基督信徒のなぐさめ

内村鑑三




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明治二十四年四月十九日いわゆる『第一高等中学校不敬事件』ののちに、余のためにその生命をすてし余の先愛せんあい内村加寿子につつしんでこの著を献ず、願くは彼女のれいてんに在りて主とともに安かれ。
鑑三


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“If I can put one touch of a rosy sunset into the life of any man or woman, I shall feel that I have worked with God.”―― George MacDonald.


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自序


 心に慰めを要する苦痛あるなく、身に艱難の迫るなく、平易安逸に世を渡る人にして、神聖なる心霊上の記事を見るも、ただ人物批評または文字解剖の材料を探るにとどまるものは至少の利益をもこの書より得ることなかるべし。
 しかれども信仰と人情とにおける兄弟姉妹にして、記者とともに心霊の奥殿において霊なる神と交わり、悲哀に沈む人霊と同情推察の交換をなさんとするものは、この書より多少の利益を得ることならんと信ず。
 この書は著者の自伝にあらず、著者は苦しめる基督信徒を代表し、身を不幸の極点に置き、基督教の原理を以て自ら慰さめんことを勉めたるなり。
 書中引用せる欧文は必要と認むるものにして原意を害なわずして翻訳し得るものは著者の意訳を附せり、しかれども訳し得ざるものまたは訳するの必要なきものはそのままに存し置けり、ゆえに欧文を解し得ざる人といえどもこの書を読むにおいて少しも不利益を感ぜざることと信ず。

明治二十六年一月二十八日
摂津中津川の辺において    内村鑑三
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第二版に附する自序


 この書世に生れ出てより五ヶ月今や第二版を請求せらるるに至れり未だ需要の多からざる純粋基督教書籍にしてここに至りしは満足なる結果と称して可ならむ
 第二版は初版と異なるところはなはだ少し、誤植を訂正し引用欧文の訳解を増補せしのみ
 著者の拠る所は人性深底の経※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)なり、ゆえに教派的の嫌悪文字的の貶評は彼の辞せざるところなりもしこの「狷介奇僻」の著にしてなお同胞を慰むるの具たるを得ば著者は感謝して止まざるなり。

明治二十六年七月十八日
鉄拐山の麓において
内村鑑三
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改版に附する序


 この書初めて成るや余はもちろんまず第一にこれを余の父に送れり(彼は今は主に在りて雑司ヶ谷の墓地に眠る)。彼れ一読して涙を流して余に告げていわく、この書成りて今や汝は死すとも可なり、後世、或は汝の精神を知る者あらんと。余はまたその一本を余の旧友M・C・ハリス氏に贈りたり(彼は今や美以教会の監督として朝鮮国に在り)。彼れ一読して余に書送していわく、この書けだしペンが君の手より落ちて後にまで存せんと。かくて余の父と友とに祝福せられて世に出でしこの小著は彼らの予期に違わず、版を磨滅すること二回に及びて、さらにまたここに改版を見るに至れり。その文の拙なる、その想の粗なる、取るに足らざる書なりといえども、しかもその発刊以来十八年後の今日なお需要の絶えざるを見て、余は暫時的ならざる小著を世に供せしの特権にあずかりしを深く神に感謝せざるを得ず。願う、余の慈父と師友との祈祷空しからずして、この著のさらに世の憂苦を除き去るの一助として存せんことを。

一九一〇年六月二十三日
東京市外柏木において
内村鑑三
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回顧三十年


 この書今年を以て発行満三十年に達す。大なる光栄である。感謝に耐えない。
 今より三十年前に日本において日本人の基督教文学なる者はなかったと思う。もしあったとすれば、それは欧米基督教文学の翻訳であった。日本人自身が基督教の事について独創の意見を述べんと欲するがごとき、僭越の行為であるかのごとくに思われ、あえてこの事をなす者はなかった。ちょうどその頃の事であった、米国の学校において余と同級生たりし米国人某氏が余を京都の寓居に訪うた。彼は余に問うていうた「君は今何をなしつつあるか」と。余は彼に答えていうた「著述に従事しつつある」と。彼はさらに問うていうた「何を翻訳しつつあるか」と。余は答えていうた「余は自分の思想を著わしつつある」と。この答に対して彼は「本当にインディード!」というより他にことばがなかった。誠に当時の米国人(今もなおしかり)の日本の基督信者に対する態度はたいていかくのごときものであった。そしてかくのごとき時にあたって、欧米の教師に依らずして、ただちに日本人自身の信仰的実験または思想を述べんと欲するがごときは大胆極まる企図くわだてであった。しかるに余は神の祐助たすけにより恐る恐るこの事をって見た。ことに何よりも文学を嫌いし余のことであれば、美文として何の取るべき所なきはもちろんであった。余はただ心の中にもゆ思念おもいに強いられ止むを得ず筆を執ったのである。
 この書初めて出て第一にこれを歓迎してくれた者は当時の『護教』記者故山路愛山君であった。君は感興のあまり鉄道馬車の内に在りてこれを通読したりという。しかしその他に基督教会の名士または文士にしてこれを歓迎してくれた者はなかった。或は「困難の問屋といやである」といいて冷笑する者もあり、或は「国人にすてられし時」などと唱えて自分を国家的人物に擬するは片腹痛かたはらいたしと嘲ける者もあった。しかし余は教会と教職とに問わずしてただちに人の霊魂に訴えた。しかして数万の霊魂は余の霊魂のさけびこたえてくれた。余の執筆の業はこの小著述を以て始った。余はこの著を以て独り基督教文壇に登った。しかして教会ならびに教職の同情援助は余の身にともなわざりしといえども、神の恩恵と平信徒の同情との余に加わりしが故に、余は今日に至るを得たのである。教会の援助同情の信仰的事業の成功になんらの必要なき事はこの一事を以ても知らるるのである。神は日本人を以て日本国を救い給うと信ずる。神は日本に日本特有の基督教文学を起し給いし事を感謝する。この書小なりといえども、外国宣教師の手を離れ、教会の力をからずして、ただちに神にききつつその御言を伝うる卒先者の一たりし事を以て光栄とする。余はまたここにエベネゼル(助けの石)を立て、サムエルとともにこれにしるしていう「エホバここまで我を助け給えり」と(撒母耳サムエル前書七章十二節)。

大正十二年(一九二三年)二月七日
東京市外柏木において
内村鑑三
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第一章 愛するもののせし時


 我は死については生理学より学べり、これを詩人の哀歌に読めり、これを伝記者の記録に見たり、時には死体を動物学実※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)室に解剖し、生死の理由を研究せり、時には死と死後の有様について高壇より公衆にむかって余の思想をべたり、人の死するを聞くや、或は聖経せいきょうの章句を引用し、或は英雄の死に際する時のさまかたって、死者をかなしむ者を慰めんとし、もし余のことばよりて気力を回復せざるものある時は余は心竊こころひそかにその人の信仰薄きを歎じ理解のにぶきをせめたり、余は知れり死は生を有するものの避くべからざることにして、生物界連続の必要なるを、かつ思えらく古昔いにしえの英雄或は勇み或は感謝しつつ世を去れり、余も何ぞひとしく為しあたわざらんやと、ことに宗教のたすけあり、復活ののぞみあり、もし余の愛するものの死する時には余はその枕辺まくらべに立ち、讃美の歌をとなえ、聖書を朗読し、かつて彼をしてその父母の安否を問わんがため一時郷里に帰省せしむる時讃美と祈祷とを以て彼の旅出たびでを送りし時、暫時の離別も苦しけれどもまた遭う時のよろこびたのしみ、涙を隠し愁懼しゅうくを包み、いさぎよく彼の門出かどでを送りしごとく彼の遠逝えんせいを送らんのみと。
 ああ余は死の学理をしれり、また心霊上その価値をさとれり、しかれどもその深さ、痛さ、かなしさ、くるしさはその寒冷なる手が余の愛するものの身にきたり、余の連夜熱血をそそぎて捧げし祈祷をもかえりみず、余の全心全力をなげうち余のいのちを捨てても彼を救わんとする誠心まごころをも省みず、無慙むざんにも無慈悲にも余の生命いのちより貴きものを余の手よりモギ取り去りし時始めて予察よさつするを得たり。
 生命いのちは愛なれば愛するもののせしは余自身の失せしなり、この完全最美なる造化ぞうか、その幾回いくたびとなく余の心をして絶大無限の思想界に逍遙せしめし千万の不滅燈ふめつとうを以て照されたる蒼穹あおぞらも、そのはるきたるごとに余に永遠希望の雅歌を歌いくれし比翼ひよく(ママ)有する森林の親友も、その菊花かんばしき頃巍々ぎぎとして千秋にそびえ常に余に愛国の情を喚起せし芙蓉ふようの山も、余が愛するものの失せてより、星は光をうしないて夜暗く、鶯は哀歌を弾じて心をいたましむ、富嶽ふがくも今は余のものならで、かつて異郷に在りし時、モナドナック倒扇形とうせんけいを見、コトパキシの高きを望みし時、わが故郷ならざりしがゆえにその美と厳とはかえって孤独悲哀の情を喚起せしごとく、この世は今は異郷と変じ、余はなお今世こんせいの人なれどもすでにこの世に属せざるものとなれり。
 愛せしものの死せしよりきたる苦痛はわずかにこの世を失ないしにとどまらざりしなり、この世は何時いつか去るべきものなれば今これを失うも三十年の後に失うも大差なかるべし、しかれども余の誠心まごころつらぬかざるより、余の満腔のねがいとして溢出あふれいだせし祈祷の聴かれざるより(人間の眼より評すれば)余は懐疑の悪鬼に襲われ、信仰の立つべき土台を失い、これを地に求めて得ず、これを空にさぐって当らず、無限の空間余の身も心も置くべき処なきに至れり。これぞ真実の無(ママ)地獄にして永遠の刑罰とはこのことをいうならんと思えり、余は基督教を信ぜしを悔いたり、もし余に愛なる神ちょう思想なかりせばこの苦痛はなかりしものを、余は人間と生れしをたんぜり、もし愛情ちょうものの余に存せざりしならば余にこの落胆なかりしものを、ああ如何いかにしてこの傷をいやすを得んや。
 医師余の容体を見て奮興剤と催眠薬とを勧む、しかれども何物かいためる心をせんや、友人は転地と旅行とを勧む、しかれども山川さんせん今は余の敵なり、哲理的の冷眼を以て死を学び思考を転ぜんとするも得ず、牧師の慰言いげんも親友の勧告すすめも今は怨恨うらみを起すのみにして、余は荒熊あれくまのごとくになり「愛するものを余にかえせよ」というよりほかはなきに至れり。
 ああ余を医する薬はなきや、宇宙間余を復活せしむる力は存せざるか、万物ばんもつことごとく希望あり、余のみ失望を以て終るべきか。

