ことし、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった
三井君は、小説を書いていた。一つ書き上げる
「においませんか。」と
その日、三井君が私の部屋にはいって来た時から、くさかった。
「いや、なんともない。」
「そうですか。においませんか。」
いや、お前はくさい。とは言えない。
「二、三日前から、にんにくを食べているんです。あんまり、くさいようだったら帰ります。」
「いや、なんともない。」相当からだが、弱って来ているのだな、とその時、私にわかった。
三井は、からだに気をつけなけりゃいかんな、いますぐ、いいものなんか書けやしないのだし、からだを丈夫にして、それから小説でも何でも、好きな事をはじめるように、君から強く言ってやったらどうだろう、と私は、三井君の親友にたのんだ事がある。そうして、三井君の親友は、私のその言葉を三井君に伝えたらしく、それ以来、三井君は私のところへ来なくなった。
私のところへ来なくなって、三箇月か四箇月目に三井君は死んだ。私は、三井君の親友から葉書でその
もうひとり、やはり私の年少の友人、三田循司君は、ことしの五月、ずば抜けて美しく玉砕した。三田君の場合は、散華という言葉もなお色あせて感ぜられる。北方の一孤島に於いて見事に玉砕し、護国の神となられた。
三田君が、はじめて私のところへやって来たのは、昭和十五年の晩秋ではなかったろうか。夜、戸石君と二人で、三鷹の
「三田さんの事は野営地で知り、何とも言えない気持でした。
というようなお便りを私に寄こしている状態なので、いますぐ問い合せるわけにもゆかない。
私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の(ひょっとしたら初冬であったかも知れぬ)一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は
その夜の話題は何であったか。ロマンチシズム、新体制、そんな事を戸石君は無邪気に質問したのではなかったかしら。その夜は、おもに私と戸石君と二人で話し合ったような形になって、三田君は
「顔が綺麗だって事は、一つの不幸ですね」
私は噴き出した。とんでもない人だと思った。戸石君は剣道三段で、そうして身の
「隊には小生よりも背の大きな兵隊が二三人居ります。しかしながら、スマートというものは八寸五分迄に限るという事を発見いたしました。」
ということで、ご自分が、その八寸五分のスマートに他ならぬと固く信じて疑わぬ有様で、まことに春風
「僕の顔にだって、欠点はあるんですよ、誰も気がついていないかも知れませんけど。」とさえ言った事などもあり、とにかく一座を
戸石君は、果して心の底から
そのように、快活で
けれども、戸石君にとっては、三田君は少々苦手であったらしい。三田君は、戸石君と二人きりになると、
「三田さんは、あんなに真面目な人ですからね、僕は、かなわないんですよ。三田さんの言う事は、いちいちもっともだと思うし、僕は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまうのですよ。」
六尺ちかい偉丈夫も、ほとんど泣かんばかりである。理由はどうあろうとも、旗色の悪いほうに味方せずんばやまぬ性癖を私は
「人間は真面目でなければいけないが、しかし、にやにや笑っているからといってその人を不真面目ときめてしまうのも間違いだ。」
敏感な三田君は、すべてを察したようであった。それから、あまり私のところへ来なくなった。そのうちに三田君は、からだの具合いを悪くして入院したようである。
「とても、苦しい。何か激励の言葉を送ってよこして下さい。」というような意味の葉書を再三、私は受け取った。
けれども私は、「激励の言葉を」などと真正面から要求せられると、てれて、しどろもどろになるたちなので、その時にも、「立派な言葉」を一つも送る事が出来ず、すこぶる微温的な返辞ばかり書いて出していた。
からだが丈夫になってから、三田君は、三田君の下宿のちかくの、山岸さんのお宅へ行って、熱心に詩の勉強をはじめた様子であった。山岸さんは、私たちの先輩の
「三田君は、どうです。」とその頃、私は山岸さんに尋ねた事がある。
山岸さんは、ちょっと考えてから、こう言った。
「いいほうだ。いちばんいいかも知れない。」
私は、へえ? と思った。そうして赤面した。私には、三田君を見る眼が無かったのだと思った。私は俗人だから、詩の世界がよくわからんのだ、と
三田君は、私のところに来ていた時分にも、その作品を私に二つ三つ見せてくれた事があったのだけれども、私はそんなに感心しなかったのだ。戸石君は大いに感激して、
「こんどの三田さんの詩は傑作ですよ。どうか一つ、ゆっくり読んでみて下さい。」
と、まるで自分が傑作を書いたみたいに騒ぐのであるが、私には、それほどの傑作とも思えなかった。決して下品な詩ではなかった。いやしい匂いは、少しも無かった。けれども私には、不満だった。
私は、ほめなかった。
しかし、私には、詩というものがわからないのかも知れない。山岸さんの「いいほうだ」という判定を聞いて、私は三田君のその後の詩を、いちど読んでみたいと思った。三田君も山岸さんに教えられて、
けれども、私がまだ三田君のその新しい作品に接しないうちに、三田君は大学を卒業してすぐに出征してしまったのである。
いま私の手許に、出征後の三田君からのお便りが四通ある。もう二、三通もらったような気がするのだけれども、私は、ひとからもらった手紙を保存して置かない習慣なので、この四通が机の引出の中から出て来たのさえ不思議なくらいで、あとの二、三通は永遠に失われたものと、あきらめなければなるまい。
太宰さん、御元気ですか。
何も考え浮びません。
無心に流れて、
そうして、
軍人第一年生。
当分、
「詩」は、
頭の中に、
うごきませんようです。
東京の空は?
