「どこへ行って、何をするにしても、親という二字だけは忘れないでくれよ。」
「チャンや。親という字は一字だよ。」
「うんまあ、仮りに一字が三字であってもさ。」
この教訓は、駄目である。
しかし私は、いま、ここで
れいの無筆の親と知合いになったのは、その郵便局のベンチに
郵便局は、いつもなかなか混んでいる。私はベンチに腰かけて、私の順番を待っている。
「ちょっと、
おどおどして、そうして、どこかずるそうな、顔もからだもひどく小さい
私は無言で
「いくら?」
「四拾円。」
私はその払戻し用紙に四拾円也としたため、それから通帳の番号、住所、氏名を書き記す。通帳には旧住所の青森市何町何番地というのに棒が引かれて、新住所の北津軽郡金木町何某方というのがその傍に書き込まれていた。青森市で焼かれてこちらへ移って来たひとかも知れないと安易に推量したが、果してそれは当っていた。そうして、氏名は、
竹内トキ
となっていた。女房の通帳かしら、くらいに思っていたが、しかし、それは違っていた。
かれは、それを窓口に差出し、また私と並んでベンチに腰かけて、しばらくすると、別の窓口から現金支払い係りの局員が、
「竹内トキさん。」
と呼ぶ。
「あい。」
と爺さんは平気で答えて、その窓口へ行く。
「竹内トキさん。四拾円。御本人ですか?」
と局員が尋ねる。
「そうでごいせん。娘です。あい。わしの末娘でごいす。」
「なるべくなら、御本人をよこして下さい。」
と言いながら、局員は爺さんにお金を手渡す。
かれは、お金を受取り、それから、へへん、というように両肩をちょっと上げ、いかにもずるそうに
「御本人は、あの世へ行ったでごいす。」
私は、それから、実にしばしばその爺さんと郵便局で顔を合せた。かれは私の顔を見ると、へんに笑って、
「旦那。」と呼び、そうして、「書いてくれや。」と言う。
「いくら?」
「四拾円。」
いつも、きまっていた。
そうして、その間に、ちょいちょいかれから話を聞いた。それに
かれのあととりの息子は、戦地へ行ってまだ帰って来ない。長女は北津軽のこの町の
「象の夢でも見ていたのでごいしょうか。ばかな夢を見るもんでごいす。けえっ。」と言って笑ったのかと思ったら、何、泣いているのだ。
象さんというのは、
私は興奮し、あらぬ事を口走った。
「まったくですよ。クソ
われながら愚かしい意見だとは思ったが、言っているうちに、眼が熱くなって来た。
「竹内トキさん。」
と局員が呼ぶ。
「あい。」
と答えて、爺さんはベンチから立ち上る。みんな飲んでしまいなさい、と私はよっぽどかれに言ってやろうかと思った。
しかし、それからまもなく、こんどは私が、えい、もう、みんな飲んでしまおうと思い立った。私の貯金通帳は、まさか娘の名儀のものではないが、しかし、その内容は、或いは竹内トキさんの通帳よりもはるかに貧弱であったかも知れない。金額の正確な報告などは興覚めな事だから言わないが、とにかくその金は、何か具合いの悪い事でも起って、急に兄の家から立ち
来年はもう三十八だというのに、未だに私には、このように全然駄目なところがある。しかし、一生、これ式で押し通したら、また一奇観ではあるまいか、など馬鹿な事を考えながら郵便局に出かけた。
「旦那。」
れいの爺さんが来ている。
私が窓口へ行って払戻し用紙をもらおうとしたら、
「きょうは、うけ出しの紙は
と言って拾円紙幣のかなりの
「娘の保険がさがりまして、やっぱり娘の名儀でこんにち入金のつもりでごいす。」
「それは結構でした。きょうは、僕のほうが、うけ出しなんです。」
そうしてそれを或る人に手渡す時にも、竹内トキさんの保険金でウィスキイを買うような、へんな錯覚を私は感じた。
数日後、ウィスキイは私の部屋の押入れに運び込まれ、私は女房に向って、
「このウィスキイにはね、二十六歳の処女のいのちが溶け込んでいるんだよ。これを飲むと、僕の小説にもめっきり
と言い、そもそも郵便局で無筆のあわれな爺さんに逢った事のはじめから、こまかに語り起すと、女房は半分も聞かぬうちに、
「ウソ、ウソ。お父さんは、また、てれ隠しの作り話をおっしゃってる。ねえ、坊や。」
と言って、