 時に声あり胸中にきこゆ、細くしてほとんど区別し難し、なおよく聞かんと欲して心を沈むればその声なし、しかれども悪霊あくれい懐疑と失望とを以て余をくじかんとする時その声また聞ゆ、いわく「生は死より強し、生は無生むせいの土と空気とを変じアマゾンの森となすがごとく、生は無霊むれいの動物体を取り汝の愛せし真実と貞操の現象となせしごとく、生は人より天使を造るものなり、汝の信仰と学術とはいまだここに達せざるか、この地球がいまだ他の惑星とともに星雲として存せし時、または凝結少しく度を進め一つの溶解球たりし時、これぞ億万年ののちシャロン薔薇しょうびを生じレバノン常盤樹ときわぎを繁茂せしむる神の楽園とならんとはたれはかり知るを得しや。最始さいしょの博物学者は※(「虫+斯」、第3水準1-91-65)けむし[#「虫+占」、U+86C5、18-5]の変じてまゆと成りしときは生虫の死せしと思いしならん、他日美翼を翻えし日光に逍遙するちょうはかつて地上に匍匐ほふくせし見悪みにくかりしものなりとは信ずることの難かりしならん。暗黒時代より信仰自由と代議政体生れ、三十年戦争の劇場としてほとんど砂漠と成りし独逸どいつこそ今は中央欧羅巴の最強国となりしにあらずや、地球と人類が年を越ゆるほど生は死に勝ちつつあるにあらずや、さらばのぞみと徳とを有し神と人とにつかえんと己を忘れし汝の愛するものが今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も哲学も皆希望を説教しつつあるに何ぞ汝独り失望教を信ずるや」。
          “Life mocks the idle hate
Of his arch-enemy Death, ― yea sits himself
Upon the tyrant's throne, the sepulchre,
And of the triumphs of his ghostly foe
Makes his own nourishment.”―― Bryant.
 然り余は信ず余の救主すくいぬしは死より復活したまいしを、義人ぎじんを殺してその人死せりと信ぜし猶太人ゆだやびとのあさはかさよ、何ぞヒマラヤ山をたたいて山くずれしと信ぜざる、余が愛するものは死せざりしなり、自然は自己の造化を捨てず、神は己の造りしものをかろんずべけんや、彼のたいくちしならん、彼の死体を包みし麻のころもは土と化せしならん、しかれども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節――ああもしこれらも肉とともに消ゆるならば、万有ばんゆうは我らに誤謬を説き、聖人は世を欺けり、余は如何いかにして如何なる体を以て如何なる処に再び彼を見るやを知らず、ただ
“Love does dream, Faith does trust
Somehow, somewhere meet we must.”―― Whittier.
〔愛の夢想を我疑わじ
何様どう何処どこかで相見んと〕
 しかれども彼は死せざるものにして余は何時いつか彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとっては最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故なにゆえに余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無益なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故に聞かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余にだせしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。
 細き声またいわく、「自然の法則とは神の意なり。いかずちは彼の声にして嵐は彼の口笛なり、然り、死もまた彼の天使にして彼が彼の愛するものを彼の膝下しっかに呼ばんとする時つかわし賜う救使きゅうしなり」と。
 ああたれか神意と自然の法則とを区別し得るものあらんや、神もし余の愛するものをかさんと欲せば自然の法則によりて活かせしのみ、余輩よはい神を信ずるものはこれによりて神に謝す、しかれども神を信ぜざるものは或はこれを医薬の効に帰し、或は衛生の力に帰し、治癒の元なる神を讃美せざるなり、神の何たるを知り、自然の法則の何たるやを知れば「神は自然に負けたり」とのげんは決して出づべきものにあらず。しからば祈る何の要かある、神は祈祷に応じて雨を賜わず、また聖者の祈祷に反して種々の難苦をくだせり、祈らずして神命に従うにかず、祈祷の要は何処いずこにあるや。
 これ難問なり、余は余の愛するものの失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓いし余さえも今は神なき人となり、恨を以て膳に向い、涙を以て寝所ねどこに就き、祈らぬ人となるに至れり。
 ああ神よじょし賜え、なんじは爾の子供をきずつけたり、彼はいたみのゆえに爾に近づくことあたわざりしなり、爾は彼が祈らざる故に彼を捨てざりしなり、な、彼が祈りし時にまさりて爾は彼を恵みたり、彼祈り得る時はなんじの特別のめぐみなぐさめとを要せず、彼祈り能わざる時彼は爾の擁護を要する最も切なり、余は慈母がその子の病める時に言語ことばに礼を失し易く、小言こごとがましき時にあたって慈愛の情の平常つねまさり病子を看護するを見たり、爾無限の慈母も余のいためる時に余を愛する余が平常無事の時の比にあらざるなり、余の愛するもの失してのち、余が宇宙の漂流者となりし時、その時こそ爾が爾の無限の愛を余に示し得る時にして、余が爾をすてんとする時爾は余のあとい余をして爾を離れ得ざらしむ。
 然り祈祷は無益ならざりしなり、十数年間一日のごとく朝も夕も爾に祈りつつありしが故に今日こんにちこの思わざるのよろこびなぐさめとを爾より受くるを得るなり。
 ああ父よ、余は爾に感謝す、爾は余の祈りを聴賜ききたまえり、汝かつて余に教えていわく、肉のために祈るなかれ霊のために祈れよと、しかして余は余の愛するものとともに爾に祈るにこの世の幸福を以てせざりしなり、もしそのために祈りし時は必ず「もし御意みこころかなわば」の語を付せり、自己の願事ねぎごとを聴かば信じ、きかずば恨むはこれ偶像にねがいを掛けるもののなす所にして、基督信者の為すべき事にあらざるなり、ああ余は祈祷を廃すべけんや、余は今夕こんせきより以前に勝る熱心を以て同じ祈祷を爾に捧ぐべし。
 時に悪霊あくれい余につげていわく、「汝祈祷の熱心を以て不治の病者を救いし例を知らざるか、汝の祈祷の聴かれざりしは汝の熱心足らざりしが故なり」と、もししからば余の愛するものの死せしは余の熱心の足らざりしが故か、しからば彼を死に至らしめし罪は余にあり、余は実に余の愛せしものを殺せしものなり、もし熱心が病者を救い得ばその熱心を有せざる人こそ憐むべきかな、余は余の信仰の足らざるを知る、しかれども余は余の熱心のあらん限り祈りたり、しかして聴かれざりしなり、もしなお余の熱心の足らざるを以て余を責むるものあらば、余は余の運命にやすんずるよりみちなきなり。
 ああ神よ、なんじは我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛するものを取去れり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしによりて爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者にまさりて爾より特別の恩恵めぐみを受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故にくじけんものならば爾必ず我の祈祷を聴かれしならん。
 ああ感謝す、ああ感謝す爾は余のこの大試錬に堪ゆべきを知りたればこそ余のねがい聴賜ききたまわざりしなり、余の熱心の足らざるが故にあらずしてかえって余の熱心(爾のめぐみによりて得ば)の足るがゆえにこの苦痛ありしなり、ああ余は幸福なるものならずや。
 愛なる父よ、余は信ず爾は我らを罰せんために艱難を下し賜わざることを、罰なる語は爾の如何いかなるものなるかを知るものの字典に存すべき語にあらざるなり、罰は法律上の語にして基督教ちょうおきて以上の範囲においては要もなき意味もなき名詞なり、もししいてこの語を存せんとならば「暗く見ゆる神の恵」なる定義を附して存すべきなり、刑罰なる語を以て爾に愛せらるるものをしばしば威嚇する爾の教役者きょうえきしゃをして再び爾の聖書を探らしめ、彼等の誤謬を改めしめよ。
 しかれども余に一事忍ぶべからざるあり、彼何故なにゆえに不幸にして短命なりしや、彼のごとき純白なる心霊を有しながら、彼のごとく全く自己を忘れて彼の愛するもののために尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、この世に眼ひらいてより眼をとじしまで、不幸艱難うち続き、しかしてのち彼自身は非常の苦痛を以て終れり、この解すべからざる事実の中にいかなる深意の存するや余は知らんと欲するなり。
 聖書にいわずや地は神を敬するもののために造られたりと(約百ヨブ十五章十九節)。しかるにこの最も神を慕いしものはもっともわずかにこの世を楽んで去れり、ブラジル国の砂中にうずもる大金剛石はたれのために造られしや、無辜むこを虐げ真理を蔑視する女帝女王のかしらを飾るためにか、或は安逸以て貴重なる生命を消費し、春は花に秋は月にこの神聖なる神の職工場しょくこうじょう(God's Task-garden)を以て一つの遊戯場と見做みな懶惰らいだ男女の指頭ゆびさきと襟とに光沢を加えむためにか、東台の桜、亀井戸の藤は黄土こうどママために身を汚し天使の形に悪鬼の霊を注入せし妖怪物の特有なるか、たれがために富嶽は年々荘厳なる白冠を戴くや、誰がために富士川の銀線はその麓を縫うや、最も清きもの最も愛すべきものには朝より夕まで、月みちてより月かくるまで、彼の視線は一小屋しょうおくの壁に限られ、聴くべきものとては彼の援助たすけを乞う痛めるものの声あるのみ、ああ造化はこの最良最美の地球を悪魔とその子供に譲与せしか。
 この深遠なる疑問に対し答うる所二個あるのみ、すなわち神なるものは存在せざるなり、この地球にまさる世界の義人のために備えらるるあり。
 しかしてもし神なしとせば真理なし、真理なしとせば宇宙をささゆる法則なし、法則なしとせば我も宇宙も存在すべきの理なし、ゆえに我自身の存在する限りは、この天この地の我目前めのまえに存する限りは、余は神なしと信ずるあたわず、ゆえに理論は余をしてやむを得ず未来存在を信ぜざるを得ざらしむ、もし神はブラジルの金剛石、ボゴタ青玉せいぎょくオフルの金を以て懶惰貪慾不義をもよそおいたまうなれば、勤勉無私貞節を飾るその石その金はいかなるものぞ、コーイノル、オルロー(共に大金剛石の名)の宝石を以て冠を編み、ペルシヤの真珠千百を以て襟飾となし、ウラルの白銀、オルマッヅの金をうって腕輪となして彼を飾るも神はなお足らずとなし、別に我らの知らざる結晶体を造り、金にまさる鉱物を製し、彼を粧いつつあるならん、然りこの地は美にしてその富は大なり、しかれども佞人ねいじんもこれを手にするを得べきものなれば決して無窮の価値を有するものにあらず、我の欲する所のものは悪人の得る能わざるもの、楽しみ得ざるものなり、義人の妝飾そうしょくは「髪をみ金を掛けまた衣〔を着〕るがごとき外面の妝飾にあらず、ただ心の内のかくれたる人すなわちやぶることなき柔和にゅうわ恬静おだやかなる霊」なり。
 余は了解せり宇宙のこの隠語を、この美麗なる造化は我らがこれを得んために造られしにあらずして、これを捨てんがために造られしなり、な、人もしこれを得んと欲せばまずこれを捨てざるべからず(馬太マタイ伝十六章二十五節)、誠にまことにこの世は試錬の場所なり、我ら意志の深底より世と世のすべて捨去すてさりてのち始めて我らの心霊も独立し世も我らのものとなるなり、しにき、すてて得る、基督教の「パラドックス」(逆説)とはこの事をいうなり、余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり、彼の宇宙は小なりし、されどもその小宇宙は彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり、然り神はこの地を神を敬するもののために造りたまえり。
 余は余の失いしものを思うごとに余をして常に断腸後悔ほとんど堪ゆる能わざるあり、彼が世に存せしあいだ余は彼の愛に慣れ、時には不興を以て彼の微笑に報い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を呵嘖かせきし、はなはだしきに至りては彼の病中余の援助を乞うにあたって――たとい数月間の看護のために余の身も精神も疲れたるにもせよ――あららかなる言語ことばを以てこれに応ぜざりし事ありたり、彼はすべて柔和に渾て忠実なるに我は幾度いくたびか厳酷にして不実なりしや、これを思えば余は地に恥じ天に恥じ、報ゆべきの彼は失せ、ゆるしを乞うの人はなく、余は悔い能わざるの後悔にくるしめられ、無限地獄の火の中に我身で我身を責め立てたり。
 一日余は彼の墓に至り、塵を払い花を手向たむけ、最高いとたかきものに祈らんとするや、細き声あり――天よりの声か彼の声か余は知らず――余にかたっていわく「汝何故なにゆえに、汝の愛するもののために泣くや、汝なお彼に報ゆるの時をもおりをも有せり、彼の汝に尽せしは汝よりむくいを得んがためにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以て汝の神と国とに尽さしめんがためなり、汝もし我に報いんとならばこの国この民につかえよ、かの家なく路頭に迷う老婦は我なり、我に尽さんと欲せば彼女に尽せ、かの貧にめられて身を恥辱の中に沈むる可憐の少女は我なり、我に報いんとならば彼女を救え、かの我のごとく早く父母に別れ憂苦頼るべきなき児女じじょは我なり、汝彼女を慰むるは我を慰むるなり、汝の悲歎後悔は無益なり、早く汝の家に帰り、心思しんしを磨き信仰に進み、愛と善とのわざを為し、霊の王国に来る時は夥多あまたの勝利の分捕物ぶんどりものを以てわが主と我とを悦ばせよ」と。
 ああいかなる声ぞ、かつてパマカスなる人が妻ポーリナを失いし時、聖ジェロームが彼を慰めんために「他の良人りょうじんは彼等の妻の墓を飾るに菫菜草すみれそう薔薇花ばらのはなとを以てするなれど我がパマカスポーリナの聖なる遺骨を湿うるおすに慈善の香乳こうにゅうを以てすべし」と書送りしはけだし余が余の愛するものの墓において心に聞きし声とひとしきものならん、よし今日こんにちよりは以前にまさる愛心を以て世の憐むべきものを助けん、余の愛するものは肉身においてもしっせざりしなり、余はなお彼を看護し彼にむく得べきなり、この国この民は余の愛するもののために余にとりては一層愛すべきものとなれり。
 一婦人ぶじんのために心思しんしを奪われ残余の生を無益の悲哀のうちに送るは情は情なるべけれどもこれ真正の勇気にあらず、基督教は情性を過敏ならしむるが故に悲哀を感ぜしむるまたしたがって強し、しかれども真理は過敏の情性をり無限の苦痛の中より無限の勇気を生ずるものなり、アナ、ハセルトン婦の死は宣教師ジャドソンをしてますます猛勇忠実ならしめたり、メリー、モフハト婦の死は探※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)リビングストンをして暗黒大陸に進入することますます深からしめたり。詩人シルレルのいわゆる
Der starke ist m※(ダイエレシス付きA小文字)chtigsten allein.
(勇者は独り立つ時最も強し)
ことばけだしこの意にほかならじ、もし愛なる神のまして勇者を一層勇ならしめんとならばその愛するものをモギ取るにまされる法はなかるべし。
 余は余の愛するもののせしによりて国も宇宙も――時にはほとんど神をも――失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心とがっせり、何ぞおもいきや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。
 然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
 余の得し所これにとどまらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何日いつかこの涙のさとを去り、余の勤務つとめを終えてのち永き眠に就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労つかれを忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦よろこびをもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時をたのしみによく戦い終えしのち心うれしく逝かんのみ。
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第二章 国人こくじんに捨てられし時


 愛国は人性の至誠なり、我の父母妻子を愛する強いられてこれを為すにあらず、愛せざるを得ざればなり、普通の感能を供えしものにしてたれか己に生を与えし国土を愛せざるものあらんや、鳥獣かつその棲家すみかを認むいわんや人においてをや、かつてユダヤの愛国者がバビロン河のほとりに坐し、故国のジオンを思いいでて、涙を流して弾じていわく、
エルサレムよ、もし我汝をわすれなば、
わが右の手にそのたくみをわすれしめたまえ、
もし我汝をおもいいでず、
もし我エルサレムをわがすべての歓喜よろこびきょくとなさずば、
わが舌を※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごにつかしめたまえ、
(詩篇第百三十七篇)
と、これ愛国なり、他にあるなし、この真情はわが霊に附着するもの、な、霊の一部分にして、ほかより学び得たるものにあらざるなり。
如何いかにして愛国心を養成すべきや」とは余輩がしばしば耳にする問題なり、いわく国民的の文学を教ゆべしと、いわく国歌をとなえしむべしと、しかれども人もし普通の発達を為せば彼に心情の発達するがごとく、彼の体躯からだの成長するがごとく、愛国心も自然に発達すべきものなり、義務として愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり、孝を称する子は孝子にあらざるなり、愛国の空言かまびすしくして愛国の実跡じっせきを絶つに至る、余は国を愛する人となりて、愛国を論ずるものとならざらんことを望むものなり。
 ゆえに余は余の日本国を愛すというはこれ決して余の徳を賞讃するにあらずして一人なみの人間として余の真情をひょうするなり、余は米国が日本にまさりて富を有し技芸のさかんなるを知る、しかれども余は富と技芸との故を以て余が日本に与えし愛心を米国に与うるあたわざるなり、英国の政治、伊国の美術、独逸の学術、仏蘭西の法律は余をして日本人たるを嫌悪せしめしことはいまだかつてあらざるなり、コトパキシの高きは芙蓉の高きに勝るといえども後者が余の胸中に喚起する感情の百分の一だも余は前者のために発する能わざるなり、な、コトパキシを見てかえって芙蓉を思い、ミシシピわたって石狩利根を想う、これ真情なり、決して余一人の感覚にあらず、普通一人並の大和男子にしてこの感なきものは一人もあるべからざるなり。
 しかれどももし愛国も真情なれば真理と真理の神を愛するもまた真情なり、しかして完全なる社会においては二者決して撞着すべきものにあらず、国のために神を愛し神のために国を愛し、国民こぞって神聖なる愛国者となるべきなり、かくのごとき社会において人もし国に捨てられしならばすなわち神に捨てられしなり、その時こそ実に人民の声は神の声にして、(Vox populi est vox dei)、国に捨てられしとて天にも地にもうったうべき人も神も存せざるなり。
 されども世には真正の愛国者にして国人こくじんに捨てられしものその人にともしからず、耶蘇基督いえすきりすとその一なり、ソクラトスその二なり、シピオ、アフリカナスその三なり、ダンテ、アリギエーリその四なり、しかして公平なる歴史家が判決を下すにあたって、これら人士の場合においては罪を国民に帰して捨てられしものの無罪を宣告せり。
 余は現在のこの余自身を以て不完全なるものと認むると同時にまた今日の社会を以て完全なるものと認むる能わざるなり、しかして余の国人に捨てられし、罪或は余にあらん、余の不注意なりしその一なり、余の過劇なりしはその二ならん、余の心中名誉心のなおいまだ跡を絶たざるあり、慾心も時に威をたくましうするあり、余のかく不幸に陥りしは或はこれらのためならんか…………………………………………………………………………………………………………………………(ママ)
 アア今これをいって何をかせん、かく記するさえも余が陰然と余自身を弁護しつつありと余の愚を笑うものもあらん、今は余の口を閉ずべき時なり、しかして感謝すべきは余は黙止しるを得べければなり、もちろん普通の情として忍ぶべきにあらざるなり、余は余の国人を後楯うしろだてとなしつとめて友を外国人に求めざりき、余は日本狂にほんぐるいと称せられてかえっておおいに喜悦せり、しかるに今やこの頼みに頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、もとむるに朋友なきに至れり、かくありしと知りしならば友を外国に需め置きしものを、かくありしと知りしならば余の国を高めんがために強く外国をそしらざりしものを、余の位置は可憐の婦女子がその頼みに頼みし良人おっと貞操みさおを立てんがためしきりに良人を頌揚ほめあげたるのちある差少の誤解よりこの最愛の良人に離縁されし時のごとく、あめしたには身を隠すに家なく、他人に顔をあわし得ず、孤独淋しさ言わん方なきに至れり。
 この時にあたってああ神よ、なんじは余の隠家かくれがとなれり、余に枕する場所なきに至て余は爾のふところれり、地に足の立つべき処なきに至て我全心は天に逍遙するに至れり、周囲の暗黒は天体をうかがうにあたって必要なるがごとく、三階の天に登り、永遠の慈悲に接せんと欲せば、下界の交際より遮断さるるにかず、国人は余をて余は霊界に受けられたり。
 このの善美は今日まで余の眼をくら[#「目+昏」、U+7767、32-11]ませり、如何いかにしてその富源を開かんか、如何なる国民教育の方針を取らんか、如何なる政略を以て海外に当らんか、その世界に負う義務と天職とは如何いかんペリクリス時代の雅典アテンスメヂチフロレンスエリザベス女王の英国、フレデリック大王の普魯士プロシヤはこもごも余の眼に浮び、我国をしてこれに為さんか彼に為さんかと、てもさめても余の思想はこの国土こくどより離れざりしなり、まことにや古昔こせきギリシヤ人は現世を以て最上の楽園と信じ、彼らの思想は現世外にいでしこと実にれなりしとは、余も余の国を以て満足し、この世にまさる世界とては詩人の夢想に読みしかど、また牧師の説教に聞きしかど、余が心中には実在せざりしなり。
 余の国人に捨てられしよりは然らず、余の実業論は何の用かある、たれ奸賊かんぞくの富国策を聴かんや、余の教育上の主義ならびに経験は何かある、誰か子弟を不忠の臣に委ぬるものあらんや、余はこのありてこの土のものにあらず、この土に関する余の意見は地中に埋没せられて、余は目もなき口もなき無用人間となりたり。
 地に属するものが余の眼より隠されし時始めて天のものが見え始まりぬ、人生終局の目的とは如何いかん罪人つみびとは罪を洗去あらいさるの途あるや、如何いかにして純清に達し得べきか、これらの問題は今は余の全心を奪い去れり、しかして眼をあげて天上を望めば、栄光の王は神の右に坐するありて、ソクラット保羅パウロコロンウェルはい数知れぬほど御位みくらいの周囲に坐するあり、荊棘いばらかんむりを頂きながら十字に登りし耶蘇基督いえすきりすと、未来を論じつつ矢鳩答毒しきゅうとうどくを飲みしソクラット、異郷ラベナに放逐されしダンテ、その他夥多あまたの英霊は今は余の親友となり、詩人リヒテルとともに天の使に導びかれつつ、球より球まで、星より星まで、心霊界の広大を探り、この地に決して咲かざる花、この土にいまだ見ざるたま、聞かざる音楽、味わざる香味、余は実に思わぬ国に入りたりけり。
 実にこの経験は余にとりては世界文学の註解書となれり、エレミヤの慨歌は今は註解書に依らずして明白あきらかに了知するを得たり、放逐の作と見做してのみ〔ダンテの〕ディビナ、コメヂヤは解し得るなり、ことに基督彼自身の言行録は国人に捨てられざるもののいかでそのひろさそのふかさを探り得べけんや、然り余は余の国人に捨てられてより世界人(Weltmann)と成りたり、かつてホリヨーク山頂において宇宙学者ハムボルトが自筆にて名をしるせるを見たり、いわく、
 Alexander von Humboldt,
In Deutschland geboren,
Ein B※(ダイエレシス付きU小文字)rger der Welt.
独逸国どいつこくに生れたる世界の市民
 アレキサンデル、フ※(小書き片仮名ホ、1-6-87)ン、ハムボルト
 ああ余も今は世界の市民なり、生をこのに得しにより、この土のほかに国なしと思いし狭隘なる思想は、今は全く消失せて、小さきながらも世界の市民、宇宙の人と成るを得しは、余の国人に捨てられしめでたき結果の一にぞある。
 しからば宇宙人となりしにより余は余の国を忘れしか、ああ神よ、もしわれ日本国を忘れなば、わが右の手にそのたくみを忘れしめよ、もし子たるものがその母を忘れ得るなれば余は余の国を忘れ得るなり、無理に離縁状を渡されしはますますそのを慕うがごとく、捨てられし後は国を慕うはますます切なり、朝は送るに良人りょうじんなく、夕は向うるに恋人なく、今は孤独の身となりて、ととのうべきの家もなく、閑暇がちにて余所事よそごとに心を使い得るにもせよ、朝な夕なに他の女子がその良人おっといたわるを見て、我独り旧時の快を忘るべけんや、ああ神よ我が良人おっとをしてつつがなからしめよ、彼の行路をして安からしめよ、今我は彼に着きまとい心を尽す能わずとも、もし我が祈祷だにして彼を保護するに力あらば、この賤婦の祈祷を受けて彼の歩行を導きたまえ、なおまたこの身にして彼のために要せらるるならば何時いつなりともなんじ御意みこころまかせ彼のために使用し賜え、この身は爾のものにして爾のために彼に与えしものなり、我に属せざるこのいのちは彼のためには何時なりとも捧ぐべしとはすでに爾の前に誓いし処なり。
 しかれども神よ、もし御意みこころならば我をして再びわがおっとの家に帰らしめよ、もちろん我は爾を捨ててわが夫に帰る能わざるなり、これ爾に対して罪なるのみならずわが夫に対して不貞なればなり、爾のしろしめすごとくわが夫に天地の正気せいきあつまるあり、その壮宏たる富嶽のごとく、そのかんばしきこと万朶まんだの桜のごとく、そのしゅうそのほう万国ともにたぐいし難し、我如何いかにしてこの夫を欺くべけんや、彼の正気は時に鬱屈するといえども、明徳再び光を放つ時は、宇宙に存するすべての善なるもの渾ての美なるものは彼の認むる所となるなり、偽善諂媚てんびは彼の最も嫌悪する所なり、我は彼の威厳を立てんがために我の良心に従わざるを得ず、ただ願う神よ、もし彼に誤解あれば爾の聖霊の力によりてこれを氷解せよ、もし彼に迷信の存するあればなんじの光を以てこれを排除せよ、しかして余再び彼に帰し、彼再び我に和し、旧時の団欒だんらんを回復し、我も彼の一となり、彼をして旭日あさひの登るがごとく、勇者のねむりより醒めしがごとく、この歴史上厄急やくきゅうの時にあたって世界最大国民たるの一助たらしめよ、余は知る誤解のために離別せし夫妻が再びもとの縁に復するやその情愛のこまやかなる前日の比にあらざることを、余もまたこの国に入れられ、この国もまたその誤解を認むるに至らば、その時こそ余の国を思うの情は実に昔日せきじつに百倍する時ならん。
 ああ余は良人りょうじんを捨てざるべし、孤独彼を思うの切なるより余の身も心も消え行けどこの操をば破るまじ、よし余は和解のきたるまでこの浮世にはながらえずとも、何時いつ良人りょうじんが余の心の深底しんていを悟らん時もありぬべし、貞婦の心の一念よりして彼の改むる時もやあらむ、最終まで忍ぶものは幸なり、余も余の神の助にて何をか忍び得ざらんや。
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第三章 基督教会に捨てられし時