というのが、四通の中の、最初のお便りのようである、この頃、三田君はまだ、原隊に在って訓練を受けていた様子である。これは、たどたどしい、甘えているようなお便りである。正直無類のやわらかな心情が、あんまり、あらわに出ているので、私は、はらはらした。山岸さんから「いちばんいい」という折紙をつけられている人ではないか。も少し、どうにかならんかなあ、と不満であった。私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも
拝啓。
ながい間ごぶさた致しました。
御からだいかがですか。
全くといっていいほど、
何も持っていません。
泣きたくなるようでもあるし、
しかし、
信じて頑張っています。
前便にくらべると、苦しみが沈潜して、何か充実している感じである。私は、三田君に声援を送った。けれども、まだまだ三田君を第一等の日本男児だとは思っていなかった。まもなく、函館から一通、お便りをいただいた。
太宰さん、御元気ですか。
私は元気です。
もっともっと、
頑張らなければなりません。
御身体、大切に、
御奮闘祈ります。
あとは、ブランク。
こうして書き写していると、さすがに、おのずから溜息が出て来る。可憐なお便りである。もっともっと、頑張らなければなりません、という言葉が、三田君ご自身に就いて言っているのであろうが、また、私の事を言っているようにも感ぜられて、こそばゆい。あとはブランク、とご自身で書いているのである。御元気ですか、私は元気です、という事のほかには、なんにも言いたい事が無かったのであろう。純粋な衝動が無ければ、一行の文章も書けない
けれども、私は以上の三通のお便りを紹介したくて、この「散華」という小説に取りかかったのでは決してない。はじめから私の意図は、たった一つしか無かった。私は、最後の一通を受け取ったときの感動を書きたかったのである。それは、北海派遣××部隊から発せられたお便りであって、受け取った時には、私はその××部隊こそ、アッツ島守備の尊い部隊だという事などは知る由も無いし、また、たといアッツ島とは知っていても、その後の玉砕を予感できるわけは無いのであるから、私はその××部隊の名に接しても、格別おどろきはしなかった。私は、三田君の葉書の文章に感動したのだ。
御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。
死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。これこそは、日本一の男児でなければ言えない言葉だと思った。
「三田君は、やっぱりいいやつだねえ。実に、いいところがある。」と私は、その頃、山岸さんにからりとした気持で言った事がある。いまは、心の底から、山岸さんに私の不明を謝したい気持であった。思いをあらたにして、山岸さんと握手したい気持だった。
私には詩がわからぬ、とは言っても、私だって真実の文章を捜して朝夕を送っている男である。まるっきりの文盲とは、わけが違う。少しは、わかるつもりでいるのだ。山岸さんに「いいほうだ。いちばんいいかも知れない」と言われた時にも、私は自分の不明を恥かしく思う一方、なお胸の奥底で「そうかなあ」と
けれども、あの「死んで下さい」というお便りに接して、胸の
うれしかった。よく言ってくれたと思った。大出来の言葉だと思った。戦地へ行っているたくさんの友人たちから、いろいろと、もったいないお便りをいただくが、私に「死んで下さい」とためらわず自然に言ってくれたのは、三田君ひとりである。なかなか言えない言葉である。こんなに自然な調子で、それを言えるとは、三田君もついに一流の詩人の資格を得たと思った。私は、詩人というものを尊敬している。純粋の詩人とは、人間以上のもので、たしかに天使であると信じている。だから私は、世の中の詩人たちに対して期待も大きく、そうして、たいてい失望している。天使でもないのに詩人と自称して気取っているへんな人物が多いのである。けれども、三田君は、そうではない。たしかに、山岸さんの言うように「いちばんいい詩人」のひとりであると私は信じた。三田君に、このような美しい便りを書かせたものは、なんであったか。それを、はっきり知ったのは、よほどあとの事である。とにかく私は、山岸さんの説に、心から承服できたという事が、うれしくて、たまらなかった。
