊して、世に出すことになった。「スウィス日記」の方は、日本山岳会設立以来、第十周年に、雑誌『山岳』の記念号を出したとき(大正四年九月、第十年第一号)から掲載し始め、通計四号分にわたって分載されたのを、単行本に纏めて、大正十一年に、紅玉堂書店(横山光太郎氏)から出版したのであったが、この本は、ジュネーヴ湖から、シャモニイ、ローンの谷々、ユングフラウ、メョンヒ登山等、巻中の精彩ある部分、全巻の四分の一以上を、割愛してあった、それすら、今日では、既に絶版本として、市価も高く、つ容易に手に入らぬ品になったので、複刻を求めらるる向きも多く、旁々かたがた前述の削除部分を、全部採録し、更に新たに発見された「続スウィス日記」をも合刻して、完本とすることにした。
『スウィス日記』が、日本の山岳文献に占める位置は、なりに重要なものであると思う、日本近代のアルピニストが、スウィスの山を恋う心は、王朝に於ける、宗教全盛時代の求法者が、天竺を慕う心にもまして、熱情的なものである、それを逸早く実現したのは、前に日本山岳会員加賀正太郎氏あり(明治四十三年八月)後に辻村伊助、近藤茂吉しげきち氏等の一行であった(地理学者、故大関久五郎氏は、大正元年九月二十四日、ユングフラウ峰に登られたということである)しかも、辻村の一行は、四千米突メートル以上へ達したので、本朝のアルピニストにして、後にアルプスに驍名ぎょうめいを馳せられた人々に、槇有恒まきありつね、松方三郎、浦松佐美太郎、その他の諸氏ありといえども、辻村等は卒先者であり、『スウィス日記』は始めて書かれた日本人の、アルプスの本であった。
『スウィス日記』に書いてある事実は、本文を読めば解ることだが、辻村は大正三年七月下旬、北の国スカンディナビヤの旅を終り、独乙ドイツから、あこがれの瑞士スイスへ入って、恰度ちょうど倫敦ロンドンから巴里パリを経て来た近藤茂吉氏と、インタアラーケンのベルネルホッフという宿で落ち合い、登山の相談をして、七月二十九日には、準備を整え、前に加賀氏の雇われたヘスラアという案内者の外、フォイツという男をも加えて、グリンデルワルドまで車行し、当初の目的なるグロース・シュレックホルン(四〇八〇米突)の登攀にかかり、天候不良のため小舎に二泊し、八月一日の午前二時に出発、十一時半に絶頂に達し、下山の途中雪なだれに出ッこわし、三時間も要して登った路を、僅か二分で押し流されたが、幸いに怖ろしいクレッヴァスを飛び越して、氷河の終端に投げつけられ、一行四人は、九死に一生を得たが、近藤氏とヘスラアは、揃って右足を挫折し、辻村は全身打撲傷を蒙むり、山下に担ぎ込まれて、病院で治療をした、絶頂をきわめた歓喜の、下り坂に遭難して、「歓楽極まって哀情生ず」る光景は、なんと、ウイムパアのマッタアホルン下山の途次に起った悲劇にも、似ているところがあるではないか。
 本文には書いてないが、辻村は病院生活、約一ヶ月後に、ようやく退院したが、お歩行を禁ぜられ、其後、更に三週間を、とある湖畔に送って、九月二十五日に、伊太利イタリヤミラノに出て、マルセーユヘ陸行し辻村は香取丸に便乗、近藤氏は、倫敦からアメリカを通って、故国の土を踏むことが出来たのである。