(注意)ここに用ゆる基督教ならびに基督信者なる語は普通世に称する教会ならびに信者を謂うものにしていずれか真いずれか偽は全能なる神のみ知りたまうなり
 人は集合する動物なり(Gregarious animal)、単独は彼の性にあらず、白鷺しろさぎのごとく独り曠野に巣を結び、痛切なる悲声、聞くものをして戦慄せしむる動物あり、飜魚まんぼうのごとく大洋中箇々に棲息しただ寂寥を破らんためにか空にむかって飛揚を試むる奇性魚あり、または狸のごとくこのんで日光を避け、古木の下或は陰鬱たる岩石の間に小穴を穿うがち、生れて、生んで、死する、動物あり、されども人は水産上国家の大富源なるにしんたら鯖魚さばのごとく、南米の糞山ふんざんを作る海鳥のごとく、ロッキー山をじ登る山羊のごとく、集合動物にして、古人の言いしごとく単独を歓ぶ人は神にあらざれば野獣なり。
 余はこの未信教国みしんきょうこくに生れ余の父母兄弟国人が嫌悪したる耶蘇教やそきょうに入れり、余の始めてこの教をききし頃は全国の信徒二千に満たず、ことに教会は互いに相離れとおざかりければこの新来の宗教を信ずるものは実に寥々寂々りょうりょうせきせきたりき、しかれども一たびその大道を耳にしてより、これを以て自己を救い国を救うただ一の道と信じたれば、社会に嫌悪せらるるにも関せず、余の親戚の反対するをも意とせず、幾多の旧時の習慣と情実を破りて新宗教に入りしことなれば、寂漠の情は以前に倍せしとともに同宗教における親愛の情は実に骨肉もただならざりき、当時余は思えらく基督教会なるものは地上の天国にしてその内に猜疑憎悪の少しも存することなく、未信者社会においては万事に懸念し、心に存せざることをいい、存する事をいわざるも、この新社会においては全教会員みな心霊における兄弟姉妹なれば骨肉にも語り得ぬことも自由に語るを得、もし余に失策あるともたれも余の本心を疑うものはなきものと確信し、その安心喜楽は実に筆にも紙にも書き尽されぬほどにありき。
 ああなつかしきかな余の生れ出し北地ほくち僻郷へきごうの教会よ、あさゆうに信徒相会し、木曜日の夜半の祈祷会、土曜日の山上の集会、日曜終日の談話、祈祷、聖書研究、たまたま会員病むものあれば信徒こもごも不眠の看護をなし、旅立たびだちを送る時、送らるる時、祈祷と讃美と聖書とは我らの口と心とを離れしひまはほとんどなかりき、たまたまそとより基督信徒のきたるあれば我らは旧友に会せしがごとく、敵地にありて味方に会せしがごとく、うち悦びてこれを迎えたり、基督信徒にして悪人ありとは我らの思わんとするも思うこと能わざりき。
 しかれどもこの小児的の感念は遠からずして破砕せられたり、余は基督教会は善人のみの巣窟にあらざるを悟らざるを得ざるに至れり、余は教会内においても気を許すべからざるを知るに至れり、しかのみならず余の最も秘蔵の意見も、高潔の思想も、勇壮の行績こうせきも、余をして基督教会に嫌悪せしむるに至れり。

 余は基督教の必要なる基本として左の大個条を信ぜり、
主たるなんじの神を拝し惟之ただこれにのみつかうべし
(出埃及エジプト二十章三、四、五、申命記十章二十、馬太マタイ伝四章十)
 しかして神と真理とを知る惟一のみちとしては使徒保羅パウロの語にしてルーテルの信仰の城壁と頼み「プロテスタント」教の基石きせきとなりし左の題字を以てせり、
兄弟よ我なんじらに示す我がかつて爾らに伝えし所の福音は人より出づるにあらず、けだ(ママ)われ之を人より受けずまた教えられず、ただイエス、キリスト黙示もくしによりてうけたればなり
加拉太ガラテヤ書第一章十一、十二)
 これらの確信が余の心中しんちゅうに定まりたればこそ余は意を決して余の祖先伝来の習慣と宗教とを脱し新宗教にりしなり、余は心霊の自由を得んがために基督教に帰依せり、僧侶神官を捨てしは他種の僧侶輩に束縛せられんがためにあらざりしなり。
 宇宙の神を以て余の父の父ととうとみ、彼自身よりの黙示を以て真理の標準と信じ、己の一身を処するにおいても、余の国に尽さんとするにおいても、基督教会に対する余の位置においても、余はことごとくこの標準によりて行わんことを勤めたり、しかるに余の智能の発達するに従い、余の経験の積むとともに、余の信仰の進むと同時に、余の思想ならびに行蹟こうせきにおいてしばしばかの基督教先達者、この神学博士と意見全く相がっするを得ざるに至れり、或は余の一身を処するにおいて忠実なる一信徒より忠告をこうむるあり、いわく、「君の行蹟こうせきは聖典の明白なる教訓に反せり君よろしく改むべし」と、親愛なる友人の忠告として余は再び三度みたび己を省みたり、されども沈思黙考に加うるに祈祷と聖典研究の結果を以てしかしてのち友人の忠告必しも真理なりと信ぜざる時はやむをえず自己の意志に従いたり、友人は余を信ずるを以てあえて余の彼がことばに従わざるを忿いからずといえども、余を愛せざる兄弟姉妹(?)の眼よりは余は聖典の教訓にさからいしもの、基督より後戻あともどりせしもの、特種とくしゅの天恵を放棄せしものと見做さるるに至れり。
 余の神学上の思想についても、余の伝道上の方針についても、余の教育上の主義についても、余は余の真理と信ずる所を堅守するがために或は有名博識なる神学者にとおざけられ、或は基督教会一般より非常の人望を有する高徳者より無神論者として擯斥ひんせきせられ、ついには教会全体より危険なる異端論者、聖書をないがしろにする不敬人、ユニテリアン(悪しき意味にて)、ヒクサイト、狂人、名誉の跡をう野望家、教会の狼、等の名称を付せられ、余の信仰行蹟こうせきを責むるにとどまらずして余の意見も本心もことごとく過酷の批評をこうむるに至れり。
 ああ余は大悪人にあらずや、余は人も我も博識と見認みとめたる神学者に異端論者と定められたり、余は実に異端論者にあらざるか、余にさきんずる十数年以前より基督教を信じしかも欧米大家の信用を有し全教会の頭梁とうりょうとして仰がるる某高徳家は余を無神論者なりといえり、余は実に無神論者にあらざるか、名を宗教社会に轟かし、印度に支那に日本に福音を伝うること十数年、しかも博士の号二三を有する老練なる某宣教師は余はユニテリアンなりといえり、余は実に救主きゅうしゅの贖罪を信ぜず自己の善行にのみ頼むユニテリアンならざるか、伝道医師として有力なる某教師は余を狂人なりとの診断を下せり、余は実に知覚を失いしものなるや、教会全体は危険物として余をとおざけたり、余は実に悪鬼の使者として綿羊の皮をかむりながら神の教会を荒すために世に産出うみいだされし有害物なるか、余を悪人視するものは万人まんにんにして弁護するものはおのれにんなり、万人の証拠と一人の確信といずれが重きや、しからば余は基督信者にはあらざりしなり、余は自己を欺きつつありしものにして余の真性は悪鬼なりしなり、何ぞ今日こんにちよりは基督信徒たるの名を全く脱し普通世人の世涯せいがいに帰らざる、な、ここに留らずして余の今日まで基督教のために尽せし心実と熱心とを以て余を敵視する基督教会を攻撃せざる、何ぞ余のあだの神に祈るを得んや、何ぞ余の敵の聖書を尊敬し研究するを得んや、余はユニテリアンなり、無神論者なり、偽善者なり、神の教会に属すべからざるものなり、狼なり、狂人なり、よし今よりのちはユームボーリンブロークギボンインガソールの輩を学び一刀を基督教の上に試みばや。
 この時にあたって余の信仰は実に風前の燈火とうかのごとくなりし、余は信仰堕落の最終点に達せんとせり、憤怨は余をして信仰上の自殺を行わしめんとせり、余の同情は今は無神論者の上にありき、ジョン、スチワート、ミルの死をききて神に感謝せし某監督の無情を怒れり、トマス、ペーンの臨終の状態を摘要して意気揚々たる神学者の粗暴を歎ぜり、ああ幾干いくばくの無神論者は基督教信徒自身の製造にかかるや、余はかつて聞けり、無病の人をして清潔なる寐床ねどこの上に置きしかして彼は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にありとかたわらより絶えず彼に告ぐれば無病健全なる人もただちに真正の病人となると、人を神よりとおざからしめ神の教会を攻撃せしむるものは必しも悪鬼とその子供にあらざるなり。