「三田君は、いい。たしかに、いい。」と私は山岸さんに言い、それは私ひとりだけが知っている、ささやかな和解の申込みであったのだが。けれども、この世に於いて、和解にまさるよろこびは、そんなにたくさんは無い筈だ。私は、山岸さんと同様に、三田君を「いちばんよい」と信じ、今後の三田君の詩業に大いなる期待を抱いたのであるが、三田君の作品は、まったく別の形で、立派に完成せられた。アッツ島に於ける玉砕である。
御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。
ふたたび、ここに三田君のお便りを書き写してみる。任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしておられたらしい。自己のために死ぬのではない。崇高な献身の覚悟である。そのような厳粛な決意を持っている人は、ややこしい
ことしの五月の末に、私はアッツ島の玉砕をラジオで聞いたが、まさか三田君が、その玉砕の神の一柱であろうなどとは思い設けなかった。三田君が、どこで戦っているのか、それさえ私たちには、わかっていなかったのである。
あれは、八月の末であったか、アッツ玉砕の二千有余柱の神々のお名前が新聞に出ていて、私は、その列記せられてあるお名前を順々に、ひどくていねいに見て行って、やがて三田循司という姓名を見つけた。決して、三田君の名前を捜していたわけではなかった。なぜだか、ただ私は新聞のその面を、ひどくていねいに見ていたのである。そうして、三田循司という名前を見つけて、はっと思ったが、同時にまた、非常に自然の事のようにも思われた。はじめから、この姓名を捜していたのだというような気さえして来た。家の者に知らせたら、家の者は顔色を変えて
けれども、さすがにその日は、落ちつかなかった。私は山岸さんに葉書を出した。
「三田君がアッツ玉砕の神の一柱であった事を、ただいま新聞で知りました。三田君を
二、三日して山岸さんから御返事が来た。山岸さんも、三田君のアッツ玉砕は、あの日の新聞ではじめて知った様子で、自分は三田君の遺稿を整理して出版する計画を持っているが、それに
それから間もなく、山岸さんは、眼の大きな背の高い青年を連れて三鷹の陋屋にやって来た。
「三田の弟さんだ。」山岸さんに紹介せられて私たちは挨拶を交した。
やはり似ている。気弱そうな微笑が、兄さんにそっくりだと思った。
私は弟さんからお土産をいただいた。
「僕のうちでも、林檎と駒下駄をもらった。林檎はまだ少しすっぱいようだから、二、三日置いてたべるといいかも知れない。駒下駄は僕と君とお揃いのを一足ずつ。気持のいいお土産だろう?」
弟さんは遺稿集に就いての相談もあり、また、兄さんの事を一夜、私たちと共に語り合いたい気持もあって、その前日、花巻から上京して来たのだという。
私の家で三人、遺稿集の事に就いて相談した。
「詩を全部、載せますか。」と私は山岸さんに尋ねた。
「まあ、そんな事になるだろうな。」
「初期のは、あんまりよくなかったようですが。」と私は、まだ少しこだわっていた。れいの田五作の剛情である。因業爺の卵である。
「そんな事を言ったって。」と、山岸さんは苦笑して、それから、すぐに賢明に察したらしく、「こりゃどうも、太宰のさきには死なれないね。どんな事を言われるか、わかりゃしない。」
私は、開巻第一頁に、三田君のあのお便りを、大きい活字で組んで載せてもらいたかったのである。あとの詩は、小さい活字だって構わない。それほど私はあのお便りの言々句々が好きなのである。
御元気ですか。
遠い空から御伺いします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。