 恰度、辻村が病院に呻吟している時、欧州の大戦乱が突発し、国境は軍隊が固めて、外国人の境外に出ることをさし止め、銀行は硬貨の支払を停止する騒ぎで、さなきだに多感なる病中の辻村を、いやが上に傷心の人たらしめたとき、スウィス婦人、ローザの恋を獲て、帰国の際には、健康と共に、エーデルワイスの一輪にも似た新人をもたらした、新人の名が、辻村の好きなモンテ・ローザの名に同じなのも、奇縁であった、まことに辻村の一生は『スウィス日記』に書いてある部分と、その陰影になっている部分とで、輝やかしい高塔を築き上げたのであった、アルプスの山物語は、そこでず「めでたし」の大団円を告げたのであった、だがその後の運命はよ。
 辻村と、ローザ夫人の間は、至極円満であった、辻村は異郷の孤客なる夫人を、よく気をつけていたわった、ローザという人は、内気であるが、怒らない人、辛抱強い人として、よく良人に仕えた、むずかしい日本語まで勉強して、親戚故旧への応待も、反らさず出来るようになった、夫婦の間に三児を挙げた、辻村の本家は小田原であったが、矯居は箱根湯本、旧街道の三枚橋を渡って、古刹こさつ、早雲寺の前であった、早川の渓流は、背中の方に当って見えなかったが、南側には塔が峰が聳え、湯阪山の翠微が落ちかかった、宅より小高いところに、貯水池があって、岩間洩る清水の涼しさを、辻村は美くしい景色の一つに加えて、悦んでいたが、ローザは何故か、凶兆を感じていた、大正十二年八月十五日に、辻村の令兄常助氏が、訪問せられたときも、ローザは「あの池の水が」と気にしていたという、突然、九月一日の大震災が来た、くだんの貯水池が、決潰して、辻村の家が五千坪もあるという庭園の、老樹と竹林を引っくるめて、泥流の海と化した、そして屋根だけが引き離されて、土瓶の蓋のように、瓦落瓦落の乱石と堆石の上に、おッかぶさっていた、小田原からは、幸いに生命を完うせられた常助氏一族が、飛んで来られた、土を掘り石をね返えしたが、屍骸は一つも見当らなくて、書斎の本だけが出て来た、本といっても、辻村のことだから、山岳や、高山植物に関するものばかりであった、写真機も出て来た、それは『スウィス日記』に挿入したところの、写真を撮ったものであった、インタアラーケンの娘さんに愛嬌たっぷりで、高く売りつけられ、後で頭を掻いたという双眼鏡も出たが、レンズは滅茶になっていた、それから小形の皮表紙の日記が、泥だらけになって出たが、開巻のところに、遺言書というのが、細い楷字で、ペン書きに横罫の中にしたためられてあった、どういうものか、辻村は、震災以前から、死ということに対して、敏感になって、真面目とも冗談とも附かず「どうせ長生きをしないのだから」などと、高野鷹蔵たかぞう氏に話したこともあるそうだから、死後のことまで、細心に書いて置いたものと見える、遺言は十三ヶ条に分けてあるが、その中に