 しかれども神よ、わが救主すくいぬしよ、なんじはこの危険より余を救いたまいたり、人聖書を以て余を責むる時これが防禦に足るの武器は聖書なり、教会と神学者は余を捨つるも余のいまだ聖書を捨つる能わざるは余はいまだ爾に捨てられざるの一徴候なり、余は爾の下僕しもべルーテルが我の福音なりとてすがりし加拉太ガラテヤ書に行かん、しかして彼の平易なる独逸語を以て著述せしその註解書を読まん、「今よりのちたれも我をわずらわすなかれ、はわれ身にイエス印記しるしびたればなり」(六章十七節)、ああ何たる快ぞ、余も不足ながらもイエスの名を世人の前に表白せしにあらずや、余も余の罪よりのがれんために「イエス」の十字架にすがるにあらずや、余の信者なると不信者なるとは他人の批評如何いかんによるにあらずして、余にイエス印記しるしあるとなきとによるなり、「義人は信仰によりて生くべし」(三章十一節)と、然り余は今は自己の善行にらずして十字架上に現われたる神の小羊の贖罪に頼めり、この信仰こそ余が神の子供たるの証拠な(ママ)キリストを十字に附けしものは悉皆しっかい悪人無神論者なりしか、彼の弟子を迫害しながら神に尽くしつつありしと信ぜしものもありしにあらずや、約百ジョブの友は彼の不幸艱難を以て彼の悪人たるのしょうとなせり、しかれども神は彼の三人の友に勝りて約百ジョブを愛し賜いしにあらずや、衆人の誹毀ひきに対し自己の尊厳と独立とを維持せしむるにおいて無比の力を有するものは聖書なり、聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人物の休所やすみどころなり、これによりてのみ余は法王にも大監督にも神学博士にも牧師にも宣教師にも抗することを得るなり、余は聖書を捨てざるべし、他の人は彼等に抗せんために聖書を捨て聖書を攻撃せり、余は余の弱きを知れば聖書なる鉄壁の後に隠れ、余を無神者と呼ぶもの、余を狼と称するものと戦わんのみ、何ぞこの堅城を彼らに譲り野外防禦なきの地にたちて彼らの無情浅薄狭量固執の矢にこの身をあらわすべけんや、
With one voice, O world, though thou deniest,
Stand thou on that side ― for on this I am !
〔世人は同音一斉に我をこばむとも
彼らは彼方かなたに立て、我独り此方こなたに立たん〕
 時に悪霊あくれい余につげていわく、「汝いまだ若年、経験積まず、学修まらず、何ぞ汝の身を先達老練家の指揮に任ぜざる、自己の言行を以て最良なるものと見做すは平凡人のなす処にして、汝が他人の言を容れざるはこれ汝が高慢不遜なるのしょうなり、汝は自己を以て最も才智ある最も学識ある最も経験あるものと致すや」と。
 余は余の無学無智なるを知る、また大監督神学博士の声名決してかろんずべからざるを知る、しかれども余の無学なるが故に余は余の身も信仰もはたらきもこれら高名の人の手にまかすとならば余はいまだ自己を支配するあたわざるものなり、余にしてこれと彼とを分別するの力なきならば余は誰によりて身を処せんや、見よ彼ら余の不遜を責むるものも相互あいたがいに説をことにするにあらずや、監督教会は自己の教会を称して The Church(惟一の教会)といい、一方には羅馬ろま教会の擅行せんこうを批難しながら他方には他の新教徒に附するに Dissenters(分離者)とか Nonconformists(不合者)とかの聞きにくき名称を以てするにあらずや、余は組合派の教師が余が最も信任するメソヂスト派の教師を罵詈するを耳にせり、ユニテリアンオルソドックスの迷信を笑い、後者は前者の不遜異端を責むるにあらずや、その他長老派の固執こしつなる、浸礼派の独尊なる、或は「クリスチャン」派とか、新エルサレム派とか、ブラダレン派とか、おのおのその特種の教義を揚言し、自派を賞賛して他派を蔑視するにあらずや、博識才能あるもの何ぞ一派の特有物ならんや、余にして自己の信仰を定むるあたわざれば余は果していずれの派に己を投ずべきか、カルヂナル、マニングが天主教会の高僧なりしが故に余は法王の命に従うべきか、監督ヒーバーヂーン、スタンレーが英国監督派なりしが故に余は監督教会に属すべきか、ジャドソンが浸礼教会の人なりしが故に余は「バプチスト」たるべきか、リビングストンが長老教会の人なりしが故に余もまた彼と教派を同うすべきか、もし人物を以て余の教会上の位置を定むべしとなれば余はユニテリアンたるべきなり、何となれば余の最も尊敬するチャニングガリソンローエルのごときはユニテリアン教に属したればなり、余はクエークルたるべきなり、何となればジョージ、フ※(小書き片仮名ホ、1-6-87)クスウイリヤム、ペンスチーベンクレレットウイスター、モリスはい友会派ゆうかいはの人たりしなればなり、余は普通基督教徒がもくして論ずるに足らざるものと見做す小教派の中にも靄然あいぜんたる君子、貞淑の貴婦人を目撃したり、悪魔よ汝の説教をめよ、もし余にして善悪を区別し、之を撰び彼を捨つるの力を有せざれば、余は他人の奴隷となるべきものなり、心霊の貴重なるはその自立の性にあり、我ちいさきものといえどもいやしくも全能者と直接の交通を為し得べきものなり、神は法王監督牧師神学者輩の手を経ずして直接に余を教え賜うなり。
ああ真理なる神よ、願くは余をして永久の愛においてなんじと一ならしめよ、余は時々多くの事物に関して読みかつ聞くにめり、余の欲する処望む処はことごとく爾において存するなり、すべての博士たちをして黙せしめよ、万物ばんもつは爾の前に静かならしめよ、しかして爾のみ余に語れよ。
トマス、アー、ケムピス
 他人の忠告決してかろんずべきものにあらず、人は自身のかおを見るあたわざるがごとく社会における己の位置をも能く見ること能わざるべし、一切万事わがこころを押通さんとするは傲慢頑愚のちょうにして我らのよろしく注意すべきことなり。
 さればとて自己の意見を以てことごとく信憑しんぴょうすべからざるものと断念するもまた弱志病意の徴候なり、ここに博士モヅレーの言を聞け、
“It is not partiality to self alone upon which the idea is founded that you see your own cause best. There is an element of reason in this idea; your judgment even appeals to you, that you must grasp most completely yourself what is so near to you, what so intimately relates to you; what by your situation, you have had a power of searching into.”―― Mozley's Sermon on “War”.
 人はことさらに能くその申分を判別し得べしとの観念は必しも自己に対する偏頗心へんぱしんにのみ依るにあらずして公平なる理由のそのうちに存するあり、吾人の理達りたつに訴うるも吾人は吾人に接近する、吾人に緻密なる関係を有する、吾人の位置よりして自由に探究し得る事物については、吾人みずから最も充分にこれを会得し得べきは明らかなり。
「戦争」と題する説教中博士モヅレーの語
 余は日本人なり、ゆえに日本国と日本人民に関しては余は英国の碩学よりも、米国の博士よりも完全なる思想を有すべきものにして、この国とこの民とを教化せんとするにおいては余は彼等に勝りて確実なる観念を有することは当然たるべきなり、余はアイヌ人の国に到れば余のアイヌ人に勝る学識を有するの故を以てアイヌ人に関するアイヌ人の思想をかろんぜざるなり、余は小径こみちを山中に求むる時は余の地理天文に達しるが故に樵夫しょうふの指揮を見貶みくださざるなり、余の国と国人とに関して余が外国人の説をことごとく容れざるは必しも余の傲慢なるが故にあらざるなり、日本は余の生国にして余の全身はこの国土に繋がるるものなれば余のこの国に対する感情の他国人に勝るは当然なり、利害の大関係ある余の自国に関する余の観念は他国人のこの国に対する観念よりも健全にして確実なりと信ずるは決して自身を賞揚するのはなはだしきものというべからざるなり、また余の一身の所分についても余は余自身の事に関しては最大最良なる専門学者なり、神の霊ならでは神のことを知るものなし、余の霊のみ余のことを知るなり、余の神に対する信仰またしかり、余に最も近くかつ余の最も知り易きものは神なり。
God is the only immediate and outward object of the soul ― external objects of sense are but mediately and directly known. ―― Leibnitz
 〔心霊以外のものにして直接に識認し得るものは神のみ、感能を以て知り得る外物はただ間接にのみ認め得べし――ライプニッツ〕
 余は余の神を知るにおいてはプロテスタント教徒全体が羅馬法王ろまほうおうの取次を要せざるがごとく監督または「デヤコ」または牧師または執事または勧士の取次をも要せざるなり。
 反対論者いわく、もし君の説のごとくならば教会の用何処いずこにか存する、人は一箇人として立つあたわざればこそ教会の必要あるにあらずやと。
 浅薄あさはかなる議論なり、視ずや同様なる議論を以て天主教会は千五百年来他の基督教徒を責めつつあるなり、同様なる議論を以てアリビゼンス教徒は殺戮せられ、セルビタスは焼殺せられたり、教会なるものは神の子供の集合体にして無私公平和愛慈悲の凝結なり、真正の信徒ありて教会あるなり、教会ありて信徒あるにあらず、信徒は自然に教会を造るものなり、あたかも同じ幹より養汁を吸収しつつある枝葉は一植物たるがごとし、人は真理を知るの力を有し、ただちに神の「インスピレーション」に接するを得るものなりとは余が基督教基本の原理と信ずる処なり、真理は真理のあかしなり、教会必しも真理の証にあらざるなり、教会は真理を学ぶにおいて善良なる扶助なるべけれども、真理は教会外においても学び得べきものなり。
“The destruction of the theory of the infallibility of the Bible has been one of the means by which we have been prevented from resting in the external and mechanical, and driven to what terrifies us at first as the intangibility and vagueness of the Spirit.”―― Rev. J. Llewellyn Davies, in the Fortnightly Review, reprinted in the Library Magazine of March, 1888.
 聖書無誤謬説の破壊は我らをして外形的ならびに器械的の基礎を捨てしめ、手にて触るる能わざるもの、定義を付する能わざるものとして我らが始め恐怖せし霊の土台にらざるを得ざらしむるものなり。
リューウェリン、デビス教師の語
 教会無誤謬説も聖書無誤謬説と同時に中古時代の陳腐に付せる遺物として二十世期の人心より棄却すべきものなり。

 これ理論なり、しかれども世はいまだ理論の世にはあらざるなり、憎愛ぞうあいは理論的にあらず、人は服従を愛して抵抗をにくむものなり、たとい余は理論上確実なるにもせよ余の先輩と説を同うせずその指揮に従わざれば余はその保護のしたに置かれざるは決して怪むべきにあらざるなり、余は教会に捨てられたり、余は余の現世の楽園と頼みし教会より勘当かんどうせられたり。
 ああ神よ、この試錬にして余のいまだ充分になんじを知らざる時に来りしならば余は全く爾の手より離れしならん、しかれども爾は余に堪ゆ能わざるの試錬をくださず、教会は余が自立し得る時にあたって余を捨てたり、教会我をすてし時に爾は我を取り挙げたり、余の愛するものさって余はますます爾に近く、国人こくじんに捨てられて余は爾のふところにあり、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。
 教会が余を捨てざりし前は余は教会外の人を見る実に不公平なりき、余は思えらく基督教外に善人あるなしと、余は未信徒を以て神の子供と称すべからざるものと思えり、しかるに教会が余を冷遇し、その教師信徒が余の本心さえも疑う時、教会外の人にしてかえって余の真意を諒察するものあるを見て、余は天父の慈悲はなお多量に未信徒社会に存するをさとれり、また教会外にたって局外よりこれを見る時は今日までは神意の教導によりて歩む仁人君子の集合体と思いしものもまたその内に猜疑せいぎ、偽善、佞奸ねいかんの存するなきにあらざるを知れり、尖塔せんとう天を指して高く、風琴ふうきん楽を和してゆうなる処のみ神の教会ならざるを知れり、孝子家計の貧を補わんがために寒夜に物をひさぐ処これ神の教会ならずや、貞婦良人おっとの病を苦慮し東天いまだ白まざる前に社壇にがんを込むる処これ神の教会ならずや、余世の誤解する所となり攻撃四方に起る時友人あり独りたって余を弁ずる時これ神の教会ならずや、ああ神の教会を以て白壁または赤瓦せきがの内に存するものと思いし余のつたなさよ、神の教会は宇宙の広きがごとく広く、善人の多きがごとく多し、余は教会に捨てられたりしかして余は宇宙の教会に入会せり。
 余は教会に捨てられて始めて寛容寛宥の美徳を了知するを得たり、余が小心翼々神と国とにつかえんとする時にあたって、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐きついに或は余を悪人と見るに至れり。
 ああ余は余が佗人たにんをさばきしごとくさばかれたり(馬太マタイ七章一、二)、余も教会にありしうちは余の教会外の人を議するにあたってかくありしなり、基督教を信ぜざるが故に未信者は皆信用すべからざるものなり、法王に頼むが故に天主教徒は汚穢なる豕児ぶたご(Foul swine,ルーテルの語)なり、魯国ろこく宣教師に教化されし希臘ぎりしゃ教徒は国賊なり、監督教会は英国が世界を掠奪せんがための機関にしてその信徒は黄白こうはくのために使役せらるる探偵なり、長老教会は野望人士の集合所なり、メソヂスト教会は不用人物の巣窟なり、クエークル派は偽善なり、ユニテリアン派は偶像教にまさる異端なりと、もし某氏の宗教事業のさかんなるを聞けばいわく、彼世人にへつらうが故に彼の教会に聴衆多しと、某氏の学校の隆盛を聞けばいわく彼高貴にこぶるが故に成功したりと、余は思えらく真正の善人にして余と説を同うせざるの理由なしと、天主教徒たり、ユニテリアンたり、メソヂストたり、プレスビテリヤンたり、みなおのおの肉慾の充たすべきものあればこそしかるなれと、しかれども教会に捨てられてより余の眼は開き、余の推察の情はとみに増加せり、学説をことにしても本心は善人たるを得べしとの大真理は余はこの時において始て学び得たり、真理は余一人のゆうにあらずして宇宙に存在するすべての善人の有たることを知れり、心の奥底より天主教徒たる人を余は想像し得るに至れり、充分なる良心の許可を得てユニテリアンたることを余は疑わざるに至れり、余は始めて世界に宗教の多き理由と同宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり、真理は富士山の壮大なるがごとく大なり、一方よりその全体を見るあたわざるなり、駿河より見る人はいう富士山の形はかくなりと、甲斐より見る人はいうかくなりと、相模より見る人はいうかくなりと、駿河の人は甲斐の人にむかって汝の富士は偽りの富士なりというべけんや、もしみずから甲斐にゆきてこれを望めば甲州人の言無理ならざるを知るべし、人間の力なきことと真理の無限無窮なることとを知る人は思想のために他人を迫害せざるなり、全能の神のみ真理の全体を会得し得るものなり、他人を議する人は自己を神と同視するものにして傲慢ちょう悪霊あくれいとりことなりしものなり、己れ人に施されんとすることをまた人にもそのごとくほどこせよ、余は無神論者にあらざれど余は無神論者視せられたり、余はユニテリアンならざるにユニテリアンとして遠ざけられたり、余を迫害せしものは余の境遇と教育と遺伝とを知らざるが故に余の思想を解する能わずして、余が彼らと同説を維持せざるが故に余を異端となし悪人となせり、余は今よりのち余と説を異にする人を見るにしかせざるべし、欧米人が日本人の思想をことごとく解し能わざるがごとく日本人も欧米人の思想を全く解することかたかるべし、然り寛容は基督教の美徳なり、寛容ならざるものは基督教徒にあらざるなり。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(ママ)

 教会に捨てられしものは余一人にあらざるなり。
会堂にありしものこれをききて大に憤り、たちイエスまちの外に出し投下なげおろさんとて、その邑の建ちたる崖にまで曳き往けり。
路加ルカ伝第四章二十八、二十九)
 基督に依て眼を開かれしものも教会より放逐せられたり、
彼ら答えていいけるは、なんじはことごとく※(「(屮/師のへん+辛)/子」、第4水準2-5-90)つみうまれし者なるにかえって我らを教うるか、ついに彼を逐出おいいだせり、彼らが逐い出ししことを聞き、イエス尋ねてこれに遇いいいけるは、爾神の子を信ずるか、答えていいけるは主よ彼としてわが信ずべき者はたれなるや、イエスいいけるは、なんじすでに彼をみる今なんじと言者ものいうものはそれなり、主よ我信ずといいて彼を拝せり。
約翰ヨハネ伝第九章三十四―三十八)
 ルーテルも放逐せられたり、ロージャ、ウイ※(小書き片仮名ル、1-6-92)リヤムスも放逐せられたり、リビングストンが直接伝道を止めて地理学探※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)に従事せしが故に英国伝道会社の宣教師たるを辞せざるを得ざるに至りしごとく、またの支那における米国宣教師クロセット氏が普通宣教師と異なる方法を採り北京の窮民救助に従事せしに依てついに本国よりの補給を絶たれ支那海において貧困の中に下等船客室内に死せしがごとく、或は師父ダミエンが生命をなげうってモロカイ島の癩病患者を救助し死してのち彼の声名天下に轟きしや或る米国の宣教師にして神学博士なる某が一書をあらわしてこの殉教者生前の名誉を破毀せんとせしがごとく、教会に捨てられ信者に讒謗ざんぼうされ悪人視せらるるは決して余のみにあらざるなり。
世ににくまるるは われのみならず、
イエスはわれよりも いたくせめらる、
 されどもああ神よ、余はちょくは全く余に存してきょくはことごとく余を捨てし教会にありとは断じて信ぜざるなり、余に欠点の多きは爾のしろしめすごとくにして余の言行の不完全なるは余の充分爾の前に白状する所なり、ゆえに余は余を捨てし教会を恨まざるなり、その内に仁人君子の存するありてその爾のために尽せし功績は決して少々ならざることは余の充分に識認する所なり、その内に偽善圧制卑陋ひろうの多少横行するにもせよ、これ爾の御名みなを奉ずる教会なれば我何ぞこれを敵視するを得んや、余の心余の祈祷は常にその上にあるなり、余は世に「リベラル」(寛大)なりと称する人が自己のごとく「リベラル」ならざる人を目して迷信と呼び狭隘と称して批難するを見たり、願くは神よ余に真正の「リベラル」なる心を与えて余を放逐せし教会をも寛宥するを得せしめよ。
 余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし、さらば余は神を拝し神にちかづくための礼拝堂を有せざるか。
 の西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞せんじん、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹しゅうよう比翼をのばして天上の祝福を垂るるあり、夕陽せきようすでに没せんとし、東山のむらさき、西雲のくれない、ともに流水鏡面に映ずる時、独り堤上を歩みながらせにし聖者と霊交を結ぶに際し、ベサイダの岩頭、「サン、マルコ」の高壇、余に無声の説教を聴かしむるあり、激浪岸をうって高く、砂礫白泡とともに往来する所、ベスホレンの凱歌、ダムバーの砲声、ともに余の勇気を鼓舞するあり、然り余は無教会にはあらざるなり。
 しかれども余も社交的の人間として時には人為の礼拝堂につどい衆とともに神をめともに祈るの快を欲せざるにあらず、教会の危険物たる余はたって余の感情を述べ他を勧むるの特権なければ、余はひそかに坐を会堂の一隅燈光暗き処に占め、心に衆とともに歌い、心に衆とともに祈らん、異端の巨魁たる余は公然高壇の上に立ち粛然福音をべ伝うるの許可を有せざれば、余は鰥寡孤独かんかこどくうれいに沈むもの、或は貧困縷衣るいにして人目ひとめはばかるもの、或は罪にはじ暗処あんしょに神のゆるしを求むるもののもとを問い、ナザレ耶蘇いえすの貧と孤独とめぐみとを語らん、ああ神よ余は教会をさってもなんじを去る能わざるなり、教会に捨てらるる不幸は不幸なるべけれども爾に捨てられざれば足れり、ねがわくは教会に捨てられしの故を以て余をして爾を離れざらしめよ。
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第四章 事業に失敗せし時


 基督教は人を真面目になすものなり、青年これによりてすでに老成人ろうせいじんの思想あり、少女これによりてすでに老媼ろうおうの注意あり、そは基督教は物のじつを求めしめてその影をかろんぜしむるものなればなり、小説の玩読芝居の見物は変じて歴史の攻究社会の観察となり、野望的の高名心は変じて沈着なる事業の計画となり、自己尊大の念は公益増進の希望と変じ、「如何いかにしてこの国とこの神とにつかえんか」との問題について日も夜も沈思するに至る。
“When I was yet a child, no childish play
To me was pleasing; all my mind was set
Serious to learn and know, and thence to do
What might be public good; myself I thought
Born to that end.”―― Milton, Paradise Regained.
 宗教にして事業心を喚起せしむるものは基督教なり、事業と宗教とはおのずからその性質をことにするものなりとの観念は普通人間の抱懐する所なり、事業とは活溌なる運動を意味するものにして、宗教とは清粛隠遁をいうものたるがごとし、余輩よはいいまだ仏教の熱心家にして教理のために大事業を企てし人あるを聞かず、釈氏しゃくしの理想上の人物は決して事業家にはあらざりしなり、しかれども基督教の特徴として世の事業をおもんずるのみならずこれを信ずるものをしてく大事業家たるの聖望せいぼうを起さしむ、カーライルのいわゆる Peasant-saint(農聖人)、すなわち手にすきを取りながら心に宇宙の大真理を貯うる人、これ基督の理想的人物にして、基督彼自身もまた僻村ナザレの一小工なりし。
 余も基督信徒となりしより芝居も寄席も競馬も弄花ろうかもことごとく旧来の玩味を去り、独り事業ちょう念はしきりに胸中に勃興してほとんど禁ずるあたわざるに至れり、或はリビングストンを学び、「利慾のために商人の通過し得る処何ぞ基督の愛に励まさるる宣教師の通過し得ざるの理あらんや」といいつつ亜弗利加あふりか大陸を横断せしにならい、我もまた新宗教の感動の下に南洋または北海無人の邦土を探求せんか、或はどくシュワーツ(Christian Friedrich Schwartz)を学び、未開国の教導師となり、仁愛の基礎の上にその国是こくぜを定めんか、或はえいウイリヤム、ペンを学び、荒蕪こうぶを開き蛮民と和し、純然たる君子国を深森広野の中に建立けんりつせんか、或はべいピーボデーを学び、貧よりおこって百万の富を積み、を養いを慰め、大慈善の功績を挙げんか、休言いうをやめよ、基督教に世の快楽なしと、この希望この計画――ああ実に余は余の生涯の短きを歎ぜり、事業、事業、国のための事業、神のための事業、――ああ世に快と称するものの中何物かこの快楽にまさるものあらんや。
 余はかつて思えらく、自己のために富貴たらんことを祈るは罪なり、神必ずかくのごとき祈祷を受け賜わざるべしと、名誉を得んがための祈祷もまた然り、されども他を益せんがために祈ることは神の最も悦び賜う所にして、かかる祈祷は必ず聴かれ、余の事業は必ず成功に至らんと、よりて万事をうち捨てて余の神聖なる希望を充たさんことを勉めたり、もちろん基督信徒として余は世にび高貴におもねり以て余の目的を達すべきにあらず、余の頼むべきは神なり、正義なり、「或は車を頼み或は馬を頼みとする者あり、されど我らはわが神エホバの名をとなえん」(詩篇二十篇七)。
 この時こそ実に余にとりては最も多望なる最も愉快なる時なりき、余の前途妨害なるものなく、余の心中に失敗なる字の存するなし、余は宇宙の神を信じ万人のために大事業を遂げんと欲す、成功必然なり、神います間は余の事業の成功せざる理由あるなし、見よ世の事業家の失敗するは自利のために計り栄光の神を信ぜざればなり、余は然らず、余の事業は公益のため神のためなり、もし余にして失敗するならば神は存せざるなり、正理は誤謬なり。ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(ママ)
 しかるに余の愛する読者よ余は失敗せり、数年間の企図と祈祷とは画餅に属せり、しかして余の失敗より来りし害は余一人の身に止まらずして余の庇保ひほもとにある忠実なる妻勤勉なる母の上にも来れり、余は世間の嘲弄を蒙れり、友人は余の不注意を責め、余の敵は余の不幸を快とせり、悪霊あくれいこの機に乗じ余に耳語じごしていわく「汝無智のものよ、方便は事業成功の秘訣なるを知らざるか、精神のみを以て事業を為し遂げ得べしと一(ママ)に思いしおさな心の憐れさよ、某大事業家を見よ、彼は学校を起すにあたって広く世の賛成を仰ぎ、少々は良心に恥ずる所あるとも数万すまんの後進を益することと思えば意を曲げ膝を屈し以て莫大の資金を募り得しにあらずや、「摂理は常に強大なる軍隊とともにあり」とのナポレオン第一世の語は実に事業家の標語たるべきものなり、見よ某牧師は常に正義公道の利益を説くといえども、彼みずから会堂を新築し教理を伝播せんとするや必ず世の方法を取るにあらずや、正義公道とは天使の国においては実際に行わるべけれどもこの人間世界においては多少の法略と混合するにあらざれば決して行わるべきものにあらず、汝今日より少しく大人気おとなげなれ、真理だとか愛国だとかいうことは好加減よいかげんにせよ、然らざれば汝自身失敗に失敗を重ぬるのみならず、罪なき汝の妻子父母も汝とともに悲哀の中に一生を送らざるを得ず、かつまた汝の益せんとする公衆も汝の方法を改むるにあらざれば汝より益を得ることなし、汝何ぞ国のため汝の愛する妻子のために忍ばざる、神は汝より無理の請求を為さず、法略は今世こんせいの必要物なり、法略と虚言とはみずから異る処あり、汝解せしや否や」と。
 ああたれかこの巧みなる論鋒に敵するものあらんや、事実は確実なる結論者なり、余は経験によりて正義公道の無功力なるを知れり、悪霊の説論せつろんこれ天よりの声ならずや、我らは経験に依てのみ事物の真相を知るを得るなり、しかして経験は余の希望に反せり、過而勿憚改あやまってあらたむるにはばかるなかれ、何ぞ公平なる学者として、勇気ある男子として、今日までの迷信を脱し、国のため神のため少しく法略を利用して前日の失敗をあがなわざる。
 時に声あり内より聞ゆ、その調子の深遠なる永遠より響き来るがごとし、その威力ある宇宙の主宰の声なるがごとし、余の全身を震動せしめていわく、「正義は正義なり」と、しかしてのち粛然しゅくぜんたり。
 ああ如何いかにすべきや、たれかこの声に抗するものあらんや、しからばたおるるとも正義を守れとのいいか、ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
 ああ余は悟れり余の神よ、正義は事業より大なるものなり、な正義は大事業にして正義を守るにまさる大事業のあるなし、人世の目的は事業にあらざるなり、事業は正義に達するのみちにして正義は事業の侍女こしもと(Handmaid)にあらざるなり、教会も学校も政事も殖産も正義を学びこれに達するための道具なり、現世における事業の目的は事業その物のためにあらずしてこれに従事するもののこれに由て得る経験鍛錬堪忍愛心にあるなり、基督教は事業よりも精神を尊ぶものなり、そは精神は死後永遠まで存するものにして事業は現世とともに消滅するものなればなり、支那宣教師某四十年間伝道に従事し一人の信徒を得ず、しかれども喜悦以て今世をれり、彼は得し処なかりしや、な、師父ザビエーは東洋において百万人以上に洗礼を施したりといえどもおそらくは現世より得し真結果においてはこの無名の一宣教師に及ばざりしならん、ああ事業よ事業よ幾干いくばくの偽善と卑劣手段と嫉妬とあらそいとは汝の名により惹起ひきおこされしや。
 ああしかるか、しからば余の失敗せしは必しも余の罪にあらず、また神の余を見捨みすて賜いし証拠にあらず、また余の奮励祈祷の無益なるを示すにあらざるなり、然りもし正義が事業の目的ならば正義を発表するにおいて正義を維持するにおいて最も力ありし事業こそ最も成功ありし事業なり(ママ)、基督教の主義よりいえば正義これを成功という、正義を守るこれ成功せしなり、正義よりもと[#ルビの「もと」はママ]るまた正義より脱する(たとい少しなりとも)これを失敗という、大廈たいかくうそびえて高く、千百の青年その内に集り隆盛を極むるの学校事業必しも成功事業にあらざるなり、その資金の性質、その設立者の精神はその成功不成功の標準なり、仁政これを成功なる政事という、いわゆる政治家の術を学び、是と和し彼と戦い、是に媚び彼と絶ち、如何いかに外面上の国威を装うにもせよこれ失敗せる政治なり、義人は信仰によりて生くべし、兵器軍艦増加せし故に成功せりと信ずる政治家、教場美麗にして生徒多きが故に成功せりと信ずる教育家、壮宏なる教会の建築おえて成功せりと信ずる牧師、帳面上洗礼を受けしものの増加せしを以て伝道事業の成功せしと信ずる宣教師――これらはみな肉眼を以て歩むものにして信仰に依て生くるものにあらざるなり、玩弄物がんろうぶつもてあそぶ小児なり、木石を拝する偶像信者なり、黄土の堆積を楽む守銭奴なり、しかして基督信者にはあらざるなり、聖アウガスチンいわく「大人たいじんの遊戯これを事業という」と、ああ余も余の事業を見ること小児の玩弄物を見るがごとくなりし、余はここにおいて始めて基督の野のこころみの註解を得たり、馬太マタイ伝四章にいわく、
さてイエス聖霊に導かれ悪魔にこころみられんために野に往けり、四十日四十夜くらうことをせずのちうえたり、試むるものかれに来りていいけるはなんじもし神の子ならば命じてこの石をパンとよ、イエスこたえけるは人はパンのみにていくるものにあらずただ神の口よりいづすべてことばるとしるされたり、ここにおいて悪魔彼をきよみやこに携えゆき殿みや頂上いただきに立たせていいけるは爾もし神の子ならばおのが身を下へなげそはなんじがために神その使つかいたちに命ぜん彼ら手にて支え爾が足の石に触れざるようすべしと録されたり、イエス彼にいいけるは主たる爾の神を試むべからずとまた録せり、悪魔また彼を最高いとたかき山に携えゆき世界の諸国とその栄華えいがとを見せてなんじもし俯伏ひれふして我を拝せばこれらをことごとくなんじに与うべしと曰う、イエス彼にいいけるはサタン退しりぞけ主たる爾の神を拝しただこれにのみつかうべしとしるされたり、ついに悪魔かれを離れ天使てんのつかいたち来りつかう。
(一節より十一節まで)
 基督すでにとし三十に達しうちに省みそとに学びついに世の大救主たるを自覚するに至れり、彼の再従兄バプテスマのヨハネも彼にこの天職あるを認め神の小羊として彼を公衆に紹介せり、皇天こうてんも彼の自覚とヨハネの見解とを確かめんために聖霊を鳩のごとくくだして彼の上にやどらせり、しかれども如何いかにしてこの世を救わんかこれ基督を野に往かしめし問題なり、(馬可マルコ伝一章十二節「往かしめし」は英語の Driveth 希臘語の Ekballei「無理にいやる」の意なり)。
 彼うえたり、しかしてのち世界億千万の食足らずして饑餓に苦しむを推察せり、(醍醐天皇寒夜にころもを脱して民の疾苦を思いし例を参考せよ)、基督思えらく「我は慈善家となりて貧民を救わん、我に土石を変じて「パン」となすの力あり、億万の空腹たちどころにみたすべし」と、されども聖霊彼につげていわく「饑餓を救うは一時の慈善なり、爾の救世の事業は永遠にまで達すべきものなれば、億万斤の「パン」といえども決して為し得べきものにあらず、神の口よりづるすべてのことばこそ真正しんせいの「パン」なり(ママ)、爾の天職は世のいわゆる慈善事業にあらざるなり」と。
 慈善家たるの念を断ち、彼一日聖殿みや頂上いただきに登り、眼下に万人の群集するを見し時、悪霊再び彼に耳語じごしていわく「なんじは爾の思想をこれらの民に伝えんと欲す、しかれども爾はナザレの一平民にしてたれも爾の才力と真価直しんかちょくとを知るものなし、ゆえに爾ず己が身を下になげよさらば衆人爾の技倆に驚き爾に注目するに至らん、民の名望一たび爾のゆうに帰せば彼らを感化するたなごころかえすより易し」と、しかれども天よりの声はいわく「真理は虚喝手段を以て伝え得べきものにあらず、民の名望によりて彼らを教化せんとす是れ神を試み己を欺くなり、法便は救世術としては価値なきものなり」と。
 基督は慈善家たらざるべし、彼は法便を使用し民の耳目じもくを驚かして世を救わざるべし、しかれども彼一日高き山に登り、眼下に都府村落の散布せるを見、国土を神の楽園と為し得べきを思いしや、彼の胸中に浮びし救世の大方策は彼大政治家となりて社会改良をとげんとするにありき、彼思えらく、我に世界を統御するの才能あり、我一挙して羅馬人ろまじんを放逐し、神の特種の撰択にかかる猶太ゆだや人民を率い世界を化して一大共和国となし、仁を施し民を撫育ぶいくし、真正の地上の王国を建立けんりつせんと、しかるに彼の良心はこの高尚なる希望をも彼に許さず、社会改良事業は正義堂々主義一歩を譲らざるものの為し遂げべきものにあらず、必ず彼にふくし是を拝し、円滑完満の政略を取らざるを得ず、然り我は主義にのみり救世の事業を実行せんのみ、サタンよ退しりぞけ、汝の巧言を以て我をみだすなかれ、我は目前の救助は為し得ずとも、我は国人の知る所とならず幽陰以て世を終るとも、我の事業は事物の上に現われずといえども、我は我の神を拝しただこれにのみつかうべしと、基督の決心ここにおいて定まり、生涯の行路彼に指示しし[#ルビの「しし」はママ]されたれば、悪魔は彼を説服ときふくするに由なく、ついに彼を去りたれば天使来りて彼につかえたり。
 基督の方向ここに定まりて彼の生涯は実にこの決定のごとくなりし、彼は衆人の饑餓を充たし得ざりしのみならず彼の死せんとするや彼の母さえも彼の弟子に依頼せざるを得ざるに至れり、天下の名望は一として彼に存するなく、彼は悪人として、神を※(「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29)けがすものとして、刑罰に処せられたり、彼は一つの教会一つの学校をも建つることなく、事業として見るべきものはわずかに十二三人の弟子養成のみなりき、しかれどもこの人こそ世界の救主きゅうしゅにして神の独子ひとりご人類の王にあらずや、実に然り、霊魂を有する人類には事業に勝る事業あるなり、世の事業を以て汲々たる信者はよろしく事業上基督の失敗に注目せざるべからず。
 もし基督にして慈善家たりしならば如何いかんジョージ、ピーボデー(George Peabody)にまさり、スチブン、ジラード(Stephen Girard)に勝り、百千万の貧民孤児は彼の施餓鬼にあずかりしならん、しかれども「ヤコブの井戸の清水を飲むものはまた渇かん」と、彼がかつてサマリヤの婦人に教えしごとく、彼がかつて五千人を一時に養いし時多くの人は「パン」を得んがために彼の跡に附き従いしごとく、永遠かわくことなき水、永遠することなき「パン」を彼はこの世に与え得ざりしならん、世には貧民に衣食を給するに勝る大慈善あり、エモルソン氏いわく、
人もし我に衣食を給するも我はいつかこれに充分なるむくいを為さざるべからず、(直接間接に)、我受けて後これによりて富まず貧ならず、ただ智識上ならびに道徳上の補助は十全の利益なり。
 しかのみならずもし基督にして慈善家たりしならば彼の慈善は彼一代に止て万世に至らざりしならん、視ずや彼の愛に励まされて幾多の慈善家が彼の信徒の内に起りしを、ジョン ハワードサラ マーチンエリザベス フライ、の監獄改良事業は全く彼等が基督に対する報恩心より発せしものにあらずや、ウイ※(小書き片仮名ル、1-6-92)リヤム、ウイルバフ※(小書き片仮名ホ、1-6-87)ース(William Wilberforce)ならびにシャフツベリー侯の慈善事業もまた然り、記者永く米国に在りて基督教国における慈善事業のさかんなる実に東洋仏教国において予想だもする能わざるを見たり、救霊上善行に価値を置かずして善行を励ますに最も力ありしものは基督教なり、比較上現世はほとんど顧みるに足らざるものと見做みなして現世を救い進歩せしめしにおいてもっとも功ありしものは基督教なり、基督もし慈善家たりしならば彼の慈善事業は知るべきのみ。
 基督もし名望法便を利用して民を教化せしならば如何いかん、基督教は永遠まで人霊を救うの潜勢力を有する宗教にあらずして、仏教の今日あるがごとく早やすでに衰退時代に至りしならん、法便必しも明白なる虚言にあらず、しかれども基督の「な否なしかり然り」の大教理は法便ちょうものの功用を全く否定したり、基督信者にして高貴名望家に依て教理を伝えんとするもの、学識爵位を以て下民の尊敬を基督教につながんとするもの、会堂の壮大を以て信徒を増加せんとするものはみな基督の第二の誘惑に陥りしものにして、法便を利用する浅薄なる仏教信徒と大差あることなし、基督は法便を退しりぞけて彼の信者たるものに単純正直せいちょくの真価直を示せり、しかるに彼の信者にしてその事業の速成を願い塔の頂上より身を投ずる愚と不敬とを学ぶものあるは実に歎ずべきにあらずや。
 基督もし大政治家たりしならば如何いかん、彼はシーザルまさシャーレマンに勝り、時の羅馬ろま帝国を一統し、奴隷を廃し、税則を定め、堯舜ぎょうしゅんの世アウガスタスの黄金時代に勝る楽園国を地上に建てしならん、しかれどもこれ彼の「否な否な然り然り」の直道ちょくどうを以て実行し得べきものにあらず、是と和し彼と戦い、軍略政策ふたつながらその宜しきを得ざればとうてい為し能わざりしならん、彼のピートル大帝は巨人なり、しかれどもたれか彼を以て君子仁人となすものあらんや、フレデリック大王もまた絶世の建国者なり、しかれども誰か彼を以て人類の摸範と見上みあぐるものあらんや、基督は万世に至るまでこの世を救うべきものなれば彼は政治家たるべからざりしなり。
 想い見る十六世紀の終にあたって仏蘭西ふらんすに内乱の起るや、王室は人民の多数とともに天主教を奉じ、加うるにギース家のこぞってこれを賛助するあるを以て新教徒すなわちヒューゲノー党の苦戦む時なく、前者に富と権力あり、後者に精神と熱心あり、この時にあたってヒューゲノー党のよりて以てたのみとなせし唯一の人物はナバールの大公ヘンリーなりき、彼とし若くして武勇に富み、しかも仏王ルイ九世の正胤せいいんにして王位をむべき充分の権利と資格とを有せり、しかれども彼プロテスタント教徒たるが故にこの栄誉に達するを得ず、わずかに微弱なる反対党の将となり、しばしば忠実なる彼の小軍隊を以て敵の大軍を苦しめたり、彼は彼の党を愛し、彼また彼の党に愛せられたり、しかるに一日彼は心中に思えらく、「我この党を率いて全国に抗し戦乱止む時なく、国民塗炭に苦しむここに十数年、我の忠実なる兵卒にして我のためにかばねを戦場にさらせしものその幾千なるを知らず、我何ぞ永くこの悲劇を見るに忍びんや、我もし一歩を譲れば我の血統我の名望必ず我をして仏国を統一せしむに至らん、その時こそ我はヒューゲノー党に信仰の自由を与え、旧新両教徒を和合し、仏国をして強富幸福なる国民となし得べし、我何ぞわが国のため、わが忠愛なる士卒のために忍ばざらんや」と、歴史家はいう仏国百年の計は実にヘンリーのこの決断にかかれりと。
 しかしてナバールの大公はこの誘惑にうち負けたり、彼は仏国のため士卒のために一歩を譲り、天主教徒の請求を容れ、ヒューゲノー党を脱し、羅馬ろま法王に対し罪の懺悔を呈し、ついに仏王として承認せらるるに至れり、彼の譲退は彼の胸算きょうさんに違わざる結果を生じ、彼の王位は強固となり、国内平穏に帰し民みなけり、彼は忠実なるヒューゲノー党を忘れず、ナントの布令(Edict of Nantes)によりて信仰自由を天下に令し新教徒をして政治上ほとんど旧教徒と異なる処なからしめたり、彼の治世は仏国の中興として見るべきものなり、殖産事業の進歩、財政の整頓、外国に対する仏国の輝栄、ともにヘンリー王の事跡として文明諸国の賞讃する処となれり、しかれども彼の仏国のために尽せしはただ一時の治安策なりき、彼死するやリシュリヤマザリンもとに仏国は光威を欧洲に輝かせしもこれみな外貌の虚飾にして内にとどむべからざる腐敗のかもしつつありしなり、ルイ十四世に至てこの虚勢その極に達し、ルイ十五世は黄金珠玉に包まれながら不快淫風に沈みつつ世を終れり、ルイ十六世に至り仏国革命起りついナポレオンの世となりその惨怛たる光景は人のみな知る所なり、ヘンリーは一時を救わんとして毒を千載に流せり、ああもし彼にして基督のごとく悪魔の巧言を退しりぞけしならば仏国二百年間の争闘流血を避けしものを、ヘンリーは仏国を愛してこれを愛せざりしなり。
 仏の大王ヘンリーに対して英の無冠王コロンウェルあり、彼も権力精神と相争うの時に生れ、身を民党自由に委ね、英国民の全世界に対する天職を認め、十七世紀の始めにあたって基督の王国を地上に来らさんとの大理想を実行せんとせり、百難たちて彼の進路を妨ぐるといえども彼の確信はごうも動くことなく、ついに麁粗そそながらも英国をして公義と平等とに基する共和国となすに至れり、しかれども英国民はいまだことごとく無冠王の大理想を有せず、彼の心霊的の政治は肉慾的の普通社会を歓ばさず、反対ついに四方に起り彼は単独白殿ホワイトホールに無限の神をのみ友とするに至れり、しかれども彼の理想と信仰とは確固として動かず、彼は彼の事業の永続すべからざるを知るといえどもなお彼の最初の理想にむかって進み、内乱再起のちょうあるをも顧みず、彼の勝算全く絶えしにも関せず、終生一主義を貫徹して死せり、彼が世を去るや彼の政府はただちに転覆され、彼のかばねあばかれ、彼の名はいやしめられ、彼の事業は一つとして跡をとどめざるがごときに至れり、世はチャレス第二世の柔弱淫縦腐敗の世となり、バトラルドライデンクラレンドンのごとき狐狸こりはい寵遇を受け、ハンプデンベーンも無冠王もかつて地上の空気を呼吸せしことなきやの感を起さしめたり、小人はみないえり清党ピュリタンの事業は全く失敗なりしと、しかれども無冠王死して三十年、彼の石碑にいまだ青苔だも生ぜざる時に、スチュアート家は全く跡を絶つに至り、爾来じらい真理と自由とが地球運転の度数とともに増進するや、無冠王の理想は徐々に実成しつつあるなり、コロムウェルありしが故に英国に十八世期の革命なかりしなり、仏王ヘンリーの譲退は仏国民一百年間の堕落と流血とを招き、コロムウェルありしが故に英国民は他欧洲国民にさきだつ百年すでに健全なる憲法的自由を有せり、コロムウェルは実に英国を愛せし人なり。
 楠正成の湊川における戦死は決して権助ごんすけ縊死いっしにあらざりしなり(福沢先生明治初年頃の批評)、南朝は彼の戦死によりて再び起つべからざるに至れり、彼の事業は失敗せり、しかれども碧血痕化五百歳ののち、徳川時代の末期に至て、蒲生君平高山彦九郎のはいをして皇室の衰頽を歎ぜしめ勤王の大義を天下に唱えしむるにおいて最も力ありしものは嗚呼ああれ忠臣楠氏なんしの事跡にあらずして何ぞや、ボヘミヤハッスまさに焼殺しょうさつせられんとするや大声よんでいわく「我死するのち千百のハッス起らん」と、一楠氏なんし死して慶応明治の維新に百千の楠公起れり、楠公実に七度ななたび人間に生れて国賊をほろぼせり、楠公は失敗せざりしなり。
 基督の十字架上の恥辱は実に永遠にまでわたる基督教凱陣の原動力なり、基督の失敗は実に基督教の成功なりしなり。
 しからば余も失敗せしとて何ぞ落胆すべき、何ぞ失敗せしを感謝せざる、義のために失敗せしものは義の王国の土台石となりしものなり、後進者成功のために貯えられたる潜勢力なり、我らは後世のために善力(Power for Good)を貯蓄しつつあるなり、余は先祖の功に依り安逸衣食する貴族とならんよりは功を子孫に遺す殉義者とならんことを欲す。
 しからば余は余の事業に失敗せしにより絶望家となり、事業家たるの念を断ちしや。
 な然らざるなり、余は今は真正しんせいの事業家となりしなり、事業とは形体的のものなりとの迷信全く排除せられてより余は動くべからざる土台の上に余の事業を建設し始めたり、余の事業のやぶられしは敗るべからざる事業に余の着手せんがためなり(希伯来ヘブル書十二章第二十七節)。
 事業は精神の花なりなり、精神より自然に発生せざる事業は事業にして事業にあらざるなり、なんじらまず神の国とそのただしきとを求めよさらば事業も自然に爾らより来るべし。
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第五章 ひんに迫りし時