遺骨又ハ灰ヲ成ルベク保存セザルコト、万一、遺骨灰を保存スルトキハ、極小量ニ留メ、適当ノ時機ニ、スウィス国内高山ノ頂ニ埋ムルカ、或ハ何レカノ「クレツヴアス」ニ投ズルコト(原文には句点がない)

とあった、辻村はスウィスの山を忘れぬ男であった、そして氷河のクレッヴァスに、投げこまれる宿命を観じていたのであった、しかしそれが、スウィスの代りに函根はこねの山になり、氷河のクレッヴァスの代りに、安山岩の堆石の下、苔蒸す岩清水に、洗われる屍となったのであった、令兄常助氏の追憶記に「山津浪は一気に押し寄せて、家諸共もろとも押し流したものであり、其際の弟は、アルプの嶺に、アヴァランシュを踏で、千仞せんじんの谷にすべり込む気であったに相違ない、これは痛快だと、心に叫んで、ローザと共に、手とりかき抱き、其まま一潟数十丈を走ったものと思われます」と書かれたのも、辻村を知っている人々は面をおおうて同意しなければなりません。
 遺言書には、又こうも書いてある

遺稿、山岳写真等ノ出版ハ、ナスモヨシ、ナサズトモヨシ、遺族友人ノ考ニヨルベシ、

 私の書く一文のペンも、泥流を掘り返す鋤鍬と共に、遺稿の発掘品に、ここへ来て行き当る、「続スウィス日記」も、実にこの時に掘り出された一冊であった、これは辻村が大正九年に、子供たちを連れてローザ夫人と共に、瑞西スイスの山村へ里帰りに行ったときの日記である、ローザにしても、辻村や子供たちにしても、その里帰りが、永久の訣別になったわけであるが、当時の日記は『山岳』へ寄稿するつもりで、原稿用紙に克明に浄書してあった(其一枚を巻頭に写真版にして掲げた、又本書に題したスウィス日記、続スウィス日記の文字も、同じ原稿から、手跡通りに模刻したのである)それが泥塗みれになって出て来た「遺稿ノ出版ハ……遺族友人ノ考ニヨルベシ」と任されたわけであるから、高野氏とも、常助氏とも相談して、始めて公刊することにした、従来、地中から発掘された原稿が、刊本になった例としては、英国ヴイクトリア王朝の詩人、ロセッチが、愛妻の死を哀慟あいどうするあまり、亡骸の傍らに、追慕の念切なる詩稿を埋めたのが、後に発掘されて、刊行されたという話はあるが、それは初めから有ることが解っていたのであったが、辻村の場合は、全く思いがけない発見であった、しかも遺言に依れば辻村は、骨が灰になって四大空に帰ることをねがっていたらしいから、深く蔵して屍の在るところを示さず、第一に遺愛の品々と共に、遺稿を捧げ出して、血縁に示したこととも解せられる(外に歌の遺稿も掘り出されたが、別冊『ハイランド』に収録した)。
 辻村一族の遺骨が、それから三年後の、大正十五年六月二十七日に、発掘された始末は、本書に、高野氏が書かれているから、就いて見られたい、函根の住宅の廃墟は、今は秋草離々たる萱野原になっているそうだ、記念碑という考えも、友人間にあったが、遺言書に

如何ナル形式ニテモ、墓標類似ノモノヲ、建設セザル事
追悼会、告別式、ソノ他一切、類似ノ儀式ヲ、行ハヌヤウニスルコト(摘録)

とあるから、止めにしたと云うことだ、今になって見ると、結局、本書の発刊が、記念碑の建立にも当り、編輯に携わった人たちの寄り合いが、追悼会の代りになったようなものである。
 辻村に就いて、最も親しく知っている人は、高野鷹蔵氏である、アルプスに於ける辻村遭難の報道は逸早く『東京朝日』の記事(大正三年九月二十八日)にあらわれたが、今ならスウィス発電というところを、二ヶ月も後になって、高野氏宛の郵便から『朝日』に特種とくだねとなって、漸く現われた次第で、所謂いわゆるスピード時代の今日から見ると、今昔の感がある。
 近藤茂吉氏は、遭難当時の同行者であられたのみならず、辻村一家全滅の後、わざわざ、スウィスにローザ夫人の父君を訪ねられ、互いに故人を語り合い、手をり合って、泣かれたそうであるが、かほどまでに温情の親友を、生前に有した辻村は、幸福の男でなかったとは言われなかろう、幸福といえば、『スウィス日記』再刊に関して、前出版者横山光太郎氏が、二言と言わず複刻を無条件に快諾せられたばかりか、非常にそれを悦んで下すったこと、藤島敏男、松方三郎両氏が「見ぬ世のおもかげ」なる辻村のために、綿密に校正の労を取っていただいたことも、仕合せであった、又梓書房が、挿入写真版の複製に当って、それこそ、芸術的良心を以て、苦心惨憺せられたことも、『スウィス日記』の原本に比して、見劣りのないものに出来上った所以ゆえんである。
 辻村遭難、及び遺稿発掘当時の状況は、静かなる夏の一夜、常助氏の邸宅で、辻村の彫像(高田博厚氏作)の下に、常助氏、同夫人、及び高野氏とのまどいに、しめやかな物語をうかがって、書き附けて置いたものである。





底本:「スウィス日記」平凡社ライブラリー、平凡社
   1998(平成10)年2月15日初版第1刷
底本の親本:「スウィス日記」講談社文庫、講談社
   1977(昭和52)年8月15日第1刷発行
初出:「スウィス日記」梓書房
   1930(昭和5)年
※「瑞士」と「瑞西」、「スイス」と「スウィス」の混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年11月27日作成
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