 四百四病のそのうちひん程つらきものはなし、心は花であらばあれ、深山みやまがくれのやつれたれおもいを起すべき、人間万事かねの世の中、金は力なり威力なり、金のみは我らに市民権を与う、金なければ学も徳も人をして一市民となすを得ず、この賞讃せらるる十九世紀においては金なき人は人にして人にあらざるなり。
 我栄誉の時に友人ありしも我貧に迫りてより我は無友となれり、我窮せざりし時に我に信用ありしもわがのうの空しくなると同時にわがことばは信ぜられざるに至れり、われ友をうも彼れ我を見るを好まず、我れ彼に援助たすけを乞えば嫌悪以て我に答う、我とともに祈りしもの、我とともに神と国とにつかえんと誓いしもの、我を兄弟と呼びしもの、今は我の貧なるが故に我とは別世界の人となれり、
落ぶれて袖になみだのかかる時
  人の心の奥ぞしらるる
 友を信ずるなかれ汝貧に迫りしまで、世の友人は我らの影のごとし、彼らは我ら日光に歩むうちは我らと共なれども暗所に至れば我らを離るるものなり、貧より来る苦痛のうちに世の友人に冷遇さるるこれ悲歎の第一とす。
 我の貧我独り忍ぶを得ん、しかれども我に衣食する我の母我の妻も我が貧なるが故に貧を感ぜり、我は我と境遇を同うせる古人の伝を読み以て我が貧を慰め得るとも、彼らは如何いかにしてこの鬱を散ずるを得んや、貧より来る苦痛のうちに我父母妻子の貧困を見るこれ悲歎の第二とす。
 我は食を求めざるべからず、彼処かしこに到り此処ここい、ぎょうにありかんと欲する時、我貧なるが故に彼より要求さるる条件多くして我の受くべき報酬はすくなく、我は売人うりてにして彼は買人かいてなれば直段ねだんを定むるは全く彼にあり、我不平を唱えて彼の要求をこばめば我はただわが父母妻子とともに餓死するのみ、もし餓死するものは我一人ならば我はわが意を張りわが膝を屈せざるものを、しかれども今の我は我一人の我にあらず、我をみしもののため、我に淑徳を立つるもののため、我は我の尊敬せざる人にも服従せざるを得ず、貧より来る苦痛の中に食のために他人に腰をかがめざるを得ずこれ悲歎の第三なり。
 富たりて徳足るとは真理にはあらざるべけれども確実なる経験なり、奢侈しゃしはもちろん不徳なり、我とみたればとておごらざるべし、しかれども滋養ある食物、清潔なる衣服は自尊の精神を維持するにおいて少なからざる勢力を有するものなり、我の最も嫌悪する卑陋なる思想は貧とともに我が胸中を攻撃し、我をして外部の敵と戦うと同時に内患に備うるがために常に多端ならしむ、貧より来る苦痛の中に心に卑陋なる思想の湧出するこれ悲歎の第四なり。
 貧は我をして他人を羨ましめ、我を卑屈ならしむると同時に我を無愛相なる者(Misanthropist)となすものなり、我は集会の場所を忌み、我は交際を避けんと欲す、わが心はますます寒冷頑固となり、靄然あいぜんたる君子の風、温雅なる淑女のさまは我得んと欲して得る能わず、貧は我を社会より放逐せしむるものなり、貧より来る苦痛の中に寒固孤独の念これ悲歎の第五なり。
 貧は貧を生ずるものなり、持つものには加えられ持たざるものよりはすでに持つものをも取去らる、俗にいわゆる貧すればどんするとの言は心理学上の事実にして経済学上の原理なり、富者ますます富めば貧者はいよいよ貧なり、貧より来る苦痛の中にこの絶望に沈むこと、この無限の堕落を感ずることこれ悲歎の第六なり。

 ああ我如何いかにしてこの内外の攻撃に当らんか、貧はこの身に附くものなればこの身を殺さば貧は絶ゆべし、自殺は羅馬ろまの賢人カトーシセロ等の許せし所、貧ちょう無限無終の苦痛より遁れんがためには自殺はただ一の方法ならずや、“He that dieth payeth all his debts.”(死者はことごとく負債を返還す)、我の社会に負う処、我の他人に負う所、我はこれを返却するの目的一つとしてあるなし、我は死してのみこの借財より脱するを得るにあらずや、言をめよ汝美食美服に飽くものよ、の一円に満たざる借銭のために身を水中に投ぜし小婦は痴愚にして発狂せしなりと、彼婦かのふは世に己れの貧を訴うるの無益なるを知り、彼の純白なる小心は他人に義理を欠くに忍びずしてついにここに至りしなり。
“In she plunged boldly,
No matter how coldly
  The rough river ran ―
Picture it ― think of it
Dissolute Man !”―― Thomas Hood.
 しかりもし宇宙の大真理として自殺は神に対し己に対し大罪なりとの教訓の存せざりしならば貧の病を療治するために我もわが身にこの法を施さんものを、されどもああわが神よなんじめぐみは我死せずして我をこの苦痛より免れ得せしむ、爾によりてのみ貧者も自尊を維持し得べく、卑陋ならずして高尚なるを得るなり。
 基督教は貧者を慰さむるに仏教のいわゆる「万物皆空ばんもつみなくう」なる魔睡的ますいてきの教義を以てせず、基督教は世をあきらめしめずして世に勝たしむるものなり、富めると貧なるとは前世のさだめにあらずして今世における個人的の境遇なり、貧は身体の疾病と同くこれを治するあたわずんばよろこんで忍ぶべきものなり、我の貧なるもし我の怠惰放蕩より出しものなれば我は今より勤勉廉節を事とし投費せし富を回復すべきなり、天は自己を助くるものを助く、如何いかなる放蕩人といえども、如何なるなまけ者といえども、一度ひるがえりて宇宙の大道に従い、手足を労し額に汗せば、天は彼をも見捨てざるなり、貧は運命にあらざれば我ら手をつかねて決してこれにあまんずべきにあらず、働けよ、働けよ、世界に存する貧の十分の九は懶惰より来ることを記憶せよ、また正直せいちょくなる仕事は如何に下等なる仕事といえども決してかろんずるなかれ、何をも為さざるは罪をなしつつあるなり(Doing nothing is doing ill)、人を欺き人を殺すのみが罪にあらざるなり、懶惰も罪なり、時を殺すも罪なり、富は祈祷のみに依て来らず、働くは祈るなり(Laborare est orare)、身と心とを神にまか精々せいせい以て働きて見よ、神も宇宙も汝を助け汝の労力はみのるぞかし。
 されども世には「正義のための貧」なるものなきにあらず、ロバート、サウジーいわく「一人の邪魔者の常に我身に附きまとうあり、その名を称して正直せいちょくという」と、永久の富は正直によらざるべからずといえども正直は富に導くの捷径しょうけいにはあらざるなり、世に清貧あることは疑うべからざる事実なり、或は良心の命を重じ世俗に従わざるが故に時の社会より遮断さるるあり、或は直言直行我の傭主を怒らし我の業を奪い取らるるあり、或は我の思想の普通観念と齟齬するが故に我に衣食を得るの途ふさがるあり、或は貧家に生れて貧なるあり、或は不時の商業上の失敗に遭い、或は天災に罹りて貧に陥るあり、すなわち自己以外に源因する貧ありて黽勉びんべんも注意もこれを取り去る能わざるの場合あり、かくのごとくにして貧の我身に迫るあれば我は勇気を以て信仰を以てこれを忍ばんのみ、しかして基督教はこの耐忍たいにんを我れに与うるにおいて無上の力を有するものなり。
 一、汝貧する時にまず世に貧者の多きを思うべし、日本国民四千万人中壱ヶ年三百円以上の収入あるものはわずかに十三万人余なり、すなわち戸数百ごとに壱ヶ月二十五円以上の収入ある家はわずかに壱戸半を数う、百軒の中九十八軒は壱ヶ月二十五円以下の収入あるのみ、しかして来年の計を為し貯蓄を有するもの幾干いくばくかある、来月に備うる貯蓄を有せざる家何ぞ多きや、人類の過半数は軒端のきばを求むる雀のごとく、山野に食を探る熊のごとく、今日は今日を以て足れりとなし、今日得しものは今日消費し、明日は明日にまかし、日に日に世渡りするものなり、汝の運命は人類大多数の運命なり、肥馬にまたがる貴公子を以て普通人間と思うなかれ、彼一人安閑として世を渡り綺羅をかぶり美味にあかんためには数千の貧人は汗滴かんてき労働しつつあるなり、貧は常にして富は稀なり、汝は普通の人にして彼貴公子は例外の人なり、一人にして忍び能わざるの困難も万人ともにこれを忍べば忍び易し、汝は人類の大多数とともに饑餓を感じつつあるなり。
 二、古代の英雄にして智においても徳においても遙かに汝に勝りしものが汝の貧に勝る貧苦を受けしことを思え、哲学上神学上信仰上功績上人類のかしらと承認せらるる使徒保羅パウロは四十年間無私の労働の後に彼の所有に属するものとては外衣がいい一枚と古書数巻とのみなりしを思え(提摩太テモテ後書四章十三節)、古哲ソクラトスは日々に二斤のパンと雅典アテンス城の背後に湧出する清水せいすいとを以て満足したりしを思え、「これを文天祥ぶんてんしょう土窖どこくに比すればわがしゃはすなわち玉堂金屋なり、塵垢じんこうの爪につる蟻虱ぎしつの膚を侵すもいまだ我正気に敵するに足らず」と勇みつつ幽廬ゆうろの中に沈吟せし藤田東湖を思え、「道義きもを貫き、忠義骨髄にち、ただちにすべからく死生の間に談笑すべし」と悠然として※(「飮のへん+曷」、第4水準2-92-63)きかつに対せし蘇軾そしょくを思え、エレミヤを思え、ダニエルを思え、和漢洋の歴史いずれなりとも汝の意に任せて渉猟しょうりょうし見よ、貧苦における汝の友人は多きこと蒼天の星の数のごとし。
 三、耶蘇基督の貧を思え、彼は貧家に生れ、口碑の伝うる所に依れば彼は十八歳にして父を失い、爾後じご死に至るまで大工職を業とし父の一家を支えしとなり、狐は穴あり空の鳥は巣ありされど人の子は枕する処だもなしとは基督地上の生涯なりき、しもべはその主人にまさる能わず、汝の貧困基督の貧困に勝るや、彼は貧者の友なりし、貧しきものはさいわいなり(路加ルカ六章二十節)との非常の言は彼の口より出でしなり、貧ならざれば基督を悟り難し、
“Christ was hungry, Christ was poor,
He will feed me from his store.”――
Luther's Song.
 四、富必しも富ならざるを知れ、富とは心の満足をいうなり、百万円の慾を有する人には五拾万円の富は貧なり、拾円の慾を有する人には二拾円は富なり、富むに二途あり、富を増すにあり、慾を減ずるにあり、汝今は富を増す能わず、しからば汝の慾を減ぜよ、カーライルえるありいわく、「単数も零にて除すれば無限なり(1/0=∞の数式)、ゆえに汝の慾心を引下げて世界の王となれ」と、余は五拾万どるの富を有する貴婦人が貧を懼れて縊死せるを聞けり、金満家の内幕は必しも平和と喜悦よろこびとにはあらざるなり、神の子のごとき義侠、天使のごとき淑徳はむしろ貧家に多くして富家にすくなし、我らは貧にして巨人たるを得るなり、神が汝に与えし貧ちょう好機械を利用して汝の徳を高め汝の家を清めよ、快楽なる「ホーム」を造るに風琴の備附そなえつけ下婢かひ下男げなん雇入やといいれを要せず、もし富を得るの目的は快楽にありとならば快楽は富なしにも得らるるなり、“My mind to me a kingdom is.”(心ぞ我の王国な(ママ))、我は貧にして富むことを得るなり。
 五、汝今衣食を得るにくるしむ、しからば汝も空の鳥、野の百合花ゆりのごとくなりて汝の運命を天に任せよ、
この故に我なんじらにつげん、生命いのちのために何を食い何を飲みまた身体からだのために何をんと憂慮おもいわずらうことなかれ、生命はかてよりまさり身体はころもよりも優れる者ならずや、なんじら天空そらの鳥を見よまくことなくかることを為さず倉に蓄うることなし然るになんじらの天の父はこれを養い賜えり、爾らこれよりも大いにすぐるるものならずや、爾らのうちたれかよくおもい煩いてその生命いのちを寸陰も延べ得んや、また何故にころものことを思いわずらうや、野の百合花ゆり如何いかにしてそだつかを思え、つとめずつむがざるなり、われ爾らに告んソロモンの栄華のきわみの時だにもその装いこの花の一に及ばざりき、神は今日野に在て明日炉に投入れらるるくさをもかくよそわせ給えばまして爾らをやああ信仰うすき者よ、さらば何を食い何を飲みなにをんと思いわずらうなかれ、これみな異邦人の求むる者なり、爾らの天の父はすべてこれらのものの必需なくてならぬことを知りたまえり、爾らまず神の国とそのただしきとを求めよさらばこれらのものはみななんじらに加えらるべし、この故に明日のことを憂慮おもいわずらうなかれ、明日は明日のことを思いわずらえ、一日の苦労は一日にて足れり。
馬太マタイ伝六章従二十五節至三十四節)
 ある仏教家この章句を評していわく基督教は人を怠惰になさしむるものなりと、然り基督教は多くの仏教徒の今日為すがごとく済世さいせいを怠りつつ自己の蓄財に汲々たるを奨励せざるなり、基督教は雀の朝より夕まで忙がしきがごとく人をして忙がしからしむるものなり、基督教は富のために人の思慮するを許さず、もちろん世に称する基督信徒必しもみな空の鳥野の百合花のごとくにあらず、ある者は蟻のごとくとってもとっても溜めつつあるなり、ある者は狐のごとく取りしものはみな隠し置き、いつ用うるとも知らず、ただ取るを以て快楽となしつつあるなり、しかれどもこれ基督教にはあらざるなり、汝もし温屋おんおく玻璃はりの内にナザレ耶蘇いえすの弟子ありときくとも汝の心をいたましむるなかれ。
 哲学者カントいえるありいわく「宇宙の法則を以て汝の言行とせよ」と、空の鳥野の百合花ゆりはこの法則に従い居ればこそ何を食い何を飲み何をんとて思いわずらわざるなり、社会は生存競争のみを以て維持するものにあらざるなり、人はくらうためにのみこの世に来りしにあらざるなり、この地球は神の職工場しょくこうじょうなれば働くものには衣食あるは当然なり、職工場の職人は衣食のことのみを思い煩いてその職を尽し得ざるなり、我もこの宇宙に生を有し宇宙の一小部分なれば我もし天与の位置を守らば宇宙は我を養うなり、エモルソンいわく、
“If the single man plant himself indomitably on his instincts, and there abide, the huge world will come round to him.”―― The American Scholar.
〔人もしその本能の示すところにりその上に屹立せば大世界は来て彼を補翼すべし〕
 衣食のために思考のほとんど全量を消費する十九世紀の社会も人も決して基督の理想にあらざるなり。
 六、ゆえに汝餓死せんと心配するなかれ、餓死の恐怖は人生快楽の大部分を消滅しつつあるなり、ナポレオン大帝いえるあり「食いぎて死するものはくい足らずして死するものよりも多し」と、人口稠密なるわが国においてすら餓死するものとては実に寥々りょうりょうたるにあらずや、天の人を恵む実に大なり、毎年八百万石余の米穀は無益有害なる酒類と変化さるるにも関せず、労力の大部分は宴会とやら装飾とやら小児遊戯的の事物に消費せらるるに関せず、人類の食糧はなお足り過ぎて毎年夥多の胃病患者を出すにあらずや、世に最も有難きものは餓死なり、明治二十二年の統計表に依れば全国において途上発病または饑餓にて死せしものは僅々きんきん千四百七十二人なり(消化器病にて死せしものは二十万五千余人なり)、汝真理の神を拝しその命令に従わんと勤むるものが如何いかでか餓死し得べけんや、ダビデうとうていわく、
われむかし年わかくして今おいたれど義者のすてられ或はそのすえかてこいあるくを見しことなし。
(詩篇三十七の二十五)
 余は善人の貧するを聞けりしかれどもいまだ神を恐れしものの餓死せしを聞かず、餓死するの恐怖を捨てよ汝信仰薄きものよ。
 七、汝心をきよめて良き日の来るを待て、変り易きは世のならいなり、しかして幸福なるものにとりては千代も八千代も変らぬ世こそ望ましけれども不幸なるものにとっては変り行く世の中ほど楽しきものはあらざるなり、我の貧は永久まで続くべきにあらず、世の風潮の変りきたりて「我らの時代」とならん時は我の飢渇より脱する時なり、神はこの世の富にまさる心の富を我に賜うが故に我終生貧なるとも忍び得べし、地は善人のために造られしものなれば我善と義とを慕うこと切なれば神は我に地の善き物をも賜うべし、我の今日貧なるは我の心のためにしてわれが世の物に優りて神と神の真理とを愛せんがためなり、信仰の鍛錬すでにたれり、肉慾すでに減磨せられ、我すでに富貴に負けるうれいなきに至て神は世の宝を以て我に授けたまうなるべし、世に最も憫察すべきものは富を有してこれを使用し能わざる人なり、富は神聖なり故に神聖なる人のみこれを使用し得るなり、我貧して「人不惟以餅生ひとはただべいをもっていきず」を知れり、もしとみ我に来るあれば我は富を以て得る能わざる宝を得んためにこれを使用すべし、我の貧なる是れ我のとまんとするの前徴にあらずや。
 八、我に世の知らざる食物あり(約翰ヨハネ伝四章三十二節)、我に永遠かぎりなくかわくことなき水あり(同十四節)、人霊の栄誉として最高いとたかきもの即ち神ならでは彼は満足し得べからざるなり(ビクトル、ヒューゴの語)、しかして我はこの最上の食と飲物のみものとを有す、我じつに足れるものにあらずや、如何いかなる珍味といえども純白なる良心に勝るものあらんや、罪よりゆるされし安心、神を友と持ちし快楽、永遠の希望、聖徒の交り――、我は世の富めるものに問わん、君の錦衣君の壮屋君の膳の物君の「ホーム」(もし「ホーム」なるものを君も有するならば)はこの高尚無害健全なる快楽を君にあたえるや否や、医師はいわずや快楽を以て食すれば麁食そしょくも体を養うべけれども心痛は消化を害し滋養品もその功を奏する少しと、真理は心の食物なるのみならずまた身体の食物なり、我の滋養は天より来るなり、浩然の気は誠にまことに不死の薬なり、貧しきものよ悦べ天国は汝のものなればなり。
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第六章 不治の病に罹りし時


 身体髪膚はっぷ我これを父母に受け、鉄石の心臓鋼鉄の筋骨我は神の像と精とを以て世に出でたり、我にアダムの無死の体格なかりしにもせよ、我にアポロの完全均斉なる身体なかりしにもせよ、我の父母より授かりしたいは今日我の有する体にあらざりしなり、我に永生にまで至るべきの肉体なかりしも、我よく百年の労働と快楽とに堪ゆる霊のうつわを有せり、あおいでは千仞せんじんの谷を攀登よじのぼるべし、伏しては隻手せきしゅを以て蒼海を渡るべし、鷲のごときの視力よく天涯を洞察し得べし、虎のごときの聴神経よく小枝を払う軟風を判別し得べし、我の胃は消化し能わざる食物あるなく、我の肺は万丈の頂巓にあるも我に疲労を感ぜしめず、我むる時は英気我に溢れて快を絶呼せしめ、我の床に就くや熟睡ただちに来て無感覚なること丸太のごとし、山を抜くの力、世をおおうの気、我これを有せり、しかして今これを有せざるなり。
 この快楽世界も病める我にとりては一の用あるなし、存在は苦痛の種にして我の死を望む労働人夫の夜の来るを待つがごとし、梅花はこうを放つも我に益なし、鶯は恋歌れんかを奏するも我に感なし、身を立て道を行い名を後世に遺すの希望は今は全く我にあるなく、心を尽し力を尽し国と人とを救うの快楽も今は我の有に帰せず、詩人ゲーテいわく Unn※(ダイエレシス付きU小文字)tz sein ist Todt sein(不用にあるは死せるなり)と、我いま世に不用なるのみならず我の存在はかえって世を悩ますものなり、我もし他を救い得ずば我は他人を煩らわさざるべし、ああめぐみある神よ、一日も早く我をして今世こんせいを終らしめよ、我今なんじより望む他にあるなし、死は我にとりては最上の賜物なり、
いかなれば艱難かんなんにおる者に光を賜い、
くるしむ者に生命を賜いしや、
かかるものは死を望むなれども来らず、
これをもとむるはかくれたる宝を掘るよりもはなはだし、
もし墳墓ふんぼを尋ねてば、
おおいに喜び楽しむなり、
その道かくれ神に取籠とりこめられおる人に、
如何いかなれば明光ひかりを賜うや、
 かえりみればすぎにし年の我の生涯、我の失敗、我これを思えば後悔ほとんど堪ゆべからざるものあり、ああの来らざりし前に我は我の仕事を終えざりしを悔ゆ、我の過去は砂漠なり、無益に浪費せし年月、思慮なく放棄せし機会、犯せし罪、為さざりし善、――我の痛みは肉体のみにとどまらざるなり。
 ジオンたたかいたけなわなるに我は用なきつわものなれば独り内に坐して汗馬かんばの東西に走るを見、矢叫やさけびの声、太鼓の音をただ遠方に聞くにすぎず、我は世に立つの望み絶えたり、また未来に持ち行くべき善行なし、神はかくのごとき不用人間を要し賜わず、ああ実につまらなき一生にあらずや。ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

 我絶望に沈まんとする時、永遠の希望はまた我を力づくるあり、基督は希望の無尽蔵なるがごとし、彼によりてのみ枯木こぼくも再び芽を出すべく、砂漠も花を生じ得べし、預言者エゼキエルの見し枯れたる骨の蘇生せしは我らの目撃する事実なり(以西結エゼキエル第三十七章)。
 不治の病に罹りし時の失望は二個なり、すなわち我再び快復する能わざるべし、我は今は癈人なれば世に用なきものとなれりと。
 一、汝如何いかにして汝の病は不治なるを知るや、名医すでに汝に不治の宣告を申渡したるが故に汝は不治と決せしか、されども汝は不治と称せし病の全癒せし例の多くあるを知らざるなり、汝は十九世紀の医学は人間という奇蹟的の小天地をことごとく究め尽せしものと思うや、近来医学の進歩は実に驚くべきなり、しかれども医者は造物主にあらざるなり、時計師のみがことごとく時計の構造を知る、神のみがことごとく汝のたいを知るなり、ことにこの診断麁陋そろうの時代にあたって我らは容易に失望すべきにあらざるなり、生気は天地に充ちみちて常に腐敗と分解とをとどめつつあるなり、医師ことごとく我を捨てなば我は医師の医師なる天地の造主つくりぬしに行かん、彼に人智の及ばざる治療法と薬品あるべし、生命は彼より来るものなれば我はまことに生命の泉に至て飲まん、医学の進歩と同時に人類が医学を専信するに至り、医学の及ばざるを以て人力も神力も及ばざる処と見做すに至りしは実に人類の大損耗といわざるべからず、我らもちろん旧記にする奇蹟的の治療今日なお存するとは信ぜず、屋根よりおちて骨を挫きし時医師に行かずして祈祷にたよるは愚なり、不信仰なり、神は熱病をいやさんがために「キナイン」剤を我らに与え賜えり、人これあるを知てこれを用いざるは罪なり、局部切断の時にあたり「コロロホルム」剤は天賜てんし魔睡剤ますいざいなれば感謝して受くべきなり、しかれども我らやめる時にことごとく医者と薬品とに頼るは我らの為すべからざることなり、我ら病重くして庸医をさりて名医に行くがごとく、名医もなお我らを治する能ざる時は神なる最上の医師に至るなり、庸医が我の病は不治なりと診断する時は我は絶望にしずむべきや、いなしからず、名医の診断は庸医の診断の全く誤謬なるを示すことあるがごとく、全能の神より見賜う時は不治と称する汝の病もまたがたきの病にはあらざるべし。
 世に信仰治療法なるものあり、すなわち医薬を用いず全く衛生と祈祷とにより病を治する法をいう、我らはある一派の信仰治療者のいうがごとく、医師は悪鬼の使者にして薬品は悪魔の供する毒物なりといわず、しかれども信仰は難病治療法として莫大の実功あることを疑わず、もちろん我らの称する信仰治療法なるものはかの偶像崇拝者が医薬をかろんじて神仏に祈願し、或は霊水を飲むの類をいうにあらず、信仰治療法は身体を自然の造主とその法則とにまかし、怡然たいぜんとして心にやすんじ宇宙に存在する霊気をして我の身体を平常体に復さしむるにあり、これ迷信にあらずして学術的の真理なり、ことに医師の称する不治の病においてはただこの治療の頼るべきあるのみ、我はわが病をせんがために法便として信仰せず、これ真正の信仰にあらざればなり、かくのごときの信仰治療法は無益なり、しかれども我信ぜざるを得ざれば信ずるなり、見よ下等動物の傷痍きずいやすにおいて自然法のすみやかにして実功多きを、清浄なる空気にまさる強壮剤のあるなく、水晶のごとき清水しみずに勝る下熱剤のあるなし、ことに平安なる精神は最上の回復剤なるを知るべし、博識に依る信仰治療法は病体を試験物視する治療法に優る数等なるを知れ。
 二、汝癈人となりたればとて絶望せんとす、ああしからば汝の宗教も夥多かたの基督信徒ならびに異教信徒の宗教と同じく事業教なり、汝もいまだ人類の大多数とともに事業を以て汝の最大目的となすものなり、事業は人間の最大快楽なり、しかれどもこの快楽を得る能わずとて落胆失望に沈むは汝のいまだ事業に優る快楽あるをしらざればなり、基督教は他の宗教に勝りて事業を奨励するといえども基督教の目的は事業にあらざるなり、基督は汝が大事業家たらんがために十字架上に汝のために生命いのちてざりしなり、基督の目的は汝の心霊を救わんとするにあり、もし世の快楽が汝を神に帰らしむるの妨害となるなれば神はこの快楽を汝より取り去り賜うべし、神は汝の身体と事業とにまさりて汝の霊魂を愛し賜うなり、汝の事業もし汝の心を神より遠ざくるあれば神はこの事業ちょう誘惑を汝より取除け賜うなり、人は偶像を崇拝するのみならずまた自己の事業をも崇拝するものなり、
なんじは祭物さいもつをこのみ賜わず、
もししからずば我これをささげん、
なんじまた燔祭はんさいをも悦びたまわず、
神のもとめたまう祭物はくだけたる霊魂たましいなり、
神よなんじは砕けたるくいしこころをかろしめたまうまじ。
 事業とは我らが神にささぐる感謝のささげ物なり、しかれども神は事業に勝るささげ物を我らより要し賜うなり、すなわち砕けたる心、小児のごとき心、有のままの心なり、汝今事業を神にささぐる能わず、ゆえに汝の心をささげよ、神の汝を病ましむる多分このためならん、汝はベタニヤマルタの心を以て基督につかえんと欲し「供給のことおおくして心いりみだれ」(路加ルカ伝十章四十節)たるなるべし、ゆえに神は汝にマリヤの心を与えんがために汝をして働らき得ざらしめたり。
手にものもたで  十字架にすがる、
とは汝の常に歌いし処にして、その蘊奥うんおうなる意義を知らんがため汝は今働くこと能わざるものとなれり。

我のこの世につかわされしは、
わが意を世にはるためならで、
神のめぐみをうけんため、
そのみむねをばとげんためなり。

なみだの谷やえみその
かなしみはんよろこびと、
よろこび受けんふたつとも、
神のみこころならばこそ。

勇者のたけき力をも、
教師のもゆる雄弁も、
われ望まぬにあらねども、
みむねのままにあるにはしかじ。

弱きこの身はいかにして、
そのつとめをばはつべきや、
われは知らねど神はしる、
神にる身は無益むやくならぬを。

小なるつとめ小ならず、
世をうとても大ならず、
小はわが意をなすにあり、
大はみむねによるにあり。

わが手を取れよわが神よ、
我行くみちを導けよ、
われの目的めあて御意みむねをば、
為すか忍ぶにあるなれば。

 汝手足しゅそくを労するを得ず故に世に為すことなしと言うや、汝高壇にたちて説教し得ず故に福音を他に伝うるを得ずと言うや、汝筆をとって汝の意見を発表するを得ず故に汝世を感化するの力を有せずと言うや、汝病床にあるが故に汝のこの世に存するは無用なりと言うや、ああ、しからば汝は戦場に出でざる兵卒は無用なりと言うなり、山奥に咲く蘭は無用なりと言うなり、海底に生茂おいしげる珊瑚は無用なりと言うなり、かの岩間に咲く蓮馨花さくらそうは人に見えざるがゆえに彼女は紅衣こういを以てよそおわざるか、年々歳々人知れずしてこうを砂漠の風に加え、色を無覚の岩石に呈する花何ぞ多きや、神は人目の達せざる病床の中に神に依て霊化されたる天使の形を隠し置き賜うなり、静寂なる汝の温顔に忍耐より来る汝の微笑は千百の説教にまさりて力あるものなり、凹みたる汝の眼中に浮ぶ推察の涙一滴は万人の同情に勝る刺激なり、痩尖やせとがりたる汝の手を以て握手さるる時は天使の愛を我らが感受する時なり、我いまだ我が眼を以て天使を見しことなし、しかれども我の愛せしものが病床にありし時大理石のごとき容貌、鈴虫ののごとき声、朝露あさつゆのごとき涙、――彼もし天使にあらざれば何を以て天使をえがかんや、我はかくのごときものが終生病よりつ能わずして我がかたわらにあるとも、決して苦痛を感ぜざるべし、彼は日々我の慰藉なり、我を清め、我を高め、我をして天使が我を守るの感情あらしむるものなり、汝もし天使を拝せんとならば、ゆいて病に臥する淑徳の婦人を見よ、彼は今世においてすでに霊化して天使となりしものなり。
 汝また快楽を有せずと言うなかれ、汝の愛するもの汝とともにあり、これ大なる快楽ならずや、汝の軟弱なると忍耐なるとは、汝の強壮なる時に勝りて汝を愛らしきものとなせり、愛せらるるは今汝の特権なり、汝力なきものとして愛せられよ、愛せらるるをこばむは汝他を悩ますなり、汝の愛するものは汝の愛せられんことを望むなり、世に病者の存する理由は世に愛せらるるもののあらんがためならん、我ら弱きものを愛して自己の高尚なるを感ずるものなり、我は愛せらるるよりも愛することを欲す、汝我のために我に愛せられよ、しかして我の汝を愛するによりて汝より受くる喜悦よろこびと感謝とを以て汝の快楽とせよ。
 汝もしなお普通の感覚を有するあれば無限の快楽いまだ汝とともに存するなり、山野にさまよい自然と交通して自然の神と交わるは今汝の能わざる所、淑女巨人と一堂につどい思想を交換し事業をかくするは今汝の及ばざる所、しかれどももし汝にして四十八文字もんじを解するを得ば、聖書なる世界文学の汝とともにあるなり、以て汝をはげまし汝をなかしむべし、以て汝のために恋歌れんかきょうし(ソロモンの雅歌)、汝のために軍談ぐんだんを述ぶべし(約書亜ヨシュア記士師記)、貞操美談あり(路得ルツ記)、慷慨歌あり(耶利米亜エレミア記)、汝のすべての感情に訴え喜怒哀楽の情かわるがわる起り汝をして少しも倦怠なからしむ、汝聖書を楽読らくどくせよ。
 しかれどももし読書は汝の堪ゆる所にあらざれば、他の快楽なお汝のために備えらるるあり、すなわち心を静めて神の摂理を思い見よ、神は人を造り彼に罪を犯すの自由を与えてまた彼を救うの術を設けられたり、救済の目的としてこの世界と汝の一生とを考え見よ、如何いかなる芝居の脚本かこれにまさるの悲劇歓劇をするあるや、摂理の戯曲(Romance of Providence)を読むものは保羅パウロとともに絶呼せざるを得ず、
ああ神の智と識の富は深いかな、その法度さだめ(ママ)測り難く、その踪跡みちたずね難し。たれか主の心を知りし、孰か彼と共に議することを為せしや、孰かまずかれにあたえてそのむくいうけんや、そは万物よろずのものは彼よりいで、かれにり、かれに帰ればなり、願くは世々ほまれ神にあれ、アーメン。
羅馬ロマ書十一章三十三節より三十六節まで)
 僧アンソニーかつて書を盲人某におくっていわく、
君肉眼欠乏の故を以て君の心を苦しむるなかれ、これ蝿も蚊も有するものなればなり。ただ喜べよ、君は天使の有する眼を有するが故に神を視るを得、神の光を受くべければなり。
 動物的の汝は病めり、しかれども天使的の汝は健全なるを得るなり、汝動物的の快楽を去り天使的の快楽を取れ。
 また病むものは汝一人ならざるを知れ、一秒時間に一人ずつ人類は呼吸を引き取りつつあるを思え、一ヶ年に八十万人ずつ日本人は墓に葬らるるを知れ、全国にある四万人以上の医師は平均一日五人以上の患者を診察しつつあるを覚えよ、しかのみならず少しも病を感ぜざるの人とては千人中一人もあるなきを知れ、実に人類全体は病みつつあるなり、人類はアダムの罪によりて死刑を宣告されしものなり、(如何いかなる神学上の学説より論ずるも)、しかして第二のアダムより霊の賜物を得しもののみ真正の生命を有するものなり、汝は人類全体とともに病みつつあるなり、汝の苦痛に依て心霊を有する世界人民十六億万人の苦痛を想い見よ。
 汝を哺育せし汝の母も汝のごとき苦痛を忍んで眠れり、汝より妙齢なる汝の妹もよくその両親のことばを聞き分けてつぶやくことなくして眼を閉じたり、汝独り忍び得ざるの理あらんや、神はその独子をして人間の受くべき最大苦痛を感ぜしめたまえり、神は愛するほどその子を苦しめ賜うがごとし、汝の苦しめらるるは汝神に愛せらるるの証なり、忍びて試誘こころみを受くる者はさいわいなり、そはこころみを経て善とせらるる時は生命のかんむりを受くべければなり、この冕は主己を愛するものに約束し給いし所のものなり。(雅各ヤコブ書一章十二節)
 来らんとする未来の観念は汝を慰むるやいなやを知らず、今これを汝に説くかえって汝をいたましむるを恐る、しかれども世界の大英雄大聖人の希望となぐさめは多くは未来存在の信仰にありき、ソクラトスは霊魂不滅について論究しつつ死せり、老牧師ロビンソン医師より危急の報を聞くや彼の友人につげていわく「死とはかく平易なるものなるや」と、スウィーデンボルクまさに死せんとするや友人彼の心中の様を問う、彼こたえていわく「幼時老母の家をわんとするの喜悦よろこびあり」と、ビクトル、ヒューゴは仏国の詩人にして小説家なり、彼の著述は欧洲を震動せしめ、彼の筆誅に罹りし高慢なる宗教家と政事家は彼を虚无党きょむとうと称し無神論者と見做したり、彼れ歳八十にしてなお壮年の希望あり、一日彼の未来存在に関する信仰を表白していわく、
余は余に未来生命の存するを感ず、余は切り倒されたる林の木のごとし、新鮮なる萌芽はいよいよ強くいよいよ活溌に断株きりかぶより発生するを見る、余は天上にむかって登りつつあるを知る、日光は余の頭上をてらせり、地はなおその養汁を以て余を養えども、天は余のいまだ識らざる世界(天国)の光線を以て余を輝らせり、人は言う霊魂とは存せざるものにしてただ体力の結果なりと、しからば何故に余の体力の衰うると同時に余の霊魂のますます光沢を加うるや、厳冬余の頭上に宿るに余の心は永久の春のごとし。ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(ママ)
 わが生涯の終りに近づくに及んで他界の美音ますます明瞭に余の耳に達するを覚ゆ、その声驚くべくしてまた単純なり、雅歌のごとくにして歴史様の事実なり、余は半百年間散文に詩文に歴史に哲学に戯曲に落首らくしゅに余の思想を発表したり、しかしてなお余の心に存する千分の一だも言い尽さざりしを知る、余は墓に入る時余は一日の業を終えたりと言うといえども、余の一生を終えたりと言う能わず、余の仕事は明朝また再び始まらんとす、墓とは道路の行詰りにあらずして、他界に達する通り道なり、あかつきに至る昧爽あけぐれなり。
 余はこの世に存するあいだは働くなり、この世は余の本国なればなり、余の事業は始めかけたり、余の築かんとする塔は漸く土台石の据附すえつけを終えたり、その竣工は永久の仕事なり、余の長久を渇望するは余の永久の生を有するあかしなり
と、この人にしてこのげんあり、霊魂不滅は基督教の教義のみにあらざるなり。
 メソヂスト派の始祖ジョン、ウエスレー死するの前日、彼れ友人に向い数回重復していわく、「何よりも善き事は神我らとともにいますことなり」と、神は万物の霊たる人間の有するもののうちに最も善なる最も貴きものなり、神は財産にまさり、人体の健康に勝り、妻子に勝りたる我らの所有物なり、富は盗まるるのおそれと浪費さるるの心配あり、国も教会も友人も我を捨てん、事業は我をたかぶらしめ、この肉体も我失わざるを得ず、しかれども永遠より永遠に至るまで我の所有し得べきものは神なり、人霊の価値はと高き神より以下のものを以て満足し能わざるにあり、しかして
そは或いは死、或いは生、或いは天使、あるいは執政、あるいは有能ちからあるもの、あるいは今ある者、あるいはのちあらん者、或は高き或いは深き、また他の受造者はわれらを我主イエスキリストれる神の愛よりはならすこと能わざる者なるを我は信ぜり。
羅馬ロマ書第八章三十八、三十九節)
 汝神を有すまた何をか要せん。
 不治の病怖るるに足らず、快復の望なお存するあり、これに耐ゆるのなぐさめと快楽あり、生命いのちまさる宝と希望のぞみとを汝の有するあり、また病中の天職あるあり、汝は絶望すべきにあらざるなり。





底本:「基督信徒のなぐさめ」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年9月15日第1刷発行
   1976(昭和51)年12月16日第30刷改版発行
底本の親本:「基督信徒の慰」警醒社
   1893(明治26)年2月25日出版
初出:明治二十四年四月十九日いわゆる……「基督信徒のなぐさめ」警醒社書店
   1924(大正13)年2月25日改版発行
   “If I can put……「基督信徒のなぐさめ」警醒社
   1896(明治29)年12月1日発行
   自序「基督信徒の慰」警醒社
   1893(明治26)年2月25日出版
   第二版に附する自序「基督信徒のなぐさめ」警醒社
   1893(明治26)年8月14日発行
   回顧三十年「基督信徒のなぐさめ」警醒社
   1923(大正12)年2月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ソクラトス」と「ソクラット」、「コロンウェル」と「コロムウェル」の混在は、底本通りです。
※〔 〕内は、第2版(1893(明治26)年8月14日)、第3版(1896(明治29)年12月1日)による補修個所です。
※底本巻末の編集部による註は省略しました。
入力:家田文隆
校正:officeshema
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「虫+占」、U+86C5    18-5
「目+昏」、U+7767    32-11


●図書カード